浴室の窓ガラスは湯気にあたっても不思議に曇らない。窓から見下ろすと町に灯がぽつりぽつりとともっていく。日は山の向こうに沈み、天上に星々が現れている。
晩餐に出る前にシャロンがまた化粧の手ほどきをしてくれるという。その前に湯あみをしたかった。……考える時間が欲しかった。
アランは私に王太子の説得という大役を与えてくれた。外交もまた姿を変えた戦争のかたちなのだ。違うのは血風ふきすさぶ戦場か、テーブルかだけの違い。そこでは剣ではなく言葉で戦いが行われ、愚かなたった一言で国運が傾くことすらあるのだ。スターヴァイン王家の最後の王位継承者として、いずれは交渉の場に立たねばならなかったのだ。多分、アランもそう考えていたのだろう。父上の願いに気づかぬまま月日を送った私を励ますために。
汚れを落としてから湯船に身を沈める。広々とした浴槽に獅子をかたどった金具から湯が絶えずさわさわと流れ込んでいる。浴室は磨き上げられた黒曜石のタイルが敷き詰められ、黒い表面は魔石ランプの穏やかな光に照らされていた。
浴室内はスターヴェーク王宮にもなかったたいそう凝った作りだ。アランの大陸では清潔であることがとても重要視されていたという。湯は大樹海の奥の泉源から引いているそうだ。本人は支援者のおかげだと謙遜していたけれど、それほどの力を持つ支援者を従えているのがアランだ。いつかその支持者たちに会ってみたい……。
大樹海の産品の例にもれず、心なしか薄青い湯にごく微量の魔力を感じる。疲れた体をふわりと包むように流れていく湯は柔らかく、ほのかに輝いている。
スターヴェークにいたころは、頻繁に湯につかる習慣はなく、たまに水浴をする程度だった。その私がアランにもまして入浴するようになったのは、この魔力のせいかもしれない。入浴後の充実感がいまではすっかり好きになった。この湯を浴びると体内の魔力が増えるような気すらする。いにしえの伝説にもあったように、大樹海は魔力を育てるのだろうか。
今日の充足感はそれだけではない。
戦端が開かれてまもなくイザーク様が御姿を現された時点で私は確信した。この戦いに大義ありと。女神ルミナス様もスターヴェーク奪還を是とされておられるのだ。
ガンツ城壁の上に立って、たなびくスターヴェーク王国旗のもと、戦場を見渡したあの瞬間……。アランの戦いと傭兵救出のさまは今思い出しても心が躍る。これからの人生で何度も思い返すことになるだろう。
ガンツでの勝利直後に、アランがギニー・アルケミンの謎を解いてくれたのもきっと意味がある。継承者である私にすらわからなかった父母の思いをくみ取ってくれた。これはアランにしかできないこと。私への思いやりだろうか。いや、それ以上の何か。
ガンツでの勝利とギニー・アルケミンの解明。拠点にきて半年間、手持ち無沙汰な状態がここ数日で一気に祖国奪還へと流れが加速していく。
でも……。
もしスターヴェークを奪還したら、私とアランはどうなるのだろう。私は荒廃した祖国を復活させるために民を鼓舞し、統治せねばならない。スターヴェークの王都が私の場所になる。
けれどアランは大陸制覇という目的に邁進する。アランの居場所はスターヴェークではない。
いっそのこと、スターヴェーク王都を大陸制覇の拠点としてくれないだろうか。……いや、資源の宝庫である大樹海は、難攻不落の要塞でもある。開拓が成功しつつある今、私がアランの立場だとしても、ここを手放すことはしないだろう。
ゴタニアの町でアランは私に約束した。民に自分の周りの事、この世の理を知ってもらい、幸せに生きて人生を全うしてもらう、と。
それはこの大陸の歴史で誰一人なしえたことのない偉業となるはず。かつてこの大陸を支配していたと主張するアラム聖国ですらできなかったことだ。
そのための共同統治だとアランは言った。ならば私とアランは行動を共にすることになるはず。これからもずっと……。そう思うと不意に体が熱くなる。けれどその”一緒にいる場所”はどこになるのだろう。
セリーナやシャロンも一緒なのだろうか。
あの二人はアランをのぞけば、魔法も武芸もあらゆる点で兵士として抜きんでている。これほどの技量を持ちながら、嫁ぎもせず、一生をアランに捧げるのだろうか。私に対するエルナの思いと同じように?
いつか、セリーナやシャロンと意見を違える日が来るような気がしてならない。
このごろはエルナの様子もおかしい。
少し前まではアランに対してもためらいなく発言していたのに、妙に黙り込むことが多くなった。一つだけ変わらないところがあるとすれば、エルナのかたくなな近衛としての矜持だ。メイクもせず、ドレスの袖に腕を通すこともせず、貴族の女性としてのたしなみは一切捨てている。地下の稽古場にこもることも多い。王家にこれほどの献身をささげる者は少ない。けれど……たとえ王族と臣下の間柄といえ、私はエルナ自身の幸福を犠牲にしてはいないだろうか。
唐突に、魔法の力を感じた。水面を伝う波のように地下の稽古場から伝わってくる。この波動はメラニーだ。また一人で練習しているに違いない。ほんの初歩の手ほどきをしただけで、これほどの進歩を見せるとは。本人の才覚もあるだろうけど、やはり大樹海の力かもしれない。
アランを取り巻く私たちはやがて変わっていくのだろう。きっとそれは大樹海の力であるかもしれない。……そんな気がした。