ゆるキャン△映画公開を記念して
静岡県 浜松市
突き抜けるような冬の風をコート越しに感じながら、浜松市内での仕事を終えて佐久米駅前へと戻ってきた。
(三が日なのに毎年のように仕事が舞い込んでくる俺。それに答えちゃうから、俺って根っからの仕事人間なんだな…。)
透き通った空を見上げながら、懐に忍ばせていたタバコに火をつけて一服。
1月2日の午前中に仕事の依頼。
年始早々に仕事で、幸先が良いのか悪いのか。だが、彼には妻もいなければ子供もいない。正月に親族にも会う程の間柄でもないので、特に問題も無いと言えば無かった。
ビィィィ…。
ぼぉっとタバコを味わう彼の耳に、単車のエンジン音が入ってくる。
見れば、ビーノが佐久米駅の駐車場に停車した。
その荷台には、見たところテントやらなんやら積まれているところを見るに、元旦キャンプをしてきたのだろうか?
「おーい!リンちゃーん!おーい!」
待ち合わせでもしていたのか、駅から出てきた高校生くらいの女子が、ビーノのライダーに向かって駆け寄っていく。
実に微笑ましい光景だ。礼儀正しく、互いに新年の挨拶も欠かさない。
そして駅内へ消えゆく二人…。
だが、タバコをくわえながらそれを横目で眺める男…井之頭五郎にとってはそれほど興味をそそられる物でもなかった。
仕事が終わり、これからオフだ。どうしたものかと腕時計を見れば、11時を回ったところ。
(そういや、朝早かったから朝飯食いそびれたんだよな…。
道理で…
腹が
減った。)
…
……
………
(正月として飯で一年の幸福を願うのもよし。一年の計は元旦にありとも言うしな。よし、店を探そう!)
腹が減っては戦はできぬ。
何を隠そう、この井之頭五郎、とても食に対して貪欲だ。
自身が求めるメシ、自身を満たす料理を求め歩く。
メシモードに入った五郎は静かに頷くと、携帯灰皿にタバコをねじ込み、ユリカモメが飛び立つ羽音を背に、佐久米駅から歩をすすめるのだった。
(うなぎウナギ鰻UNAGI…。やっぱり浜松に来たからには鰻を食いたくなるって言うのは、仕方ないことなんだな…。)
歩き始めて数分。
未だ自身の追い求める鰻が食える店は見当たらず右往左往していた。
(せっかくの新年なんだ。どうせ食うなら、とびきり特上の美味い鰻を食える店がいいな。)
だが悲しいかな、五郎に浜松市の土地勘というものはなく、完全にアウェーの人間。どこに何があるのか皆目見当がつかない。
(困った…実に困ったぞ…!このままでは俺の胃袋が空腹に耐えきれず、正月早々、胃の大暴動だ。)
胃袋の堪忍袋がキレる前に何としてでも鰻屋を見つけなければ。
人通りの多さを狙っての集客なら、駅周辺にありそうなものなのだが…。
(普段ならここである程度妥協したのだが…あいにくと胃袋が鰻以外を受け付けんと、まるで強盗犯のように立てこもってる。なんとかして鰻を……、あれ…?)
彷徨いに彷徨い、ぐるぐると回り歩いて、結局の所、佐久米駅に戻って来てしまっていた。
(結局ぐるぐる回ってただけかよ…!…いかん、腹の中がブーイングの嵐だ…!)
もはや、五郎に正常な判断ができるかどうか疑わしいものになってきた。なにせ方向感覚すら危ういのだから。
(焦るんじゃない…俺は腹が減っているだけなんだ…!ん?)
「なでしこ、おばあちゃんの家、ここから近いの?」
「ん〜、歩いて二十分くらいかな〜。」
聞き覚えのある声に振り向けば、先程駅へ入っていった二人の女子だ。
「あっ、でもその前にお昼食べていかない?すぐそこに美味しい鰻屋さんがあるんだよぅ!」
(なん…だと……)
すぐ近く。
その言葉に五郎は衝撃を受けた。
数分間、腹の虫を諌めながら駆け回った彼だが、よもや佐久米駅近くにそのような店があろうとは思いもよらなかった。
(がーん、だな…。灯台下暗し…もとい佐久米駅下近し…。さらば、俺の数分間。そしてウェルカム、鰻。)
ショックや後悔は一瞬、すぐに五郎は切り替える。何せ満を持して鰻が食えるのだから。しかも、おそらくだが地元の子であろう少女のお墨付きと来た。
歩き始めた二人の後を、そこはかとなく、さり気なくついていく。この御時世だ。不審者だと勘違いされれば、国家権力の御厄介になってしまう。決してやましい気持ちはない。ただ美味い鰻が食いたいだけなのだ。
そして数分とも歩かぬうちにやってきた鰻屋。本当に佐久米駅の直ぐ側だった。
(来た来た来ましたよ。これは僥倖だ。この暖簾の草臥れ具合…ここは間違いない。)
暖簾を潜れば、そこはいかにも和の食を扱う店だとありありとわからせてくるテイストの風貌。若干の古臭さを感じられるが、長い年月この店が続いている証左であり、それだけ愛されている『様々な味』がそこにあるのだろう。だってタレが焼ける匂いでご飯が食えそうなのだから。
「特上2つお願いします!」
「特上2つね。」
「うんうん、特上……特上?」
先程の二人がカウンターに座ってオーダーしている。五郎も少し離れたカウンターでお品書きを手に取り見てみる。
献立
鰻重
並 一八〇〇
上 三〇〇〇
特上 四〇〇〇
「!?!?」
(流石特上…いい値をする。だがせっかくの新年の食い始め。ここは大盤振る舞いと行こうじゃないか。)
「すいません、こっちにも特上。」
「はいよ!」
そう言うとオーダーを受けるやいなや、桶でピチピチ泳ぐ鰻をなれた手付きで引っ掴むと、まな板の上に釘で固定し、手際よく鰻の長い身体を捌いていく。その手早さはもはや芸術的だ。
鰻屋の修行は串打ち三年、割き八年、焼き一生と言われるように、捌くその腕前を完成させるまで、八年要するという。見るからに熟練と感じられる彼の包丁さばきは、その賜物なのだろう。
ちなみに
関西と関東では鰻の捌き方が違う。
関東では腹を割くと、切腹を思わせるから縁起が悪い、とのことで、背中から包丁を入れる。
関西では慣用句に『腹を割って話す』と言うものが由来で、腹から包丁を入れるのである。
「特上お待ち。」
運ばれてくる四角い重箱とお吸い物。
運ばれて来るやいなや、五郎はその雅な重箱の蓋を取り払う。
(おぉ…!)
鰻重(特上)
その名に違わぬ特にして上。長〜い鰻と老舗の歴史をかき込め、そして噛み締めろ。
お吸い物
しっかり味の鰻重を支える、あっさりとした味わいは、箸休めに欠かせない。まさに縁の下の力持ち。
(これだよこれこれ。これぞ鰻重って言う鰻重だ。紛うこと無き王道。そしてこの風格。見た目がすでに特上とわかる。)
これはもう…待ったなしだ。手早く橋を握りながら手を合わせ、いただきますと小声で言い終えると、早速箸で鰻の身の一部を解し、まじまじと見つめる。
赤茶色のタレによって染められたその身は、もはや芸術と呼ぶにふさわしい。意を決し、その芸術を口に放り込む。
(う、美味い…!)
サクッとした食感とともに口に広がるのは、炭で燻された香ばしい風味、甘辛く奥深いタレのコク、そして脂が乗った鰻の旨味。それらが渾然一体となって口の中を蹂躙していく。
(美味いなんてもんじゃない…!旨すぎるぞ、こりゃあ!)
ここは うなぎの めいしょ と謳うだけのことがある。
まず鰻だ。本来鰻は夏に食べるものというイメージがあるが、冬のほうが脂が乗り、旨味が増す。
しかしいい鰻があれど、それを活かし、そして調理する職人がいなければ、鰻も輝きを失ってしまう。どれだけのダイヤモンドの原石があれど、それを輝かせて価値を持たせるためには技術が必要なように。
そしてタレ。老舗の鰻のタレは、長年継ぎ足し継ぎ足しである。そこに焼かれた鰻を直接浸して味付けする為、鰻にはタレがしっかりつけられ、タレには鰻の表面に浮かんだ脂がタレに混ざることで、タレの旨味が増すのだ。この奥深いコクは、イコール店の歴史の長さとも言える。
(うん…!うんうん!お吸い物も等しく美味い!決して脇役なんかじゃないぞ!)
箸休めなんてもんじゃない。すすれば上品な出汁の風味と味が、鰻重に顔負けしない程の幸福感を与えてくれる。
必死でがっついていると、あっという間に半分ほどに減ってしまっていた。
(ここで山椒で味変だ。)
お品書きのそばに備えられた粉山椒を、残った鰻重にパラパラと振り掛ける。鼻を突くスッとした香りが、少し膨れた腹に再び空腹感をもたらしてくる。
そうなるともはや止められない。
山椒の香りと風味でハイになったのだろうか?五郎の箸は暴走特急染みていた。
(俺は今、鰻重と言う名の歴史を食っている。この店が、店員が積み重ねて来た技と、そしてタレ。それは店の歴史そのものだ。これほどの鰻重に辿り着くまで、紆余曲折あったんだろう。その集大成と、そしてこれからの通過点というこの店の
山椒が食指を勧め、寧ろ前半よりもスピードが上がった事で、重箱がすっからかんになるのはそう時間が掛からなかった。
シメはお吸い物で口の中をスッキリさせて一息。
「ごちそうさまでした。」
「くっ〜……!!はぁ!」
会計を済ませ、店を出るやいなや、五郎は大きく背伸びをする。決して長い時間座り続けたわけではないのだが、何故か凝り固まった身体を伸ばさずにはいられなかった。
「めちゃくちゃ美味かった……!」
「でしょ〜?」
独り言のつもりが、背後から相槌を打たれた。驚き振り返れば、佐久米駅から一緒だったに等しい少女の一人だった。
「おじさんも、私達の横で美味しそうに食べてて、なんだか嬉しいなって思ってたんです。ここ、私のイチオシの鰻屋さんなんで!」
「あ、あぁ。確かにイチオシだけあったよ。」
(まさか後をつけてきたなんて言えないよな…。)
どうやって辿り着いたかが傍から見ればアレなので、五郎は苦笑い気味である。
そんな五郎に少女はそっと近づき、囁いた。
「でも、後をつけるならもう少し気をつけたほうがいいですよ?傍から見たらアヤシイおじさんですから。」
「っ!?」
勘付かれていた!?
「じゃ、行こっか、リンちゃん!」
「う、うん。」
遅れて出てきた連れの女の子に駆け寄ると、少女は何食わぬ顔で歩いていく。
「雰囲気の割に…鋭いんだな。」
そんな後ろ姿をあ然としながら五郎はつぶやいた。