「あくまさま、どうしよう……どうしようあくまさま」
その肢体を狙われ、浴室の中で襲われた齢八つの幼女、双佐紀智礼。
そして手加減に失敗してその不埒者の頭蓋をかち割ったあくまさまと呼ばれる人外。掲示板上でのコテハンは子供部屋あくま。
一人と一体は、浴室で頭から血と脳漿を垂れ流して倒れている死体を目の当たりにしていた。
「だ、大丈夫だ智礼ちゃん……、前に話した俺の友達を呼んだから、その人たちが解決してくれる筈だ。その間大人しく出来るな?」
「うん、大丈夫。あの人私の前では目つきが変だったし、会うたびに妙にお菓子をくれるから……いずれ何かしてくるかな、とは思ってた。まさかこんなことになるとは思わなかったけど」
「あの、智礼ちゃん?智礼さん?目つきで人を判断するのは良くないですよ?そんなことを言ったら俺なんかマイナス(-)型の瞳孔をしてるし……まあお菓子あげるのは餌付けのつもりだったんだろうけど」
子供部屋あくまの外見は、伝統的な西洋風悪魔、と言ったところだろう。捩じれた角が四つ生えている黒山羊の頭、成人男性の腕ほどの長さのコウモリの翼に、毛に覆われた猿の両腕、対称的に毛の生えていない人間の裸婦の上半身、うろこのある爬虫類の尻尾に、股間から爪先まで蛙。
人型をベースにしたキメラとも言うべきその姿は、しかし全体的に調和しており、恐ろしさはあっても奇妙さ・不気味さは感じない。そしてこのあくまの体を負の感情から無意識のうちに織り成した双佐紀智礼は、産みの母ゆえの愛か余裕か、その姿を全く恐れてなかった。
あくまは掲示板上の質問に答えながら智礼にツッコミを入れる。
「えーっと、とりあえず血を水で流してっと。智礼ちゃん、でっかい、例えばクジラの口の中に入るのって怖くない?大丈夫?」
「私、食べられちゃうの?」
「う~ん、一時的に胃の中に入るだけですぐ吐き出される、多分」
「私、反芻されるの?ぐちょぐちょどろどろになるのは、ちょっと嫌かな……本当に必要なの?」
反芻という言葉の意味を、双佐紀智礼は正しく理解している。彼女は小三の子供である。
「……ああ、ここから逃げるために必要なんだ。こいつを殺したことをきっかけに俺の存在がバレると、
智礼は逡巡する間もなく、頷いた。
「うん、良いよ。あくまさまが言うことなら、私は従う。だってあくまさまが言うんだもの」
「ちょっと心配になるな……人の言うことを聞くことも大事だけど、自分の頭で考えるのも大事だよ」
「私、しっかりじっくり考えたよ?あくまさまの言うことだもの。大切に噛みしめて、自分の栄養にしなきゃ」
「この間0.01秒!?
小学三年生、現実と空想の区別がしっかりとつく年頃であるが、その区別が数年前まではあやふやだった年齢でもある。
その、固まってきた現実と空想の区別を、魔法や怪物なんてこの世界にはいない、という常識を、このあくまの出現がブチ壊したのだ。
そしてさらに、彼女が出会った中で唯一自分を人間として尊重してくれる存在であったのも確かだ。その存在が非人間であることは皮肉にもならない。
ただし、あくまが智礼を尊重する理由は、乙骨憂太と折本里香の例の如く、彼女が子供部屋あくまの発生原因であるが故に呪霊の本能である『人間を欺き、誑かし、殺す』の対象にならず、代わりに愛着を持たれたからであり、あくまの慈愛や善良性の発露ではないことには注意する必要がある。転生者は理性を持つが、それが必ずしも善性に繋がるとは限らない。
「あの人はいつもの通り酔い潰れて寝てるよね。お酒飲んでない時は私のこと殴らないなら、ずっとお酒飲んでればいいのに」
「確かにそれは一理あるな。俺は外で友達を待ってるから、脱衣所で体拭いて部屋で外出用の服を着てて。母親を起こさないように、静かにね」
智礼にそう伝えて、あくまは浴室の窓から外に出る。コウモリの翼を用いて羽ばたく……ことはせず、猿の握力を駆使して壁のパイプをよじ登って屋根に上る。彼は転生してから初めて外に出た。智礼の部屋に生まれてからは術師や”窓”の目に怯え、外に出ることが一度もなかったのだ。しかし今や自身と智礼の危機。勇気を出して彼は外に出た。
時刻は真夜中、午前二時。古い言い方では丑三つ時である。東京の夜景を文明の光が照らし、クリスマスシーズンであるからか赤と緑の飾りに彩られた木も散見される。
東京の夜景にしばらく見とれて、少しの間自身の呪力の鎮静化を忘れてしまう。
呪力の鎮静化。体外に自然に発する呪力を抑え込む、術師による呪力感知を防ぐための手法。転生者らが誰に教わるでもなく原作知識を元に試行錯誤し、この一週間で開発したものだ。
一週間で開発できたことから分かるように使用の難易度は低いが、それにも関わらず効果はかなり高い。コツさえつかめば被感知範囲を半分ほどにして反応感度も約半分にすることが出来る。実は呪術師も使うことがある(重面春太が伊地知潔高を暗殺しようとした際に使用したのだろう、と転生者の中では考えられている)鎮静化技術であるが、呪霊が使うことはまずない。
何故このような便利な技術を通常の呪霊は使用しないのか。知性が低い呪霊はそのようなことを思いつく程度の知能が無く、知性が高い呪霊の場合は、使用できたとしても術師から逃げ隠れるよりも術師を殺した方が早いし楽だし楽しいから、と自分の力に慢心するからである。また、術式の使用や防御力の向上が不可能となり、さらに技量が低いと体外の呪力だけではなく体内の呪力も無意識に抑え込んでしまうため、呪力による身体強化や呪力感知も困難となる。そのため呪霊は自身の弱体化を本能的に避け、呪力の鎮静化を嫌う傾向にある。
あくまは呪力を鎮静化させたことにより、身体強化が切れてやや力が抜ける感覚を覚え、呪力感知が鈍くなるが、それを気にせずに純粋に視力聴力のみによる警戒に切り替える。東京の夜景に時折見惚れつつ、周囲を見渡し奇妙な音が無いか注意する。
そんな時間を過ごして十分ほど。屋根を伝って四足で走ってくる猿が近づいてきた。野生動物の可能性も一瞬考えたが、十中八九転生者の呪霊だと判断し、手を振る。
猿の側も手を振りながら子供部屋あくまの家の屋根に飛び乗る。
「もしかして、ゲロビ猿さんですか?本当に猿だったんですね」
「あ、えっと、はい。そうですね」
そう言って視線を逸らしながら頷く猿。その猿は、体は白い毛で覆われており、夜中に比較的目立つ色である。だからこそ視線の通りにくい屋根を伝っていたのだろう。そしてその顔は、上顎と下顎がそれぞれ左右二つに分かれており、それぞれ別に動かすことが出来ている。ちょうど口が十字型に裂けているような異形だ。その他の外見は普通の、体長1mほどの猿に見える。
「うちの智礼ちゃんを助けに来てくれてありがとうございます。母親がリビングで寝ているので、ゲロビ猿さんにはその監視をお願いします」
「あっ、はい」
ゲロビ猿は庭に降りて、そこで窓から母親の姿を監視しながら待機する。
「そろそろ他の人も到着するころだと思うけど……ッツ!?!?」
突如として知覚範囲に出現した、かなりの呪力量を持つ何者か。ここ一週間であくまが初めて感知するほどの大きさの呪力の塊であり、おそらく一級上位か、下手をすれば特級。それが一軒家である双佐紀家の地下に
地下、正確には下水道。そこからマンホールが開き、地上にふわりと現れるのは、銀色の金属光沢を纏った人型の呪霊。体長は30cmほどであり、露出度の高く翅の生えた妖精じみた姿格好をしていたが、体表面が光沢のある銀色をしているためにエロスはあまり感じられない。顔のパーツは細部が書き込まれておらず、突起と窪みだけで造形されている。
銀の呪霊、すなわちコテハン:水銀妖精である。彼女は翅を使って飛び立ち、双佐紀家の屋根の上に降り立つ。
「よ。子供部屋あくま、でしょ?」
「水銀妖精さん抑えて、呪力抑えて!」
あくまは術師に感づかれることを恐れ、妖精に要請する。彼女ほどの実力を持たないあくまにとっては洒落にならない危険を引き起こしているのだ。
「うん?ああ。私、呪力の鎮静化使えないんだよね。なんつーか、呪力量が多すぎる?ってゆーか。まあ私は
と言って、自分が出てきたマンホールを指さす。そこから、どろり、と僅か1Lほどの銀色の液体が這い出てきた。それは球体になって浮かびあがり、妖精に引き寄せられてその周囲を衛星のように回転し始めた。
「『流銀創装』、水銀を呪力で具現化して操る術式。具現化初期コストにクッソ呪力を消耗するけど維持コストは当社比で僅かだったり、百斂みたいな圧縮や穿血みたいな高速射出、被付着物の操作が出来なかったりする。おおむね赤血操術の下位互換かな?」
「その説明でどう呪力を抑え込むんですか!?呪術師に勘づかれますよ!?」
「いや、仲間同士でも術式の開示って効果あるのかなって。無いっぽいな。ここからが本題で、水銀って呪力的にもかなり特殊な素材な訳。常温で①外部からの呪力を水銀内部に閉じ込めて外に漏らさず②内部ではクッソ呪力の通りが良い、って特性があるの。それを応用すると、発する呪力を九割九分九厘シャットアウトする、水銀の膜が作れる。あ、視覚的にも聴覚的にも呪力覚的にも封じられるから水銀の触手探りでしか移動できないのでそこは勘弁な。以後の通信は掲示板でそれ用のスレ作るからそこでよろ。じゃあ私は第C隠れ家で先に待ってるから、ヤバければ駆け込んで。『
妖精は自身を核として、水銀を細胞膜のように形成し、包み、内部の呪力の漏出を封じ込める。アメーバのように蠢き、触手を四方八方に延ばして周囲を探知しつつ、屋根の上を転がり流れ落ちていく。それをあくまはにあっけに取られながら見送った。
(いったい何しに来たんだあの女。無意味に呪力撒き散らして去っていったぞ……まあ一瞬だから術師にバレることも無いだろ。ごっくんフェチさんを待って出発しよう)
数分後、隣家の陰から頭部のない裸の女体が焦った様子で、自分の姿が周囲に晒されることも構わずに走ってこちら側に近づいてきた。あくまの遠視力と暗視力によって見つめると、宿儺ではないが手の甲と足の甲には口が付いている。また、女体とは言っても出るところは出て引っ込むところは引っ込むようなグラビアアイドル体型ではなく、よく言えばプラスサイズ、悪く言えば肥満体型のぶよぶよとした肉付きである。身長は140cm程。頭部が無いので低く見える。体毛は無く、呪霊のため性器も無い。
そんな首無し呪霊が、子供部屋あくまを見つけてそちらに手を振る。あれがごっくんフェチかと、あくまも手を振り返す。だが首無し呪霊はボディーランゲージでタイピングをするような仕草をする。こちらに音を立てずに何かを知らせたがっているかのようだ。
「タイピング……掲示板?」
あくまは掲示板を連想し、片目を瞑って脳裏に幻視される掲示板に接続する。その最新のレスには、こう書かれてあった。
217:ごっくんフェチ
帯刀した和装の男をビルの屋上から遠目で見た!おそらく術師!こちらに走ってきている!呪力感知に引っ掛かった模様!
218:カタツムリ観光客
こちらでも確認!北北西から接近中!総員、戦闘態勢に!水銀妖精さんは娘ちゃんさん家に戻って!
219:ゲロビ猿
何やってんだよ!水銀妖精ァァァァァァァァ!!
220:カタツムリ観光客
敵、20秒後にこちらに到達!
「クソッッッ!バレたか!智礼ちゃん!」
呪力の鎮静化を解除する。もう隠密だのなんだの言っていられない。
正面に智礼がいないことを瞬時に確認し、ガラスをたたき割って窓の鍵をこじ開けて智礼の部屋に入る。
「智礼ちゃん!不味いバレた!今すぐ逃げる!」
「バレたって誰に!?さっき話してた駆除業者さん?」
「ああそうだ、細かい話はあとでする!着替えは終わってるな!俺の腹に摑まっててくれ!」
首を縦に振って智礼はあくまの腹部にしがみつく。それを尻目に、智礼が窓ガラスに引っ掛かって怪我をしないように注意を払いつつ、窓から脱出し、コウモリの翼を駆使して羽ばたく。
「お、重っも……タンデムは想定外かよこのボディ」
必死に羽ばたくが、速度は出ない。智礼を背負って走った方が良いと考え、アスファルト上に降り立った、その瞬間。路地の陰から、呪具の大刀を持った和装の少女が飛び出し、背後からあくまの首を狩るべしと急襲した。
不意を突かれたあくまは直撃直前に背後の気配に気が付くが、躱すには遅い。もはやあくまの命運は絶たれた……というのは、その一筋の光線が無ければの話だ。
「ウウッッッキィーーー!!!!!!」
「ゲロビ猿さん!助かった!」
「幸いであります!」
「しかし女?報告では男じゃなかったのか?しかも
あくまを襲撃した彼女の容姿は、一年次禪院真希の見た目から眼鏡を外して和装にしたものによく似ている。しかし目つきはより暗く、目には隈がある。
「ぐっ……、流暢に言葉を話す呪霊が二体、ですって!?謎の単語も発している……相当マズいわね」
しかし、彼女に引くことは出来なかった。大刀の少女は呪術師であることにそれなりの矜持を抱いている。呪霊に
「
双佐紀家を挟んで逆の方角から、男の声が返ってくる。
「こっちは穴熊を決められた!おそらくお前の術式なら引きずり出せる!代われ!」
声の主はかなりの速度でこちらに近づいてきた。足音も聞こえる。
(あなた、だって?この年で結婚は……出来るな。この時代で16歳だとしたらギリ。呪術師夫婦か?いや、戦闘に集中しろ)
あくまは余計な思考を振り切り、近づいてくる男の呪術師に対抗するために呪力を練り、戦闘に備える。
「ゲロビ猿さん、気を引き締めて!来ますよ!」
「覚悟はできているさ…!」
直後。夜闇に慣れた瞳孔を閉ざすかのような、まばゆい光を放つ炎の嵐が現れた。その炎は道路を炙り、アスファルトを融かしながらこちらに迫ってくる。炎の嵐の中心には、日本刀を構えた壮年の男がおり、炎の嵐と同様にこちらに突進してくる。
あの炎に飲み込まれれば、あくま自身はともかく智礼は確実に重度の火傷でショック死するだろう。瞬時の判断で、蛙の脚を使って後ろに倒れこむようにしながら飛び跳ねる。もちろん智礼を抱え込んだまま。しかしそれでも一秒足らずの時間稼ぎしか出来ない。
ならば、その一秒足らずを使ってもう数秒、攻撃の届かないところに逃げるまでの時間を稼ぐ。あくまはそういう判断をした。
(初対面ですぐ”命を懸けろ”なんて言う恥知らずな俺を許してくれ!)
「ゲロビ猿さん!頼む!」
「トゥ!ヘァー!」
ゲロビ猿は戦闘の恐怖と喜びを抑え込むように奇声を上げて、四足で炎熱を食らう面積を減らすように地を這い男の術師に迫る。足に抱き着き、零距離からゲロビームを打ち込もうとする猿。だが抱き着いた瞬間、猿の全身に隠し包丁を入れたかのような呪力による斬撃が襲い、その苦痛で抱き着きを緩めた瞬間に蹴飛ばされ、距離を取られる。
「クソ親父がぁ!死ぬほど痛いぞ!」
「秘伝『落花の情』……呪霊の妄言にしても不快だな。馬鹿にしているのか?猿が。私に子供はいない……と言っても意味は無いか」
男の術師は呟きながら納刀し、居合の構えを取る。炎の術式を解除し、呪力は鞘に納められた刀身に集中させて動きを止める。後の先、カウンターの構えだ。しかしそれは双方に時間を与えるということでもある。猿は炎の術式がもう一度発動されても問題ない程度に間をあける。あくまはさらにその数倍程離れ、智礼を庇う姿勢だ。
(クソ親……?そうか、和装、打刀、落花の情、炎の術式!
「手札はそれで全部か?炎、斬撃、居合。それになんでうちの娘を巻き込もうとした?」
「ほう……そちらの呪霊はまともにしゃべれるのか。手札は言う訳が無かろう。そしてお前の娘かどうかは知らんが、その娘を救うことを代償にお前たちを祓い逃すようなことが出れば、より多くの人死にが出る。最悪を避けた結果だ」
それを聞いた智礼が、あくまの背後から口を開く。
「待って!あくまさまは人殺しなんかしない!駆除業者さん、話を聞いて!」
「駆除業者……?呪術師のことか。それに様付け。洗脳の術式でも持っているのか?術式の発動条件は接触か、目を合わせることか。呪言かもしれん。厄介だな……」
智礼の言葉から情報を拾い上げ、扇は視線を地面に向け、耳から脳に掛けてを呪力で覆って防護する。そして呪力感知に神経を集中させた。
「ちぃ。見ざる聞かざる、ってか。それならそれでいい、ゲロビ猿さん、ごっくんフェチさんと合流して逃げよう……ゲロビ猿さん?」
ゲロビ猿は、禪院扇に、正確にはその鞘に込められた呪力と殺意に対し”動くと斬られる”という意志を感じ取り、一瞬動くのを躊躇ってしまった。呪霊は負傷した部位の呪力による再生が可能であり、ある程度の怪我なら無視できる。そんなことも人間時代の癖で忘れ、達人から振るわれる刃物に、その威力に怯えてしまったのだ。
扇はその感情の揺らぎを呪力感知で読み取り、隙に気付き、その瞬間何ら躊躇うことなく抜刀。間合いの外にいた筈のゲロビ猿に、居合の要領で呪力により加速され
猿は咄嗟に尻もちをつき、致命の直撃は回避したが、目を切り潰された。
「ぐぅっ!」
「ッ!ゲロビ猿さん!大丈夫ですか!」
「たかがメインカメラをやられただけだ!」
「眼ッ!
あくまの発言、これも原作知識の一つであり、転生担当神の検閲により意味不明の別言語に変換される。しかしその検閲は、転生者の間では意味を為さない。猿はアドバイスを聞き入れ、眼窩底部に自身の呪力を集中させ―――それが命取りとなった。
正面からの相手にとって、居合以上に間合いとタイミングが読みにくい技、すなわち突きが放たれる。
腰だめから体の捻りを加えて威力を増して放たれたその技により、ゲロビ猿の額は貫かれた。
二の太刀は尻もちをついて無様に避けることすら出来なかった。肉体の強化に用いる呪力を再生に回し、反射神経が衰えたことを扇が三十路の術師の勘で見抜き、攻撃に繋げたことが猿の敗因だ。刀身の延長と剣閃の加速に呪力を分散した一の太刀よりも、純粋な身体強化に呪力を回した二の太刀が結果的には本命となった。扇の意図するしないに関わらず。
だが所詮は致命傷。呪霊にとっては
「頭ァ、ハッピィイイイセェット!!!」
目の前の男が、自分を死なせる。ゲロビ猿は欠損した脳で奇跡的に正しく理解し、その口から吐き出された言葉は前世からの魂にこびり付いた思考だった。
猿は腹から可能な限りの呪力を捻りだし、放出する直前に口を閉じ、コントロールを放棄した。密閉された口腔内で呪力が行き場を無くし、暴発する。ゲロビ猿の頭は呪力爆弾と化し、爆ぜ、頭蓋骨や歯、さらには刀が砕けた破片がその威力を高めた。
爆発と破片が禪院扇に直撃する。扇は咄嗟に刀を手放して後ろに跳び、頭と胴体の前面のみに呪力を集中させ、肋骨と指のそれぞれ複数本骨折を代償に凌ぎ切った。
(ぐぅ……何とか治療可能な負傷に抑えられるか)
爆発に耐えながらゲロビ猿の死亡を確信する扇。
しかし、何度でも言うぞ。
時系列は数秒前に遡る。ゲロビ猿が視界を失った直後、扇の背面方向の遠くから、宙を浮く銀色の球体が、すなわち水銀を纏った妖精が高速道路を走る自動車と同程度の速さで近づいてくる。当然妖精の視界は銀色に染まっており、外界が見えていない。
それにあくまは気付き妖精に援護を求める眼差しを向けるも、妖精は自ら視界を封じているため伝わらない。扇はあくまと目を合わせまいとしているため、あくまが自分の背後に視線を投げかけていることに気付かない。
注意して夜空を見上げる者はいないが、もしいたとしたらそこには烏がいることに気付くだろう。さらに注意してその鳥の腹部をよく見れば、白目の無い人間サイズの真っ黒の瞳が二つ埋め込まれ、ギョロギョロと地上を見渡していることが分かる。その眼球は、コテハン:カタツムリ観光客により創られたものだ。この異形は非術師にも知覚することが可能であり、そのため露見の可能性を抑えようとカタツムリは他生物の眼窩以外の部分に眼球を埋め込むのを奥の手としていた。
そして今が奥の手を切る時とカタツムリは判断したのだ。腹に埋め込まれた眼により、飛行しながら烏は地上を見下ろすことが出来る。一秒毎にこの眼球から得た写真を彼は掲示板に上げ、妖精と遂次共有することで彼らは疑似的な鳥瞰視が可能となった。水銀アメーバ触手による目隠し手探りの前進ではなく、指示に従って流銀創装の最高速度が出せる球形で扇に迫る。
禪院扇がゲロビ猿の額を貫いた写真が掲示板に上がる。それを見た直後、妖精はゲロビ猿の命を諦め、禪院扇の制圧に目的を変更した。
(あー、ゲロビ猿ちゃんこれは死んじゃったかな?まあ雑魚だったし、しゃあないか。ごめんね、真希ちゃんが生まれなくなっちゃうから復讐は出来ない。けどまあ痛い目は見てもらおうか)
彼女は水銀の形状を球形から細い円錐形に変更した。扇を狙って最高速度、ノンストップで衝突するつもりだ。水銀の比重は鉛よりも重く、いくら液状とは言え呪力で具現化・強化された物体がこれだけの速度でぶつかればただでは済まないだろう。さらに円錐状にして衝突面を小さくすることで威力を底上げする。しかし殺意は無いため、円錐の先端は鈍くなっている。
妖精の意図しないことだったが、殺意を持たないことで水銀から漏れ出す僅かな呪力すら薄れ、禪院扇レベルの術師に対しては完全なステルス性能を得ることが出来た。
ゲロビ猿の頭が爆発する。扇の防御行動は、妖精の攻撃に対して完全に裏目に出た。後ろに跳ぶことで円錐形の水銀との相対速度を加算し、さらに呪力防御を前面に集中させることで背面からの攻撃に無防備となる。
その結果、禪院扇は背後から高速度で迫りくる水銀塊に気付くことすらなく、それに下腹部をブチ抜かれた。尾骨や恥骨が粉砕され、膀胱・直腸・前立腺等の内臓がぐちゃぐちゃのミンチになる。
彼の、ゲロビ猿の命は無意味には終わらなかった。
水銀妖精「ああああああああ!種がぁ!真希真依の元になる子種がぁ!死ぬ……!死んでしまうぞ汚い杏寿郎の汚い杏寿郎!呪霊の内通者になると言え!」
子供部屋あくま「殺した……俺がゲロビ猿さんを殺したようなもんだ……だからあいつにせめて弔いの復讐を!」
カタツムリ観光客「次回、『めくら種無しクソ親父』ルールを守って楽しくデュエル!」
定期試験なので次の更新はしばらく後になります。