消えた。
消えちゃった。
そっか僕消えるんだ――――…なんて、殊勝に考えて受け入れる子供が世界のどこにいる?
素っ頓狂な声をあげて、ガラハッド・オリバンダーは水入りのバケツから手を引っこ抜いた。普通に手首から先に指はついていたし、水はぬらぬらじゃぶじゃぶと、不思議に揺れ続けて光り続けた。
「 雑巾…雑巾どこいった!? 」
ガラハッドは左手で右手を撫でながら言った。ばくばくと心臓が脈打ちすぎて、肋骨を突き破って飛び出してしまいそうだった。
幾度か生唾を呑みこんだあと、ガラハッドは裏返った声でそうっと呼びかけた。
「 ハリー?どうしてここにいるんだよ… 」
透明マントを着た彼だと思ったのだ。
どうやって、ハリーは雑巾まで洗いながら透明にしているのか?
疑問に思ってガラハッドが観察していると、バチッという激しい音がした。「あ、これは透明マントじゃない!」と、音を聞くだけでガラハッドにはわかった。
輪ゴム鉄砲をくらったような気分!
ガラハッドが咄嗟に瞑ってしまった目を開けると、ギョロッとした目つきの珍獣が間近に迫っていた。
「 うわわぁ、近っ 」
「 大正解!ぼっちゃまは大正解でございます!ハリー・ポッターに救われた、ドビーめはハリー・ポッターの妖精なのでございます!ドビーは雑巾を洗いましたでございます! 」
甲高い声で珍獣は叫んだ。
「どうぞ!」とドビーは綺麗になった雑巾を恭しく差し出した。勢いにおされて、ガラハッドはそれを両手で受け取り、おずおずとしゃくるような会釈をした。
「わぁ不思議な生き物がいる」と、他の子供たちもガラハッドとドビーが話していることに気がついた。
好奇心に手足を生やして、彼らはドビーのことを取り囲んだ。
ドビーはパタパタと耳を動かした。ガラハッドはクスクスと笑った。
「 吃驚したぁ。いるなら言ってよ!君たちの透明魔法、凄すぎて心臓に悪い! 」
「 悪い子!ドビーは本当なら隠れるのでございます。ドビーはお仕事なのでございます。ドビーは悪い子!呼ばれたから姿をあらわした! 」
「 透明じゃなくたって雑巾はしぼれるじゃないか。それに、今は僕たちの仕事だよ 」
…おや?と、発言が済んだ後にガラハッドは違和感を覚えた。そういえば、さっきから誰も「雑巾の絞りかたがわからな~い」「うまく絞れな~い」と、甘やかされた家の子供お決まりのぼやきを垂れていない。この発言、マグル界ではうすらバカである証明だが、魔法界育ちであれば当然の感想であるのに…。
もしかして…と思ってホールを見回すと、しんどすぎて床でバテている子供たちの向こうで、あっちのバケツの水もそっちのバケツの水も、ゆらゆらと動いてきらめいていた。
妖精が雑巾を洗っているのだ。
姿が消えているから、水の動きでしかわからないだけ。
ガラハッドは、このことに気づかなかった自分に衝撃を受けた。日本風に言うならば、我々は、みずから進んで罰則を受けるこの期に及んで、
ガラハッドがちょっと声を出せないでいるうちに、後輩たちがドビーのことを質問攻めにした。
姿をあらわしている屋敷しもべ妖精を見るのは、魔法界の子供といえども滅多にないことである。
テオが口火を切った。
「 ハリー・ポッターの妖精?凄い!ハリー・ポッターは、ホグワーツにまで自分の屋敷しもべ妖精を持ち込むんだね! 」
「 それは違うのでございます!ドビーはハリー・ポッターの持ち物ではないでございます! 」
「 どういうこと?ハリー・ポッターに仕えているんじゃないの? 」
「 ドビーはハリー・ポッターにお仕えします妖精です! 」
「 変だよ。ハリー・ポッターのしもべ妖精が、こんなところで雑巾を洗うかい? 」
「 今はしもべじゃないけど、いずれハリー・ポッターに仕えたいと思っているってこと? 」
「 英語が変だから、わかんない 」
飽きたようにケビンが言った。
「 ―――…! 」
ガラハッドはドビーを庇わなかった。ドビーに代わってドビーの状況を説明してやることよりも、このとき不意に違うことのほうに気がいったからだ。
( あっ―――! )
ナイスだケビン、よくぞ気がついた!
ドビーの英語はたしかにへんてこりんだ。そのことが、ガラハッドには急に強烈に魅力的に思えた。
なぁんだこんなに身近に、“中つ国”の文化を遺す者たちがいたんだ!
“指輪戦争”が終わって“太陽の第四紀”がきて以来、人間以外の“口を利く種族”は衰退の一途である。彼らは古い文化を継承し、人間族のように進歩していない。と―――…一年生のときの魔法史の教科書に書いてあったんだよな。「歴史教科書までファンタジー!」と、当時は強く驚かされたので、格別によく覚えているのだ。
ガラハッドはニコッとした。
きっと、我々にとってわかりやすい通名を使っているだけで、妖精ドビーの本名はニュンガ・ロ・イムとかなんとか…わからないけど…多分、そういう感じの音だろうな!行き詰まり気味だったシンダール語の学習に、光明が見えた気がした。
「 手紙を書きたい子がいるんだ 」
名前は明かせない。
ドビーの立場からしてみれば、あの子に送る手紙を書く手伝いをするのは嫌だろう。
ガラハッドは囁いて身を乗り出した。
ドビーは、小首を傾げて少し不気味でもある目つきのままだったが、ガラハッドが真剣さを伝えるために居ずまいを正すと、耳の先端をパタパタと動かした。
ガラハッドは、ポケットから手帳とペンを取り出した。
空いているページを開いて、ガラハッドはいそいそとドビーに質問をした。
「 なあ君の、ドビーの『ビー』っていう音は、フェアノール文字を使ってどう書くの?昔はなかった音だから、辞書をひいても表記がわからなくて。後ろに『ク』がついたら、階梯は変化する? 」
ガラハッドはドビーに三色ボールペンを渡した。ドビーはそれを受け取ったが、書くためではなくまるで杖を掴むかのようにペンを掴んだ。
見たことのない獲物を手にすることになって、ドビーは得意げに背伸びしてプラスチック製のペンを翳した。形状・材質どれをとっても、この業物は見たことがない代物だ!
「 ヒャッホー! 」
ドビーは跳ね回ってペンをふるった。
ひとりでお祭りを始めた奇妙な妖精相手にも、ガラハッドは声を張って我を貫こうとした。
「 ねえあの、聞いてる?『ビーク』っていう名前をここに書いてほしい! 」
竜虎相討つイカれたマッチ。
ドビーとガラハッドの噛み合わない会話は、傍目にはそんな状態に見えた。
さしものガラハッド卿も、自由すぎる妖精には翻弄されるようだ!
この土産話を持ち帰れるだけで、このたびガラハッドと同じ班になれた後輩たちは大満足だった。けらけらクスクスと笑って、彼らは二者のやりとりを見守った。
「 ビークはビークでございます!ドビーめはドビーでございます! 」
「 ビークじゃなくて、バックビーク!『バック』で区切るのは間違ってないだろ? 」
「 ハリー・ポッターは靴下をくださった!ガラハッド・オリバンダーは、何か変なものをくださった!嬉しいいいいいい 」
「 変なものって何だよ!そいつは、凄いアイテムなんだぞ。それに、あげるわけじゃ… 」
「 ガラハッド・オリバンダー万歳!ハリー・ポッターの次に偉い!ヒャッホォォォウ!! 」
バチッという音と共にドビーは消えた。四つん這いの状態からシーカーのように手を伸ばしていたガラハッドは、「ええええ!?」と叫んでそのまま床にべちゃっと突っ伏した。
まあなんと情けない姿か。
昨夜はあれほど如才なく他のプレイヤーを騙したくせに、「僕のボールペン…」と彼はおおいに残念がって、負けのこんだ生徒たちをすっきりさせた。
また新しい笑える話題ができて、翌日もその翌日も、レイブンクロー生たちは楽しい気分だった。
…と、いう叙述は問題に関して他人事な外野に、不公平にも寄り添いすぎなものであって!!!
それからのこと、愛用の三色ボールペンを持っていかれたガラハッド・オリバンダーは、この一件を笑い話として消費されることにも腹が立たないくらい、「どうしよう…どうしよう…」という感情にとりつかれ、眉間の皺を凝り固まらせていた。
ただのペンだったら、こんなふうに頭を抱えないのだ。いくら便利だから気に入っていたものだといっても、「まあ仕方ないか」と新しいものを買って済ませればいいんだから…。
でも、あの三色ボールペンは特別だ。あれは、ハーマイオニーの両親が、昨年のクリスマスにプレゼントしてくださった物だもの。
「愛用している」という事実は伝わっているから、今年はマグル界のお菓子と一緒に、専用の替え芯までたっぷりいただいた。
なのに失くしちゃった!
いいや犯人はわかっているんだし、取り返せばいいのだけれど、厨房や洗濯室に乗り込んでドビーを探し回り、あんなに喜んでいたドビーへと、「返せよ。君には必要ないだろ」と突きつけるのは、とても酷いことのような気がする…。
ペンの握り方を思い返すと否応なく把握させられる。
彼ら屋敷しもべ妖精は、書く習慣がまったくないのだ!
マジで?現代におけるヒトでも小鬼でもない‟口を利く種族”って、
「意図せずエグいものを見せつけられた…」と、元大学生としてガラハッドは苦い気分だ。そして思ったことを流していけるほどに、今のガラハッドはこなれていなかった。
追い討ちをかけられた、という部分もある。
特定の種族が文字を奪われてるのって、エグくない?―――この感覚を共有してくれる人って、ホグワーツ広しといえども多分ほとんどいない。
ガラハッドがこれについて共感を求めたとき、マーカス・ベルビィは次のように言った。少しは賢いところを見せたいと、マーカスは常々考えているので――――「思うに、しもべ妖精に文字を教えないのは、教えると彼らが盗みを働くからだね」と。
「もちろんその面はあるだろうな」と感じたゆえに、ますますガラハッドは苦い気分になった。
そんな事情からであろうか。
数日後、図書室で偶然ハーマイオニーを見かけたとき、ガラハッドは「バレないし、わざわ言わないでおこう」とは少しも思わずに、自分から彼女に近づいていって、正直にボールペンを失ったと話した。彼はかいつまんで事情を説明して、「今はドビーが持っている」という点も含めてこれを伝えた。
「 まぁ… 」
ハーマイオニーは、そのまま倒れて気絶していきそうな声で返事をした。
「 そうなの…。わざわざいいのに、律儀ね…パパとママは、全然嫌な顔をしないと思うわ。屋敷しもべ妖精って呼ばれる種族がいるって、わたし、両親に話していて… 」
話しているうちにしんどくなってきて、ハーマイオニーはぽすんと本棚に凭れた。
「試験直前!」という意識で頭をいっぱいにすることで、彼女は迫りくる“死刑執行の日”を前に、なんとか悲しみで叫び出さないようにしていた。
ふわふわの癖っ毛と同じくらい、彼女の脳内は現在散らかっている。
今って、何日の何時かしら?―――頑張れば頑張るほどわけがわからない。
ガラハッドは、マーカスにした話と同じ話をハーマイオニーにもした。
ハーマイオニーは眠そうにそれを聞いていた。
ガラハッドは極力早口で話した。言いかけてしまったから最後まで言うけれども、まあやっぱり、こんなのは“どうでもいい話”だよなと、ロジャーの反応を思い出しつつ話していたら…。
なんだかもう「語って消化したいだけ」のくだりで、ハーマイオニーは、深い隈を湛えた目をぱっと開き、「ええっ」と溜め息のように言って、それから大人の女性がよくするように、さっと手で口許をおさえた。
「 なんですって―――ペンの持ち方も知らない、今時そんな人たちがいるの? 」
「 人っていうか、妖精だけど。な~んかさあ、ああいうのを見せつけられると、急に洗濯物とかを出しづらくなるよな!その気になれば自分でできるわけだし… 」
「 そうね。ああ本当に、そうね。―――…ねえわたし、ホグワーツで暮らし始める前は、よく両親と一緒に家で映画を観たの 」
「 家で? 」
「 そう家で。いろんな映画を観てきたわ。ママの趣味なのよ。それでね、『ドライビングMissデイジー』という作品があって――――W主人公モノっていうのかしら?男女の話なんだけど、恋愛モノじゃないの。わたしそういうのが好き。男性のほうは黒人!デイジーに仕える運転手役ね。彼、普通なんだけど時々困るのよ。入れるトイレがなくて、『トイレに行かせてください』って女主人に言えなかったり―――同僚のお墓に、花を供えに行けなかったり… 」
字が読めないからだ。
ガラハッドはすぐにそれがわかった。
得難い聞き手を得て、ハーマイオニーはつらつらと映画談義をした。
「 彼ホークっていうの。ホークは立ち尽くすわ…ずらっと墓石が並ぶ丘の麓で…。『何してるの?』って、ホークは花を預けたデイジーに責められる―――悪気はないのよ?あのシーン凄く印象に残ってるわ!ねえ屋敷しもべ妖精たちが置かれている状況って、これと同じことじゃない?1940年代後半から70年代の、アメリカ合衆国南部とおんなじ! 」
「 うーんそのあたりのアメリカのこと、僕はよく知らないけど。ドビーのことを見たとき、僕も似たような連想をしたなあ。それでうげぇッと思ったんだ。『民族』っていう小説があってさ…今となっては、もう絶版かもしれない。日本の作品で、凄い冒険小説を書いてきた作家の作品なんだ。ヒットメーカーで、彼はロマンってものを知り尽くしてた。学園物も良かった!そういう作家が新作を出すと、期待するだろ?今度はどんな胸のすく展開が見られるんだろうって――――『民族』は、そういった点では大外れだったね 」
一度言葉を切って、ガラハッドは少し考え込んだ。
自分から話題に出したものの、『民族』の具体的なストーリーを全然思い出せなかったのだ。ただ「期待したのにつまらなかった」という思いと、彼の作品と共に育ってずっと夢を見ていた、自分の愚かさを突きつけられて「傷ついた」という感情しか覚えていなくて…。
けれど、数十年の時を越えてこの読後感なのである。仔細は忘れたけど、受けた爪痕は深い。
あの作品、今となっては「よく検閲を通ったな?」という気がしないでもない。嗚呼あれが戦時に検閲を通ってしまう程度には、習慣的に読書をする人間でも、うわべだけさらって読んだ気になるのが一般的なんだろうな。
作家の立場が良かったのかな?
あの作家は、陸軍大学校の関係者なので。
だからこそ戦地での冒険譚が面白かったんだよなあ!主人公は、いつものとおり特命を受けた士官で、剣の腕が立つ快男児で、そしていつものとおりに…
「 …『民族』の主人公は、北方に着任して現地の土人をひとり手下として使うんだ。これはいつものながれで、いつもは、そこから面白くなって西へ東へ。難敵が出てきて、絶体絶命かというところで快刀乱麻を断つ。連載だから、山場は小刻みに。けども、『民族』が出た頃には雑誌ってかなり減ってて…―――――『民族』は、ぽーんといきなり文庫で出た。だから自由に書けたのかな?そこに出てくる現地アイヌ人は、皇軍に従っているはずなんだけど、抵抗するんだ…こそこそと隠れて、嫌な感じ。嫌な感じといえば、敵らしい敵がハッキリ出てこないのもスカッとしなかった。読んでいるうちに、突きつけられてオエッとくるものがあった。こっちは楽しみたくて読んでいるのに、妙な鬱展開が続くんだ。それで、日東健児である主人公のほうの民族意識に共感させられながら、『ああ異民族の尊厳を奪って支配下に置くっていうのは、酷いことだよな』とか思わされちゃう!そこで読むのをやめた人は多いと思う。でもまあ、僕はちょっと活字中毒の節があるから、暇にあかしてダラダラ続きを読んじゃったわけで―――それで―――…主人公は定番通りハイスペックなのに、欠陥が見えてきて、勝手にショックを受けてたよ 」
ガラハッドは笑うしかなかった。
自虐も皮肉も通り越して、「まいりました」という様相の笑いだ。
ガラハッドの趣味の話を、ハーマイオニーは真剣に聞いてくれた。両手で本を抱きしめて、彼女はこくこくと何度も小さく頷いた。
泣き出しそうな顔つきで、彼女は続きをうながした。
「 …彼は、アイヌのヒロインに恋をするんだけど、その顛末がまた秀逸でさ。ハハハ、身につまされるよ!そういえば少年小説の世界って、ヒロインの内面はそんなに書かれないんだよな。まったく書かれないわけじゃないんだけど―――まあ少々、不自然であっても問題にされないというか――――『民族』の主人公は、怒りに駆られて最後にはヒロインを撃ってしまう。信じられるアイヌでありそうだった、手下として使っていた男のほうにヒロインは恋をしていて―――愛し合うふたりに裏切られて、それを力で捻じ伏せる!
「 わかるわぁ…あるある! 」
ハーマイオニーは何度も深く頷いた。あまり自寮内では習性が発揮される機会がないが、彼女も大概なオタク気質だ。
「 『ドライビングMissデイジー』の終盤のほう!デイジーもホークもじゅうぶん歳をとって、デイジーの考え方が変わってくるわけね…―――嗚呼あの雰囲気、是非実際に観てほしいわ!感動的だな?って、一瞬思わされるながれがあるんです。あるときデイジーはキング牧師の説教を聞くために、講演夕食会の予約をとるの。行ったら後ろ指をさされる会よ。でも、彼女もまたユダヤ系だから、彼の言葉を聞こうと考え始めるきっかけがあったの。それから、いろいろあってデイジーは勇気を出してホークを夕食会に誘います… 」
「 主人と運転士なのに? 」
「 そう!そこがミソなのよわかってるじゃない。素敵だと思わない?友情が立場を超えたの!けれども黒人運転士のホークは、デイジーの誘いに対してなんて言ったと思う? 」
「 うーん… 」
「 友人だから言えたことだとは思うんだけど…。“勇気を出して誘う”なんて、所詮誘ってあげられる側の自己満足だわ。それがグサッとくる台詞! 」
「当ててみて」とハーマイオニーは肩を揺らした。
ガラハッドは上を向いて顎を撫でた。
ハーマイオニーが日常で時々思い出す、映画内のトラウマ台詞を予想せよとな?楽しい出題だが、どうにも答えを絞り込みづらい。
「ヒントちょうだい」と指を立てて言った彼に、ハーマイオニーは疲れきっていたはずの顔を輝かせた。
「 わたし、どこに誘われたって、去年声をかけてくれなかった子にはこう思うの。『あなたとがいいわ』なんて言われたら、黙って内心こう思ってる! 」
「 魔女だなあ君は。なるほど、だいたいわかった気がする―――あれだろ、『本当にそう思っているんだったら、どうしてあの頃は誘わなかったんですか?』みたいなやつだ 」
「 大正解! 」
ガラハッドは嬉しくなった。
ボールペンの件は気にしないでもらえたし、思うがままにモヤモヤを吐き出せたし、突然の映画クイズには正解できたし、「良いこと尽くめ」ってこういうこと。
ハーマイオニーとの雑談はとても楽しい。
楽しい時間って、一瞬で過ぎる。
ドサドサッと誰かが本を落とした音がして、ガラハッドは音のした方向を見て首を伸ばした。
隣の隣の本棚の列くらいか?
リスのように飛び上がったハーマイオニーは、時計を確認して「ヒィッ」と息を呑んだ。
彼女は焦って立ち去ろうとした。
「 ――…! 」
言葉にして声に出さなかったけれど。
え、行かないでほしいなと、ガラハッドがハーマイオニーに感じたときだ。
ハーマイオニーのほうも「ガラハッドに絶対音のした方向に歩いていってほしくない!後ろを向いてほしくもない!」と強烈に思った。
えいっ!!!とハーマイオニーは行動に踏み切った。
「 ――…ッ!?!? 」
決して抱きつかれたわけではない。むんずと襟首を掴まれて、そのうえしゃがまれて生きた遮蔽物へとされただけ。
しかしガラハッドは、ドキッとした自覚を最後に完全停止した。
不整脈。宇宙の神秘を見た顔。
精神と時の部屋の住人。
「ふぅ…!」とハーマイオニーは息をついた。ガラハッドとの体格差を生かして、彼女は“たった今彼の背後を駆け抜けていった自分”に間一髪で見つからずに済んだ。
さてそれからが一大事件だ。
「 ―――…っ 」
息を呑んでハーマイオニー・グレンジャーは考える。
えーっとここから、どんな顔をして彼と向き合えばいいのかしら?勢いで密着してしまったけど、襟首を離して適度な距離に戻る瞬間、お互いの顔を見ることは避けられないだろう。いきなりひっつかんで壁にしてしまったわけだし、「ごめんなさい」だって言わないといけない。
「今の何だったの?」と質問されたらどうしよう?
「背後の何かを見せたくなかったんだよね?」と、優秀な彼は看破し“秘密”に勘づくかも…。
それはいけないってマクゴナガル先生がおっしゃってたのに!
意を決してハーマイオニーが後ずさって顔を上げると、ガラハッド・木偶の棒・オリバンダーは、虚空の一点を見据えてまだ静止していた。なんということでしょう!彼の顔面赤面症は、奇妙にもウィルス性である可能性がある。コンマ数秒の潜伏期間を経て、ハーマイオニー・グレンジャーもこれに感染した。
「 ―――… 」
「 ―――… 」
この沈黙っていつまで続くの?
「好きな子できたの~」とは、幼児でもまあまあ言う言葉。
「僕、痛いの平気だよ!」みたいな意味不明のドヤりを、男児とは往々にしてしてしまうものなり。
ガラハッド・オリバンダーは宣言した。
「 僕、巴投げされても受けれるから 」
「 え???そう 」
「 次はぶっ飛ばしてもいいよ 」
「 そう…それは助かるわ…? 」
一体何が助かるんだか。
明らかにどうかしているわけであるが、彼という人間はそれからもなんとなく暮らせた。
別に、そんなの当然だ。なんせそこらの企業のオフィスには、幼児としか思えない素行をするおじさんが、そこそこの確率で存在して、それなりの地位に就いていたりする。どだいそういう社会なのであるから、ひとりぐらい似たようなのが増えたって支障はない。
五月は去ろうとしていた。
つまり、彼は変わるだろう。
美しかったあの日々に、これからの日々を復讐されるまい。
そんなあやまちを犯すまい。
いずれ彼はそのように誓う。二十歳よりも先の命を生きるときに。
それはまだ何年も先のことなのだけれど、歳を重ねた者には「もうすぐ」に見えた。
あるときフリットウィック先生は、ガラハッドを自分の執務室に招いて、他の子には内緒のとっておきのお話を聞かせてやった。「呼び出しですか?」とか「なんで僕だけ?」とか、その頃にはガラハッドはがたがた言わなかった。
フリットウィック先生が“その日”にガラハッドを呼び出したのは、その日が新月の翌昼だったからで、月が死に生まれ変わるのと同時に、取り組んでいた魔術が完成したからだ。
仔細の説明を始める前に、フリットウィック先生はそれの現物を取り出してみせた。紫色の絹の包みを開いて、彼が取り出したのは一本のナイフだ。
天下の呪文学教授に清められ研がれて祝福されて、あまりに綺麗に見違えたので、ガラハッドは初めそれが何であるかわからなかった。
他でもない自分が、武装解除呪文でシリウス・ブラックから奪ったものであるのに…。
「あのときのナイフだよ」とフリットウィック先生に説明されて、ガラハッドはあんぐりと口を開けた。
「 ええっ凄い、すっかり霊刀じゃないですか!ええっそんな!触ってもいいんですか!? 」
知識のあるはしゃぐ子って可愛らしい。
フリットウィック先生はにっこり微笑んで、「もちろんいいよ」と優しい声で言った。近頃の様子もよく知ったうえで、フリットウィック先生はガラハッドにナイフを渡すことを危ういとは思わなかった。
杖職人の子だからかハロウィンの夜にやってきたからか――――かねてからのことだが、ガラハッド・オリバンダーは刃物を怖れない。
機能を知らないからではなく、能く扱えるからこそ無闇に怖れない。
素晴らしいことではないか。
彼は、新たにあつらえられた鞘の鯉口を確かめて、ナイフを水平に構えて刃の厚みの傾斜角度を確認している。それから刃文を楽しんでいる。
つまり、どこを見るべきかがわかっている見方をしている。
小さな身体を執務椅子に沈めて、フリットウィック先生はキャキャキャと笑った。
「 良いナイフでしょう?わたしは、木材よりも金属の相手のほうがずっと得意なんです。そのナイフには、元々なぁんの悪い呪いもかかっていませんでした。そこにチョイチョイの…チョッとね!さて、それはもう君のものですよガラハッド。君が、シリウス・ブラックから奪ったのだと聞いています…聞いたときには驚きました… 」
「 ええっ!いいんですかフリットウィック先生!? 」
やったー!…とはさすがにガラハッドは応じなかった。
客観的な評価がどうであろうとも、本人はいたって本気で常識人を自称している。
ガラハッドは真顔で次のように言った。
「 刃物ですよ?凶器にもなるんで、生徒に与えるべきではないですよ 」
「 どんな妖刀だって杖よりは安全だよ? 」
「 うぐぐ、確かに。ナイフからは光線出ないもんなぁ 」
「 いずれ出させてみたいという思いはあります 」
真顔でフリットウィック先生は言った。
ガラハッドはこのとき強く思った。
( 改めて、ホグワーツってどうかしてるよ… )
ガラハッドはそっと刀身を鞘に仕舞った。空気をピンとさせるような鋭さは、いかにも破邪の霊刀の風格で、目に入っているとリラックスできない。
先生の厚意は嬉しいけれども、ガラハッドはぬーんと唇を尖らせた。
「 そうはいってもですね~ 」
ガラハッドが思うに、安全の面や社会通念上問題ないといっても、ひとりの生徒の分際で、こんな立派なものをいただくのは過分である。
シリウス・ブラックから奪ったときのままの、錆がついて刃こぼれした状態で払い下げられるならまだしもだ。この神聖な気配を纏うナイフには、小鬼の力に呪文の力、最高峰の技術が詰まっているのだから…!
職人から値切ってはいけませんよ!技術には敬意をもって接さねば!
オリバンダー杖店の子ガラハッドは、同世代の誰よりもそういうことを考える。
その様子が傍目に見て取れて、フリットウィック先生は瞳を弓なりにした。
「 ガラハッド、君のお母さんはね… 」
聞かせたかった話はこれだ。
「なんで急に母の話?」と、ガラハッド・オリバンダーは思ったけれども―――彼は、このときおとなしく話を聞いた。
純粋に、初めて純粋に母親の話を聞いた。
「はぁ。正直他人なんで興味ないですね」とか、「うるさいな。僕の話じゃなかったのかよバーカバーカ」とか。そういう時期は過ぎ去ってしまって、あたかも明鏡止水のごとし。
それに、恋しいわけではないけれど、彼はグレイスにそっくりのままでいたかった。だって父親に似たくないから。
フリットウィック先生は語った。
「 …君のお母さんは、わたしに“一人前”の杖をくれたんですよ。彼女が生きていたうちに、わたしは恩を返せなかった。わたしは、わたしの杖と共に墓に眠りたい。君にとっては母親の遺作であろうとも、わたしは、この杖を死んだって返すつもりはない―――小鬼のしきたりを破ってね!キャキャキャ、ですから、ここは等価交換を申し込みたい!ガラハッド、君はそのナイフを受け取りなさい。このフィリウス・フリットウィック、金物にまじないをかけることに関しては魔法界で一番だと自負します。精霊の加護によって、そのナイフは魔を退けることでしょう。わたしに贈られた杖には、それだけの価値があった!“一人前”の資格を得たとき、わたしは、決闘に執着することをやめました。ようやく、やめることができたんですよ。ふふふ、恥ずかしい話です 」
ガラハッドは目を白黒させていた。
彼の内面はこうだ。
へえ、そうだったんだ!いつも授業で何気なく見ているフリットウィック先生の杖って、オリバンダーはオリバンダーでもグレイス製だったのか――――ってええええええそれって、地味に凄くて泣いてしまいそう!道理でアラベールは毎度「グレイスは出来たのに」って、鬼高いハードルを掲げて心底怪訝そうに言ってくるわけだよ!
彼女は、少なくとも20代のうちには杖をつくることができていて、そのうえそれはギャリック製と比べて格別見劣りしない…。
エグい…エグいぞそれは…“天才”の一言で済ませていいもんじゃない。
「ふぇぇ」とガラハッドは、おのれの凡人ぶりに肩を落とした。
フリットウィック先生は続けた。
「 ガラハッド 」
子守歌みたいな声だ。
「 君は、自分の母親をどのような女性だと聞いて想像していますか?君は、栄えあるレイブンクロー生です。固定観念にとらわれず考察し、知恵を絞って真実を追究するべし―――――忘れないでください、“杖持つ権利なき者たち”にとって、君のお母さんは希望そのものでした。
新聞を読んでいると気が塞ぎます。どうも“彼女に感謝する者”の声は、なんであれ十分に取り上げられにくい…ですがどうか、君までその声を切り捨てないでほしい。
いけませんよ、そんなに険しい顔つきをしたら。幸せが逃げるよ。
おお、誤解のないようにねガラハッド!君のお母さんは、六歳のときにはブラック家に嫁ぐことが決まっていたんですよ。魔法界のためには、それがよいとされていて――――なぁんにも、本人たちの意志は関係なかったことでしょうよ!なんせその当時シリウスは、まだ生まれたばかりの赤ん坊だったのですよ?君のお母さんは、彼が凶悪だったから惹かれたのではありません!いいえそのことが…その…これから君が引き受けていく苦労を軽くするかというと、そんなことはない。しかし、気を確かに持つ活力にはなるでしょう? 」
「 ええ、はい。まあ、そうですね。ご高配いたみいります… 」
ガラハッドは深い溜め息をもらした。
ぐぎぎ…と、指で眉間の皺を引き伸ばしてみる。いけない、人相が凶悪犯っぽくなっていたぞ――――「ブラックに似ている!」と、まだ言われたことはないんだけど。
自分の容貌がどう思われているかって、いくら鏡を眺めても永遠に謎じゃない?
この際だからズバッと聞いてみよう!
フリットウィック先生の執務室を去る前に、ガラハッドは覚悟を決めた。
「はい!」と高らかに挙手して、ガラハッドは先生に尋ねた。
「 ぶっちゃけ、似てますか、僕とシリウス・ブラックは?奴の学生時代から、先生はホグワーツにお勤めですよね? 」
「 うーん、そうだねぇ… 」
「 正直なところを言ってください! 」
「 正直…うん…隠したくはないですし…いずれ他方面から聞くかもしれないので…この際ですので言いますが……その…大変よく似ていると思います 」
「 えええええええ 」
「 彼も腕白だったんですよねぇ… 」
フリットウィック先生は正しく質問に答えた。
今のは、ガラハッドのほうの質問のしかたが悪かった。
「そんなぁ!」と身悶えるガラハッドを、壁に貼ってある人相書きが暗い瞳で睨んだ。
■『われに五月を』は寺山修司の作品集タイトルから。「美しかったあの日々に…犯すまい」は同作の序文の結句。寺山修司は10代で大病に臥し、“大人になった自分”を想像できなかった人。詳しくはまたPAZZLE編にて。
■デイジー(デージ)の意味は二巻編「ヒステリックブルー」同じ。シェイクスピアのハムレットより。
■ニュンガ・ロ・イムは上橋菜穂子の『精霊の守り人』に出てきます。水の精霊です。