ホールに滞在してからはじめての雨。いや、人生初の雨だ。
というのも、魔法界には雨が降らない。だからホールに売っていた雨を凌ぐ「カサ」とか、「アマガッパ」という商品がない。これを着ると、雨から体を守ることが可能なのだ。いやぁ、すごい。ただ、ケムリのカスから人体を完全にガードするのは難しいだろう。
カッパにケムリを吸収する機能をつけて、別エネルギーに変換させる商品を作ったら絶対に面白いと思うんだ。熱エネルギーに変えて、それで中を灼熱に焦がすのとか、体温も上がって一石二鳥じゃない? 死ぬけど。
「なんだか体が重いぜ…」
直接雨に打たれると命の危険もあるから、黒いカッパをつけて陽が遮られた路地を歩いている。雨の日は出歩く人間がほとんどいない。魔法使いなら尚のこと。店もシャッターが閉まっていて、閑散としている。
「さて、採取しとくか」
カバンから用意しておいた試験管を取り出して、側溝に屈み込む。バシャバシャと、黒い水がうねりを上げて流れていた。素手でその水に触れるのも不味そうだから、ゴム手袋をして試験管を満たす。そして、ゴム栓をすれば終わりだ。
側から見たら不審者だろうな、と思った時だった。
「君、ちょっといいかい?」
白い防具服で全身を覆った奴らが声をかけてきた。数は四人。「町内会」のメンバーである。
案の定、彼らはオニの犯人を探している最中で、見回りの途中のようだった。そこで偶然子どもを見かけて、声をかけたというわけだ。
マスクはつけていないから、初っ端から魔法使いとは疑われないだろう。魔法使いにとってマスクは基本的に身につけるもの。それこそ食事と風呂、寝るとき以外は常に身につけている。ボクみたいにマスクを外していても、ヘッチャラな方が珍しい。
「……試験管なんか持って、何をしていたんだ?」
でも、マスクをつけていないからといって、先までの行動が怪しすぎた。
試験管の入ったバッグに、防具服の手が伸びる。引っ張り合いになって、踏ん張った瞬間、視界が上に傾いた。
ズルッと、足が土のぬかるみに取られる。
「あっ」
転んだ拍子に、滑ったボクに一瞬気を抜いた人間の手からバッグのヒモが抜ける。
そのままバッグを抱きかかえて地面と体が接触する──なら、よかったのだけれど。
バシャバシャと音を立てるそこに、上半身からダイブしてしまった。
深さはそこまでない。底に手をついて体を起こせば脱出できる。しかし、それができなかった。全身が脱力する。体が重いと感じていた比ではない。ボクの制御から体が離れちまったみたいに、言うことを聞かない。
「ゴバッ!」
目が開けない。側溝に体がそのまま引きずられる気がする。音がなくなった世界で、段々と聞こえてくる何か。なにか、声のような。
────ォ。
────ロ。
────コ、ゥ。
その声をよく聞こうとして目を開けて、見えた。
顔だ、顔。無数の顔。頭から脳みそを漏らしていたり、目がなかったり、一目で死体とわかるその顔が、壮絶な表情で何かを言葉にしている。
ソイツらはいったい、何を言っているのか。
「───ゲホッ、ゴホッ!!」
視界が反転した。今度見えたのは土の色。どうやら引き上げられたようだ。
延々と死体の顔を見ていた気がしたが、実際は一瞬のことだったらしい。町内会のヤツらは無線で連絡を入れたり、仲間と言葉を交わしながら、ボクの服を探る。
「!」
シャツの裏に忍ばせていたマスクが見つかった。見られちまったらしょうがねぇ、生かしちゃおけない。
幸い、異常な脱力感は直った。ブキミな声も聞こえない。
「貴様、魔法使……」
指先からゴォッ、と出たケムリが、一斉にして四人を覆う。
劇的ビフォーアフターする人間を尻目に、自分の状態を確認する。
「右目がぼんやりとしか見えない…口の中も最悪だ。上半身もピリピリする……」
流れてくる雨水を少し飲み込んでしまった感覚もある。四の五も言ってられない。ほかの見回りが来るかもしれないから、一旦この場を離れて、荷物をまとめてトンズラしないと。
「あぁー…マジ、マジマジ、マジでハルちゃんの言うこと守ればよかった。一瞬の激痛より、長く続く鈍痛の方がボク大っきらいなのによ」
小道に入って、最短ルートは……。ノートだけはぜったいに持ち、かえ、
膝が地面につく。
ボクはそのまま、気を失った。
⚪︎⚪︎⚪︎
とても冷たい。
お腹の方がじんわりと温かい。
ザァザァと、聞こえる雨の音。それに混じって息遣いが聞こえる。ボクの呼吸? 違う。ボクのはもっと掠れている。
「まさ…か、…………とは」
男の声だった。何を言っているかまでは詳しく聞き取れない。
逃げなければならない。ケムリを吐いて、このホールから。
でも瞼がまったく持ち上がらなくて、全身を預けきっている。それどころか僅かに浮上した意識が、また闇へと引きずられていく。
とてもとても、懐かしい感覚だった。
***
小夏が次に目を覚ました時、視界半分に広がったのはコンクリートの天井だった。蛍光の灯りが点いては消えて、を繰り返している。
「やぁ、起きたかい?」
そう声をかけてきたのは、白衣を身に纏った恰幅のよい中年の男。資料が雪崩を起こしそうなデスクに座り、湯気の立つカップラーメンを食べながら、ベッドに横たわる彼女に視線を寄越している。褐色肌に、温厚そうな顔立ちとは正反対の腕からのぞく刺青が特徴的だ。
「お前だれ………あ、ボクのカバンは!?」
「それなら、ベッド傍のカゴにあるよ」
小夏はカバンの中の試験管を確認する。中身は割れておらず、採取した黒い水がきちんとある。
ホッとしたのも束の間、少女はようやく自身の服が変わっていることに気づいた。着ているのは病院服。サイズが大きいのか、ブカついている。普段、片方は三つ編みにし、もう片方はお団子にしている髪も下りていた。
「ぼ、ぼぼ、ボクに勝手に触ったのか!」
「治療したんだ、仕方ないだろう。右目の具合はどうだい?」
「右目? ……少し痛い」
先ほどから小夏の半分の視界を覆い隠す包帯。ホールの雨を受けて、多少のダメージを受けたようだ。失明はしていないが、多少視力は落ちているだろう、とのこと。
ケガについては魔法界に帰ったあと、修復魔法で治してしまえば問題ない。それより問題なのは、男が小夏が魔法使いであるか否かを知っているかどうか──という点。
この男が医者であるのは、部屋の造りも見てわかった。
「君をどうこうする気はないから安心してくれ」
どうこうする気は──ということは、少なくとも彼女が魔法使いであることに男は気づいている。
「そんなの、簡単に信じられるわけねぇじゃん」
「あはは…まぁ、こればかりは信じてもらうしかない。それに私が見つけてなかったら、君は今頃「町内会」に殺されていたと思うよ」
男は小夏を見つけた人間の連絡が回ってきたため、急いで現場に向かったそうだ。医者である男は、普段から魔法使いにされた人間を診ているという。謂わば、魔法被害者専門の医者。ゆえに、町内会からも連絡が来る。彼らが現場で被害に遭った人間を見つけることが多いためだ。
「君を最初に見つけられたのは、私の診療所から近かったからだ。なぜ魔法使いが苦手であるはずの雨の中、ホールの水を取っていたんだい?」
「…調べるため」
「調べる?」
「雨の成分を調べたかったんだよ。雨に打たれたらどんな症状が出るかも知りたかったんだ」
「……もしかしてとは思ったけど、ホールに来たのは今回が初めてなのかな?」
「そーだよ、悪いかよ」
やや不貞腐れた気持ちで、そっぽを向く小夏。
男は苦笑いを浮かべながら、プルルル、とかかってきた電話を手に取る。
電話の用件は、町内会のメンバー数名がオニにされた、というもの。
「…あんたいいの? ボクが犯人ってわかってるんでしょ?」
「うん? あぁ、大丈夫だよ。さっきも言ったように、町内会へ突き出す気はないさ。「オニ」についても私じゃ倒せないからね。そこは
「…………ん?」
「どうしたんだい?」
今この男さらっと、ケムリのサンプルがどう、とか言わなかっただろうか。
まさか小夏がくたばっている間に採取したとでもいうのか。少女が寝ている間に、中年の男がアレやソレやを。
「………ッッ! ボクの知り合いの悪魔に言いつけてやる!!」
「えっ! 君、悪魔の知り合いがいるのかい!?」
平行線で交わらぬ点と点のように、どこか噛み合わないこの二人の会話。
小夏は会話の中で男にやましい気持ちが微塵もないことに気がつくと、疲れ切ったようにベッドに転がる。雨はまだ降り続いており、鈍い重さが頭にかかる。
「そう言えば、君のその頭の回しは何なんだい? 触ったら取れて、また付けたんだが」
「これはボクが自己改造したヤツ。勝手に触んないでよ」
「ホォー……」
今日一番、興味深そうな視線を送る医者。男は紫煙を吹かせて、少女のダイヤルに視線を向けた。
「研究者、みたいなものでもやっているのかな?」
「いや、ボクは発明家だよ。魔法使いからは「発明家リンリン」って呼ばれてる」
「へぇー…まだ小さいのに、すごいねぇ」
かくいう医者の方は何と言うのか、小夏は尋ねた。
「私はこのホールで魔法使い研究の第一人者と呼ばれている────「カスカベ」だよ」
ニッと、カスカベは笑ってみせた。
***
ひとまずケガが治るまで、『カスカベ診療所』でお世話になることになった小夏。ちなみにカスカベは“先生”というよりは、“博士”らしい。
カスカベの助手をする頭の寂しげな、「バウクス」という男も小夏と対面した。オニの犯人と知るや否や、顔を青白くさせて、震え出したが。
「町内会にコイツを匿っていることがバレたら、俺ら殺されるでしょーがッ!!」
「あはは、大丈夫だよバウクスくん」
「何も大丈夫じゃねェよ!!!」
と、そのような事もありつつ、小夏は診療所の手伝いをさせられながら、一日、また一日と過ごした。
仮住居にしていた廃墟の荷物も、カスカベに同行してもらい回収した。
そして、ホールに来てから一ヶ月。
体が回復した小夏は、魔法使いの世界へ帰ることになった。
ハルへの土産など、大きなリュックにはパンパンに荷物が詰め込まれている。何だかんだで最初はビビっていたものの、別れ際は寂しげな表情を浮かべるバウクス。小夏も手を振りながら、扉を作った。
「じゃあね、バウクス先生。それ以上肥えないでよ」
「うるせぇ、余計なお世話じゃ!」
「カスカベ先生も研究ばっかりしてないで、健康に気をつけてよ!」
「うん、気をつけるよ」
そう言い、手を振るカスカベ。
小夏は扉を開ける。その先には見慣れた魔法使いの世界がある。実に一ヶ月ぶりの光景だが、もう何年も見ていなかったような、そんな感覚に陥る。
「じゃっ、ボクまた来ちゃうから!」
もう来なくていいわい! ──と、バウクスの声が響く。カラカラと笑う少女の笑い声とともに、扉が消えていく。
「頑張ってね、小さな発明家さん」
果たして消えゆく間際に、カスカベのその言葉は届いたのか。
しみじみとした空気が漂う。男だけの空間にいた少女は、患者たちからも華が添えられたようで──と、人気があった。
「ふわぁ…」
あくびを一つこぼしていつもの日常に戻るカスカベに、バウクスはため息をこぼす。
「よかったんですか、先生」
「ん? 町内会に黙ったままでいいのか、ってことかい?」
「しらばっくれないでくださいよ。あの子ども、アンタの知り合いなんでしょ?」
「さてねぇ」
タバコを咥えるカスカベから一本渡され、バウクスも火をつける。ここ最近は子どもがいるからと、バウクスの方はあまり吸わないようにしていた。肺に美味い味が染み渡る。
「それにあんな、娘を見るような顔されちゃ、どんな関係なのか察しがつきますよ」
「おや、そんな顔してたかい、私?」
「そりゃあもう、ものすごくね」
そもそも屋敷に魔法使いの死体がいくつもあるような人間だ。研究以外興味ないような男が探究心とは異なる感情を見せれば、それこそそれなりに付き合いのあるバウクスが見ればすぐにわかる。
「もし言ったら給料減らしちゃうからね、バウクスくん」
「さらっとヒデェこと言うな……まぁ、言いませんよ」
フゥーと、カスカベは宙に煙を吐く。ホールの人間はタバコを吸う者が多い。それはもしかしたら、ケムリを吐く魔法使いに憧れて、体に悪いと知りながらタバコを口にするのかもしれない──と、昔考えたことがある。
ふと今、そんなことを思い出した。
「親の資格は、私にはないよ」
どんよりとした天気が、空を覆っている。褐色の肌の左薬指に付けられた指輪が、鉛色の空を反射した。
・主人公イメージ
Picrewの【妙子式2】からお借りして作りました。少し加筆がしてあります。
普段はこの上にさらに白衣、下は下着かショートパンツで、履き物がサイズの合わないロングブーツです。
【挿絵表示】