その翌朝のことだった。
まばゆい陽光が梯子のように差し込んで、光が織りなす幾何学模様で、群青色のカーペットは大広間の天井よりも美しくなった。
初夏の校庭を見渡せる窓辺でガラハッドは、もう一人のなかなか返信を寄越さない相手からも、ようやく一通の手紙を受け取った。
――――やっと覚悟してくれたか。
それは、ハーマイオニー・グレンジャーからの手紙だった。
彼女は、走り書きのような汚い字で「図書室で会いましょう」とだけ書いて寄越した。それで構わなかった。詳しくは会って話せばいいんだから。
出かける準備をしたガラハッドが明るいところで見おろすと、机のうえの日記はひどくみすぼらしく、つまらないもののように見えた。
表紙まで紙で出来ている、携帯時刻表みたいな日記帳。きっととても安いもので、新聞屋の広告が印字されている――――年間契約の付録だったのかもしれない。
それを眺めるうちにガラハッドは、昨夜のことは全部夢だったかのように思えてきた。
あんな綺麗な子が、こんな帳面を使ったなんてな。
元々は、これに何を書いていたんだろう?
昨夜の様子からみると、ダンブルドアに対する愚痴とかかな?
ガラハッドは夢想した。それは、割り切った娯楽としての夢想だった。
昨夜は正直嬉しかったけれど、ガラハッドは別に、今はいいおとなであるリドル氏を、“アンチ・ダンブルドア同志”として本気で慕おうなんてことは、実際問題毛ほども思っていない。ダンブルドアのことは、生徒という立場で彼の人格者ぶりや実力を知っているぶん、期待感あまって百倍文句を言いたくなるだけで、若い教師だった頃の彼を知っている、かつてのリドル氏もそうだったんだと思う。
ふつう人間っていつまでも、10代の頃と同じ対象に反発心を抱いたりはしない。
それはそうとして、この日記にはもともと「ばーか。ダンブルドア、禿げろ」とか書いてあったなら、とってもとっても愉快なのにな。
ガラハッドは積み上げたカードをシャッフルするときみたいに、ひとりで笑いながら日記のページをぺらぺらいわせたあと、ハァと溜め息をついて静かに寮を出た。
今のは、完全に現実逃避。これから自分のするべきことに向けて、ちょっと英気を養っただけだ。
さよならハーマイオニー。葡萄樹は君に栄えよと言っているのに、みずから身を滅ぼしてはいけない。
今日を以てあの子を、あたたかな両親のもとに帰そう。
ハーマイオニー・グレンジャーは図書室でガラハッドを見かけるや否や、書架の隙間から覗いて彼が今ひとりであるかどうかを確めた。この頃は先生の指示によって、すべての生徒が集団行動をしているので、必ず彼にも同寮生の連れがいると踏んだのだ。
ところが彼はひとりだった。彼は悠然とポケットに手をつっこんだまま歩いて、自分が目立つ存在であることをわきまえた顔をしていた。
ハーマイオニーのほうには、パーシー、ジニーという連れがいて、このときちょうど反対側の棚を見ていた。ハーマイオニーは、ムササビのように三つか四つの本棚を渡り、すばやく目的の人物に追いついた。いきなり後ろからとびついてきたハーマイオニーに、ガラハッドはびくんと飛び上がった。けれども、ここで奇声をあげる人物ではなかった。
「 おいで 」
優しい声で彼は言った。ばさりとローブを広げて、その内側からハーマイオニーに杖を向けた。
「 ――――!? 」
あっと叫ぶ間もなくハーマイオニーは、小さな小さな姿へと変えられてしまった。小さいころに遊んだ、着せかえ人形みたいなサイズだった。
「 おっと落としちゃった 」
ガラハッドは床に手帳を放った。
「 キャ~~~~!!!? 」
ガラハッドは、手帳を拾うついでにそれでハーマイオニーを掬いあげ、はたから見ると実に自然なふるまいをした。
だが、ハーマイオニーにとってこれは恐怖だった。
2トントラックよりも大きいビルみたいなものが、頭上に暗いかげを落としてズシィンと近くに落ち、塵を舞いあげて煙らせたのだ。手帳で掬いあげられるのも大変なことで、尋常でない横揺れは地震と同じだ。
「 いや~~~!なんてことするのッッッ 」
「 気に入らない?良いアイデアだと思ったんだけどな 」
ニヤッとしてガラハッドは言った。彼は皆目、悪びれている様子がなかった。
ささっと周囲に目を光らせ、ガラハッドは今度はぶつぶつと長い呪文を唱えた。元に戻すわけではなく、変身につぐ変身をさせようとしているから長いのである。
わからないわけがないハーマイオニーだったが、すでに小さいので、無力だった。
ぽんっという音と同時に、今度はドラムのスティックに枝葉がつくほどの木の枝にされてしまった。
「 」
あわれハーマイオニーが足をなくして床に落ちる前に、黒いローブを翻してガラハッドはそのまま鳥になった。鷲の姿で小枝を掴み、スイーッと図書室を飛び出して窓から出て、そのまま校庭を飛び越えて禁じられた森へ飛んだ。小枝に口はないけども、ハーマイオニーは、驚くべき旋回と速さ高さに「キャ~~~~~!?」とこのとき、悲鳴をあげているつもりだった。
不思議の国のアリス!?
あ、ちがった、はてしない物語!!!
龍フッフールに乗れる主人公って、実は凄かったんだわ!と―――――。
森のなかへと放っぽりだされると、いつのまにやら姿はちゃんと人間に戻っていた。変身慣れしていないハーマイオニーが呆然としている間に、ガラハッドはふつうに人間の姿に戻っていた。
不思議な森だった。気づいたら森の中にいるなんて、まるでナルニア国みたい。
彼は、「せっかくだからおやつ食べようか」などと言って、天下無双のマイペースぶりで、その場で焚き火を始めていた。夏の始まりのさわやかな森に、パチパチと魔法の炎が煌めいていた。
「 わあ…! 」
ハーマイオニーは、このときの焼きマシュマロの味を、生涯懐かしむことになる。
甘いはずなのに、いやにしょっぱく感じた。ひととき木の枝に変えられてわかったけれど、まったく自力では動けないものと化したって、感じる心はあったし高いところは怖かった。不意に自分は、このあと石にされたら、呪いがとけるときまで意識をなくすわけではなく、何十日という日々を医務室の天井だけ見て過ごすのだとわかって――――まざまざと、怖くなってきていた。
ガラハッドは、そんなハーマイオニーをいつもよりちょっと冷たいような顔で観察して、倒木に腰かけて、足を開き肘をつき、指をくみあわせていた。
「 ここは危険じゃないの? 」
遅ればせにハーマイオニーは周囲を見回した。木々は高くて生茂っているから、昼間といってもここは薄暗い。踏めば沈んでいくような柔らかさの苔は、音という音を吸いこんでいくよう。木の向こうにまた際限なく木があって、いったい、何が出てくるやらわからない――――…。
「 別に。樫の木は優しいよ。僕は、杖つくりの弟子だからな。僕にとっては、ここは安全な場所だ。 」
「 そうみたいね。 」
「 君も、自分にとって安全な場所を選ぶのがいいだろう――――マグル界に帰る気になった? 」
銀色の瞳が、12才の少女を真正面から射竦めた。
ハーマイオニーは、覚悟していたけども咄嗟にすぐには声を出せず、足元に視線を落とし、口をぱくぱくさせた。
「 …あとは私だけだっていうの? 」
「 君の意思を訊いてるんだよ 」
「 私以外にも、ホグワーツにはまだマグル生まれの子はいる? 」
「 どう思う?君には、帰る家があるよな? 」
「 あのね、私あれからずっと考えたわ。ずっと考えてた。だって帰りたくないもの!それでね、さっきついにひらめいたの―――――あのね、私スリザリンの怪物の正体が、わかっちゃった。ねえこれはきっと、あなたたち魔法族には、めいっぱい頭を捻ったって、思い浮かばない案よ。私のこと、マグル界に送り返したら後悔するわよ。本当よ! 」
「 へえ… 」
「 だからね、私以外にもまだマグル生まれの生徒がいるのなら、その子の命をまもるために私のこと、まだホグワーツにいさせるべきなの! 」
「 そう。じゃあ、もう、君が、最後のマグル生まれだと言ったら? 」
「 それは… 」
「 どうなの? 」
「 ―――っ 」
「 君の案って価値がある?連中はもう、隠れてこそこそすることないよ。“継承者の敵”はもうあと一人だけだし、公然と君だけを狙うんじゃないか?今度は、石化で止めておく必要はない。“仕上げ”なんだから、センセーショナルな方法で殺しにかかってくる。 」
「 ~~~ッ 」
「 答えられない?駄目だよ、自分から狭い条件づけなんかして人をゆすったら。君は賢い子だけれど、世の中のことはてんで知らないね。 」
冷たくガラハッドは言った。膝の上のスカートを握りこんでハーマイオニーは、黙りこんでいた。同級生のなかでは口が立つほうだけど、彼には言い返せなかった。
「 夢の国だと思ってた? 」
ガラハッドはため息を噛み殺した。
ハーマイオニーは、いまやぽろぽろと泣き始めていたからだ。
「 ここも現実の世界だよ 」
難しいこと、残酷なこと、いっぱいある。大人になりたくなくて魔法を選んだのなら、少女の冒険はいま終わりどきだ。―――これ以上いては常世の者になる。
ガラハッドは、彼女がゴーストになって永遠に魔女を目指す姿を、想像したこともある。
「 イヤよ。…イヤ、イヤ! 」
何度もハーマイオニーは首を振った。
両手を顔にやって、俯いて泣く姿はまるで“嘆きのマートル”みたいだけれども、泣き方まで彼女はどこか腕白である。すすり泣きというよりも、癇癪を起していた。彼女は、もしもアリス・リデルだったら海をつくることくらいはしただろう。ドードー鳥もびっくりである。
ガラハッドは、ハーマイオニーが少し落ち着くのを待って、淡々とした口調で説得を続けた。
「 ホグワーツではなハーマイオニー。約50年前にもこういうことがあった。 」
「 ええ知ってるわ。だから何なの?私は帰りません。帰りませんったら! 」
「 つまり、どういうことか考えてごらん――――今いる対象者をみんな潰したって、マグル界から魔女と魔法使いは、これからも必ず生まれる。みなしごだってそうだ。いつの時代にだって、必ず一定存在するんだ。だから必ず、ホグワーツでは再び今年と同じことが起きるよ。サラザール・スリザリンが他の創設者と直接の対立を避けて、秘密の部屋をつくったときから、こういうことが繰り返されることは定まっている。魔法省の対応から察しがつくだろう?残念ながら今年を乗りきっても、無事に君がおとなになれても、制度じゃなくても、習慣とか雰囲気とか―――“魔法界で君を襲うものたち”は、失くならないだろうな。 」
「 ――――ッ! 」
「 ここは良いところじゃないよ 」
「 そんなことないわ!ねえどうして?オリバンダーの店は、私にも杖をくれたじゃない。あなたたちが漏れ鍋や駅にちょっと細工したら、私なんか、最初からこの世には本当に魔法があったこと、知らないままだったのよ。でも、私はもう魔女ですから!私、この杖を没収されて、この世にはちゃんと魔法があったってこと、思い出せなくされちゃうなんて絶対に嫌。そりゃあいつだって、いろんな人がいるし嫌なこともあると思うわ。けれど――――どのみち、スリザリンの怪物を倒して、二度と人を襲えなくしたらいいことでしょ?パパが言ってたじゃない!紛争はなくならなくても、とてつもない兵器がなくなるだけで、ずっと状況は良くなるって… 」
ずずず…とみっともなく、ハーマイオニーは洟を啜った。めしょめしょに泣いてごねまくりながら、足をじたばたさせて枯れ葉を舞い散らした。
「 スリザリンの怪物はバジリスクよ!ひっく、うえぇ、倒してよ、あいつ、配管のなかから私を狙ってるの! 」
「 え…なに?配管? 」
「 配管よ配管!パパが言ってたでしょ!?どうしてわかんないの?ガラハッドの馬鹿!!! 」
「 ああ―――…え? 」
ガラハッドは息をすることを忘れた。最初の自分での宣言通り、ハーマイオニー・グレンジャーは「さすがのマグル界育ち」だった。
「 !??? 」
バジリスク――――バジリスクってあの毒蛇の王!? 配管ってふつう道なんかじゃないけれども、蛇であればそれを移動に使えるわけか!たちまち理解だけは一応したものの、本当に、ガラハッドにまったく、 そ の 発 想 は な か っ た 。
だって日頃「アグアメンティ!」と唱えればどこでも水が湧き出し、「スコージファイ!」と唱えればいろんな状態がなんとかなる世界にもう10年以上浸っていて、浄水の確保とか汚水の処理がどうとか、そんなのマグル界だけの問題だと思っていて――――…まさしく、目が点であった。た、たしかに事件現場は水回りに近い廊下という点で共通していて、そういうところには、配水管もしくは排水管がある。
「 え、でも、でもそれじゃあスリザリンの継承者は、バジリスクに通じる蛇語が話せる人物じゃないといけない。それって、一人しかいないよな!? 」
ガラハッドは口ごもった。その人物が誰であるかというのは、ハーマイオニーには痛いほどわかっているはずだ。泣きすぎて頭痛と吐き気を催しているらしいそぶりで、ハーマイオニーは力なくすすり泣いていた。
「嘘だろ」と思って、ガラハッドは白い天を仰ぎ見た。
「 私信じてるわ 」
弱々しくハーマイオニーは言った。
「 信じてるの。ハリーは違うわよ。ちょ、直接…ひっく、確かめられなかったけれど、言えなかったけど、信じてるわよ。友達だもの。 」
「 なあ、なあ、待って?なんでホグワーツって、風呂トイレに関してはマグル式なんだ!? 」
ガラハッドは上を見たままだった。素っ頓狂な声をあげて、まったく違うことを考えていた。リドルは、どうやって秘密の部屋に辿り着いたんだろうか!?彼がいた時代の校舎は、今とは構造が違ったとでもいうのだろうか――――そうでないと到底辿り着けないじゃないか!たった一つの可能性、「彼もまた蛇語ができ、それが配管を通らないとみつけられない場所にあったとしても、バジリスクから秘密の部屋の場所を教えてもらえる」という可能性を排除しない限り――――!!!
「 ハーマイオニー!ホグワーツのトイレって、君の目から見るといつごろのものに見える?僕は“水洗トイレ”って、すっかり魔法だと思ってた!!! 」
「 え…?さあ。さあ、わからないけれど。便座が陶器だし―――ずいぶん古いんじゃない?私あれは“こちら”で初めて見たわ。詳しくは知らないけど、マグル界では便座って、ウォシュレットじゃなくてもプラスチックよ。 」
「 待ってウォシュレットって何。ああ、ああ、そうだ潜水艦のトイレは―――! 」
ぐぅっとガラハッドは頭を押さえた。高校の仲間たちとの、秘密の馬鹿話を思い出していた。
俺が生きた時代は、今では“戦前”というらしい。そのころ実はすでに、水洗トイレの技術は編み出されていた。
軍艦においては、便所は水洗式だった。
俺は普通の大学生だったから、実物を見たことがなかっただけ。「内圧計の操作を間違えると、汚物が逆噴射するんだ」「新人は決まって浴びる」とかナントカ。お互いの近況を言いあって、大笑いした仲間はもうみんないないけれど、彼らの、遺した技術自体はすぐそこにあった―――――なんだか、美しくて感動的で夢みたいな話だ!
リドルは、戦後生まれで空襲の被害を知らない。
すっかり復興したロンドンの、ボグゾール通りと名付けられたところで日記帳を買っているから、そうだとわかる。つまり彼が入学したころには、ホグワーツのトイレは、今と同じ姿だったんだろう。
ハリーは犯人ではない。
50年前、そして今年、秘密の部屋を開けていたのは、あのトム・マールヴォロ・リドルだったのだ。
ガラハッドが胸を突かれて息を呑むとき、禁じられた森の木々は、ざわざわと鳴った。
■夢と現実の反転です。「樫の木はやさしいよ」の元ネタは寺山修司の戯曲『血は立ったまま眠っている』と、その元になった短歌「一本の樫の木やさしそのなかに血は立ったまま眠れるものを」。この戯曲はひとりぼっちの少年ふたりが現実から目を背けて、刹那的な結びつきをして無謀な革命を志すというもの。樫の木の英名はオークなので、ケルト樹木信仰界では王者といえます。
■寺山修司の短歌にはさらに元ネタがあり、ポール・エリュアールの「パリは空気もない地下鉄で立ったまま眠っている」です。なので2巻編には地下鉄も登場しています。
■ジョジョ3部に欠かせないのがポルナレフのトイレネタ。鏡のスタンド遣いとの初戦はトイレで。敵陣営からの復讐戦は便座と深く関わっています。