開幕、シダーブレード
時は4月。中山レース場にて、一大イベントが幕を開けていた。
未だ4人しか成し遂げたことのない、数多のウマ娘たちが焦がれてきた伝説の称号『クラシック三冠』の初戦にして最恐の第一関門『皐月賞』。
ダービーと同じく一生に一度しか出走を許されないそのレースで一歩抜きん出ていたのは、一番人気・トウカイテイオーであった。
(行ける……!)
最後の直線、外を回って加速を始めるテイオー。先行策をとる彼女にとって大外の18番からのスタートとなったのは不利に働いたが、それをもろともしない力を発揮していた。
『トウカイテイオー! トウカイテイオー堂々先頭!』
テイオーはこれまで、自慢の柔軟性によるバネを以て、戦う者すべてを斬り捨ててきた。
今回もそれは変わらない、と溢れる自信を力に変え、一人抜け出す。周りのウマ娘たちが全員視界から消え、勝利を確信した彼女の意識は、今日のために温めておいたゴールパフォーマンスに向いていた。
脳裏によぎるのは、尊敬するただひとりのウマ娘が天に一本の指を掲げる瞬間。
この戦いで勝利を収めた暁には、そっくりそのまま同じことをしてやろうと決めていた。
(よーし! 見ててねっ、カイチョー!)
テイオーに余裕が出てくるのも当然と言えた。このまま何事もなければ勝利できるからだ。
流す訳にもいかず、速度の維持にリソースを注ぎつつゴール板を待つ彼女だったが、レースはそう容易く終わらなかった。
『シダーブレード! シダーブレードが二番手に上がってくるのか!?』
テイオーの心にあったゆとりは一瞬で消え去り、背筋へ今までにない程の悪寒が走った。
ランナーとして二流の行動だと理解しながらも、彼女は悪寒の正体を一目見んと振り向かずにはいられなかった。
『さあ、シダーブレードが、トウカイテイオーに迫るが!』
シダーブレードと呼ばれたウマ娘の見せた、すべての感情を執念で塗り替えたような形相に、思わず目を見張る。
「テイオーっ!!」
観客席から、チームメイトやトレーナーの慌てた声が聞こえる気がした。
(動けっ……動けっ……!!)
しかし、相手がいくらこの皐月賞に想いを抱いていたとしても、この勝利をくれてやる訳にはいかなかった。先ほどまでの自分の振る舞いに唾を吐きながら現状維持の命令を撤回し、さらなる加速を脚に命じるが、悪寒は消えてくれなかった。
『トウカイテイオー抜かせな……いや、詰まるっ!! シダーブレード、並びかけてくるか!?』
視界の左側に映りこんできた相手の右半身に動揺しながらも、脚はテイオーの命令に善く応えてくれた。
テイオーにとってあまりにも長い中山の直線を駆け抜け、ゴール板を通過してようやく、焦燥から一時の間解放される。
『トウカイテイオーとシダーブレード、二人並んでゴールインっ! こっ、これは……! 実に同時、ほぼ同時!! どちらが勝ったのか、放送席からまったく追えないほどの接戦です!!』
あまりの接戦に、普段している3着の呼称も忘れ半ば呆然とする実況。
しかし、それはこの場の誰もが──戦っていたテイオーたちすらも──同じと言えた。
掲示板には、勝者と2着の着差を真っ先にに示すはずの場所に『写真』の二文字が灯る。
くっ、と歯噛みして、テイオーは自分に並びかけてきたウマ娘の方を見やった。
あのスパートで性根尽き果てたのか、追い付けず負けたとでも考えているのか、掲示板には目もくれず四つん這いになって呆然としているようだった。
「……!? 出ました、写真判定の結果、勝ったのは──!」
間もなく勝者が明らかになったことを知らせる声を聞き、視線を掲示板に戻す。
最上部に灯った確定の文字の下にあった番号は──。
真夜中の道路を、バスが走っていた。時間帯故に少なかった乗客は停留所に着く度に一人二人と減っていき、今は最後方座席にたった一人。
その一人である青年は携帯ゲーム機を手に、ある競馬シミュレーションゲームに興じていた。
それは、実在の競走馬たちを一挙に収録したゲーム。
青年のイチオシは言わずと知れた三冠馬、ミスターシービーである。後に皇帝と称されるシンボリルドルフと双璧を成すその牡馬は、ドラマチックな勝ち方で人気を博した名馬で、彼もそこに魅せられたうちの一人だ。
そして彼の物語は現役を退いても終わらない。
競走馬たちの世代は親から子へと受け継がれて行くものである。
そのミスターシービーの産駒のうちの一頭が、青年のゲーム機に映し出されていた。この馬も青年のお気に入りだ。
『自分で牧場を経営して自由に活動する』テーマであるからにif要素の強いゲームではあるが、生誕年と母親、父親を一致させれば史実通りの名馬を誕生させることが可能であったのだ。
青年の知る限りでは、その馬は同じく三冠馬二世にして奇跡の名馬『トウカイテイオー』と覇を競い、皐月賞2着と奮闘しながらも最後まで重賞勝利に恵まれなかった未完の大器であった。
だがゲーム内なら違う。自分の手腕とほんの少しの運を味方につければクラシック三冠やGI七冠も成すことができる。フィクションでもいい。この馬がGIの栄光を手にする姿が見たいのだ。
「おし」
馬名を刻めば、晴れて現役競走馬の仲間入りだ。気も入るというもの。
まずミスターシービーを所有するのにリアルマネー ──DLCという意味で──をつぎ込まなければならなかった上、彼に史実以上、いや同等程度の功績を挙げるのにすら苦労した。母親の牝馬を確保し、どうにかこうにか繁殖入りさせたと思えば今度は出産期間云々で数年の間お預けを食らったりもしたが、ようやく報われる。
「シ……」
バスの右折による遠心力で体が左に傾くなか、一文字目を入力したところで突如けたたましいクラクションが鳴り響いた。
「ん?」
騒音に若干ムッとしながら手近な窓を見やると、左に流れる景色の中に眼前に迫るトラックが目に入った。
(──え? 死ぬ──?)
このままぶつかるのか、という最悪の事態が浮かび上がり、思わず青年は死を意識した。そしてその瞬間、世界がスローモーションになったように感じた。
──事故というものは奇跡のような出来事の連続により起きている──少し前に見た創作物の台詞が頭によぎる。
もしバスの右折かトラックの通過のタイミングのどちらかが前後していればこんな事故は起きなかったのだろうか。
今まさにトラックがぶつかろうとしている後部ではなく前の席に座っていれば生き延びられたのだろうか。
何の足しにもならない思考を巡らせる内に、トラックは目と鼻の先まで近づいていた。
そんな、嫌だ。死にたく──。
肉体にとんでもない衝撃が加わり、窓が割れて飛び散ったのだろうガラス片が体を襲う痛みに苛まれながら、意識は闇に沈んだ。
「──気な──娘ですよ───さん!」
かすかに聞こえる声に目を覚まし、重い瞼を開くとぼんやりとした視界が広がった。
(……ここは……どこなんだ)
寝ぼけているのか、夢なのか。いや、自分は確かに一度死んだのではなかったか?
四肢の感覚が明確に以前とは異なっていた。まさかどこか千切れ飛んだのか、と恐れ無作法と知りながらも手足をバタつかせていると、身体がふわふわとした布に包まれ、持ち上げられた。
(え、なんでそんな軽々──)
細身であったとはいえ、数十キログラムはあるはずの自分をひょいと持ち上げられたことに驚いていると、見知らぬ女性の顔が眼前に映った。
「この娘が私の……ええ、とても可愛い娘ですね」
(娘? 誰なんだあなたは……誰かこの状況を説明してくれよ!)
理解が追い付かず半狂乱になって叫んだが、何故か言葉にならず泣き声に似た甲高い声が響いた。
「あらあら、いいこいいこ……」
まるで赤子をあやすような、いや赤子をあやす声が聞こえると共に、身体が揺さぶられる。
ここまできてようやく、自分の状況を呑み込んだ。
(ま、まさか……これ、来世ってやつなのか!?)
⏰
『さあ先頭争いでありますがカツラギエースか、ずーっと外からドカンミライか。おーっとリードインレース、リードインレースが行った』
物心つく年齢になった頃、この世界の母と煎餅をつまみながら10月開催のGIIレース『京都新聞杯』のテレビ中継を見届けていた。
画面にはターフを駆ける見慣れた四足歩行の動物たち……ではなく、体操着を身に纏い、馬と同じ耳と尻尾を生やした人間モドキたちである。
(まあ、自分もその人間モドキの一人なんだけど)
どうやらこの世界では馬という生物が存在しないらしく、代わりに『ウマ娘』という生命体に置き換わっているらしかった。
馬並みの脚力を持ち合わせ、ほとんどの個体が健啖家であり、そして走ることに人間の三大欲求レベルの快楽を感じる。実際に体感した、人間だった頃との差異はそんなものだろうか。
別世界から名と魂を受け継いだとされるその存在は、おそらく前世における競走馬たちをモチーフに擬人化しているのではないかと思われた。とはいえどうにも心当たりのある名前が無く、『マルゼンスキー』というウマ娘が現れるまで確信を持てていなかったが。
ちなみに自分には『シダーブレード』という名が与えられていた。これまた聞いたことのない名前である。自分がかつてゲームで手掛けようとしていた馬の名前と若干似ている気がしたが、それだけだ。
不思議なことにウマ娘として生まれてくるのはすべて例外なく女性ということも、シダーブレードが何者なのか探ることを阻んでいた。牡も牝もへったくれもない。競馬はブラッドスポーツと聞いていたが、血統云々はどうなるのか。
ならば競馬は、競馬はどうなっているのだろうかという疑問に至るのは至極当然の帰結だったが、それに関しての心配は無用だった。
賭博のシステムはなくなっているらしいが特にレース内容は変わりなく、芝やダートのレースも用意されているようだった。
トレセン学園なる施設に通ってトレーナー──調教師にあたるのだろうか──の指導のもと、レースへ挑んでいるのだという。
(だったら、そのうちあの馬も現れるのかな)
この先も、擬人化された名馬たちの戦いが見られるのだろうか? だとするならば、願わくばあの世代が見たい。三冠馬二世同士でワンツーフィニッシュを決めたあの皐月賞が──
「さぁ第4コーナーだ、早くも第4コーナー! ミスターシービーはどこに行くのか!?」
緊張のボルテージが高まる実況の声に、意識が引き戻された。いけない。物思いに耽るうちに、レースは佳境を迎えていたらしい。
ゼッケン7番を背負うそのウマ娘は、自分が焦がれた三冠馬と同じ名前を持つ存在であった。既に二冠を押さえ、実力は疑うべくもない一番人気だ。世界が変わっても、この馬の輝きは変わらないらしい。
しかし、シダーはこのレースの行く末を知っていた。
「ミスターシービーは内の方に差さっている! これから届くのかどうか!? ちょっとピンチか!?」
いつもは最後方から痛快なごぼう抜きを見せてくれる彼女だったが、どうやら今回は手こずっているらしい。
そうこうしている間に、先頭争いは大勢が決しつつあった。
「さあ先頭はカツラギだ、カツラギエースが先頭だ! 完全に先頭に立った! 2番手にドカンミライが粘る! 内からリードインレース! ミスターシービー現在4番手!」
抜け出した先頭と2番手の差は既に5バ身以上に広がっていた。トップスピードに入っているであろう先頭に追い付くのは、もはや何かしらの推進機でも搭載していなければ無理だろうと思えた。
「先頭は完全にカツラギ! ゴールインっ! そして2着にはリードインレースか、3着はドカンミライ! 4着となりましたミスターシービー、ここで苦しい敗戦です! カツラギエース、三冠に待ったをかけるのは彼女なのかっ!?」
勝敗は決し、興奮冷めやらぬ実況の声が聞こえる。
やはりそうなのか。内心彼、いや彼女ならあるいは覆せるか、と勝手ながら期待していた故に少し悔しい。
(というか知っている名前が二人しかいないぞ、逆になぜその二人しかいないんだ)
やはり心当たりのある名前が少ないことに考え込んでいると、母の声が聞こえてまたも思考が現実に引き戻された。
「あらあら、これは心配ねぇ。菊花賞ももうすぐなのに」
声色には憂いが表れていた。自分がシービーをひいきにしているので当たり障りのないことを言ってくれているのだろう、と思えた。
「……いや、今負けてもきっと勝つよ。あの人は絶対三冠を獲る」
なんの動揺も示すことなく言い放っておく。すると母はいつものように笑ってくれた。
「まあ、相変わらず好きねぇ、シービーちゃんのこと」
「いや、好きっていうか……」
「ふっふっふー、そんな貴女に……」
照れ隠しに頬を掻いていると、母が手近にあったカバンを引き寄せガサゴソとまさぐり始めた。どうした急に、と内心ツッコんでいると、やがて二枚の紙切れを取り出した。
「ジャーン! 菊花賞の観戦チケットー! 3週間後の日曜日、一緒に見に行きましょ?」
テッテレー、と擬音が付きそうな、お手本の如きサプライズだった。
⏰
「ここが……」
3週間後。シダーと母親はクラシック三冠最後のレースである菊花賞の舞台、京都レース場に足を運んでいた。
「ここで……レースがやるんだよね!?」
平静を装おうとしながらも目の前に広がるコースに興奮を抑えられないシダーは、眼を輝かせてそう問う。
「そうよ、すごいウマ娘たちが集まる最高のレースが見られるところなの」
母親の返事に満足して感情のギアを上げるシダーに、さらに母は言葉を続ける。
「シービーちゃん、怪我なく出られてよかったわね、意外と最後に菊花賞だけ出走出来なかった、っていう子は多いから」
「うん、あの人ならきっと……獲れる」
獲れる、ではなく獲るのだが。この世界のレースが前世でいう競馬と同じ道筋を辿るなら、彼女は勝つ。
「そう決めつけるには早いんじゃなーい?」
すると、隣から皮肉げな声が聞こえた。
母だと断ずるには幼すぎる声色だと思い、振り向くとポニーテールの少女がいた。耳と尻尾が生えていることから、同じウマ娘であるらしい。
「あら、お友だち?」
「えっ、いや、はじめまして……だと思う」
初対面の相手の登場により、調子が削がれて返答に窮していると、向こうが言葉を接いできた。
「レースに絶対なんて無いって言うでしょ? あんまり入れ込みすぎると……あ、ボクはトウカイテイオーって言うの! 皆は浜の帝王なんて呼んだりするけどね!」
トウカイテイオー。その名を聞いたとき、全身に電流が走った。
目の前の相手が、あの名馬だというのか──?
「ああ、ええと、自分は──」
名乗られたのならば、と口を開こうとしたシダーだったが、その声はテイオーの後ろから飛んできた声によって遮られる。
「ちょっとテイオーちゃん、他所様に迷惑かけちゃダメでしょー?」
「あ、母さん!? ちょ、ウワーッ!」
名乗ることも出来ないまま、彼女は母親らしき人物に抱えられてどこかへ行ってしまった。
唖然とするシダーの意識が現実に引き戻されたのは、次に自分の母の声が聞こえたときだった。
「元気な子だったわねぇ」
それはあっさりとし過ぎていないか我が母よ、と突っ込む余裕もなく、腑に落ちないままレースの観戦をすることになってしまったシダー。
まだシンボリルドルフの時代まで1年はあるのに、なぜもうトウカイテイオーが生まれているんだ、とかなぜそのような無邪気な性格になったんだ、とかこの世界についての疑問が降って湧く中、シービーが三冠ウマ娘となる瞬間を見届けるのであった。
菊花賞見に来てたテイオーはまだカイチョーの走りを見てないのでちょっとヒネてます。
2/22追記
カツラギエース登場に伴い名義の差し替えを行いました。