死者の書
かの人の眠りは、しずかに醒めていった。
真っ黒い夜のなかに、さらに冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、不意に覚えたのである。
した した した。
耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇のなかで、おのずと睫毛と睫毛とが離れてくる。膝が、ひじが、おもむろに埋もれていた感覚をとり戻してくるらしい―――そうして、なお深い闇。伸ばすことのかなわない手足、ぱっちりと開けられやしない瞳。取り戻した感覚は却って、不自由だった。かの人は、まずのしかかる黒い巌の天井を意識した。寒い。寒い。荒石の壁はいつから、氷になってしまったのか。したしたとつたう雫の音が、闇を揺らしてやがて取り憑いていく。此処には炎がない――――どうして?悲しいほど時がたった―――眠りの深さが、はじめて頭に浮んでくる。長い眠りであった。けれどもまた、浅い夢ばかりを見続けていた気がする。うつらうつら思っていた考えが、現実に繋って、ありありと、目に沁みついているようである。
ああ母上、父上さま。
甦った語が、彼の人の記憶を、更に弾力あるものに、響き返した。
節子。ああそれからそれから、唇には乗せきれない、我が世界の人々よ。
俺はまだずっと…想っている。俺はきのう、ここに来たのではない。それも、おとといや、そのさきの日に、ここに眠りこけたのでは、決してないのだ。俺は、もっともっと長く寝ていた。でも、俺はまだ、本願を念じ続けていたぞ。成就してみせる。ここに来る前から―――ここに寝ても―――そこから覚めた今まで、ひと続きに、ひとつ事を考えつめているのだ。
これからだ。まだまだこれからだ。かの人は、むくっと起きあがろうとした。だが、息をしぼって腕を突きのばした途端に、筋々が切れるほどの痛みを感じた。骨の節々のくじけるような、疼きを覚えた。―――そのくらいでなんだ。かの人はじっと、じっとして正面を睨んだ。
模糊とした闇。
俺の目が利かないだけかもな。本当は、ここは明るいのかもしれない。血が瞳を覆ったときの視界に、よく似ていると気がついた。深い、凝結した記憶。それが次第によみがえって、過ぎた日の様々なことどもを、短い連想の紐に貫いていく。そうして確かな意思が、かの人の死枯れたからだに、再び立ち直ってきた。
「いのちが宿った」と人は云うだろう。
するとかの人は、内から突き動かされるように五臓六腑をひねり、咆哮をあげた。猿叫―――染みついた習慣であった。今、闘う意志であった。血を拭わんともがく腕。思うようには動かないくらいで、みすみす首を獲らせたことなんかなかった。その霊魂はただ、もがき続けた。だがまあ客観的にはそれは、ある赤子が産声をあげて、もみじよりも小さな手をうようよと動かすさまに見えた。
「 よかった! 」
ある男が、破顔してその赤子を抱きあげた。
「 ほらほら、なんて元気な男の子なんでしょう! 」
雲の切れ間から月が覗いて、鮮やかにすべてを輝かせた。白々と照らされてますます、赤子はなんとか目を開けようとした。手のひらに収まってしまうほどの大きさで、首を支えてもらわなくては息もできない身体なのに。
かの人は、それでもわかっていた。誰かが、何かをこちらに話しかけ続けていることを――――何を言われているやらしばらくわからなかったが、やがてその声というのが、英語だと気づいて度肝を抜かれた。
( 何故!?なぜ英語!? )
それからは怖くてならなかった。そして、なぜ英語が聞こえるんだかわかったのは、その夜から三か月ほども経った頃だった。赤ん坊の身体も、その頃にはようやく目が利くようになってきて、それまでは光と闇の塩梅しかわからなかった視界が、薄い氷の膜のように透けてきて、物のたたずまいを、幾分おぼろながら、それなりに見わけることが出来るようになってきたのである。相変わらず舌は回らなくて、手足の動かし方を日々覚えては忘れるといった調子で。てんで自力でまともに動けないままに、かの人は、自分の状態よりもまず先に、自分を世話しているのは、天邪鬼を踏み潰すお仁王さまほども大きな白人であることに気づいた。薄々そんな気はしていたが、改めて見ると「ヒィッ」と震えが走った。それをきっかけにしゃっくりが止まらなくなり、錯乱して泣いてしまい、体力を使い果たして寝てしまった。だが、そんなのは赤ん坊にはよくあることだ。にこにこと親はそんな彼を抱いてあやした。そんな調子で半年が過ぎ、一年が過ぎた。
( いや~人生なにがあるかわからんな )
その頃には、かの人は大概諦観とも達観ともつかぬ境地に達していた。ただ毎日、暇を持て余しては同じ答えなき問いに溜め息をつくのみ。俺は、元はといえば普通の大学生だったはずなのに、どうしてまたこんなところで赤ん坊生活をしているんだろう、と…。
かの人は、純日本人だったが、一度死んだあとどういうわけか欧米の家庭に転生したのである。それも摩訶不思議な、「まとも」とか「常識」とかには縁のない、毎日おかしな出来事が起きる、どこか神秘的な家に。その家は、曲がりくねった石畳の通り二本が交差するどんづまりにあって、玄関らしい玄関がなく、小さな店を備えていた。何千という細長い箱を天井近くまで積み上げている、狭くて静かな、魔法の杖の店だった。そこは母親のいない家で、昼も夜もたびたびフクロウが飛んで入ってきて、鍋やスプーンがよく踊り、暖炉の火が笑った。椅子が囁きかけてきて、額縁のなかの写真が動き、いつでも高潔な木の匂いがしていた。父親は杖職人だったが、家にはもっと上がいた。枯れ木のような老人が、師匠にして家長として、いかめしい看板を背負っていた。
オリバンダーの店―――紀元前382年創業高級杖メーカー
名前の重みに反して、その文字のほうは目立たない。はがれかかった金色の文字で扉に、何の工夫もなく書いてあるだけだ。かの人が父に抱かれて初めて外に出てその看板を見たとき、空には流星が降り注いでいた。
誰のことであろうか。両親は死んだけれど、子供だけは生き残った。孤児院にやるのは忍びない。どうにかできないかという話を、近所の大人たちが集まってしていて。
かの人はその子供を見た。
生き残った男の子は名前を、フローリアン・フォーテスキューといった。
■主人公一人称視点。主人公が転生前に最後に読んだ小説は、折口信夫の『死者之書』でした。かの人は読んでいた小説の世界に、主人公の立場で来たのです。冒頭四文「かの人の~とり戻してくるらしい」と「かの人~氷になってしまったのか」のくだりは『死者之書』原文ママ。他は省略しつつ引用し、「炎」「本願成就」の要素を足してあります。「いのちが宿ったと人は~」以降がオリジナルです。気づいていただけるよう、露骨に文体を変えています。
■「かの人」…元ネタでは亡霊と化した大津王子
■「いのちが宿ったと人は~」以前の『死者の書』の省略部分は、大津王子のうけた埋葬の形式ならではの部分です。本来は勝手に省略したくないが、省略しておかないと主人公は古代の衣を着せられていたことになってしまう。省略しなくて済んだ部分は、水を感じる、闇を感じる、寒がる、父母を思う、昔を思い出す、自分の念じたことを思い出す、など。
■「荒石の壁」…元ネタでは古墳の石室。つまり主人公は大津王子同様、石室のようなところで眠りにつき、石室のようなところでいま目覚めました。
■「節子」…元ネタでは耳面刀自という女性。大津王子の妃。
■『死者之書』は壬申の乱で非業の死を遂げた大津王子の怨霊が、約80年の時を越えて死者の領域から彷徨い出て、本来出会うはずのなかった中将姫と出会い、尊いほとけびとに姿を重ねてもらいその姿を曼荼羅に織り上げてもらえたことで、魂が安らぎ姫と浄土にいけたという話です。約80年の時を越えて、主人公は現代に彷徨い出てきました。やがて中将姫に出会い曼荼羅の中心となります。この話は現代の『死者之書』です。