風にあおられた雲が太陽の前を通り抜けていく。
ニシノフラワーは、伸び縮みを繰り返すセイウンスカイの影に追い付くために、気持ちばかり足を先に進めていた。
踏みつける防波堤は熱をため始めている。潮の匂いが鼻を通るのを感じると、上からはウミネコの鳴き声が聞こえた。
「うっ」
辺りに気を取られていたせいか、何かにぶつかってしまった。
「もう、ちゃんと見なって」
ぶつかった先は柔らかくて痛くはなかった。そして、夏に熱された風がもう一度薙いだ。
よく鼻にする匂いがあった。視線を上げると、碧があった。陽光を受けて少し黄色がかった芦毛の髪は、フラワーにとっては見慣れた姿だった。だけれども、眩しくて直視できなかった。思わずスカイの目の前で手をかざしてしまう。陽光が海に差しこんで光が散乱する。その眩しさに当てられて直視することが叶わなかったから。
「ねえ、聞いてる」
「はい、すいません。ちょっと他のことに気を取られてちゃってました」
スカイの少し不安そうな声に意識が引き戻される。慌てて、返事をすればその口元は明るいこの場所でもハッキリとわかるくらいの三日月に歪んでいた。
「じゃあ、いこっか」
「あの、どこへ」
「もう! 聞いてないじゃ~ん」
「ご、ごめんなさい」
「な~んて、ウソウソ。今はじめて言ったからね」
カラカラと笑うスカイに対して、フラワーはいやになってしまうくらい謝ってばかりいる自分に歯がゆさを感じながらも、やはり口から出るのは謝罪だけであった。
「釣りをしようかな~って、近くに釣り具のレンタルもあるしさ」
「そうなんですね。わかりました……私、釣りをしているところを見るのは好きです」
「ニャハハ~」
フラワーにとって釣りをするのはからっきし向いていないが、側で眺めるのは苦ではなかった。
釣り竿に糸を通し、虫や小エビなどを釣り針に素早く通していくスカイの手つきは見ているだけでも小気味よいもので、それをしている時の普段とは違う、シャキッとした顔つきになる彼女の横顔を見るのが好きだった。
「何か勘違いしているね、フラワー」
「と、いうと?」
「今日は、フラワーに全部やってもらうんだよ?」
「え」
「だから、フラワーに」
——なんで
——いや、突然すぎる。
——ライフジャケット、汚れてもいい服。靴とかちゃんとしてない。あ、袖を捲るなら腕の方の日焼け止めよく塗っておかないと。
フラワーの中で思考が奔流した。絶えまなく、溢れては零れることなく積み重ねっていく、その思考達に押しつぶされそうになるほどだった。
「え」
ようやく、口に出したのは、その一音だけ。でも、その一音で、思考の出口が開いた。
「ええええええええええええええええ」
どうして、そんなことになったのか、何もかも分からず、フラワーはただ叫ぶことしかできなかった。
◇
「小田急線から、江の島の電鉄に乗り換えて小一時間ほど電車を乗り継いできた結果がこれですか……」
フラワーは、仕事終わりのかのような声色で今朝の自分の行動を振り返っていた。
昨日は、フラワーが披露宴で飾る花の準備を任されていたが色々なヒューマンエラーによって失敗し取引先からの信用を失う大失態を経験してしまった。
「それなのに、どうして私は呑気に釣りなんかしているんだろう」
「それは~、私たちが逃げ出したからだよ」
フラワーの少し大きな独り言に対してスカイはカラッとした声音で答えた。
——逃げた。その何気なく言い放った一言がフラワーの胸にふかく突き刺さる。
「あはは、そう、ですね」
昨日は自分の仕事でのミスにイライラして、限界になって同居人であるセイウンスカイに当たった後に慰めてもらっていた。恥ずかしくなるほど幼稚な行いをした後に、スカイの手や、言葉に従うままにしていたら気づけば、江の島に来ていた。
「いや~、全部を放り出して手に入れた時間は贅沢そのものですな~」
「たしかに、風は気持ちいいし、海はキレイです。いろんな生き物が沢山いて新鮮そのものって感じがして」
今の自分はこういう場所で楽しんでいる余裕がある存在だろうか。気を抜けば後ろ向きな思考がフラワーを覆いつくそうとする。陽の光で茹だりそうになる頭に影が覆う。強くなびく風が、雲を運んできた。影が、フラワーの心の隙間を埋め尽くす。
「こんな綺麗な場所に私がいちゃいけないのかって思ってる感じかな、それは」
「そんなことは……いえ、そうかもしれません」
心に差し込んだ影を覗かれたような気がして、フラワーは少しだけ驚いてしまった。とっさに取り繕うとしたけれど、うまく言い訳することも出来ないことを直感したため、素直に認めることにした。
「そこまで考え込まなくてもいいって、スカイさんは言ってくれたけど、やっぱり心のどこかで常に昨日のことを考えている自分がいるんです」
「うん」
「どうすればよかったのかなとか、何が間違っていたのかな、なんてないものねだりばっかりしちゃって」
「うんうん」
「ごめんなさい、私ったらまた愚痴ばっかり言っちゃいそうになっていて」
「ひとまず、吐出し終わったんならさ、餌つけよっか」
「あ、はい。ご、ごめんなさい」
フラワーは少しだけ恥ずかしくなってしまった。ぐちぐちと自分語りしたあげくに、そもそもの目的である釣りをする直前だった。
「ほらほら、ゴカイだよ~。これを針につけてね」
フラワーの心配なんか気にしていないような素振りで、スカイはパックの中に入っている活餌を見せてくる。針に餌をつけるのはスムーズに行えた。
学園にいた時から、庭園の一角をお世話していたフラワーにとって、ミミズなどは栄養が豊富な土壌の証だった。その姿に喜びこそすれど、嫌う要素はなかった。ゴカイもミミズの海版のように捉えているせいか嫌悪感は全く抱くことはない。
「こう、手首でスナップを効かせる感じね」
釣り竿を沖の方に飛ばしていく。
グルグルとリールを回す。引いた感覚が一切ないまま、フラワーの下へ釣り針が返ってくる。
「食われてますなあ」
「餌をつけます」
もう一度。少し、場所だけをずらして投げ入れる。
リールを巻いては、餌だけが取られて行く。
その時間をなんどか繰り返し、繰り返す。
◇
「風が気持ちいいねえ」
「魚も、休憩しているんでしょうか」
「ニャハハ~、気分だよねぇ」
小一時間たったところで釣果は0。
空の上で鳴いていた鳥たちも、呆れて他の場所に飛んでいったぐらいだった。
だからだろうか、寄せては返す波の音だけがハッキリと聞こえる。
黙々と投げては巻いてまた投げ込むと言ったことを続けていたフラワーだったが、ルーチンとなったせいかあいた時間が浮き上がって来た。
けれど、言葉は出てこない。
それは悪い気分ではなかったが、やはり、落ち着かない自分がいるのを自覚してしまうほどには何かに駆られている節はあった。
「気分屋なのは魚も猫も人間も、み~んなそんなもんだけどね」
「そうですかね」
「そうだよ」
「でも、人間の場合は気分屋じゃほとんどの人は立ち行かないと思うんですけど」
「ん~、それはそうなんだけど、そうじゃないと思うんだよねえ」
スカイはごろんと、仰向けになりながらそう言った。ライフジャケット越しだというのに窮屈そうな感じは一切ない。
「フラワーはどうして私たち人間やウマ娘が気分屋じゃなくてきっちり何かを守らないといけないと思う?」
「そうしないと、他の人に迷惑がかかるから、ですかね」
——きっちりと対応出来ていたならば、あの仕事はもっとうまく行っていただろうから。
「私はそうじゃないと見たね」
「そうなんですか」
「そうだよ~……私たちはさ、自分たちの気分に振り回されるから渋々きっちりやらないといけないと思うんだ」
「なるほど……なるほど?」
婉曲的過ぎてフラワーにはうまく理解できなかった。釣りに意識を取られたせいで適当に聞いてしまっていたかとスカイの言葉を思い返してみるが、やはり、何を言っているのかはよく分からなかった。
「フラワーはさ、夜中にあ~小腹空いちゃったな~って時いっつもどうしてる?」
「スカイさんのへそくりをちょびっといただいています。……あっ」
「え~、私のが減っているのってそういうことだったの!? てっきり酔った勢いで食べて忘れていただけだと思ってたのに」
「ちょっと、釣り竿を引きあげますね。あ、餌取られちゃってたんだ。付け替えてもう一回投げなきゃ」
「食べ物の恨みは怖いぞ~」
口を滑らせてしまったとフラワーは後悔するが、吐き出してしまったものはしょうがない。
夜に作業しなければいけないときに、スカイ秘蔵のちょっとお高いお菓子はホットミルクを飲みながら食べるとフラワーの能率は抜群に上がるのだ。
申し訳ないとは思いつつも、ばれるまでは黙って食べていたのだ。横からの視線が痛くて仕方ないので今度フラワーも戸棚にお気に入りのチョコレートを置くことにした。
「まあ、いいや。今の話はそうじゃないから。もちろん、このことはは忘れないけどね」
「はい」
「夜に仕事に電話が入ってきたらフラワーはどうしてる?」
「緊急を要するようだったら、対応しますね」
「だよね~。……でも、それって相手の気分のせいじゃない?」
「そう、ですかね」
——仕事だから仕方ないと思う。相手だって、やりたくてやっている訳じゃないだろうし。
スカイの言葉に対してぼんやりと考えていると、ピクリと竿が震えた気がした。
「相手の気分じゃなかったとしても、元を辿れば、今すぐに解決しないと利益が少なくなっちゃうのが嫌だなっていう誰かの気分でしょ? 私たちはそんな誰かの気分で今すぐになんとかしないといけないために、きっちりとやらなきゃいけない。誰かの気分屋さんのせいで、私たちは私たちの気分で生きられない。……いや~難しいですなあ。この世界って言うのは」
「あの、スカイさん!」
ピクリピクリと震えていた竿が一瞬だけ強く震えたのを感じたフラワーは反射的に持ち上げた。
瞬間、竿の先端が深く首を垂れた。
「だからさ、そんな窮屈で退屈な日から逃げてきた今日だけは自分の気ままにいてもいいんじゃないかな~って」
「スカイさん! 来てます! 釣り竿がしなってる! これ、絶対引いてるやつ!!!」
「え! え!?」
スカイの話に専念していたかったが、それ以上に優先することがあった。あってしまった。
気の毒だが、大きく声をかけるとスカイも一緒に釣り竿を持って誘導してくれる。
「強く引いて!……あ、左に逸れてるから、その勢いに任せつつ徐々に右に引いて寄せる感じね。そうそう。よし、リール巻いて。そう、そんな感じ。あ、今度は右」
その内にフラワー達が目視できる場所に魚影が浮かんできた。
スカイの指示に従ってフラワーはリールを巻き、徐々に魚を手繰り寄せる。
水面から引き上げられ魚体に陽が差し込む。その光を反射してキラキラと輝く鱗が美しいと思った。
「あ!」
その美しさに見惚れて気づくのは、スカイのびっくりした声を聞いた後になった。
手元からずっしりとした重みが消えていた。力を後ろ向きにかけていたせいか重心が取れずに竿を持ち上げたまま後ろ向きに倒れてしまう。
そばで支えていたはずのスカイもその油断からか一緒になって仰向けに寝転がってしまった。
バシャリと、水面に魚が帰って行った。そのせいで飛び散った飛沫がフラワーとスカイの頬にあたる。
「「あ」」
本当に驚いた時は、それしか出てこない。それはスカイも同じだったようで二人で一緒に寝転んで一緒に飛沫がかかった。
先ほどまでの勢いはなくなり、寄せては返す波の音だけが響く。
「ふ」
「ぷ」
「「あはははは」」
はじめての自分での釣りは失敗してしまった。でも、何も考えずに楽しい気分になったのも今日はこれが初めてで、それが収まるまでスカイと一緒にしばらくの間何はなくともずっと笑ってしまっていた。
◇
「ほら、急いでよフラワー、時間は待ってくれないよ~」
「ちょ、今日は時間を気にせずのんびりしようって言ったのはスカイさんじゃないですか」
「それはそれ! これはこれ! 今はどうしても早く行かなくちゃ~」
「だから、どこへ!」
レンタルした釣り具を返却するや否や、スカイはフラワーをせかしながら駆け足でどこかへ向かっていた。
「おなかすいた! なにか食べたい!」
「なんですかそれ!!!」
——スカイさんて本当にいっつも気分屋さんだ
そう思ったら、フラワーは噴き出してしまった。
なんだか、今まで考えていたことがくだらないことのように思えたから。
ここで昨日までのことは全部忘れたほうがいい。くだらないことを考えていたら、くだらないことを全力で楽しめなくなってしまう。フラワーはスカイの背中を見ながらそう感じた。そして、隣までいけるように、駆ける足をもう少し早めることにした。
今日は、まだ始まったばかりだ。