これは、オリーブの樹に選ばれた者の物語である。
人は誰しも、みずからの物語の始まりを感知できたりはしない。
「 ―――どうして僕なんですか? 」
怯む思いもあったがガラハッドは、ただ何より純粋に、それがわからなくて、質問した。
「 今いただいた説明によると、精霊の声を聞くのは生徒である必要がないように思えます。ましてや僕みたいな下級生が。何故先生がたが行かれないのですか? 」
「 それはのう 」
柔らかい笑みでダンブルドアが言った。
小さな声なのに、どこまでも響いていくかのような不思議さがあった。
いつもの校長先生の姿に、ガラハッドは少なからずホッとしていた。
「 儂らのような老い先短い者は、未来のことについて聞いたって仕方ないからじゃよ、ほっほ!こういうのは、より若い者が聞くほうがよい 」
「 あなたがオリーブ杖遣いだからですよ 」
痛みを堪えるような顔で、重ねてマクゴナガルが言った。
「 オリバンダー。オリーブの杖に選ばれたからには、さぞつらいことがあったのでしょう。けれど、どうか真っすぐに。あなたは、五十年後百年後の英国の魔女と魔法使いに欠かせない、ただ一本のオリーブの若木なのですから 」
「 …? いや別に、この杖に選ばれて困ったことなんか、全然ありませんよ。つらいことなんか本当に、生まれてからこのかたありません 」
苦笑してガラハッドは首を傾げた。
つまり今回俺は、年齢そして家柄で選ばれたということなのだろうか?
五十年後百年後のくだりについては、プレッシャーだけど、まあ生憎そういうもんだよなと思っていた。
ホグワーツに入学してわかったのだ。
前の世界と比べて――――この世界は、驚くほどとても小さい。
この世界のイギリスに、学校らしいものはたった一つ。
キングスクロス駅9と3/4番線から出る、ホグワーツに向かう汽車はたった一本。
同寮同性の生徒は、だいたいどこも18人くらいで。
七学年もあるのに、全校生徒はたったの1000人ほど。
その子たちのほとんどが、ギャリック・オリバンダーの杖を携えている。
年に200本も売らないから、小さな商店だと思っていたのに。
ガラハッドの育ったオリバンダー杖店は、ほとんどすべての魔女と魔法使いを杖とつがわせていた。
すっかり騙されていた。「魔法使いであるからには、杖の一本くらい自前で作れにゃあ」が師匠ギャリックの口癖なのだけれども、実際は、今時杖を自作する魔法使いなんてそうそういない。
逆に言うと多くの魔法使いは、自力では調達できないものに頼って魔法を使っているわけで。なんだよそれ大丈夫なのかよと、それに気づいたときガラハッドは、杖屋の跡継ぎとして少々呆れた。
けれども考えてみたら、自分だって筆記具屋がなくなったら勘定一つまともにつけられないし、仕立て屋がなくなったら、うかうかと外には出られない。
そういう天下の支えあいが、目に見えてよくわかるのが、小さな世の中の良いところだと思うのだ。
ガラハッドは、住人たちが“魔法界”と呼んでいるこの中世風の異世界を、いつの頃からか心底気に入っていた。
だからいずれ自分がオリバンダーの家業を継いで、この世の中の役に立てるならとても嬉しい。
世にいてもいなくても変わらない僧侶なんかより、ずっといい道を授かったと思う。
「 さあどうぞ。監督生用のお風呂をお使いなさい―――この時間はまだ誰もいないでしょう 」
「 あ、はい 」
「 これに着替えなさい 」
「 はあ 」
「 彼女はシビル。こういったことの作法に詳しいのですよ 」
母親のようにマクゴナガルは微笑んだ。
彼女がハンドベルを鳴らしてよんだ人物は、金ぴかのトンボのようで、突けば倒れそうで、今にも折れそうな手つきや首をしているので、ガラハッドは付き添われて逆に気を使った。
怪しい女だったので、まさか頭から洗えとか足から洗えとか、風呂のなかのことまで口を出してくるわけじゃないだろうなと思って警戒した。
ところがガラハッドが耳にしたシビル先生の声は、マクゴナガル先生に言われた通りの準備が全部終わったあとに放たれた、「行っておいでなさい」という消え入りそうな一言だけだった。
何のためについてきたのかわからない女と別れて、ガラハッドはひとりで西塔の裏口から出た。
時は五月。微かに淡く春の匂いがして、夜風は闇に蕩けて澄んでいった。
芽吹いたばかりの芝生は柔らかくて、天を、星が動いていく音が耳の奥に聞こえそうなほど静かだった。
誰にも見送られないで夜闇を歩みだすと、ガラハッドは、足元を照らす灯りが却って疎ましくなった。
明かりなんかなくたって、わかることがある。
湿った落ち葉の匂いに、ささやかな枝ずれ。樹皮や木の芽の噎せかえる気配。
森が近づいている。
ほう、ほう、ほほほと、フクロウたちがどこかで嗤っている――――。
禁じられた森は、昼間でも鬱蒼としているから、地に陽が射さず厄介な低木の類いは育っていない筈である。ヘンゼルとグレーテルの迷い込んだ森が、鉈がないと入れない藪だなんて変だろう。野薔薇たちがクスクス笑ってと再び道を閉ざしたとき、ガラハッドは持たされていたランタンの灯を消した。歩き始めた場所は、ふかふかとした苔に覆われていた。
( こんな火なんか焚いていたら――― )
襲われる。密林には敵が潜む。そんなわけないのにそう思えてしかたがない。
気分が悪いような、目が冴えてたまらないような。
不快な高揚感のもとでガラハッドは、さきほど抱いた冒険心を後悔していた。
予言の月というものがあるらしい。
よくわからないけど、森に行けるなんてめったにない機会だし、面白そうだから引き受けようと思ったのは大間違いだ。
一歩進むごとにガラハッドは、今宵紫銀の霧に憑かれていくのだった。
( 銃剣が欲しいな――――いやいや、今は杖があるじゃないか。クソッなんで思い出すんだ。戦地とは全然似てないのに! )
ガラハッドは息をひそめた。
禁じられた森の地形は存外複雑で起伏が激しいけれど、暗闇のなか瞳を銀に光らせて、身を屈めて苔のうえを選んで踏み、音を消しながら進んだ。
夜露で靴が湿るのなんか、気にするわけがなかった。知恵を持った獣が、魔法の森の底を這っていった。
「一晩探すことになるかもしれない」と、ダンブルドア校長からは言われていた。
けれど、ガラハッドの目当てのものは、あるときいきなり倒木の向こうに現れた。
煌々と月が勢いを増して、生い茂るオークの木立を縫い、白い矢を射るように地に月光を届けたときだった。
小さな泉が、銀を焼き溶かして湛えるように光っていた。
( あれか…! )
いかにも普通の泉ではない。
立ち込める靄をくぐって見ると、その泉は今度は死んだように青く見えた。
思ったより深いような気がするけども、硫化銅みたいな鮮やかさで、こんな泉には生き物がいそうにない。
目以外の部分は目玉の付属品だ。ガラハッドは、強く惹きつけられてじっと泉を見つめた。
泉は、小さな渦をいくつもつくっていた。
渦は気まぐれに形を変えていくから、月光はちらちら暇そうにそのうえでぼやけて光っていた。
湧いているにしては変だと思って、ガラハッドは特にこぽこぽと噴き出しているところを、しゃがみこんで指を伸ばしてつんと触った。
非常に冷たかったが、それよりも不思議なことが起こった。
ぴたりと流れという流れを消して、水面が鏡みたいになったのだ。
すっかり観察実験気分で、「へえ」という感じでそれを見たガラハッドは、足元の影の形に気づくや否や、湯に落ちた猫みたいに飛び上がった。
潰れかけた干し棗の実みたいな、ひしゃげた顔と赤黒く弛む肌。
ガリガリに痩せこけて、唇はもはや存在せず、頬骨がつきだし眼ばかりがギョロギョロしている顔。
片方の眼球は破けて、蛆虫がたかっていて――――おそろしい姿をした者が、食い入るような姿勢でガラハッドを見据えていた。
「 うわああああ!? 」
飛び下がって尻餅をついた。
勢いあまって、ガラハッドは木に背中をぶつけた。
泉はまだそこで輝いていた。
「 いたたたた…え、嘘だろ?マーマン?マーマンってもっとこう…。…ッ!? 」
嫌な予感が胸を突いた。
本当に突かれたような心地がして、ガラハッドは胸を抑えた。
今の化け物は――――咄嗟に目鼻立ちばかりに意識がいったが、朽ちかけた衣服のようなものを、身に付けていなかったか?
矢も盾もなく這って再び水面を見ると、思い描いたとおりの徽章が、肩口のところにまだ残っていた。
「 ヒィッ 」
震え上がっても目は逸らせない。
これは、俺だ。
これは兵隊の服の残骸だ。
悲鳴にもならない声が腹から突き上げてきて、背を揺らし腕を震い鉄砲水のように涙が溢れ出してきた。
涙が、粒となって月光を受けてまたたいて泉に消えた。
かなしい。かなしい。
俺は、最期にはこんな姿だったのか。
刹那光とも闇とも言えぬものが全身を焼いて、俺は消えてしまった。
熱かった。苦しかった。
水をくれ。いいや水は要らない。ああ街が熔ける。ふるさとが消える。
みんなこうやって焼けたのか。みんなこうやって消えたのか。
俺は、自分が時間をかけて壕で蒸し焼きにされたのを、初めて、幸せだったのだと知った。
祈る時間があった――――俺は、最期には家族を思い出して、せめて火の清浄を信じたのだ。
南模十方一切諸仏 南模諸大菩薩摩訶薩 南模声聞縁覚一切賢聖 ナモ アラタナ トラヤーヤー タニャタ クンテイ クンテイ クシャレイ クシャレイ イチリ ミチリ ソワカ。
そう唱えて護摩を焚く父の背中。手を合わす母の背中。
あの炎に焼かれるのだから怖くないと、そう思うことにしたから。
くべられる護摩木に、俺はなろうと思った。
ガラハッドは泉に落ちていた。肌を刺す温度の冷水が、少年の身体から熱を奪っていた。
俺は今、“戻る”のだろうか?どこへ?ふるさとはもう無いのに。
宇宙は直線じゃない。
誰しも、来た道は戻れない。
突然ガラハッドの肉体に、割れ鐘のような声が響いてきた。
『 闇の帝王が復活する 』
「 !? ぐはッ、ゲホゲホがふっ! 」
『 降下する鷲と飛翔する鷲が銀河を渡りあい、地に炎を齎す 』
「 ハァ、ハァ 」
『 葡萄樹の実るとき、次の帝王はお前だ 』
「 うぇっ、うぇ、ゴフッ―――ッハァ!?知るかよ…!嫌だ嫌だもう嫌だ!!! 」
この夜のことを本人は知らない。
否、正しくは自ら望んで忘れた。
明けがた泉のほとりへと大人たちが来たとき、セブルス・スネイプに助け起こされたガラハッド・オリバンダーは、泣いて錯乱してこう叫んだのだ。
「 なんで来させた!?俺は、俺は火に消える。あんな姿見たくなかった!!!燃やせよ、忘れさせて 」
「 ――――よかろう 」
答えたのはアルバス・ダンブルドアだった。
「 斯くも不吉な声がくだるとは。このことは、魔法省神秘部が管理するのがよい 」
斯くして、少年は記憶を消された。
それから約一ヶ月後のこと。
ガラハッド・オリバンダーはすこぶる快適に学校生活をすごし、第一学年を修了した。
この一年でどの子も成長したと見えて、定期試験の時期のホグワーツは、粛々としたものだった。
ガラハッドにとっては、入学式入場前の整列からたかがおでき治療薬づくりに至るまで、何をするにも騒ぎになっていた一年前が、随分遠く思えて懐かしい。元より大人である自分のほうは、子供たちほどには成長できていない気がするので、今後も精進せねばなあなどと密かに考えている。
ホグスミード駅のホームにて、今日もまたグリフィンドールの悪ガキに、いやに語呂よくキザっぽく名前の古臭さを煽られた。
「 奇人変人大天才♪円卓の騎士ガラハッド♪ 」
ガラハッドは敢えてにっこりと笑って、手を振ってやった。
燃えるような赤毛が二つ、面白くなさそうに顔を見合わせて汽車に駆け込んでいった。
「 やりますねえ 」
久しぶりに聞く声が、後ろの高いところから降ってきた。
「 フローリアン!卒業おめでとう! 」
「 ありがとう!―――いやだな、じっくり見ないでくれよ 」
彼の鼻は赤かった。きっと少し泣いたのだろう。ガラハッドは、近くにトンクスがいないことを不思議に思った。それに、チャーリーもだ。
「 君、いいのか。卒業生どうしで乗らなくて 」
クリスマス休暇のときに見ていた。 オリバンダーの店の向かいの家は、フローリアンの在学中ずっと無人であり続けた。だが今年のクリスマスの時点で、彼の家は売りに出されている気配がなかった。
みなしごの彼は、家を売った資金を元手にすればどこにでも行けるだろうに。
くしゃくしゃに笑いながらフローリアンは言った。
「 いいんだ。自分で決めたことだから 」
「 …そう 」
「 さあ帰ろう、僕らのダイアゴン横丁へ 」
僕も店を開こうと思うんだと、フローリアン・フォーテスキューは笑った。
【fin】
■変換の都合で正しい字ばかりではないのですが、前世の主人公の父が唱えているのは「金光明経」の一部です。戦時の密教僧として、鎮護国家を誓願していたとわかります。密教のテーゼは大きく二つ、鎮護国家と即身成仏かと。
■予言の月は「水に映った月」であり「月の映った水」である精霊(ジン)です。ジンですから、元は砂漠のオアシスに現れました。イスラム教普及以前のアラビアで崇拝されていたものが、魔術と呼ばれるようになって消えていき、ホグワーツの森の奥にだけひっそり残っているということで。「降下する鷲」はアラビア語で「アンナッスルワーキ」で、これは「ベガ」あるいは「織女星」のこと。これと対応する星は世界中で共通。「葡萄樹の実る地」はイスラムでは極楽を示しています。「葡萄樹の実る月」は、ケルトでは8月のことです。他にもいろいろ…神託は古来読み方自由です。