それからは“いつも通りの毎日”だ。昨晩ルーピン先生は誰にも事実を言わなかったのか、翌朝のホグワーツは静かで穏やかだった。
「シリウス・ブラックまたしても侵入!」とか「深夜徘徊のため減点!」とか、フリットウィック先生は甲高い声で言わなかったし、誰もそのことを知っている様子はなかった。
ガラハッドは複雑な心地だった。騒げば解決というわけではないけれど、現在の状態は放置しておいて良いようなものではないと思う。
いったい、ブラックはどうやって何度もホグワーツに侵入してくるのだろう?「内部から手引きしてる奴がいるんだろ」と言ったロジャーは、何か心当たりがあるのだろうか…。
ガラハッドがそれとなく質問してみても、ロジャーの返答はパッとしなかった。
いきなり鏡に飛び込んだ日のことについて、ロジャーとマーカスのふたりは、「一体おたくがどこで何をしてきたやら、もはや興味を持つことがしんどい」といった様子だった。彼らは深く質問しないでくれた。
“数占い”の課題が負担で、近頃の彼らは元気がないんだとガラハッドは思った。
事実を言うならば、彼らの気力を削いでいるのはベクトル先生の出す課題の量ではなくて、ガラハッド・オリバンダーその人の素行であったが。
なんせガラハッド・オリバンダーという生き物は、“数占い”の受講生でもないのに毎度課題だけを欲しがって、「へぇ、今はここをやってるのか」などと言ってさらさらと計算術を見せる。恒例になった談話室での勉強会で、彼は受講生ではないのに“数占い”の教師役をしているのである。彼は、「ちょっとやらせて。うわ結構忘れてるなあ」などとぼやきながら、マーカスが苦労して苦労して解いた一問を、「少々手間取った」くらいの速度で解くし、「出来た!」と授業中に騒いだロジャーの鼻をたびたびへし折って、ジルやエルビスたちをニヤニヤさせた。
マーカスは、時々ベッドの中で泣けてくることがある。
こんなに頑張ってるのに、一教科でもガラハッドに及ばない自分はみっともない出来損ないだ、と…。
そういうことまで含めて、すべてが“いつも通り”だった。
うんざりするほどゆっくりと、ホグワーツの春は深まっていった。
イースター休暇のとき、ロジャー・デイビースは「ガラハッドに課題の進捗を見られたくない」という一心で、好んで自分のスペースへと引き籠った。なじられたり憐れまれたりするわけではなくても、つまったり悩んだりする姿は晒したくないものだ。「集中したいんだ」とわざわざ主張し始めたロジャーに、ガラハッドは少々困惑した。
「 え…?ど、どうぞ?? 」
ガラハッドに言わせれば、自分はロジャーの邪魔なんかしたことがない。逆に邪魔されたことなら、星の数ほどもあるけれども。
「マイペースな奴だな」とガラハッドはロジャーのことを思った。「彼らは互いにそう思いあっている」と、マーカス・ベルビィは正しく理解していた。
マーカスは、自分もまた引き籠って課題に取り組むことにした。
マーカスはそっと自分もカーテンを引きながら、「二ヶ月後には試験だからね」と建前を述べてみせた。
そういうわけで左右のカーテンが同時に閉ざされると、ガラハッドはなんだか寂しいような気分になった。
「 ふーん。…ちぇっ 」
“魔法生物飼育学”の課題が多いのかな?自分もふたりと同じ科目を履修しておけばよかったなあ~!
――――そんなふうに一瞬でも思うなんて、自分はすっかりヤキが回っている。
ガラハッドは唇を尖らせるのではなく、皮肉に笑み曲げて自身の幼さを嗤った。
マリエッタに異常さを指摘されて以来、ガラハッドの自嘲癖はとどまるところを知らなかった。
ココロは子供、アタマは大人。
ココロとアタマってひとつなんじゃないの?
たましいってそういえば歳もクソもないよな。
永劫の輪廻を辿っているわけだし…。
ガラハッドは考え事の果てに、「そういえばあいつシバいてなかったな」と思い出した。
ハリー・ポッター、生き残らされた男の子。あいつは、うちの皿をことごとく割ったことよりもずっと酷いことをした。
こればかりはリカバリーしてやれない。
アラベールに本気説教をくらって、ギャリックにとどめを刺されるのがふさわしい。
ガラハッドは、ハリーの顔を見に行くことにした。ふと思いついて、彼は一冊のノートを持って部屋を出て行った。
クィディッチ練習場の一郭にて。
ハリーは、自動ブレーキ機能に頼らず
つまり、テンションは高かったのに急降下したってわけ。
ハリーは、ロッカールームの前にガラハッドの姿を見つけた途端、爪の先まで震撼して後ろに下がった。
「 ヒィ…!? 」
「 よお、ご挨拶だな 」
ガラハッドは皮肉げに言った。
そのニヒルな笑顔の迫力がアラベールそっくりに見えて、ハリーはごくりと生唾を呑んだ。
フレッドとジョージは「ああ…」と察した。彼らは左右に飛び下がって、恭しい動きで処刑人の真似事を始めた。
「 おいたわしやハリー・ポッター、享年13才 」
「 ばちくそ泣かされるかグーで殴られて、彼ここに眠るであろう 」
「「 骨は拾ってやるぜ! 」」
「 ばぁか。そこまでするかよ 」
ガラハッドは呆れた声で言った。彼は「来いよ。わかってるよな?」とハリーに言ったあと(のこのことハリーは近寄っていった)、無言で稲妻型の傷に全力デコピンをぶちこんだだけだった。
ハリーはじったんばったんと悶えた。
「「ヒェ~…」」と双子は肩を寄せ合った。
ガラハッドは指一本でハリーを芝生に沈めたあと、けろりとして持ってきたノートを翳した。
「 精が出るなグリフィンドールチーム。はいコレ、差し入れ 」
フレッドとジョージは不思議そうにノートを受け取った。
ここはグリフィンドールのロッカールームの前なので、コートのほうからは後から後からメンバーがやって来た。アリシアは「あらガラハッド卿じゃない」と片手をあげて、オリバーは「何だそれは?」と不審げにノートを見た。
ガラハッドは説明しなかった。
“いつも通り”のガラハッドの胸ポケットのなかには、今も“忍びの地図”が折りたたまれて眠っている。ガラハッドは、シリウス・ブラックの侵入に気づくためにはもちろんのこと、ルーピン先生の動きを掴むためにも、まだ自分にはこれが必要だと考えるようになった。
つまり、「手放す」と言った手前、フレッドとジョージには嘘を吐いている。
けれど、彼らに「悪いな」と思う気持ちは、少々の贖罪で葬り去ることができるのだ。実利のためには、そのほうが良いだろう。
ノートを開いたグリフィンドール生たちの歓声を、やんわりとした苦笑でガラハッドは受け流した。
「 いいのかい、これを俺たちが貰っても?君たちが立てた予想じゃないか! 」
「 対策案まであって、完璧。午後の練習はこれをやりましょうよ! 」
「 このブラッジャーをねばねばにして糸をひかせる反則、いかにもスリザリンの奴らがやりそう!こいつにひっついちまったら一大事だな 」
ページをめくりながらジョージは言った。嬉しそうな会話が気になって、ハリーは額を押さえたままよろよろと輪のなかに入った。
ハリーは感動した。レイブンクロー生たちが考えた「スリザリンチームが使ってきそうな汚い手」の数々は、グリフィンドールチームの強化に役立つのはもちろん、単純に読み物としても面白かった。
「 絶対優勝する! 」
ハリーは興奮して叫んだ。ガラハッドはポケットに手を突っ込んで、くしゃくしゃに笑うハリーに微笑んだ。
「 フローリアンに手紙書いてやれば?“今年の最下位はハッフルパフ、優勝するのはグリフィンドールです”って 」
「 書きたいな…でも、彼は僕を覚えているかな 」
「 魔法史が得意って言ってる奴の記憶力を疑う? 」
ハリーはニヤつきを噛み殺した。本当に“いつも通り”の感じで、ガラハッドはハリーの不安を笑い飛ばした。
「 煽った代償だよ。“グリフィンドールスペシャルっていう名前の新商品、待ってますよ”くらいは言わなくちゃ 」
ハリーはニッコリと笑った。次の夏休みにグリフィンドールチームのメンバーで、フローリアン・フォーテスキューのアイスクリームパーラーに行けたらどんなにいいだろう。もちろんロンとハーマイオニーにも来て欲しいし、マクゴナガル先生にもアイスを食べて欲しかった。
「良いねえ!」とケイティがぴょんぴょん跳ねた。彼女は好きなアイスの種類を言って、「こーんなのを注文したい!」と手で山型をつくった。
「 …そうだ! 」
アンジェリーナが思い出したように言った。
ガラハッドは、近頃馴れ馴れしく話しかけられることにすっかり慣れていた。実のところ初めて関わるのであるが、非常に自然な感じで会話は成立した。
「 あのこ連れってくれない、ガラハッド卿?気持ち良さそうだけど、そのうち流れ弾をくらうよ。スリザリンの連中、身内以外はゴミだと思ってんだから。たんこぶ出来たって放っとかれるだろうね 」
アンジェリーナは親指で競技場の端を示した。
その辺りは桜の樹が植えられていて、すっかり春爛漫というムードが漂っていた。
ガラハッドは目を丸くした。
涅槃仏も斯くやというポージングで、我が寮きっての変な後輩が樹下で昼寝をしている。
「 あいつか…すまん変な奴が多くて 」
ガラハッドは自分を棚にあげて言った。
アンジェリーナは「よろしく」とひらひらと手を振った。
ひとつしかないクィディッチ競技場は、練習の際時間制になっている。自分たちはもう去らなくてはいけないが、アンジェリーナはルーナのことが心配だった。
「 どうも有り難う。さしずめ、君たちは安全に配慮してくれたってわけだ 」
「 後生が悪いからね。デイビースだって後輩には手を出さないでしょう? 」
「イーッ」とアンジェリーナは白い歯を見せて去った。
レイブンクローにはいないタイプの女子生徒に、さすがにガラハッドは面食らった。
「 えっ…どう返事すればよかった? 」
「 放っとけばいいさ 」
ニヤッとしてフレッドが言った。
勝手に非モテだと思い込まれているが、Fフレッド・ウィーズリーはイニシャルGたちよりも一歩先である。
「 今ので気が済んだんだから 」
いやに断定的な口調で、フレッドはアンジェリーナのことを語った。
よくわからない気分でガラハッドは、手を振ってグリフィンドールチーム一行と別れた。
環境は大きく変わったけれど、自分って奴は変わらずコミュ障なんだよなあ。これでも頑張っているつもりだけど、双子たちみたいにはなれないと思い知らされた。
ルーナ・ラブグッドを揺り起こしに行ったとき、ガラハッドはわざと変なことを言った。「ここで何してるんだ」とか「危ないだろ」とかいう台詞は、自発的に彼女をついてこさせるには向いていない。「そういうことは考えたらわかる」と、感じられる頭脳が彼の頼りだ。桜の樹の下にしゃがみこんで、ガラハッドはクソ真顔で言った。
「 やあ、君は西行になった? 」
「 へ?ん~、どういうこと?今日もイカれてるねえガラハッド… 」
「 “願わくは、花の下にて春死なん” 」
「 ええっ、待って、待ってよォ!それは何の呪文?気になるよォ 」
のそのそとルーナは這い上がった。好奇心の強さを利用されて、彼女は自分から小走りでガラハッドについていった。
彼らはレイブンクロー寮に帰って、飽きるまで談話室で桜の魅力について議論をした。
時は進む、む進は時
自分で思っているほどに、彼には猶予がないだろう
思いが言葉にならないうちに、春は爛れて熟れていく
ガラハッドがセドリックと久しぶりに会話をしたのは、グリフィンドールVSスリザリン戦当日のことだった。その朝、ホグワーツでは春なのに雪が降った。「冬が反撃してきた」とマーカスは言って、「競技場に行くときは、手袋をつけていくべきかな?」とロジャーに聞いた。
スクランブルエッグを取り分けながら、呆れたようにロジャーは言った。
「 そんなの自分で決めろよ 」
「 朝のうちだけだろ。気温が上がれば止むさ。それか、雨になる 」
「 Sirが言うなら、そうなのね 」
「 ―――… 」
…おたくは、論理的に考えるっていうことをご存知ない!?
ガラハッドは経験そして思考のすえ、このとき正しく我慢をして、パドマ・パチルに対する反論を飲み込んだ。マーカスとパドマのふたりは、ただ「寒いね」という事実を機に雑談をしたいだけなのだ。隣のマイケル・コーナーは、「赤い髪にしていく?」と正面のロジャーに話しかけた。ガラハッドは黙ってソーセージを食べた。「どんな髪型がイカすか」という話題において、自分にコメントできることは何もない。
折しも火のついた花火が飛んできたので、ガラハッドは素早くはたき落として足で踏みにじった。楽しんで味わっていた至高の一口を、ゴクッと飲み込むはめになる忙しなさといったら!さっきからレイブンクローとハッフルパフのテーブルの上空では、グリフィンドールとスリザリン双方の煽りが飛び交っていた。罵声だけでなくカエル花火やクソ爆弾も飛び交っており、迷惑なことこのうえない。落ち着いて朝食のとれない環境に、ガラハッドはうんざりしはじめた。二寮は日頃から対立しているので、どうせ当日はこうなるだろうとは思っていたが…。
「 凄い熱気だよね 」
クソ爆弾を目で追っていたガラハッドは、近くから聞こえた声にハッとした。振り返って背中合わせの席を見ると、セドリックが苦笑いしていた。
あれから―――充分な時間が過ぎたと感じることで、ガラハッドはセドリックとそう気不味がらずに話をすることができた。
内容は大したものではなかった。
セドリックという話し相手を得たことで、ガラハッドはいろいろと不満を言った。
「 グリフィンドールとスリザリンの奴ら、昨日も廊下で喧嘩してたよな?たかがスポーツに、どっちもイカレてるよ。優勝がかかってるってことはわかるけど、選手でもない奴らが小競り合うのはダサい! 」
「 あはは、あれは酷かったね… 」
「 単純に迷惑なんだよな。競技場でやれ、競技場で 」
大広間の騒音は酷いものだった。
赤い寮旗が波打っているその下で、キャプテンのオリバー・ウッドは、「勝つのはグリフィンドォォオルッ」と雄叫びをあげていた。負ければ恥になる振る舞いなのに、そうやって自分を追い込む作戦らしい。
一方、スリザリンのほうも負けてはいなかった。最も人数が少ない寮であるのに、負けない勢いがあるだけで凄い。
ガラハッドは、食事もそこそこに立ち去ろうとした。すると彼が腰をあげたのを見つけて、勢いよく立ち上がった生徒がいた。
既に紅蓮の競技用ローブに着替えている、ハリー・ポッターだ。
彼は、ウッドから連日護衛をつけられている立場にも関わらず、いかにもシーカーといった俊敏さで、グリフィンドールのテーブルから走ってガラハッドのところへと来た。「あっ!」という思いでそれを見竦めたのは、絶対に自分だけじゃない――――そんなふうにセドリックは思った。
「 ガラハッド! 」
ハリーは、試合前の興奮に浮かされていた。弟のような仕草で、彼はニヤッと笑ってガラハッドに耳打ちをした。
「 ねえ!僕、今朝
「 へ? 」
ガラハッドはぽかんとしてしまった。
「いきなり何の話だ?」という驚きもあったが、理解が追いついたあとも、ガラハッドはたっぷり困惑させられたのだった。
ハイになっているハリーは言うだけ言って、誇らしげな顔つきでまたグリフィンドールのテーブルへと戻っていった。「僕は
「 ―――…? 」
ガラハッドは顎をさすった。
今更、
「あいつ、本当に占いを気に病んでいたんだなあ」とガラハッドは思った。その割には自分は、彼から相談を受けたとき、ふざけたような返事をしたような気がする。
意に添うことが難しいとき、自分はついついそうしてしまうから…。
なにぶん九月のことなので、何を言ったやら覚えていないんだけど…。
もっと真剣に考えてやるべきだったんだな。
ガラハッドは表情を曇らせた。九月にホグワーツですごしはじめてから今の今まで、ハリーが実際に犬を見たと言い出すのはこれが初めてだ。
“実体を持つ犬”はそりゃあ
むしろ危険だ。犬なんて、普通ホグワーツにはいないじゃないか。ペットとして許可された動物じゃないから、禁じられた森で暮らしている野犬ということになる。それって、野良犬というよりももはや山犬だ。狼のような逞しさがあって、群れを形成して生きている奴ら。「危険な生き物」といえば、ガラハッドは「熊」と並んでこの「山犬」を思い浮かべる―――――落ち着かない気分だった。
「 どうしたの? 」
セドリックも腰をあげた。
セドリックはガラハッドに声をかけた。席を立ってすぐのところで、ガラハッドはハリーに耳打ちされて以来突っ立っていた。
セドリックに誘い出されるようにして、ガラハッドは阿鼻叫喚の大広間から出た。たとえどこで何が炸裂して鳴っていようとも、ファッション談義を続けるロジャーはヤバい奴だし、パドマとイチャイチャしているマーカスは神経が太い――――自分は繊細なのだ!と、図々しくもガラハッドは思っている。
玄関ホールは静かで、喧騒が遠いものになってホッとさせられた。物静かな少年であるセドリックは、ガラハッドにとってまったく不快ではない口ぶりでもう一度言った。
「 どうしたの?ハリーが、君に何か言ったよね 」
踏み込みすぎな問いかな、とセドリックは不安だった。
しかしガラハッドはきっぱりと言った。隠すそぶりなどなくて、セドリックの予想よりもくだらない内容を口にした。
「 犬だ。黒くて、大きな犬を見たっていう話を聞いた 」
「 へえ… 」
…そんなことをわざわざ伝えにくる関係って何?
セドリックはモヤモヤして、ホールの天井を熱心に眺めた。彼は素晴らしい角度の陽光と、装飾の美に関心をひかれたフリをした。
そんなことは知らないガラハッドは、あくまで自分の世界に没頭していた。
「 ホグワーツ構内だぞ?鎖のひとつもつけられないで、犬がうろうろしていることなんかあり得ないだろう。ハリーは、見間違いをしたんじゃないかな。それにしては、妙に具体的なディテールがあって――――見間違えたんだとしたら、何を犬だと勘違いしたんだろう。君は、どう思う? 」
「 うーん、うろつく犬か…黒いんだね。君は、ドイルでも連想していそうだね 」
「 ああ、まさにアレさ。まさか、同じ犬じゃないよな…?夏にハリーがうちに来ていたときに、普通じゃない雰囲気の犬を見たんだ。まるで、パスカヴィル家の犬みたいだった 」
ガラハッドは作品名をあげた。
ガラハッドはこのときありありと、グリンゴッツ前の出来事を思い出していた。
セドリックは嬉しくて微笑んだ――――ガラハッドと、この手の話ができるのは自分だけの筈だ。
セドリックがガラハッドに視線やったとき、彼はじっと前だけを見ていた。過去を回顧していたのだ。
ガラハッド・オリバンダーは思い出す。
自分は、その昔日本でドイルの『パスカヴィル家の犬』を読んだとき、「へええ」と膝を打ち、遠い異国に親近感を覚えたものだ、と。「英国の田舎にも、ここらと似たようなイヌガミの風習があるんだな」と思った。当時の自分はまさか、死んで生まれてUK国民になる日が来るなんて思っていなかったので。
その犬は、邪な人間に冷たい湖沼に浸けられて
苦しんで、苦しんで、
世にもおぞましい咆哮を
あげている。
そのうえ
唇に
リンを塗られて
鬼火を吐いて呻く。
怪異とは
悪意。しかして本質は悲劇。
かの犬は、濃霧が月を煙す夜、解き放たれて本能のままに猛り狂い、パスカヴィル家の者を惨殺する!
そんなあらすじだった筈である。
コナン・ドイルは19世紀の作家なので、ガラハッドはその昔ひととおり読んだことがある。あのころ読んだ物語の世界に、彼という人は生きているのだ。
けれども“戦前”は遠くになりにけり。
セドリックに言わせると、ガラハッドはマグル小説ファンとして古典派である。古典というほどでもないビッグタイトルについては、セドリックのほうがずっと詳しい。
ガラハッドにこっちを向いて欲しくて、セドリックは饒舌になった。
「 それは怖い。というより、つらいね、もしもあの犬みたいな犬が実在するのなら。凄く悲しいことだよ。ねえ君は、『メグレ警視シリーズ』は読んだことがあるかい?ないなら、貸してあげるよ。シムノンの犬は黄色くて、ドイルのほど可哀想じゃない 」
「 ふぅん、そいつも人を襲う犬? 」
「 違うよ。いいのかい、ネタバレしちゃっても?―――事件は、すべてある目的のために連続して起こされていて、黄色い犬は、きまって現場付近をさまようだけなんだ。でも、それが謎めいていて素敵なんだよ。マグルならではの技を使う密室モノより、メグレ警視シリーズは取っつきやすいと思うなあ。脱獄囚の話とセットで収録されててね…まあこっちのは、殺人狂ではなくて冤罪なんだけど。一冊まるごと、『パスカヴィル家の犬』オマージュ短編集ってわけさ 」
「 へえ!そいつは面白そうだな。ストーリー自体は違っていて、ドイルを読んだことがある人間にだけわかる仕掛けがあるってこと? 」
「 そうなんだ。メタ要素もいいけど、僕は単純にメグレ警視が好き。彼はトリックを暴くんじゃなくて――――あっ 」
セドリックはここで我に返った。
喋っているうちに楽しくなってきて、本来の目的を失念したのでは意味がない。セドリックはガラハッドの顔色を見た。
不思議そうな顔つきで、ガラハッドはこちらのことを眺めていた。「ごめん何の話だったけ?」と慌てたセドリックに、ガラハッドは顎を撫でながら言った。
「 いや、いい。続けて。君のおすすめが外れたことってない。彼はトリックを暴くんじゃなくて…何? 」
「 えっと、彼は《いかに殺したか》よりも、《どうして殺してしまうに至ったか》のほうを解く探偵なんだ。彼はお腹一杯に食べてから、じっくり犯人の心を紐解くんだよ 」
「 そりゃあそこが最大のミステリーだもんな 」
ガラハッドは気負いなく言った。
「そういうところが格好いい」と、セドリック・ディゴリーは思うのである。
「 一番乗りで行こう 」
折角の機会を逃したくはない。振り返りながらセドリックは言った。彼はガラハッドのことを追いかけて、誰かがついてくるんじゃないかと思った。
ガラハッドは「ああ」と頷いた。彼のほうもセドリックを追ってくる者がいて、ここもじきにうるさくなるだろうと思った。
外に出るとまだ雪がちらついていたが、彼らは格別寒いとは感じなかった。なんてことはない雑談をしながら、ふたりは競技場に向かった。
時は進む、む進は時
思い出を書き留めることはできないから、言葉によってできることはここまでだ。
少年らの熱気に触れて、舞い降りた雪は儚く消えていった。
■タイトルとラスト(体温による雪解け)は三島由紀夫の小説『豊饒の海』の第一部より。「春の雪」の主人公は精神的に子供で、その果てに二十歳で死ぬことになり、第二部の主人公へと転生する。『豊穣の海』は月面にある”豊かの海”(豊かな海があるかのように見える荒野)のことで、「実際はそこには何もない」とはマルグリット・ユルスナールの解釈。
■「思い出を書き留めることはできない」はユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』から