顔見知りが死のうと何があろうと阿修羅の日常は変わらない。
たとえ今日、地球に隕石が落ちて滅ぶ運命にあったとしても、この狂った鬼神は最後の最後まで恐れ怖がりつつも自分を崩すことは絶対にないだろう。それどころか次元の狭間に棲まう最強の龍神よろしく『……邪魔』の一言で隕石を消し飛ばしてしまうかもしれない。その気になれば簡単にできるのがこの男の神たる所以といえる。
日の出と共に起床して顔を洗い、吊るしてあったシャツを五、六枚重ね着する阿修羅。常人ならば大層動きづらいだろうが、鬼神なので気にもならない。これくらい厚着しないと不安になるのだ。何がどう不安になるのかは阿修羅自身もわかってないが。
それはさておき、さあ朝食を作ろうと意気込む彼を出迎えたのは、食材が見事に全滅して空っぽになった冷蔵庫であった。
「…………ふむ」
眠気の抜け切ってない半目で唸る。
バターやケチャップなどの調味料類を除けば何もない。昨日コンビニで買った割高な牛乳や特売日に買い溜めしておいた大量のちくわまで綺麗さっぱり消え去ってしまっていた。大勢の奥様方に混じって勝ち取ったあの労力が無駄になったのかと思うと落胆も大きい。
考えられる可能性その一、食材限定の神隠し。
馬鹿馬鹿しい……とすぐに棄却する。
神が神から食料を奪って何になるというのか。
考えられる可能性その二、普通に泥棒。
それこそ万が一にもありえない。
仮にそうだとするなら冷蔵庫の近辺に盗っ人の成れの果て――肉体の消え失せた魂だけが浮かんでいるはずだ。築二十年の古アパートでも、阿修羅の部屋は黒血と狂気によって過剰なまでの防犯結界が仕込まれているのだから。具体的には、許可なく入った瞬間に発狂して自殺する。
とすると、考えられる可能性その三、同居人の仕業。
これが一番の有力候補だ。
「……ブレア?」
布団の中で惰眠を貪っている飼い猫に声を投げるも、返ってくるのはうにゃうにゃと寝ぼけて意味にすらなっていない言葉ばかり。しかし彼女が犯人なのはまず間違いないので、阿修羅はさっそくオシオキを行うことにした。
布団の中に手を突っ込み、魔女のような三角帽子を被った黒猫を引きずり出す。
「うにゅ~、まだ眠いにゃ……」
首に下がったカボチャのアクセサリーを揺らしながら、こしこしと前足で目を擦るブレア。
構わず口元に顔を近づけて匂いを嗅げば、案の定ちくわの匂いが。よくよく見ると細かな食いカスまで付着している。
はい物的証拠、犯人確定。
「あ、あしゅら~?」
「……何か俺に言うことは?」
「え~と、おはよう?」
寝起きながらも阿修羅の異変に気付いたのか、ブレアは少し怯えた目で彼を見る。
うん、中々に良い怯えっぷりだ。
「ああ、おはよう」
では――私刑執行。
「ブレア、お前ちょっと臭うぞ、そうだ久しぶりに俺が身体を洗ってやろう、なぁに遠慮することはない、隅から隅まで綺麗にしてやるから安心しろ」
「に゙ゃ!? だ、大丈夫にゃ、一昨日スパに行って洗ったばっかりだからブレアちゃんはまだ十分綺麗にゃ! というかスッゴイ棒読みで怖いにゃー!!」
「――いいから沈め駄猫」
「ふみ゙ゃああああああああああっ!?」
流し台で水を張ったタライにぶち込まれ、ブレアは断末魔の叫びを上げた。猫である以上彼女も少なからず濡れるのが嫌いで――お湯はともかく冷水で洗われるのを極端に嫌がる。さらには頭上から冷水のシャワーが襲い、挙句に『安っぽいからヤダ!』と拒んだ徳用ペットシャンプーで泡だらけにされたのだから、ブレアの精神的ダメージは筆舌に尽くしがたい。まあ、だからこそのオシオキな訳だが。
二十分後、ドライヤーをかけられて毛並みがふわふわツヤツヤになったブレアは猛抗議した。
「ヒドイ、ヒドイにゃ阿修羅! 嫁入り前の乙女の身体をあんにゃに激しく弄ぶにゃんて! 動物虐待、いや婦女暴行で訴えるにゃ!」
「下らないこと言ってないで、さっさと朝メシ食べに行くぞ。お前のせいで冷蔵庫がすっからかんなんだ。食べたくないなら留守番しててもいいが」
「むー……何食べるの?」
「人の姿なら何処かでモーニングセット。猫のままならコンビニで猫缶だな」
「最近の猫缶も美味しいけど、今はモーニングの気分にゃ」
言うが早いか、ブレアはその場で宙返り――人間の少女に化ける。
それは別にいいのだが、彼女の格好は外を出歩くにはいささか刺激が強い。
被った三角帽はそのままサイズが大きくなり、胸を窮屈そうに押さえる黒のチューブトップに同色のレザージャケット、極めつけに尻のはみ出しそうなホットパンツ――あのエロ三馬鹿などが見たら間違いなく鼻血を出すか前かがみになるであろう代物だ。
けれど――
「にゃふん♪ どう?」
「普通」
阿修羅は腰に手を当ててポーズを取るブレアをばっさり切り捨てて。
とにかく腹に何か詰め込むために家を出た。
やはり、あの程度の魂では小腹も満たされない。
◆ ◆ ◆
でもって、時間は少々過ぎて。
舞台も変わり、駒王学園。
阿修羅の性格を知る者たちの予想とは裏腹に、彼の教師生活は至って平々凡々――何処にでもいそうな進学校の先生の立場をこれでもかと満喫していた。
世界を簡単に狂わせる鬼神が教材片手に生徒と挨拶を交わしながら廊下を歩くなど、笑い話を通り越して悪い冗談としか思えない。
この学園を領土とするグレモリー家筆頭の悪魔陣営は元より、天使陣営や堕天使陣営、その他の神話勢力に知られたが最後、すぐに討伐隊が組織されると容易に予想できるほどの異常事態だ。
しかし、誰も気づかない。
髪の一房一房に目のような模様が浮かんでいるにもかかわらず。
額に第三の目、さらには手の甲にも無数の目があるにもかかわらず。
誰もが阿修羅を『普通の教師』としか認識していない。
それこそが――本当の異常事態。
「――先生、阿修羅先生!」
「はい?」
生徒会を含む学園上層部の大多数が悪魔関係者とはいえ、有名な進学校なのだからもちろん一般人の生徒だって籍を置く。今日の分の授業を終えて職員室に戻る途中の阿修羅を後ろから呼び止めたのも、悪魔とは何の縁もない人間の女子生徒だった。
どうやら慌てて部活を抜け出してきたらしく、道着の胸元がはだけている。いくら元女子高でも身嗜みには気を配るべきではないかと、息を切らせて駆け寄る女生徒を待ちつつ阿修羅はぼんやり考える。
「せ、先生大変です、あのエロ猿たちがノゾキを……」
「……またか」
一体これで何度目だろう。
鬼神にため息を吐かせるなんて、誰にでもできることではないはずなのに。特に兵藤。お前は一度死んだのだから少しは大人しくなれ。
できればこのまま職員室に帰って仕事の残りを片付けたいところだが、三馬鹿を放置して職員会議でも開かれたらそれこそ面倒事になりそうだ。あるいは『娘が相談したのに取り合ってもらえなかった』とか何とか言われてPTAに責められるかもしれない。
それは怖い。
人間ごときに責任を追及されるなど考えただけでも恐ろしい。
「わかった。場所は……剣道場か?」
「はい!」
阿修羅の杞憂と心中など知る由もなく、女子生徒は顔を輝かせて先導するように早足で剣道場に向かう。どうでもいいが、さっき廊下を走っていたことは教師として注意すべきなのだろうか。
ああ、足取りが重い。そして面倒臭い。
どうせ蘇生させるなら性癖の方も多少は矯正して欲しかったと、阿修羅は旧校舎にいる悪魔の少女に呆れるのだった。