TS魔法少女の刑に処す   作:TS魔法少女を曇らせ隊

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第十四話 あなたに贈る花、──あなたと別つ音

 ショッピングモール一階に位置する、こじんまりとした花屋。

 時折客が出入りする程度の店先で花を生けていた妙齢の女性は、近づいてくる俺たち──というより、竜胆あかねに気付くと、片手を振り上げて柔和に笑った。

 

「久しぶりねぇあかねちゃん! はるかさんは元気ぃ?」

 

「おばさんの花のおかげでな! おばさんも相変わらず元気そうじゃん!」

 

「ウフフ、まだまだ現役だものぉ!」

 

 親しげに話し合う二人だったが、ふと店主がこちらを見て首を傾げる。

 

「あらぁ? 初めて見る子ねぇ……この可愛い子が例の静理ちゃん?」

 

 違う、と俺が否定する前に、肩をがしっと掴まれて抱き寄せられる。

 

「ちっげーよおばさん、こいつはひなた! あいつとは違ってすげー良いやつなんだ!」

 

 竜胆あかねの凛々しく整った顔が迫り、ちょっとだけ背筋が跳ねるも、彼女がそれを気取った様子はない。

 ごほん、と気恥ずかしさを吐き出すように咳をした後、俺は意識して笑顔を貼り付けて頭を下げる。

 

「ご紹介に預かりましたひなたと言います。今回は竜胆あかねさんの手伝いを、ということで同行させていただきました」

 

「あらあら、礼儀正しいわねぇ……って、どしたのあかねちゃん、びっくりして」

 

 目を丸くして俺を見ている竜胆あかねは、俺と店主に怪訝そうに見つめられたことでバツが悪そうに頬を掻いた。

 

「いや……なんつーか、そんな口調も出来るんだなって。いつも乱暴な口調じゃんか」

 

「失礼な、俺ァお前より年上だぞ。そンぐらいの礼儀は弁えてるわ」

 

「は、はぁ!? アタシよりチビなくせに年上とかウッソだろ!? アタシよりチビなくせに!!」

 

「俺だって好きでこんなチビになったわけじゃねェんだよ、つか二回言うな」

 

 本当は一九〇近い、誰に憚ることなく高身長と言えるような立派な背丈だったのだ。

 それが今では一五〇弱のミニマムサイズへと……これもすべてミストレスのせいだと怒りが湧いてくるも、いつものごとく表には出さない。

 竜胆あかねの失礼な物言いには、フンと鼻を鳴らすに留めた。

 

 そんな俺たちのやりとりを見て、花屋の店主はくすくすと笑う。

 

「あらあら。口調も似てるし、まるで姉妹みたいねぇ」

 

「違ーし!」「違ェし」

 

 たまたまイントネーションが違うだけで同じ言葉を発してしまい、お互いに見つめ合ってため息を吐く。

 花屋の店主は、とうとう堪えきれないとばかりに笑い始めた。

 

 

 /

 

 

「ウフフフ、ごめんなさいね、あんまりにも微笑ましかったものだから……」

 

 店主はそんなことを宣った後、気を取り直して、と言わんばかりに店の中に俺たちを案内した。

 話を打ち切ってくれるのは有り難かったので、俺たちもその後を着いて店に入った。

 

 ──ふわり、と派手すぎない香りが鼻腔をくすぐる。大小さまざま、色とりどりに綺麗な花が陳列されている店内は、そういったものに疎い俺であっても主人の確かなセンスを感じさせた。

 

 思わず感嘆の息を漏らす俺を微笑ましそうに見た店主は、最後に一つ、と前置きしてから人差し指を立てた。

 

「常連のあかねちゃんに言うことじゃないけどね、お店の中のお花は好きに見てもらっていいわぁ。触るのもちょっとくらいならいいけど、度が過ぎるようなら()()()()()()()()()()()()()から、気を付けてね?」

 

 そんな注意を述べて、店主は店の奥に消えていく。

 やはり一国一城の主というわけか、と残された言葉に納得していると、ちょんちょん、と肩をつつかれる。

 

「さ、早く見ようぜ。色々候補は決めてあるけど、やっぱり自分で見るのが一番だからな」

 

「俺ァ花とかわかんねェぞ……」

 

「わかんなくても楽しいだろ?」

 

「……ま、それもそうだな」

 

「だろ?」

 

 快活に笑った竜胆あかねに手を引かれるまま、黄色い花のコーナーに入る。

 

 俺でも名前を知っているポピュラーな花、あるいは他の色として知っていた花の色違い、見たこともない小さな花、名前は知らないけれど姿形をわずかに記憶するほどの派手な花。

 そのどれもが俺の想像を超えて生き生きと輝いていて、純粋な美しさで俺の脳髄をかぐわすのだ。

 

「綺麗、だな」

 

「……ああ」

 

 他に人はおらず、聞こえてくる雑踏もまた花の香りに掻き消える。

 黄色を中心とした花を穏やかな顔で眺める竜胆あかねは、やはり、普通の少女と言った様相で。

 彼女が魔法少女であることが、少しだけ信じられなくなりそうだった。

 

 そんな己を誤魔化すように、ただ、ぽつりと言葉をこぼす。

 

「……色々種類があるんだな」

 

「黄色い花は、いろんな時に使えるからな。単純に見た目が華やかだから観賞用、父の日の祝い、……お見舞いの花、とかさ」

 

 竜胆あかねの顔は、俺からは見えない。

 見ようとも思わない。

 見てはならないと思う。

 

「そうか。じゃあ、似合う花を選ンでやらねェとな」

 

「……聞かねーの?」

 

「人の傷口を開いて眺めるような趣味はねェよ」

 

 これはきっと、彼女の“自覚”という不明瞭な何かに関わることだ。それを聞き出せば、イエローアイの願いは叶う。……おそらくはミストレスの助けにもなるだろう。

 だがそれは、無理に聞き出すようなことではない。

 

 人は決して、他者に触れさせたくない部分を持っている。

 今の俺は、その深層(きずぐち)に片足を踏み入れている状態だ。むざむざ踏み躙る真似はしない。

 

 俺も同じく、触れさせたくない部分があるからわかるし──それ以上に感情が訴えてくるのだ。

 苦しめるな、と。

 

「……やっぱお前、優しいよ」

 

「うっせ」

 

 竜胆あかねの生暖かな目を睨みつけて、俺も俺で花を吟味する。

 常連の花屋なのだから、俺の素人目が役に立つとも思えないが──そこまで考えた時、ふと一輪の花が目に入った。

 

 それは小さくて、どこにでもありふれている花だった。それこそ、道端にでも生えているだろう。

 けれどそれとは何かが違うような、しかし言語化できない違和感があるそれを、

 

「これとか、どうだ?」

 

 俺は細心の注意を以て引き抜いた。

 理由はわからない。黄色だからいいだろうとか、そんな安直なものかもしれないが、しかし気になったのは事実なのだ。

 

 素人ながらに良い選択ではないか、そう思いながら竜胆あかねにそれを見せると……難しい顔をして唸る。

 

「ン、ダメか?」

 

「いや、ダメってわけじゃねーんだけど……これ、あれだな。フキタンポポだ」

 

「フキタンポポ?」

 

 なるほど、道端に生えているたんぽぽとは少し違うと思ったが、品種がちょっと違うのか。違和感の正体の合点がいった。

 しかしフキタンポポ、聞いたことのない名前である。

 

「参考までに、ダメな理由教えてくれ」

 

「ダメなわけじゃねーつってんだろ。……花言葉だよ」

 

「花言葉ァ?」

 

 男であった頃には本当に無縁だった言葉に、眉を顰める。

 竜胆あかねは、怪訝そうな俺の反応に仕方ないと首をすくめて人差し指を立てた。どこか店主を彷彿とさせるその仕草は、人にモノを教える時にはぴったりだった。

 

「いいか、黄色い花ならなんでもいい、ってわけじゃねーんだ。

 たとえばこれ、マリーゴールド。綺麗だろ? でもコイツは祝い事には適さない、なんでかわかるか?」

 

「ああ……それが花言葉か」

 

「そ。ちなみにコイツの花言葉は嫉妬、絶望、悲観だな」

 

「論外じゃねェか……」

 

 見た目は綺麗なのに、それに反して縁起が悪すぎる花だ。一体何を思ってそのような言葉を授けたのだろうか、理解に苦しむぞ。

 そんなふうに顔を顰める俺をくすりと笑って、竜胆あかねは別の花を指差した。

 

「で、反対にお見舞いに向いてるのがダイヤモンドリリーとか、アイリスだな。こいつらは色も明るいし、花言葉も希望の再来とかで縁起が良い」

 

「ってことはそいつらから選ぶってことか?」

 

「ま、基本はそうなるな。……実のところ、もう何を贈るかは大方決まってんだ。でも、花を見るのが好きで……オマエにも、それを見てほしかったのかも、な」

 

 アイリスの茎を撫でた竜胆あかねは、苦いものを含んだ顔でこちらを見るも、俺は肩をすくめて取り合わない。

 別に気にしてねェよ、と言葉を返す代わりに、しっかりを笑顔を向けてやった。

 

 ──その後も綺麗な花と、それに付属するような花言葉を次々教え込まれ、すっかり花言葉を覚えてしまったときに、竜胆あかねはフキタンポポを指差した。

 

「で、肝心のこれなんだけどさ、コイツの花言葉はそう物騒なものじゃないんだよ。ただやっぱりお見舞いには合わない花言葉でなー」

 

「綺麗な花にも色々あンだな……で、コイツの花言葉は?」

 

 ちょっとだけ気になってきたのでワクワクしながら聞いてみると、竜胆あかねはさしたる間も置かずにさっぱりと答えた。

 

「フキタンポポ、コイツの花言葉は、確か──」

 

 

「──公平な裁き、だったかな」

 

 

「……そうか」

 

 公平な裁き、か。

 なるほど、なるほど──

 

「洒落が効いてるじゃねェの、オイ」

 

「洒落? ……まあ、気に入ったんなら良いんじゃね?」

 

 それにしても出来過ぎな話だ。

 偶然気になった花が、まさか公平な裁きなどという花言葉を持っているとは。

 ありえないそれに、心臓がどくどくと高鳴った。

 

 だが、それは決して不愉快なモノではない。

 

「ま、所詮素人目だったってことだな」

 

「そんな卑下しなくても……って、冗談かよ! 心配して損したわ!」

 

「ハハッ、悪ィ悪ィ」

 

 その証拠に、今もこうして笑えているのだから。

 自分の気遣いを無碍にされたと思ってツンとそっぽを向く竜胆あかねを宥める傍ら、俺は横目でフキタンポポを見る。

 

 公平な裁き、か。

 もし四、五年前に見つけていたら、ゲン担ぎで買っていたかもしれない。

 花畑ではしゃぐ彼女の姿を脳裏で思い返しながら、そんなことを思う。

 

 だからだろうか、竜胆あかねがポツリとこぼした。

 

「……そんなに気になるなら、買ってやろうか?」

 

「ン?」

 

「……気になるなら買えばいいってことだよ。でもスマホすら持ってねーんだから、金も当然ないだろうし……その、買い物に付き合ってくれたお礼、的な……」

 

 言ってる途中で恥ずかしくなってきたのか、耳元まで赤く染めて、竜胆あかねは笑いながら頬を掻く。

 反応が気になったのか、ちらりと俺の方を見て──何故か急に慌て出す。

 

「……ダメか? か、金の心配なら大丈夫だ! ちょっと分不相応なくらい貰ってるし、生活費とかチビどもの進学費用は全部別に取ってあるから……!!」

 

「いや、そうじゃねェ、そうじゃねェんだ。っつか見た目に似合わずきっちりしてンなァオイ」

 

 とりあえずツッコミを入れてから、ふぅ、と息を吐く。

 ……俺はどれだけ酷い顔をしていたのだろう。まったく、情けない。

 

 俺はかつて、彼女らに関わって何か影響を及ぼすのが恐ろしい、そう思った。

 今でもそれは変わっていない。だが、あの言葉で少しは考える余裕ができて……ここまで関わってしまった。

 そのことを今自覚して、かすかに笑う。

 

 ──やはり、これだけ断るのも妙な話だ。

 

「……年上として、年下に奢ってもらうってのも情けねェ話だけどな」

 

「そう言われるとなんか変な気分になるな……ホントに年上か?」

 

「やめろ、俺ァ間違いなく一九か二〇の大人だ」

 

 それを聞いても竜胆あかねは訝しげな目を向けつつ、右手を俺の頭に、左手を自分の頭に乗せ──

 

「……身長差を比べンな、余計惨めになるだろうが」

 

 乗せられた右手を剥がしながらそう睨みつけてやると、竜胆あかねは気まずそうに目を逸らす。それはそれで傷付く反応で、ハァ、とため息が出た。

 

「別に怒ってねェから気にすんな。……なんつーか……俺も慣れてねェんだよ、こういうの。けど、よ……」

 

 もにょもにょと口の中で言葉を咀嚼した後、さすがに気恥ずかしくて俯いてしまうも、それでも、しっかり口に出した。

 

「嬉しいのは、間違いねェ。……ありがとよ」

 

「!」

 

 俺の言葉を聞いて露骨に嬉しそうにした竜胆あかねは、早速、と言わんばかりにフキタンポポを一輪と、おそらくは母に贈るためのアイリスを数本手に取って店の奥に向かっていく。

 

 そして花越しに聞こえてくる、忙しない彼女と店主のやり取りに自然と笑みが浮かぶ。

 

「ったく、まだまだ子供じゃねェの」

 

 未だ熱が残る頬を掻いて、そんなことをぼやいてしまう。

 両腕に力を込めてエコバックを持ち上げ、少し遅れて彼女の元へと足を進めようとして──

 

───ヴィー・ヴィー!!

 

 直後、けたたましい警鐘が鳴りいた。

 聞くものに例外なく身の危険を想起させる警戒音に、咄嗟に音の出どころを探すが、それはすぐに見つかった。

 

 幸いなどとは、決して言えないところから。

 

「────」

 

 ()()()()()()()()()から、大音量の警鐘が響き渡る。

 ポケットからそれを取り出した彼女は、ばっとこちらに振り返る。

 

 おそらく先ほどまでは、楽しそうに談笑していたその顔は──今は、蒼白に凍りついていた。

 

 見つめ合う一瞬、それ以外がすべて凍てついて色を失う。

 咄嗟に口を開こうとして、その瞬間、

 

 

『アマイガス出現の予兆を確認しました。予測出現地点、送信完了。近場にいるあかねちゃん──いいえ、魔法少女レッドパッション、至急討伐に向かってください』

 

 

 どこか機械的な冷たい声が、警鐘に続いて波紋を広げ──次いでスマホのものにも負けないアラートを伴う緊急放送が、ショッピングモール中で鳴り響いた。

 外の雑踏は一瞬で悲鳴へと変わり、アラートと重なって心臓が破裂しそうなほどの緊張感を撒き散らす中、俺は無意識に言葉を発していた。

 

「この声は、イエローアイ……!?」

 

『──? ひなた、ちゃん? 何故そこに──』

 

 やはり彼女のものであるらしい声がプツリと途切れる。

 見れば竜胆あかねが、スマホの電源を切っていた。

 

 彼女はスマホと一緒に、持っていたエコバックを床に落とし──そのまま何も言わずに駆け出した。

 咄嗟に手を伸ばし、けれど、俺の短い手をすり抜けて、彼女は止まることはない。

 

「オイッ!」

 

 咄嗟に出た声は、狼狽切った無様な声で。

 けれどすれ違いざま、彼女の口は──

 

「ごめん、行ってくる」

 

 それだけ残して、彼女は前を向いた。

 決意と、あるいは何かの激情に突き動かされた彼女は、店の外に踏み出す瞬間に大きく跳んだ。

 

 

「《変身(アマド)》ッ!!」

 

 

 刹那、彼女の胸元から赤色の光が溢れ出す。

 一瞬で彼女の身体を染め上げたそれが晴れたときには──彼女は、ただの少女ではなくなっていた。

 

 その髪は炎のように紅く輝き。

 ジャケットを羽織っていた身体は、動きやすいスポーツウェアを基調としたモノへと塗り替えられ。

 炎のごときオーラをまとい、彼女は空を鋭く睨んだ。

 

「いくぞ、サラマンダーッ!!」

 

『QUAッ!』

 

 脇に蜥蜴じみた炎を従え、分厚いガントレットを打ち鳴らした彼女は、地面を蹴って何メートルも跳ね上がる。

 俺が店先に走った頃には、彼女は吹き抜けを通じて上へ上へと駆け登っていき──そのまま姿が見えなくなる。

 

 俺が呆然としている間に、周囲の喧騒はにわかに大きくなっていく。

 

「魔法少女だ」「レッドパッション? レッドパッションだよな!?」「すげ、魔法少女初めてみた」「吹き抜けで上まで行ってたぞ」「俺ニュースで見たことある」「一瞬だけどヘソ見えてたよね?」「早く逃げよーぜ」「最上階に出たんだって!」「魔法少女がいるなら大丈夫だろ」

 

 民衆の声、──無責任な声。

 先ほどまで悲鳴をあげていた彼らは、“魔法少女が来ている”という一点で落ち着きを取り戻していた。

 彼女たちに任せれば安心だ、と──おそらくはメディアで見ている通りに。

 

 彼女らも同じ人間なのだと、認識しないままで。

 

 それを責めることはできない。

 俺だって、もしもそのような事態になったら──ほんの少し前までは、そう考えていただろうから。

 

「……は、あ?」

 

 だからこそ、俺の胸中に満ちるものは、彼らに言わせれば蛮勇でしかないのだろう。

 

「……ッ!」

 

 エコバックを抱え、呆然としている店主のもとに走る。

 

「すみません、これ預かっててもらえますか!?」

 

「えっ、ちょっとっ!」

 

 有無を言わさず押し付けて身を翻し、吹き抜けを睨みつける。

 俺にはあんな芸当はできない。追いつけるか? 追いつくとしたらどんな方法がいい? エレベーター、は止まるかもしれない。階段だ。人で溢れているかもしれないが別の階に留まる人もいるだろうしここまで流れてくる間に人は少なくなる、そこを通っていけば──よし。

 

 進路を定めて走り出そうと脚に力を込めた瞬間、頭に何かがぶつかった。

 無意識に何かをキャッチして──それが何かわかった瞬間、花屋の店主に振り返る。

 

「店主さん」「ひなたちゃん」

 

 カウンターに乗り出した彼女は、毅然と俺を見つめている。

 

「頼むわよ」

 

 ただ一言。

 ただそれだけで十分だった。

 

「……おうッ!」

 

 俺は地面を蹴って、全速力で駆け出した。

 目指すは階段、それを登ってさらに上へ。

 

 手すりに手をかけ、覚束ない身体を支えながら階段を走り抜ける。

 

「待ちなさいッ君」「今小さいのが上に行ってたぞ!?」

 

「うるせェ」

 

「上は立ち入り禁止だ!」「やめなさいっ!」

 

「うるせェ!」

 

 ああまったく、常識というのは本当にありがたい。だがこの状況では邪魔なだけだ。

 こんな俺でも心配してくれる優しい人たちの手をすり抜けて、竜胆あかねが数十秒で超えた道を何分も費やして登っていく。

 

「ああっクソ、こういうの、俺の、得意分野じゃ、ねェ……んだよッ!」

 

 荒げる息を、張り裂けそうな胸を抱いて、ジンジンと痛む脚をさらに上へと振り上げる。

 

 前の俺なら、もっと慎重に動いていた。

 激情になど突き動かされてはいけないと、鉄の仮面で心を完全に殺していた。

 目的を、復讐を果たすために、俺の心を隠し通していたのだ。

 

 

 だから今みたいに、心が先行することなんて一度もなかった。

 目的も定かではないのに、走り出すことなんて一度もなかった。

 ──けれど、不思議と後悔はない。

 

「は、ァあっ……! あ、ぐ、ァッ……! も、っと、早くッ!!」

 

 立ち止まり、ひゅうひゅうと息を吐き、走り、こけて、擦り傷を作って、無視して、走って、さらに上へと、走って、走って、走って!!

 

──“どうして走る?”

 

 誰かが脳裏でそう言った。

 

 知るか。「っ」

 声すら出ない。「ァっ」

 そんなもの今はどうでもいい。「ァあっ!」

 

 今はただ、その激情に身を任せよう。

 理由を考えるのは、「まだ、後で、いぃっ……!!」

 

「ァ、アアアアアアアアッ!!」

 

 

 ──無様な永遠を走り抜け、四階へ。

 もはや人影はなく、近づいてくる音もない。

 

 ……響いているはずの、戦っているはずの、音も、ない。

 

 ぼやける視界で彼女を探す。

 

「どこだっ」

 

 耳鳴りすらする俺の鼓膜は、何も音を捉えない。

 

 ただの静寂。

 何もない。

 

 ゆえに、その不安が膨れ上がり──そして。

 

 

 

 

『あラぁ? お友達、ですかァ?』

 

 

 

「……ァ」

 

 いた。

 

 彼女がいた。

 

 倒れていた。

 

 彼女は、

 

 

「ぁ、ひな、た……?」

 

 

 彼女は、巨大な獣の死体に──埋もれるように。

 

 血を流し。

 

 ところどころ、欠けた姿で。

 

 

「ッ、あかねぇえ────ッ!!!」

 

 

 倒れていた。




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