シダーがカノープスに加入してから、ある程度長い時間が流れた。
本格的な学園生活が始まってからというもの、学業に加えてレースに向けたトレーニング、レースの後に行うウイニングライブのダンスとボーカルトレーニングなど激務に追われていた。
この肉体が人間のものであったなら、過労で病院送りにでもなっていただろうと思えるほど忙しかったが、この世界のレースを選手という特等席で拝むための通過儀礼と考えて誤魔化した。
そして今日も今日とて特訓が始まる。放課後になるや否やシダーは部室に駆け付けていた。
「失礼します。シダーです」
部室の扉にノックをして入室する。
「どうも、今日もよろしくお願い致します」
部屋へ入ると、先客だったイクノが振り向いてくれた。制服の自分と違い既に体操着に着替えているようだ。
こちらこそ、と返事をして中を進むと、彼女の前に何かしらのプリントが置いてあるのが目に入る。
「これは?」
「競走者登録の書類です」
こちらの問いに答えながら、またイクノはその書類と向き合い始めた。
「そういえば、そろそろデビューでしたね」
「ええ」
一昨日あたりのトレーニング中に、南坂トレーナーがイクノとその辺りの会話をしていたことを思い出す。
この夏に、イクノは自分やネイチャより一足早くデビューを迎えるのである。
「デビューの書類って、勝負服の案も描かなければいけないんでしたっけ」
「その通りですね。私はこのように」
シダーが訊いてみれば、書類を手に取りこちらに向けてくれた。
まだ描画途中であるらしく前面のみだが、緑と白を基調にし、胸元に赤いネクタイが見えるその草案は中々オシャレに映った。
「いい感じですね」
「ええ。自分が身に纏う一張羅です。手抜かりがあってはいけませんから」
そう言うとイクノは書類を手元へ戻し、また何かを書き込み始めた。
背面に手をつけるのかと思いきや、前面の図からいくつか線を生やして文章を綴っている。
おそらく絵のみでは伝わらない詳細について記しているのだろうと想像がついた。
これ以上集中を乱すのは良くないな、とシダーが手早く体操着に着替えスマホを弄くり出してしばらくすると、また部室にノックの音が響く。
「どうも、只今参りました」
「どもども。いやー、今日も集まらなくてさぁ」
入ってきたのは、広報活動に赴いていた南坂とネイチャだ。
チームのトレーナーとキャプテンである二人で勧誘を行っているそうだが、今日も成果は芳しくなかったらしい。
「クラスメイトの娘とかに声かけてはいるんだけどねぇ」
「はは……まあ仕方ないことです」
二人につられて苦笑してしまうシダーであったが、平部員という立場に甘んじて、ポスターの量産と稀にネイチャの隣で看板を担ぐ程度しか人事にタッチしていない彼女に文句を言う資格もなければ意思もないので、話題を切り替えることにした。
「それで、今日のトレーニングはどうするのでしょう?」
「ああ、今日はイクノさんには他のチームの方に混ぜてもらう形で経験を積んでもらいます。他のお二方は、ダートコースを押さえてあるので、こちらのメニューに取り組んで頂く予定です」
そう言って南坂は、シダーとネイチャに一枚のプリントを手渡す。
ざっと目を通してみれば、目標タイムが記載された走り込みや二人の併走などの欄があった。
今現在、三冠路線志望である二人にダートコースでのトレーニングが言い渡されたのは、互いに後方からのレースに適性があった故の結果だ。踏ん張りが効きづらいからこそ、加速力の向上に必要な足腰のパワーを強化できるとのこと。
「では行きましょう、トレーナー」
手元の書類をバッグにしまい、メガネを指で押し上げる仕草と共に退出していくイクノと南坂。
(……デビュー、か)
勝負の世界に飛び込むその背中が、シダーにとってはいつにも増して遠く見えた。
「ほら、あたしたちはダートのとこでしょ? 行くよ」
「あ、はい!」
少々呆けているとネイチャに急かされ、慌てて後を追いかける。
──勝負の世界は、すでに身近まで迫っていた。
『小倉レース場の皆さん、ようこそ! 只今よりメイクデビューの開催です!』
晴れ渡る空の下、イクノディクタスのデビュー戦が始まろうとしていた。
「確か、イクノは三番人気だったよね」
「ええ、一番人気はグーシューモウシン、というウマ娘だったはずです」
南坂が口にした一番人気は、前走では同じ条件で3着に入っているウマ娘だ。次に抜けるのは彼女だ、と思われるのはなんら不思議なことではない。
「まあ、イクノさんならいつも通り吹っ飛ばしてくれますよ」
シダーがそう呟くと、二人は納得したように笑い、コースの方をじっと見つめた。
遠目に見える、白黒の体操服を身に纏うイクノには、焦りは見えない。
「あれは心配なさそーね」
「そうですね」
自分と同じ感想を抱いたらしいネイチャの一言に頷く。
(イクノディクタスってデビューから勝ってたっけか? シービーやその息子は一回で抜けたけど……あー覚えてない、てか知らない)
これまで見てきたシービーらのレースと違い、先の読めないレース。転生者として知識不足という無能を晒している訳だが、シダーは後悔していない。むしろワクワクするというものだった。
間もなくゲートに入った14人の走者たちを、静寂が出迎える。
『手に汗握るレースが今、スタートしました!』
1キロの短い旅路を、ウマ娘たちが駆け出した。
『さあ最初で最後のコーナーに差し掛かりました、14人のウマ娘たち。先頭は一番人気の4番グーシューモウシン、その後ろには2番イクノディクタス』
『4番は前走と同じく最前方でのレースをするようですね』
スタートからおよそ300mの直線の後に迫るコーナー。
先行、または差しという中間的な戦略を持ち味とするイクノは、距離の都合で前者を選択していた。
出遅れなくレースを始めることに成功したため、2番手辺りの好位置を手に出来ている。
だが彼女には少し気がかりなことがあった。
(……想定よりやや早い。ですが)
思いの外周りのペースが早いことだ。早期決着の短距離戦ゆえか、それとも本気の勝負だからか。イクノはその両方だと感じていた。
──面白い。これこそ、自らが欲していた本気のレースだ。
熱に浮かされながらもスピードを最適化するイクノの明晰な頭脳は、やがて肉体へ次の司令を下す。
(……今です)
4と示すハロン棒を目視するや否や、コース取りをやや膨らませる。
決して無駄ではない。外に出てフリーになるための大事な作業だ。
無論コーナーの外側を走ればその分走る距離は伸びてしまうので、取り返すための力を余分に使うことになるが、今回なら大した問題にならないと確信していた。
『さあ外から外から! 2番イクノディクタスがやって来た!』
『並ぶには無理のない位置です。後は力を出し切れるかどうか』
目論見通りまんまと他のウマ娘の手を離れたイクノは、直線に差し掛かってしばらくするとスパートに入った。
『速い、速いぞ! イクノディクタス! 一番人気の4番グーシューモウシンとの一騎討ちだ!』
前のウマ娘の背中がみるみる大きくなっていき、すぐに視界から消えた。つまり追い越したのだ。
『抜いた抜いた! イクノディクタス先頭! グーシュー差し返せるか!?』
『いや、これは決まったでしょう』
実況が言い終わるより早く、イクノは二番手に1バ身の差を広げていた。
そしてその差が詰まることはなく、彼女はゴール板の前を横切っていった。
『差し切った! ゴールイン! 2番イクノディクタスが見事に勝利を飾りました! そして2着にはグーシューモウシン、3着にはゲッコーパワフルです!』
勝者の名が告げられる。観客は少なかったものの、送られてくる称賛の声にイクノは興奮混じりに手を振る。
(……よし)
勝利を手にしたイクノは減速して小走りを続けながら、人影もまばらな観客席に手を振った。
「おかえりー」
「おめでとうございます。イクノさん」
センターでのウイニングライブを終えたイクノを、メンバーや南坂が出迎えた。
「素晴らしい勝利でしたよ」
「……いえ、まだまだ反省点の多いレースでした。特に中盤のペース配分は改善の余地があります。本番のレース特有のイレギュラーをどう予測し、どう対処していくか、それが今回の課題です。それに、これから距離を長くするにあたって後方でのレース展開についても模索しなければなりませんし、更には──」
つらつらと言い募るイクノであったが、普段よりもほんの少し大げさに尻尾が振れている。
照れ隠し、とシダーとネイチャの目には映ったが、口には出さなかった。
「まーまー! とりあえず、メンバーの初勝利ってことで、何かお祝いとかやる? トレーナー」
「え、ええ。そうですね。では──」
わいわいと盛り上がる一同。シダーはそれをどこか遠いような視線で眺めていた。
(……そっか。もういよいよなんだ)
待ち望んでいた世代が、迫っている。
脳裏によぎるのは、今をときめく永世三強と称されたオグリキャップたちの姿だった。
二年連続の三冠馬誕生から今まで、目まぐるしく変化してきた時代。
そしてその時代の主役はいつか、いや1、2年もすればイクノやネイチャら、そしてトウカイテイオーたちに引き継がれていくのだ。
恐らく自分のデビューは、ネイチャと同じ時期になるのだろう。
──そのときに自分は、何のために何を成せばよいのだろうか。
「シダー、行くよ! 商店街巡り! トレーナーがご馳走してくれるってさ!」
「えーっと、お手柔らかにお願いしますよ、ネイチャさん?」
二人の声に、意識を現実に引き戻される。そうだ、何を成すかなんて今考えても仕方がない。それに何のためにというが、理由など別に後付けでも構わないのだ。
「はい! 行きましょう!」
そしてネイチャたちと共に、商店街へと繰り出すことにした。
結局、ポケットマネーがスッカラカンになる憂き目にあった南坂は翌日、某制作費4億円のクソゲーのごとき叫び声を上げたとされるが、真偽の程は不明である。
主人公、見てただけである。
解説者の名前の変更は特にやらない(言及するとは言っていない)ことにしました。
一部アニメモブウマ娘の名義変更について
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可
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不可
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どっちでもいいので早く投稿して