足元から痺れがのぼってくるような感覚に、ハリー・ポッターは打ちのめされた。自分に背を向けて去るガラハッド・オリバンダーは、ハリーの立場からは悠然として見えた。
“ガラハッド卿”と彼はあだ名されている。
有名な騎士と同じ名前だから?いいや彼自身が、Sirと呼ばれるべき存在だから…。
「ブラックを討つのは自分だ」だって?騎士道に彼は生きている!――――かっこつけなんかじゃないんだと、ガツンと思い知らされた。
ハリーは、肖像画のカドガン卿のことを思い出して、ガラハッド卿との違いに笑ってしまった。あの安っぽい威張りかたをする馬鹿げた番人は、ハロウィンの夜にブラックがグリフィンドール寮を襲撃して以来、太った婦人よりも立派な寮の守護者ぶっている。けれどもハリーは、もしもガラハッドがグリフィンドール寮の入り口のところに来たら、あのカドガン卿はビビって通路を開けるか、めいっぱい虚勢を張るものの巧みに転がされて、みすみす侵入を許してしまうだろうと思った。あのポンコツ肖像画にはうんざりさせられているから、ガラハッドには是非ともそんな悪戯をしてほしいくらいだ(さすればカドガン卿はクビになるであろう)。
ふう…とハリーは大きく息をした。さっきルーピン先生の部屋でボガートを相手に守護霊呪文の練習をして、クィディッチの練習の5倍は消耗したところなのだ。どこにも寄り道をせずに、ハリーはグリフィンドール寮へと帰った。
ひととき複雑に胸をかき乱されたものの、時間通りルーピン先生の部屋へと至ったガラハッドは、扉を開けるなりケロリとした笑顔で先生へと挨拶をした。
ハーマイオニーから話を聞いたときは不安になったけれど、さっき襟首をつかんで感情をぶつけてこられたことで、「な~んだいつも通りのハリーじゃん」と思って、気持ちがすっきりしたのである。
あれだけの恨みを抱えておきながら、こちらに気を遣って自分からはブラックと父の過去の話を告げてこなかったり、自分がシリウス・ブラックを殺したら、一応は息子ということになるこちらが嘆かないかと想像したりするなんて。
ハリーってば、ずいぶん大人になったなあ!
ガラハッドは、まるで親戚のおじさんみたいに、ハリー・ポッターの成長ぶりに感心していた。すると俄然彼のほうの成績が気になって、ハラハラとガラハッドはルーピン先生へと訊ねかけた。
「 あのう、もしかして、ハリーはもうかなりはっきりとした守護霊を出現させることができているんですか?さっきそこで会ったんです。いまだにどんな守護霊を迎えればいいかわかっていないのは、僕だけ?僕って、かなり出来が悪いほうだったりします…? 」
「 もしも君が出来の悪いほうだとしたら、今年は誰も進級できないだろうね 」
フフフッとルーピン先生は笑った。
彼はお気に入りのゴブレットを傾けて、講座と講座の合間の休憩をとっていた。
「 ああ美味しい。今日もセブルスの調製は素晴らしいよ。近頃彼に聞いたんだが、味とはほとんど嗅覚によって知覚されるものらしいね。君は、エステルというものを知っているかい? 」
「 オキソ酸とアルコールが脱水縮合したものですよね?低分子のものは、バナナのような果実臭を持つっていう… 」
「 そうそう。官能基というのは面白いらしいじゃないか。同じ化合物であっても、鏡像異性体はまるで異なる香りを放つんだってね。マグルの合成香料と魔法薬の結婚に、わたしは次なる夢を見ているんだ 」
上機嫌でルーピン先生は言った。彼はこう考えていたのだ――――この生徒には、これからも是非ともセブルス・スネイプのプライドを刺激し、生徒に負けたくない一心で懸命に脱狼薬改良へと取り組ませてほしい、と!!!
そんな内情のことはガラハッドは知らない。
ガラハッドは、「ふーんルーピン先生とスネイプは仲が良いんだな」と、意外なような納得するような心境で「へええ」と言った。アラベールくらいしか取り上げなさそうな話題で、日常的に語り合っているらしい彼らはやっぱり学究の徒だ。彼らの高度な雑談ときたら、並みの魔法使いではまともに相槌も打てないだろう。
擦り切れたローブのリーマス・ルーピンは、今日も硬派なバンカラでかっこいい。
そんなことをガラハッドは考えていた。
ガラハッドは、ルーピン先生にならば、不意にこんなことを訊きたくなることがあった。
「 先生って、学生の頃は同じ寮になんでも喋れる相手がいましたか? 」
「 うーんなかなかねえ。わたしは、素晴らしい友人たちに恵まれたと思っているけども、結局は別の人間同士だからね。人を選ぶ話題もあるし、すべての考えを共有できる相手なんていない 」
「 やっぱりそうですよね。“鏡像異性体”なんて単語、僕は寮内では聞いたことがありません。言っても伝わらないと思います 」
はははとガラハッドは軽く笑った。
ルーピン先生は空になったゴブレットを机に置いて、一瞬恥ずかしそうな微苦笑を浮かべた。
「 そうだね。今のは、誰もが面白味を感じる話じゃなかった。――――そろそろはじめようか。今日は『ゲーティア ソロモンの小さき鍵』の66ページだ――――蝋燭を使う方法で、脳に潜む
ガラハッドはもちろん予習を済ませてきていた。
なので非常に順序良く準備を進めることができ、ルーピン先生とガラハッドのふたりは、五分後には座って暗い室内で向かい合っていた。
ふたりとも、黙って蝋燭の火を見つめていた。
ともしびが照らし出しているのは、魔法円環に三角形、印行。六芒星と五芒星―――…。
それらが描かれた羊皮紙を、溶けていく蜜蝋が蝕んでいく。図の中心部に、蝋燭が置かれているのだ。
はぜるような音が幽かに響いていく。
熱で歪んでいくのは、羊皮紙ばかり。黄色っぽい炎は、然して明るくもないまま、揺るぐことがなかった。
「 テーローケーハー・アーバーイー・マーレーベーレーゲ― 」
“導き手”として、ルーピン先生は低い声で呪文を唱えた。静かで優しい声が、火に向けて俯くガラハッドのうえに降り注いだ。
第一と第二の呪文をエノク語で唱え終わったあと、穏やかな口ぶりでルーピン先生はガラハッドに語りかけた。
「 これから、いくつか質問をします。筋が通っていなくてもいいから、思いついたことから順に呟いてごらん 」
「 はい 」
「 君を突き動かすものは何かな?汝、自我のうえに在る自我、超自我たる天使の名を語りたまえ。本能のままに衝動のままに、無心で動いた瞬間を思い出しなさい。そのとき、君は何に成っていた?―――――よく集中して 」
「 ええ。ええ、ですが… 」
「 ッ!わかってきたのかな?良い調子だ。そのまま、思いきって言葉にしてみよう! 」
両方の手のひらを見せて、リーマス・ルーピンは言い放った。
そのとき、蝋燭の炎が揺らいだ。
「 ――――… 」
ガラハッドは動かなかった。白い靄が、彷徨うように彼の周辺へと現れていた。
元より集中力ならばかなりあるほうだ。ガラハッドの目は、ひたむきに炎へと吸い込まれていた…。
「 躊躇わないで! 」
ルーピン先生は重ねて言った。唇の重い生徒に、熱心に先生は語り続けた。
「 浮かんだイメージを言って。さあ!“あの世”のことだからといって、口を閉ざすべきじゃないんだよ 」
「 いえ、その…ばっちり思い当たる節はあるんですけど。無心で衝動的に行動して、いつのまにか成っちゃったものは、あるんですけど。うーん… 」
ガラハッドは首をひねった。
彼を囲む白い靄は、何の形にもならず渦巻いているばかりだった。
「 …うーん? 」
必死で逃げたことがある。
必死で殺したことがある。
必死で何ともわからないものを喰って、また必死で逃げて必死で殺したことがある。――――そのときの自分を動かしていたものに、自分を乗っ取られて修羅の業に堕ちた。それは、決して変えようのない事実なのだが…。
「 えーっと… 」
ガラハッドは苦笑した。
だが…だがあれから…どれほどの時が経ったことだろう?計算してみると驚いてしまうし、体感はもっと狂っている。「そんな大昔のことを言われても…」と、困ってしまうような心地だった。
ガラハッドにはもう、“あの世界”しか知らなかった自分と、今の自分が同じ人物だとは思えない。
いいや同じ人物ではあるのだろう。けれども、現に今とことんしっくりこない…。
性格というか、なんというか、事にあたっての対処のしかたとか人を見る目の在りかたとか。そういったものの数々が、あの世界の自分とここにいる自分では、まるで違っている。きっと、もう元には戻らないと思う。
三千世界を転々として、自然と変化を重ねて…。
時が流れたぶんだけ、記憶は心もとなくなってしまって。
たった数年前「夢の世界へとやってきた」と感じたはずなのに、ガラハッドは、今では「あれは夢だったのかな」と、前世の日常に対して思うことがあるほどだ。
自分は、いま誰なのだろう?
ゆらゆらと揺れる火を見つめて、ガラハッドは哀しいような気分だった。ガラハッドはひとつ溜め息をつくと上体を起こして、返事を待ち構えているルーピン先生へと言った。
「 あのう、先生、この方法はあまり良くないと思いますよ。守護霊って、一種のプラスのエネルギーなんですよね?不死なる神々が遣わす、絶望を感じることがない非実体の守護者なんでしょう?僕が想定してしまう“無心で動いた瞬間”とは、嬉しさや幸福で自然に笑っているときのようなものではありません。そのうえ僕の守護霊は、現れたら大変みなさんにご迷惑をおかけすると思いますね――――吸魂鬼をぶちのめすには適任でしょうが 」
「 君は実に手強いな!? 」
呆れたようにルーピン先生は腕組みをした。羊皮紙はいま燃え尽きようとしていたが、ガラハッドは催眠状態のサの字にもなっていなかった。
ルーピン先生は頭を掻いた。彼は杖を振って、部屋の明るさや調度を元へと戻しながらぼやいた。
「 いやあ参った。敵わないな。慣れていないことはするもんじゃないね。わたしのやり方が悪かったのかなあ?おかしいなあ… 」
「 ――――… 」
…間違ってはいないが下手だったんじゃないかなあ。
気の良いルーピン先生は、いつもどおりこちらを励ましてくれて、この手の術師としては少々親切すぎた。そんな察しがついているガラハッドは、下手に言葉を並べ立てないでおいた。
立派なルーピン先生にも不得意なものがあったことは、ちょっと嬉しいので失敗を責めようとは思わない。
ガラハッドは時計を確認した。5時からは、フリットウィック先生との約束があった。礼を言ってルーピン先生の部屋を辞し、一度寮に戻って荷物を換えて、またすぐに飛び出して寮監のオフィスへと急ぐとき――――日常のなかで、ガラハッド・オリバンダーは無心になって広い城内を走っていた。
時は進む、む進は時
あっという間に二月は去り、三月の半ばまで達した。イースターが近づいてくると、もうグリフィンドールの選手たちと寮監は我慢の限界だった。
ハリーは、マクゴナガル先生へと十一回も
ハリーの苛立ちの矛先は、もちろんガラハッドにも向かった。ハリーは十分我慢をしていた。ガラハッドはいつでも忙しそうなので、ベストを尽くしてくれているのは、わかっているけど、と…。
そうはいっても、試合の日が近づいている!!
ハリーはどうにか言葉を選んで、彼なりには控えめに「早くしてよ」と訴えたが、オリバー・ウッドはストレートに怒りをぶちまけまくった。
「 冒涜的なことだ! 」
大広間にて。
オリバー・ウッドは、ある朝わざわざレイブンクローのテーブルのところまで来て、座っているガラハッドに指を突きつけて言った。オリバー・ウッドは、もともとガラハッド・オリバンダーにはあんまり良い印象を持っていなかった――――ロイ・マスタングとつるんで、親友を堕落させたからだ。アッと驚く手立てで今年のレイブンクローチームを強化した者だと、フレッドとジョージからも聞いたのでなおさら…。オリバーは、グリフィンドールチームの優勝のためには、ガラハッドにどうか夏まで寝込んでいてほしいと思っている。
「
「 へえ。そう焦っておられるということは、今度のグリフィンドールチームはシーカーとその他がちゃんと連携するんですね。いつもは個人技頼りなのになあ 」
一切悪びれずにガラハッドは言った。そして真顔になったと思ったら、「ふわぁ」と彼は呑気に大あくびをした。ただちに真っ赤になったオリバーを羽交い絞めにして、フレッドとジョージは本気の警告をした。
「 煽っていい相手じゃないぜガラハッド!クィディッチに関しちゃ、このホグワーツで一番イカレてんのはオリバーだからな! 」
「 実際のところどうなんだよ?いくらなんでも遅くないか? 」
「 それに関しては申し訳なく思ってるよ。今日は土曜日だから、めいっぱい長く練習したいよな――――そこの事情はレイブンクローチームも一緒 」
にへらっとガラハッドは笑った。いつもならば「ニヤッと不敵に」と評されるところであるが、今朝は流石にそんな余力がない。「事情は一緒?」とジョージが怪訝に繰り返し、「だから何?」とハリーは苛立ちで噛みつきそうになった。
しかし背後からあがったどよめきに圧されて言い損ねた。
「 ―――…!? 」
ハリーは上を向いた。
数多の羽ばたきが響いて、胸躍るフクロウ便の時間が来ていた。果てのない青空のように見える天井に、鳥たちが“何か”を運んできている。
「 ああああっ! 」
ロンが真っ直ぐに指をさした。
群れをなして舞い込んできたフクロウたちのなかには、共同で大きな包みを運んでいるチームが二揃いいた。片方の隊で先頭を務めているのは、真っ白なハリーの相棒・ヘドウィグだった!
「
ハリーは喜びで浮き上がりそうだった。全校生の視線を集めて、人ひとりが収まりそうな包みが、ハリーの目の前へと運ばれてきた。「ありがとう!」とハリーは、途端に態度を変えて眠たげなガラハッドへと微笑んだ。
フリットウィック先生とマクゴナガル先生は、教職員席からニコニコして成り行きを見守っていた。
どっとレイブンクロー生たちが立ち上がっていた。グリフィンドールの生徒たちは、ハッフルパフのテーブルを超えて雪崩を打つようにして、レイブンクローのテーブルのところまで行った。ハリー宛の荷物を覗きこむためだ。
身をよじって左右に揺れるハンナ・アボットの隣で、アーニー・マクミランは「噂は本当だったんだね」と囁いた。
「 ハリーは、今度から
「 対戦する側としては災難だ 」
苦笑いがテーブルに満ちた。
ハリーは、かなぐりとるように急いで包装を解いた。やっと再会できた!
グリフィンドール生たちが祝福の拍手をすると、レイブンクロー生たちの拍手がそれに重なった。気の良いハッフルパフ生たちは、苦笑しつつもその拍手に参加した。――――満面の笑みを浮かべるハリー・ポッター。彼はちょっと特別すぎるけど、性格は良い人だと思っているので。
彼らは気になっていた。
ハリーもまた不意に猛烈に、「もう一つのほうの大きな包みは、誰に届いたんだ?」ということが気になり始めた。いつのまにかガラハッドは席を立っていて、そっちのほうを囲む輪へと加わっているのだ。
ハリーはうんと背伸びをした。
花開くようにレイブンクロー生たちがこちらを向いた。ハリーは、レイブンクロー生の輪の中央に、輝くような女の子をみつけた。
「嬉しくしてたまらない!」という表情で、両手でギュッと箒を抱きしめている―――とっても可愛い――――ポニーテールの女の子だ。ハリーは、キュウッと胃が縮んだような心地がした。あの子の名前なら知っている…彼女は、レイブンクローのシーカーのチョウ・チャンだ。
知らないわけじゃない相手だったけど、急に鼓動が暴走し始めた。
にこっとチョウに微笑まれて――――とてもキラキラした瞳だなと、ぼうっとするハリーは思った次第だ。人語を忘れてしまった彼に代わって、隣のケイティが明るい声をあげた。
「 チョウ!いいね、あなたも箒を新調したんだ!それって…? 」
「 ううん。新しいのを買ったわけじゃないよ。これは、小さい頃から乗ってきたコメット260号――――でもね、みんなのおかげで 生 ま れ 変 わ っ た の 」
カチリ、と火打ち石を打ったよう。閃光でも放ちそうな眼差し!
ガラハッドは清々しい気分で、闘志を燃え上がらせるチョウの横顔を見ていた――――こういう顔をしていてこそコイツだ。
我がことのようにケイティは「それって、最高じゃないの!」と叫んでダイブするようにチョウにハグした。
“祭り”が始まろうとしていた。
改造箒VS炎の雷だって?ハッフルパフ生もスリザリン生も、こんな面白い見世物を逃したくはない。「やるならドカンとやりましょう!」と、この状況をつくることを提案したのはフリットウィック先生だ。
威風堂々としたビセンテ・アランの姿に、セドリック・ディゴリーは胸を打たれた。彼は自分の座っていたところで立ち尽くして、七年生キャプテンたちのやりとりを見つめていた。
「 勝負だグリフィンドール諸君!オリバー、君は、クイーンスリープ揃いのうちの寮を、
「 うっ…そ、それは 」
「 うちの後輩を責めないでくれたまえ。まともに競い合える状況をつくって、君の名誉を損ねないでやったんだよ 」
「 やめろよ。俺が涙脆いのは知っているだろ? 」
「 わはは!…君に軽蔑されるのは堪えたよ 」
ごつんとビセンテとオリバーはこぶしを突き合わせた。―――お互いの引退を賭けて、我らここに歴史的一戦を誓う!
きっかり一週間後が、試合の当日だった。
それからの一週間は、一分間みたいに短かった!!!
そのようにハリーは感じるのである。
授業中の時間もクィディッチの作戦を頭に入れるのに使った(そうすると一瞬だ)ので、これはものの喩えなどではなかった。誰しも夢中で疾駆する瞬間は、時の感覚を失うものだ。
時は進む、む進は時
そうしてやってきたレイブンクローVSグリフィンドールの当日は、からりとよく晴れて弱い風があった。
いつもどおり群れをなして競技場に歩いていくときに、マリエッタはガラハッドの隣を確保した。彼女は怖々と空を見上げて、「ねえねえ」とガラハッドへと話しかけた。
「 ねえ、この天気をどう思う? 」
マリエッタは天を指さした。雷鳴が地を揺するようなコンディションに、グリフィンドールのハリー・ポッターが強いことは良く知られている。遠くには微かに雲が見えるので、「不安じゃない?」とマリエッタはガラハッドの顔を覗いて、彼が自分に同意してくれることを期待した。
ガラハッドは空のほうを見て言った。
「 さぁ…普通に、いい天気なんじゃないか?暮春の初めだ。“是の日や、天朗らかに気清く、恵風和暢せり”だな。仰ぎ見て宇宙の大なるを感じるね 」
「 はあ。あなた近頃そういうこと言うわねえ 」
「 んー…ほら、覚えているうちに使わないと忘れちゃうなあって、思うから。いつまでも、覚えていられることなんて無いよな 」
心ここにあらずの状態でガラハッドは言った。
今のは、「将来、字が汚いと損をしますよ」と、祖父母や両親、先生たちから熱心に書を教えられた名残だった。有名な手本の一節なのだ。近頃ガラハッドは怖れられてならない――――つらい経験が遠くのものになるにつれて、愛してもらえた記憶も薄らいでいくことを。
孝恩を忘れて獣になりたくはない。半分は獣なのかもしれないからこそ、そんなふうに思う。
今日という日までガラハッドは、放課後は毎日鷲の姿になって飛び回っていた。チョウの箒の改造と随伴飛行。そこからの観察・改善・メンテナンス、そして練習相手になること。
それらに没頭していたガラハッドは、チームのメンバーと新しい歌やサインを研究する暇がなかった。そこでいつもの役割を他の生徒へと譲り、こうしてのんびりと群れの後方を歩いているわけだ。ゴツい巨体で目立つアームストロング先輩が、今日はペネロピーとロイの間に立つだろう。
時計台のところで別れるまで、ガラハッドとマリエッタは雑談を続けた。
「 呪文学って面白いわよね。わたしも好きよ。さっきのは、小さい頃に習ったの?頑張って覚えたのね 」
「 まあな。最初は嫌々だったけど、頑張って書き写しているうちに覚えたんだよ――――夫れ人の相い共に一世に俯仰する、或いはこれを懐抱に取りて一室の内に悟言し、或いは因りて託す所に寄せて形骸の外に放浪す。趣舍萬殊にして、静躁同じからずと雖も、其の遇う所に欣び、暫く己れに得るに當りては…―――快然として、自ら足る 」
二段落目からをガラハッドは声に出していた。「仰ぎて宇宙の大なるを観、」の直後は、マリエッタが話しているうちに内心で諳んじたのだ。
自然と共感できて、不思議な心地だった。
そう、人はみな、俯仰の間にも等しい短い一生をおくる――――。
仰げば宇宙の大なるが見える?俯けばみんなの賑わしさは、自分にだってちゃんと見えるが…。
胸に抱く思いを、一室の中で友と向かい合い語りあう者もあれば、心の赴くままに世俗の束縛を無視して、奔放に生きる者もある。いろんな趣味があるもんで、陰キャもいれば陽キャもいるんだけども、巡り逢えたことを喜びその奇跡をいかすとき、人は快く満ち足りた気持ちになる。
そういうことが1500年以上も前に書かれている。
真理なのだろうか。
“あの世界”の人たちは優しかった。だから忘れたくない。
けれど、もう顔が思い浮かばない。
くだらないことなら覚えてるのになあと、ガラハッドは溜め息をついた。
傍目には奇天烈な長い呪文を唱えて一呼吸おくように見えるガラハッドに、マリエッタは今更驚かなかった。
彼女は、「毎朝毎朝うるせえッ」と、一時期ロジャーがよく怒っていたのはこれねと思い、初めて呪文を耳にする機会を得てニンマリした。ひたむきな横顔で復習をするガラハッドは、誰よりレイブンクローらしくて勤勉だと思った。「自分も頑張らなくちゃ!」とマリエッタは、決意を新たにポケットから単語帳を取り出した。
ふわふわとした心地で、ガラハッドは試合のときを迎えた。
本日のガラハッドは、ゲストスピーカーとして実況席に招かれていた。
縁がないと思っていたところに座る羽目になっただけでなく、非常に近いところからマクゴナガル先生に見張られているので、他よりも少し高くなったボックス席におさまりながら、ガラハッドはどうにも落ち着かなかった。
いつもの解説者であるリー・ジョーダンは、その日いつもに増して陽気でノリノリだった。
『 さあ!始まりましたグリフィンドール対レイブンクロー戦!あの衝撃的な宣戦布告から一週間、我らホグワーツ生一同一千人、『待ちに待ってきた』と言っても過言ではないでしょう!この一戦を語ることができて嬉しく思います、リー・ジョーダンです!さて本日は、ゲスト解説者を招いていますよ~~~!ねえマイク入れてる?ソノーラス!ソノーラス! 』
『 あ、はい。どうも、ガラハッド・オリバンダーです 』
『 イェェェエイ!ご存知“伝説の男”です。Hey,Sir!セクシーに触ってるぅ? 』
『 え?な…何を!? 』
飛び上がってガラハッドはリーのほうを見た。
どういうこと?いきなり全校生の前でセクハラ!?
パリピ中のパリピみたいなタイプのリー・ジョーダンは、睨んでもへらへらとしてガラハッドをイジることをやめなかった。「やめろ、マジでやめろ」と囁いて怒るガラハッドだったが、試合は始まってしまったし、リーの解説者としての力量にはタジタジだ。
『 試合開始です。早ッッッ速素晴らしい速さを見せましたねハリー・ポッター!彼はグリフィンドールの最強シーカーです!みなさん、上ですよ上!ポッターはプレイエリアの頂点に近い位置につきました。スニッチを探しています。とんでもなく速い上昇でしたが…Hey,Sir今のセクシーじゃない? 』
『 ハァ?まあ、垂直離陸の速さは炎の雷の特徴の一つなんですよ 』
『 もっと詳しく教えてぇーん?クアッフルはアリシア・スピネットがとりました 』
ガラハッドはチョウに注目していた。
彼女は、水滴が波紋をつくるかのように、青々とした芝生を波立たせてゆっくりと浮上した。きょろきょろと首を巡らせて、金色に光るものがないか探している様子だ。
見ることと喋ることを同時にできないガラハッドは、ただちにリー・ジョーダンの肘鉄をくらった。
『 ゲッフ!? 』
『 今回の目玉はなんといってもこれです。ハリー・ポッターが乗るところの競技用最新鋭ホウキ、
『 サムいんだが?頼むから普通に呼んでくれよ。具体的に何を訊きたいんですか? 』
『 Fuuuuumクールですね。独自ホウキ
『 勝手に恥ずかしい名前をつけるな まあ、まあ、なんか紫電っぽくて、悪くないですけど… 』
「へへへっ」とガラハッドは頬っぺたを掻いた。
だってぇ、予科練に憧れない男子なんていませんもの。
実は、ちょっと自分でも作業中に『月刊少年倶楽部』を思い出して、この箒の特徴はまるで“青い空の悪魔”こと、荒鷲爆撃機一号みたいだな~と思っていたのだ。『昭和遊撃隊』の名場面といえば、
難を言うとどこかの誰かさんが、ヒロインの華代ちゃんのイメージをぶち壊してくるけども…今は、それが頼もしい限りである。
忙しくリー・ジョーダンは舌を回していた。
『 このたびはグリフィンドール側の圧倒的豪華装備に、レイブンクロー側がどこまで工夫をしていけるかが見所です!早速チョウ・チャンはハリー・ポッターを追っていますよ!果たしてどこまでついていけるかな!?技術面まで含めたシーカー戦実況者として、本日はガラハッド・オリバンダーがここにおります。おい、マジで、何ニヤニヤしてんの?喋って!?ボールはグリフィンドール側です!アリシア・スピネットは止められた!しかし想定内か。テクニカルなパスが光ります。ケイティ・ベルがゴールを目指しています…ちょっと!シーカーどうなってますかぁッ!!? 』
『 はあ。今のハリーの動きはフェイクだと思います。ケイティと行き違いになる形で飛んでいました。猛スピードでしたが、まだまだ速度は出るんじゃないかなあ…チョウからのマークを外したかったんでしょう。でも、チョウはすぐ近くにいます 』
「おっといけない」とガラハッドは居ずまいを正した。ガラハッドは元々、今日は試合があんまり動かない場面で、リー・ジョーダンからのんびりとマイクを向けられて、余興として場つなぎのインタビューを受けるんだと思っていた。けれどもそんな局面は、今日の試合ではどうやら一秒たりとも発生しそうにないのだ。
チェイサーたちによるクアッフルの奪い合いは、これまでで一番めまぐるしく華麗だった。
ビーターたちの動きも良く、そちらを追って実況しているリー・ジョーダンは、シーカーの様子まで見ている余裕がないらしい。
ばしばしと隣から小突かれ続けたガラハッドは、流石に慣れてきてリーの望む役割分担を受け入れた。
『 ハリーは動けません。チョウに止められています。自動ブレーキ機能が裏目に出ている形ですね。
『 スピネットくらってしまった!今日もレイブンクローのブラッジャーは凶悪です。アランがぴったりと合わせました!クソッタレが…好きなようにはさせねえぞ…フレッド・ウィーズリーがブラッジャーを追います。やり返せ!零れ球はベルがもぎ取ったぁあああ!で、入ったぁぁぁあああブラッドリーを抑えて執念の一発!!10対0でグリフィンドールがリード!!よっし! 』
どっとグリフィンドールの観客席が湧いた。レイブンクロー側のゴールを回り込みながら、ハリーは「まずいぞ」と警戒して耳に神経を集中させた。ただちに別の歌が始まったレイブンクロー側の観客席とは違って、グリフィンドール側は喜びで好き勝手に跳ねまわっていた。
フレッドとジョージによる提案で、レイブンクロー側と同じ作戦を展開しても、“元祖”のほうに比べるとグリフィンドールは全然統率がとれていないのだ。風を切って飛んでいるハリーには、どういうサインが出ているのかわからなかった。
リードは一瞬のことだった。グリフィンドールチームは、すぐさまレイブンクローに30点巻き返されてしまった。
グリフィンドール生として、激しく悔しがりながらジョーダンはそれを伝えた。実況席のほうに飛ぼうとしたハリーは、チョウに進路を横切られて進行方向を変えた。
焦るな、焦るなハリー。焦らずにスニッチを探すんだ…―――そう念じて目を凝らしているとき、ガラハッドからの実況が聞こえてきてハリーはムカっとした。
『 あはは!いまので40対10?たまには実況席も良いもんですね―――行けッその調子だレイブンクロー!!ハリーは段々賢くなってきたんじゃないですか?いちいちブレーキをかけずに、舵取りを変えることでチョウを避けるようになってきました。すると持ち味の速度が落ちません――――でもなあ、ちょーっと気づくのが遅くて嬉しいです!今、彼はセンターライン天頂部にいます 』
「 はぁ!?うるさいな。何様だよまったく…! 」
『 チョウのほうの暖機は終わりました 』
「 ッ!? 」
ピタリと杖を向けられたような感覚。
ハリーは瞬いた。さっきゴール裏で振り切ってきたつもりだったチョウ・チャンが、今ふたたびシュッと目の前を横切ったのだ。
ドキッとさせられた。彼女こそ、そういえば一回も空中で停止していない。ホロスコープの星みたいに、くるくると旋回を続けている。衛星みたいに、ずっと自分をマークしてきて…どんどん速くなってきているんじゃないか?
ハリーは、「今度こそ」と減速せずに行く手を切り換えた。しかしまたしても銀に光って目を眩ませるような、黒いポニーテールが視界に飛び込んできた。
ハリーは、驚いて首を巡らせて、まじまじと彼女の顔を見つめた。
チョウは、間近にあの有名なハリー・ポッターを見て、こみあげる武者震いに微笑んでいた。箒の柄を握る手には、電流のようなものを感じていた。
相手は、最高峰にして最新鋭。ラルフ・スパッドモアの技術には敵わない、序盤でスニッチを掴まれたら敵わないと、寮でガラハッドはぼやいていたけれど…。
暖機の必要なあいだに、スニッチは姿を見せなかった。
天の運に味方されて、闘える準備は整った!
見せてやろう、最も熱い炎は青いんだ!!
キラリとスニッチの光る刹那を、いまや彼女は目を凝らして待ち望んでいた。
正午が近づいてきた春の空では、太陽が悠然として彼らを照らしていた。
ガラハッドはニヤッとした。高みにいる二人を見上げて思う――――悔しいけれど、強くなったチョウが荒鷲爆撃機である場合、ハリーこそが物語の主人公なんだよな。
敵艦隊全滅二近シ。死力をつくして“荒鷲”と決戦せよ。
遊撃隊の星として、そんなふうに大佐から信号灯をかかげられるヒーロー!そして始まる絶海の空戦!勇猛果敢な木下大佐は、無線電信で“荒鷲”へと呼びかける。『フーラー博士よ、我らの字引きに“降伏”の二文字なし』と!
フーラー博士というのは、なぜか戦場に出てきている荒鷲爆撃機の設計者だ。少年小説相手に堅いことを言ってはいけない。ヒロインだって巡洋艦に乗っているんだから、その辺はツッコミなし!
とにかくクソカッコイイってことだよ空戦というものは!!!
それが目の前で始まっていた。
ガラハッドは手に汗握って、真剣に戦況を伝えた――――ほとんど少年小説の描写そのままだったが、その闊達な語り口に観客は沸いた。観客席の望遠鏡は、高角砲みたいにあがって一斉に彼らを追った。爆発的な加速を見せるハリーへと食い下がっていくチョウには、あの台詞がお似合いだろう!
発火信号で“荒鷲”は語るのだ!
『 カカッテコイ遊撃隊!我ガ荒鷲ノ装甲ヲ貫ケルモノハナイ!パワー勝負だ、やってやれ!! 』
ハリーはリミッターを外した。
あけましておめでとうございます。今年も趣味全開でいきます。
■英国発祥ガチ魔術結社といえば黄金の夜明け団。そのアレイスター・クロウリーが編纂したアブラメリン魔術の書『ゲーティア ソロモンの小さき鍵』は、日本語版が魔女の館BOOKSから「シリーズ高等魔術・魔女術体系3」として出ています。絶版ですが、今ならメルカリで買えちゃう。凄いものを出品しておられる方がいるもんだ…。
■「是の日や、天朗らかに気清く~」は王義之の蘭亭序より。THE書道の手本。
■月刊少年俱楽部掲載、平田晋策の『昭和遊撃隊』は青空文庫でも読むことができます。ヒロインの名前は本当は「火+華、代」で、辞書を引いたら読み方は「ヨウ、ヨ」になってしまうんですが、たぶんカヨちゃんと読ませるんだと思います。なんだろうこの「灼眼」みたいなラノベ的センス…。カヨちゃんは健気かつ可愛く「こわいわ」「(敵は)ひどいわ」などと言う少女ですが、冷静に見ると巡洋艦に乗ってモールス信号を理解して毒ガスを扱える女なので、真に受けてはいけません。フーラー博士は自分が開発した爆撃機の設計図をわざわざライバルの博士に送りつけてくれる人で、「3分間待ってやる!」と言って本当に3分待ってくれるタイプの敵です。