いよいよ明日からホグワーツだという日の午後に、ウィーズリー一家が杖を買いにやってきた。すっかり信用のないロナルド坊っちゃんは、昨年末は大冒険のすえ妹を救ったのに、新学期ギリギリまで杖を買い与えられなかったらしい。在庫品ひしめく棚からギャリックが杖を選んできたとき、手に取って箱を開ける前からロンは「これがいい!」と叫んだ。ギャリックの杖師としての目利きは、ピタリと一発だ。ガラハッドは感嘆で拍手喝采した。
「 おおおおお! 」
「 プルウェットとウィーズリーの子でハリーの親友。以前のは家杖。情報充分ってやつだ。 」
がしりと背後からアラベールに肩を掴まれて、ガラハッドは「うぐぅ」と呻いた。バックヤードから出てきたハリーは、ウィーズリー夫妻の背後でフレッドとジョージに、ガラハッドのほうを見ながらひそひそとやっていた。
「 こ~ってり修行中 」
ジニーは母親の陰に隠れている。物凄く興味がありますという顔で、珍しくパーシーが双子の間に首をつっこんできた。ハリーによるタレコミは続いた。
「 あのガラハッドがげっそり。びっくりだろ? 」
「 マジか。元気爆発博士、きびしいんだな 」
「 ダンスマラソンの話、訊いた? 」
「 聞いた聞いた。凄いよ。マグルのテレビ番組だったんだって 」
「 そ~いつは詳しく聞きたいなあ! 」
「 ねえ、ハリーと遊びに行っていいですか!? 」
「「 日暮れには帰ってきまーす 」」
「「 ずるいぞ! 」」
パーシーとロンが声を揃えて店を飛び出し、「置いてけぼりは酷い」と叫んでジニーまで飛び出していった。やんちゃな子供たちをウィーズリー夫人までが、「んまぁー!?」と叫んで追いかけていった。会計台に立っていたウィーズリー氏は慌てふためき、「いやはやお恥ずかしい」とハンカチで額を拭うばかりだ。その頭は薄くなっているが、残っている毛は燃えるような赤毛だ。
「 本当にお恥ずかしい。ああ、ああ、ノアイユ公の前だっていうのに!ずっとお会いしたかったんですあなたには。お会いできて光栄だ。 」
「 ええウィーズリーさん。私もお会いしたかったですよ、元気な息子さんのお陰で――――非常に良いご趣味をお持ちだと――――幸いにも、知る機会がありましたのでね。どうです、漏れ鍋で一杯? 」
くいくいっとアラベールは手を動かした。その手首を飾るデジタルウォッチにもう、ウィーズリー氏の目は釘付けである。
「 喜んで!!!ああ、まあ、あちらはあちらで、何とかやるでしょう。是非飲みに行きましょう、今から! 」
「 ――――…。 」
アラベールの斜め後ろから一部始終を見上げながら、ああこのおっさん、フレジョの親だなあと納得したガラハッドである。外見のほうはパーシーに似ている気がするが、趣味に全力なのはチャーリーとそっくりだし、この調子の良さはロンっぽくもあるような。
脈拍や歩数を測れる時計談義が、店内からもう始まっていた。アーサーというマグル趣味仲間を得て、アラベールは出掛けていった。少しホッとするような突然放っていかれたような、奇妙な心境でガラハッドは店仕舞いをした。
「 少し息抜きをしろってこったな 」
背中越しにギャリックが、静かな声で語りかけてきた。
「 焦らんでいい。この通りジジイだが、わしゃすぐには死なん――――お前を恨むことは決してない。知識が、お前に躊躇いを与えてしもうたな 」
「 …父さんはそうは思ってないだろうね 」
「 ありゃあ極端だ。自分が生き急いできたんで、万人そういうもんだと思っとる。回っておかんとこける独楽みたいな奴よ。いい加減落ち着きゃあええのに 」
ガラハッドとギャリックは住居部へと戻った。ガラハッドは明日ホグワーツに行く準備をしようかと思ったが、そういうことはハリーが帰ってきてからでいいような気がした。特段飲みたかったわけではないが、手持ち無沙汰でなんとなく紅茶を淹れた。ギャリックはソファにふんぞりかえって、相伴にあずかる気満々だった。
「 父さんが生き急いできたって? 」
参考になる話だろうか?
この夏不出来を痛感してわかった。なんでも、アラベールのように行うことが出来たら、それは良い弟子だということである。彼はギャリックが働き盛りだった頃に、多くの弟子のなかで一番だった者なのだ。
ガラハッドは師ギャリックのために、角砂糖にブランデーを吸わせて燃やしてやった。蒼い火は鬼火のように、ゆらゆらと光って紅茶へと消えていった。
「 そのまんまの意味だ。あいつは、その昔アメリカにいた 」
「 それは知ってる 」
「 あっちで幸せなら欧州に来ちゃいねえ。向こうでは、マグルはノーマジって言ってな 」
うまそうにギャリックは喉を鳴らした。ガラハッドは座って、ゆっくりと話を聞くときの姿勢をとった。ギャリックの話は、大体こういうことであった。
アラベールは――――ちょっと知らない世界なのだが、あれは変人を気取っているわけではなくどうも元々ああいう感じで、中世じみたローブなんか着ずにマグルたちに馴染んでいる、ニューヨークの摩天楼に暮らすタイプの魔法族らしい。彼は金融街でノーマジを搾取する家に生まれて、哀れなノーマジたちが見る夢、ノーマジの思う魔法の世界――――ブロードウェイやハリウッドを楽しむ若者だった。
あるとき彼は家を出て西海岸に行った。時は大恐慌だった。
ダンスマラソン大会というのが催され、24時間、1時間のうち45分は踊り続けながらであれば、参加者は飲み食い自由だった。テレビ局によって多額の賞金が用意されて、餓えたノーマジたちがそれに殺到した。ガラハッドには、そこに集まる人々がどういう者たちかがわかる気がした――――失業者、女中あがり、農家の次男三男…富裕層への悪趣味な見世物だ。
「 マグルだって魔法薬は持ってるよ?“疲労がポン”ってやつをさ 」
「 そいつを超えるクスリをキメて眠らず踊り続けるってのは、どういうもんだと思う?まあ死ぬわな、痩せた妊婦なんてな。あやつは手錠した腕のなかで、踊りながら女殺しちまった。どういう知り合い方をしたんだか知らんが、あやつの企みに乗って一緒に賞金を狙ったのは、そういう娘だったのよ 」
ギャリックは紅茶を飲み干すと、気だるげに鼻を鳴らした。
「 ごまんといるらしいな、“映画産業”とやらには、そういうノーマジ娘が? 」
「 ああ、まあ、親不孝だけど…夢を追っちゃうんだろうね 」
「 ふむ。あやつは、元々親と折り合いが悪い。女優のたまごなんてのは、健気な別嬪に決まってらあな。ちったあ惚れたりなんかして、踊り狂いたい気分だったんだろう。小僧にはそういう頃がある。それがそういうことになって、あやつは、あれで律儀なんでなあ…。ともかくそんでフラメルの弟子になろうってんで、いきおい大西洋を渡ったわけだ。それが良いように転んどるから、いつまで経ってもあれの悪いところは改善されん。あやつは、物事の加減を知らんわな。グレイスの愛しかた然り、お前の愛しかた然り。 」
ガラハッドは言葉を次げない。ギャリックは紅茶を飲みながら、心底可笑しそうに喉を鳴らした。
「 一丁前みたいな顔しやがって。青臭えことしてやがったころから、何にも変わっとらんのになあ?大変だったじゃろうこの夏は!まあ事情がある、許してやれ。奴がせっかちなのは、お前のせいじゃあない。 」
年の功は伊達じゃない。
さてその頃、悪戯双子のフレッドとジョージはハリーを連れて、ダイアゴン横丁で上手に追っ手を撒いていた。ロンまで置いてきてしまったことを申し訳なく思いながら、笑いを噛み殺してハリーは言った。
「 君たちさあ。なんていうか、プロだよね! 」
「 どうもどうも~ 」
「 まいどまいど~ 」
「「 で、元気爆発博士どんな感じ? 」」
二人はシンメトリーの動きで言った。声をあげて笑いきったあと、生理的な涙をぬぐってハリーは言った。
「 いやあすっごい教育パパ!僕ガラハッドのこと、勘違いしてたみたい。ガラハッドって、ホグワーツで羽根伸ばしてるんだよ。天才じゃなくて、完全に努力の人 」
「 ハリー、俺たちそんなことはとうに解ってる 」
「 俺たちあいつが一年のときから知ってるんだぜ、付き合いが違う 」
「「 知りたいのはそこじゃない 」」
訳知り顔で双子は人差し指を振った。ハリーは、それを見ると話す気がなくなってしまった。
仲の良い双子にまでガラハッドがあまりアラベールについて話していないならば、自分も話さないでおくべきではないか?オリバンダー家の複雑さはハリーでさえ感じとれる。けれどハリーはそれを、ロンにもハーマイオニーにも言わないでおこうと思った。「言わないでくれ」とガラハッドは、絶対に願うだろうから。
「 …僕、帰るよ。用事を思い出した。今日、僕が夕飯つくる日なんだ 」
「 へええ。やるじゃんハリー! 」
「 仕方ないな。解散だ 」
そのときだった。ハリーは、押しつぶされたようにひしゃげているすぐ近くの家の、すかすかの生垣を挟んだ向こうに、しっかりと一瞬、大きな真っ黒い生き物を見た。
犬だ。
犬だった。
ギラつく目の迫力を、たしかにハリーは感じた覚えがあった。そうか夜の騎士バスに乗る前に見たあの輪郭は、明るいところではこんな姿をしていたんだ。遠くからウィーズリー夫人の声がして、振り向いてから再び探しても、もう犬の姿は見当たらなかった。
「 あなたたち!さあ帰りますよ!もう買い物は済んだんですから!あんまり帰るのが遅くなって、明日寝坊しても知りませんからね!! 」
不思議な気分でハリーは生垣を見つめた。
ハリーがオリバンダー家に帰ると、居間のソファにふんぞりかえってギャリック翁は出来上がっていた。絨毯にウィスキーのボトルを転がして、気持ち良さそうに高鼾をかいていた。
「 いつもはこんな感じなんだ 」
階段を降りてきながら、ひょいと肩を竦めてガラハッドは言った。
「 この夏は君がいたんで、ちょっと格好つけてたってわけ。すっかり化けの皮が剥がれたな 」
「 僕がいて迷惑だった? 」
「 全然。むしろ爺さんの健康のためには、今後もいてほしいくらい 」
「 アラベールさんは? 」
「 ウィーズリーさんと漏れ鍋で飲んでる。なあ、面倒だからタカりにいかないか?もう夕飯は漏れ鍋で済まそう 」
願ってもいない話だった。ガラハッドに誘いだされて、ハリーはまたダイアゴン横丁に出かけた。
街灯の横を通りすぎながら、ガラハッドは、ハリーがしきりにキョロキョロしているのを気に留めた。何を探しているんだと言ったら、犬だという。さっき吸血鬼用宿のほうで見かけて、気づいたらいなくなっていたのだ、と。
「 あの犬、夜の騎士バスに乗る前にも見たよ 」
「 おたくのおばさんちって、サレー州だろ?野良犬の行動範囲にしては、ちょっと広くないか。縄張りとかあるだろうに 」
「きっと違う犬だ」とガラハッドは言った。
ちょっとした悪戯心で、出かける前にハリーは部屋に戻り、透明マントを持ってきていた。ふたりの計画はこうだ。ふたりして透明になってそっとパブのなかに入り、マグル趣味談義で大盛り上がりのアーサーとアラベールの間に陣取る。ギャリックほどではないにしても、いい感じに酔いが回っているであろう彼らのチップスを、揚げたてがくるたび次から次にくすねてやろう。もちろん発案者はガラハッドで、ハリーは最高に面白いと思った。
「 おっさんたち首を捻るね。お互いに相手のこと、大飯食らいだと思うんじゃないか。 」
「 クール!ねえそのセンス、どこから出てくるわけ? 」
「 もちろんお勉強のストレスと、赤毛のワルいお友だち! 」
ところが漏れ鍋でのアーサーとアラベールの空気は、存外しっとりしたものだったのである。
「「 ――――??? 」」
ハリーとガラハッドの二人は、うまいこと目当てのテーブルの脇に位置どることができたものの、アーサーとアラベールがあまりにもじっと皿を見つめているので、美味しそうなフィッシュ&チップスに手を伸ばすことができなかった。
「 何がいけないのでしょうか? 」
やおらアラベールが黒ビールのジョッキを置いて言った。ちょうどハリーとガラハッドが困惑して、互いに視線を交わしあっていたときだった。
「 うちの子は内に籠りがちです。反抗期なのでしょうが――――どうにも、ぶつかってもきてくれないというか。私に向かって、憎たらしいことのひとつも言えばいいのに、黙りこくって発散しないのです!おたくのお子さんたちのように、あれくらい溌剌としてほしいのですよ、親としては。私の育て方が悪いのか… 」
ガラハッドは仰天した。胸をおさえて苦しそうにするアラベールに、ずいっとアーサーは身を乗り出した。
「 いえいえ、こういうのは、その子の気性次第というものですよ!うちも、三男は内に籠ります。四男五男とは大違いだ。同じように育てているのに、ですよ?育て方の問題とは、思えませんな。 」
「 わたしは、“たまに来るおじさん”くらいに思われているのかもしれない。実際、“たまにしか帰ってこれないおじさん”ですので… 」
「 まあまあ。今こうして、此処にいらっしゃるじゃありませんか。 」
ハリーは口許を押さえた。いま、笑いの発作に腹筋が試されている。華麗なる自滅をキメたガラハッドは、鳩尾にブラッジャーをくらったみたいな顔つきをしている。
アラベールは答えを吟味していた。アーサーは眼鏡を光らせて、ますます身を乗り出して言った。
「 育ち方というとね、私はハリーこそ心配です!昨夏はうちにいた子なのですが、本当に出来すぎた子で。相当、大人の顔色を窺い慣れておるんですよ。この夏御覧になられて、いかがでしたか? 」
「 その傾向はあるでしょうね。どうしてもああいう立場の子は、そうなりますよ。 」
今度はハリーが「ぐぇっふ」となる番だった。慕っていた大人ふたりにそう突き放した分析眼を向けられていたと知り、ハリーは動揺で何かを蹴った。するとアラベールが動いたのでハリーはさらに焦ったが、彼はまじまじと泡の消えていく、すでに大半空であるジョッキを見ただけだった。彼は残っていた黒ビールをゆっくりと飲み干し、歯の抜けたトムにおかわりを頼んだ。
「 教えてやるべきではないでしょうか? 」
ついでにサラミも注文した直後、アラベールは出し抜けに言った。
「 教えてやるべきでしょう、あの子には。誰しも、隠されている危険にはみずから対処しづらい。ハリー、君はシリウス・ブラックに命を狙われている。君の両親と一緒に、十三年前からずっととね。隠されるほどに子供は大人を信用しなくなる 」
空気が凍った。伝票を書いていたトムの手が止まり、アーサーがブッとビールの泡を吹き出した。周りの客が食器をガチャガチャ言わせる音まで、ハリーは、一瞬遠くなった気がした。助けを求めるような心地で、咄嗟にガラハッドのほうを見てしまった。
「 ―――ッ! 」
頬を触れあわせるような距離で、ひとつのマントのなかにいるガラハッドの、眼は銀色で狼のようだ。余計にハリーはドキッとしてしまった。
口角泡を飛ばして、アーサーは駄々っ子のようにテーブルを叩いた。
「 それは―――そんなに軽々しくドライに言えるのは、あなたが!…失礼、あなたの、お立場ならではだと思うのですよ。もちろん、私も本心ではそう思っております!!!あの子に、隠さずに真実を教えてやりたい!しかし妻は反対しておるんです!大臣も、これには首を縦に振らない。あの子は、まだ13才だからと 」
「 あなたには立場がおありでしょうね 」
くいっと眉を上げてアラベールは言った。狐のように目を細めて、彼は置いてあったフォークを持ち上げた。そしてそのままくるくると表裏を回転させて弄んだ。アーサーは眼鏡を外して、ナプキンで額の汗を拭いた。
「 ええ、ええ、そうです。私は、所詮勤め人で…それも道具局ですので、その、条約云々は 」
「 杖は道具ですからな 」
「 ええまあ。ええっと、ハリー、ハリーの話でしたね?あの子は、ああ見えて何をしでかすかわからん子なのです。厳しく言い聞かせますが、うちは三男以外はねっかえりで…考えられる危険についてちゃんと教えてやらないと、うかつに“禁じられた森”を歩くかもしれない!もしも取り返しのつかないことになったら、わたしは…それこそわたしは 」
「 誰しも立場というものがあります。ファッジにも、あなたがたのボスとしての立場がある。一国の魔法省とその大臣が、13才を相手に事実上自衛を要求するなんて狂気の沙汰だ。ゆえに、
アラベールは肩を竦めた。いまや腕組みのアーサー・ウィーズリーは、酒精によって耳たぶまで真っ赤にしている。
「 たしかに。大臣は正しい。あの子自身よりも私たちのほうが、最大限あの子を守る手立てを講じなくては。それにねノアイユ公、家内にゃあ言いませんが、私は、モリーのやつの言い分もよくわかるんです。ハリー、あの子には、極力普通の生活をさせてやりたい。ひとり生き残って、つらいさだめの子なんですから、あれこれ心配をして、これ以上抱える物が多くなってはいけない。 」
「 ふぅむ…それについては、少々感覚が異なりますがね。なるほど、よいお考えだと思いますよウィーズリーさん。子育てに関してあなたは先輩です。参考にさせていただかなくては――――普通の生活、ね。 」
ちらりとアラベールがこちらを見やった。ばっちりと目があって、ハリーは動悸で眩暈がしそうだった。実際目を回した。サッと強い力でガラハッドに隣から、ハリーは肩を抱かれた。
「 うちの子の杖はどうです? 」
トムがサラミののった皿を持ってきた。
早速つまみながらアーサーが言った。
「 六男の。今日、おたくで杖に選ばれた。どういうものに選ばれたんでしょう、うちの子は? 」
「 おたくの息子さんは有望だ。あれは自分から選ばれにいって、杖に受け入れられたのですよ。無意識の世界を陽に転じて、月の女神のもと、ヤナギの樹に選ばれた子は人を旅立たせます。さてどうなるかな 」
「 旅…ですか 」
アーサーは複雑そうだ。これ以上は聞くべきじゃないと判じて、ガラハッドはハリーの脛を蹴っ飛ばした。
二人は走り出した。漏れ鍋を出たら透明マントなんてもう要らなくて、夏だから日没後も黄金の雲が長く留まっている横丁を、堂々と二人は走っていった。急ぐ必要もないのに、どくどくと心臓が高鳴るので、それにつられて走ったようなものだ。銀行前の広場で、ガラハッドは、不意に「このあとギャリックが起きていたらどうしよう」と思った。「ただいま」以降何も言えなくなり、正面から顔を見られないと思った。そう思うとそれ以上進めなかった。
「 ―――知ってたよな 」
石畳を見下ろしてガラハッドは呻いた。
「 爺さんは、全部、知ってたよな。ちくしょう、逃げ切り狙いやがって。何でも墓まで持っていこうとしやがる…! 」
「 ガラハッド、大丈夫?僕は、大丈夫。僕、このことを知れてよかった。優しいウィーズリーおじさんのこと、大好きだけど。僕、知れてよかった。 」
ハリーは何度もそう言った。顔色は蒼白だし、「お前絶対大丈夫じゃないだろ」とガラハッドは思ったが――――ちょっと今自分に余裕がなくて、何も言えなくて、生唾を呑みながら黙ってハリーの背中をさすってやった。ハリーを慰めているわけだけど、ほとんど自分を奮い立たせる感じだった。
「 ――――!? 」
そのときに、ガラハッドは、見た。
犬だ。黒くて大きな熊みたいな犬が、牙を剥き出しにして、立ち込め始めた夕霧の彼方から、獰猛に凄惨な唸りをあげて飛び出してくる。圧倒的な速さと攻撃心。突然のことで動けなかった。
ちょうど犬の進路にいた通行人が、悲鳴をあげてただちに杖を向けた。藤色のローブを着ていると思ったら、縄張り徘徊に余念のないマダム・マルキンだった。背中に白い光線をあびて、泡を吐きながら犬はどこぞへと逃げていった。
「 んもう!怖いわね、あんなに大きな野良犬がいるなんて!ノクターン横丁のほうから来たのかしら?何を食べて育っているか、わかったもんじゃないわ! 」
「あなたたち早くお帰り!」とマダムは、腰に手を当てて夜遊び少年たちを叱った。
ガラハッドにとっては有り難いことに、帰宅してもまだギャリックは居間で寝こけていた。アラベールのあれは絶対にわざとだけど、彼は深酒して知らん顔で帰ってくるだろう。
ガラハッドは静かに動揺していた。ベッドのある部屋で、ハリーとガラハッドはホグワーツに行く準備をした。無駄に何度も持ち物リストから漏れがないかを点検しながら、実は両親の死の原因をつくった脱獄犯に命を狙われていること、その重い事実をハリーに教えてやるか隠しておくかについて、アラベールとウィーズリー氏、どちらの方針が真実、この子のためになったのだろうかと――――ガラハッドは内心、ハリーとはひとつしか変わらない少年の立場を捨てて、考えこんでしまっていた。
昔のほうが、ずっと穏やかでいられた。
この世に、魔法のあることなんか知らなかったので、過ぎてしまったことについては、「仕方ない」と思うしか手段がなかったから。
今の自分は、なんと卑しくせせこましいんだろう。
ここは魔法の世界だから(ああそうだ魔法の世界だから!)手段を講じれば悪いことはすべて、やり直せるのにと思ってしまうのだ。
トランクを閉じながらガラハッドは考えた。
今、ハリーに杖を向けて、「オブリエイト」と叫ぶのはどうだろう。そのあと自分に杖を向けて、同じ呪文を唱えればいいんじゃないか。「ハリーのため」とは建前で、本心は、自分が知らないでいたかった。とはいってもアラベールは覚えているはずだし、自分の記憶を消す前にアラベールに杖を向ける、その挑戦が成功するとは思えない。
「 …はぁ 」
なんとなくそんな気はしていたけど、もう「知らない」では済まされない今、ハリーの命を狙う人物の子である俺は、どんな顔をしてハリーを見ればいいのか。
ちらりとガラハッドがハリーのほうを見やると、ハリーときたら平気そうにこの夏履いていたガラハッドのおさがりのズボンを畳み、「もう履かないなら、貰っておいていいかい?」などと言ってくる。ハリーのこういう性格は、幼さ・世間知らずゆえとはまた違うのだろうか?そうであったらいいのにと、思ってしまう自分は相当焼きが回っている…。
「 お前って、邪気がないよなあ 」
「 そう?僕、それなりに、自分のこと意地悪だと思うけど…。まったく、やめなよそんな顔は。大丈夫、僕、このことで君を嫌いになんかならないよ。 」
ハリーは、やがてすっかり新学期の準備なんか途中で投げ出して、ベッドに座りこんで言った。黙り込んで百面相しているガラハッドの横顔を見るのに忙しくなって、こういうことになったのだった。
「 お互いの親のことについて、まだ心を整理できないけどね。けれど、結論は変わらないよ。偏見なんて持たなくてもいいくらい、僕は強くなってみせる。いずれなってみせるから、先に伝えておくよ。 」
「 なんだよそれ。ゆっくり考える前に、結論だけあるのか。 」
「 そうだよ。これからもよろしく。 」
ハリーはニヤッと笑った。明るい緑色の目が、そういうふうにすると不思議に光るのだった。
儀式的な握手に救われて、ガラハッドはぼんやりと差し出された手を握り返した。――――この子は、いつのまにこんなに大きくなったんだろう?あの日鏡の前で泣いていた子は、いま驚くほど硬く強い手のひらをしている。
「 ああそうか――――箒か。握るもんな。 」
「 うん? 」
ガラハッドは返事をしなかった。
頭痛が、始まっていたからだ。
また、雨が降り出すんだろう。
ほら雷鳴が聞こえる。
東から濁った色の雲が湧いて、黄金だった天を覆い尽くしていった。軒先を求めて一匹の犬が、夏の夜に駆けていった。
■タイトル『あめりか物語』は永井荷風の作品から。永井荷風は『ふらんす物語』も書いている。永井荷風という人は、「常人は同居すると神経を擦り減らされる」タイプの奇人であったらしい。消耗、そしてアメリカとフランスつながりです。
■ダンスマラソンは1930年代のアメリカに実在しました。このアラベールのエピソードは小説『彼らは廃馬を撃つ』から。同時代を描いた似た名前の小説には『廃馬は撃ち殺されるんでしょう?』があり、こちらは『俺たちに明日はない』というタイトルで映画化されている。いずれの作品も、食いつめた若い男女が刹那的な恋をし、世の中相手に大暴れして過激に破滅する話。彼はそういうジャンルの登場人物なのです。
■犬の描写にも元ネタがあります。というか、原作者が元ネタにしている作品があります。そちらはそのうち現世から片足踏み外した人が解説します。