「松本先生。お話があるのですが、お時間を頂けませんか」
呼び止められて振り向くと、扱いに注意しろと教頭から言われた生徒がいた。
「ええ、いいわよ渡会さん。今からでいい?」
この世の最も美しいものを人のカタチにしたらこんなふうになる、と体現したような少女は、表情を消すと人間味もなくなる。作り物めいた美貌でもまだまだあどけなさが残っているが、それすらプラスの魅力になる。
「構いません、お願いしている立場はこちらですので」
教室の中では「気取ったところのない明るく元気なとびきり可愛い十三歳のちょっとキザで中性的な子」だが、大人の中に放り込まれると「礼儀正しく大人びた文武両道と才色兼備を地で行く稀代の天才」に変わる。
その二面性が警戒心からくるものなのだと気づいたのは、彼女を受け持って一週間も経たない頃だった。
「それじゃあ、お話を聞くのは生徒指導室にしましょうか。込み入った話なんでしょう?」
「お心遣いありがとうございます。そのようにお願いします」
お友達の前ではあんなに人間らしく年相応にいきいきしているのに、今、目の前で愛想笑いを浮かべる彼女は人形のよう。
決して緊張しているようには見えないけれど、高くそびえる分厚い心の壁にとてつもなく距離を感じる。
いえ、緊張していたのは自分の方なのかもしれない。
生徒指導室につくまで半歩斜め後ろを歩く彼女が、遠い存在のように思えていた。
☆
「どうぞ、座って」
「失礼します」
一礼して入室し、下座へ足を向けた彼女は私が促すまで決して席に触らなかった。
この年頃でここまで完璧に躾けられているなんて、と思いプロフィールを思い出して納得した。
「すごい。上座と下座もわかるのね。さすが社長さんだわ」
一国一城の主は、伊達ではないということかしら。
小学校在学中に立ち上げたという会社はつい先日に上場企業となったらしい。若すぎる起業家は敏腕経営者として名を馳せつつある。
「私の一挙手一投足が会社の顔となりますから。ビジネスマナーは出来て当然だと思っています」
「確かに、大事なことだわ」
「子供のお遊びと思われては適いません。私の何気ない行動が社員を路頭に迷わせるかもしれないと考えれば、自然と背筋が伸びますよ」
にこ、と笑うその姿はあまりにも完璧で現実味が薄い。
彼女には人の上に立つ者の風格がある。他の子供よりも大人に見えるのは、その覚悟の違いなのだと思う。
だって、ここまで明確に責任という言葉を理解して実践できる人は大人でもなかなかいない。
「いい上司なのね。だからあなたの会社は評判が良いんだわ」
「今は過分なご評価を頂いたと思っていますが、すぐに当然と胸をはってみせますよ。会社のことで、学校生活に影響が出るかもしれません」
本題に入るらしい。
姿勢を正すと、彼女は緩やかに口角を上げた。
「詳しいことは機密のため言えませんが、今後しばらくは出席できない日や途中で退席する日があるかもしれません」
「わかりました。入学時にその件は伺ってます。授業の代わりに課題を用意するように、他の先生方にもお願いしておきましょう」
「ああ、それには及びません」
確か学年担当を集めての説明があった。
明らかに彼女のために誂えたとわかるスーツ姿に、保護者という名目で秘書(事実血縁関係はあるらしい)を引き連れて、入学前に事業内容と授業の代替について事前に話し合った。
そのことを思い出していると、彼女はゆるやかに拒んだ。
「こちらの都合ですので、教科担当の先生方にはそれぞれ直接お声掛けさせていただきます」
「あら、いいの?手間でしょうに」
「入学からまだ半年経ちませんし、今は誠意を見せるくらいしかできませんから。それが筋でしょう?」
誠意。もしかしてそのための事前説明だったのだろうか。
中学なんて義務教育だし、彼女の学力なら無理に通わなくても問題はない。
それなのにこんなにきちんと対応しているのは、彼女の背景故なのだろうか。
「本当、しっかりしてるのね」
「突かれやすい身の上なので」
ああ、やはり。
そっと目を伏せた彼女の、わずかに見えた憂い。
こんなに真面目で優秀なのに、暴力団の血筋というだけで彼女は槍玉に上がりやすい。
ままならないわね、と気付かれないように嘆息した。
☆
「Nessun dorma?トゥーランドットの誰も寝てはならぬだろ?」
「そう。伯父様が昨日オペラに連れていってくれてね、男性のソロだったんだけど、蜜香なら歌えそうだと思って。アンタ確か、イタリア語できたわよね?オペラも詳しかったでしょ」
「ノコちゃん、キミね……まあ歌えるけれども」
「やっぱり!ね、みっちゃん歌ってよ。どんな歌なの?」
期末テスト明け、彼女が必ず来る月曜日の放課後。
幼稚園からの幼馴染だという鈴木さんと毛利さんの声が一緒に聴こえてきて、開いていた入口から教室をそっと覗く。
教室の中心には彼女たち3人と、やはり幼馴染だという工藤くんがいた。
他の生徒は帰ったようだ。
「どうしてみんなテノールばっかり歌わせようとすんの……。早い話が西洋版かぐや姫でしょ?」
「おい全然ちげーぞ。トゥーランドットっていう超絶ワガママ姫に求婚した若者が、姫の出してきた無茶振りを全部クリアしちゃって焦った姫は結婚を拒否。その若者が、自分の名前がわからなければ諦めて結婚しろって迫る歌」
「イッくんもちげーじゃんよ、人のこと言えなくない?」
「アンタたちロマンのかけらもない説明するわね……」
「え、ホントにそんな話なの?」
仲のいい幼馴染らしくポンポンとテンポよく進む会話に思わず笑ってしまう。声を抑えて俯き肩を震わせると、すぐ近くから声が聞こえた。
「盗み聞きは趣味がよくないですよ、松本先生。オペラならご担当の範囲でしょう、ご参加されますか?」
いつのまに。
入口のすぐ横に、肩と頭を寄りかからせて渡会さんは立っていた。
その顔は少し呆れている。
「蜜香、いつも言ってんけど足音くらい立てろよ。先生驚いてんだろ」
「あー、うっかり。申し訳ありません、先生。驚かせるつもりはなかったんです」
目を丸くしていると、工藤くんからの言葉で渡会さんは罰が悪そうにした。
「聴いていかれますか?合唱部の顧問のお眼鏡に適うかわかりませんが」
「え、ええ。いいの?」
「良くなければお誘いしませんよ。それなりのものはお聞かせできると思います」
どうぞ、と半身を下げて促され、教室にはいる。
彼女は教室のドアを閉めた。
「リラちゃんのためにちゃんと説明するね。トゥーランドットは元々、千一日物語っていうフランスで出版された物語集のうちの一つ、カラフ王子と中国の王女の物語を元につくられた戯曲だった。それをさらにオペラにしたものがノコちゃんが昨日観たプッチーニのトゥーランドット。Nessun dormaは日本語に訳すと、誰も寝てはならぬ。カラフ王子役のテノールが歌うアリアだよ」
教師たちに使うより砕けた柔らかい口調で話す彼女は穏やかだ。
補足するように私も口を開く。
「話の内容としては、トゥーランドット姫が出してきた謎掛けに答えたカラフ王子が姫に求婚するけれど、結婚する気のない姫はそれを拒否。カラフ王子は、夜明けまでに私の名前を明らかにできたら私の命を捧げましょう、というの。つまり、夜明けまでに自分の名前がわからなければ結婚を受け入れろ、と迫ったのね。姫は民に、夜明けまでにあの見知らぬ男の名前がわかるまで誰も寝てはならぬと命令し、群衆は血眼になって若者の名前をさがす」
「けれど名前はわからない。勝利を確信したカラフ王子は夜明けを待ちわびる」
a、と伸びやかな低音が耳をうつ。テノールよりは少し高いが、とても低いアルトボイス。
す、と沈黙した彼女は、伏せた目をあけてゆっくりと口角を上げた。
「“Nessun dorma.Nessun dorma!”」
それは、夜明けを前に勝利をうたう男。
「“Ma il mio mistero e chiuso in me,
Il nome mio nessun sapra!”」
私には秘密が隠されている、私の名を知るものはいない!
「“Dilegua, o notte!
Tramontate, stelle!”」
夜明けよ早く来い、勝利を前に気が逸るが、男は余裕を崩さない。
「“All'alba vincero!Vincero!Vincero!”」
勝利するのは私、私が勝つのだ、貴方を勝ち取る!
伸びやかな最後の音が教室内に響く。
圧倒的な声量、歓びと自信に満ち溢れた色。決して叫んではおらず、余裕すら伺えた。
何より、
自然と拍手していた。ほぅ、とため息をついて余韻に浸る。
すごい。ここまでしっかりと歌えるなんて。
「やっぱり蜜香に歌ってもらうに限るわ」
「あのねノコちゃん、アタシの専門はミュージカルなんだわ。歌って踊る方」
「どっちも変わんないでしょ」
「いや変わる変わる変わる」
きゃんきゃんと仔犬のようにお話する彼女は、とてもじゃないけど今はカラフ王子に見えない。
さっきのはなんだったのかしら。
「その年齢でこれだけ歌えるのはすごいわ。でも惜しいわね、あなたの声が強すぎて合唱部には誘えない。あなたを活かすには今のレベルを底上げしないと、あの子達が負けてしまうわ」
「これはまた過分なご評価を」
「本当よ!どこかで声楽を習っていたの?」
「本格的に学んだことはないですねぇ」
それで、これ?才能だわ。
天は二物を与えず、なんて嘘だと思い知らされる。
ああ、本当に惜しい。彼女が
☆
「蜜香、翠星は……」
後方から聞こえてきた声に、自クラスの生徒だと振り返る。
鎮痛な面持ちの鈴木さんと工藤さんは渡会さんを挟んで寄り添って歩いていた。
「一時的に保護した。この件は公にならない代わりに、居住地をアタシの管理下に置かせる」
渡会さんが双子で、姉がいるとは工藤さんたちに聞いていた。渡会家へ無理矢理引き取られ、それの腹いせで渡会の名を
そのお姉さんが今、栄養失調と中毒症状で入院しているらしい。
その話をきいてから、彼女の精神状態を心配していた。ただでさえ社長としての業務と学生の二足の草鞋を履いている現状、未成年が背負うには重すぎる責任をその肩にのせている。
「みっちゃん……」
「心配かけて悪いね。今はまだ会わせてやれねーけど、だぁーいじょうぶ。すぐに元気な姿見せるから、待っててやって」
明るく、日が差したように彼女は幼馴染の二人へ笑顔を振り撒き、優しく微笑む。
そして、安堵に胸を撫で下ろした二人の視線が外れて。
一瞬、見間違いかと思うほど冷たい目をしていた。
「渡会さん!」
「?はい。なんでしょう、松本先生」
立ち止まり、身体ごと向き直り、そして小首を傾げ、柔らかに微笑む。
あまりにも完璧でいて、自然な動き。
「────どうされましたか?」
ああ、ああ。この子、もうとっくに。
「ご心配には及びませんよ、先生。私は
小首をかしげたまま、すぅ、と細められた目。く、と曲がったその口元は、皮肉げではないのに決して愉快そうでもなかった。
「あの美しい悪魔が産ませた子は、破滅を喚ぶ死神だったと」
☆
「私が何故、渡会を名乗ることを許されていると思いますか?」
「……え?」
教卓の前に立っていた。正確には教卓と黒板の間だ。
斜陽差し込む赤い教室。
彼女は一人、机の上に座り脚を組んだ上に頬杖をついてこちらをみていた。
「ずいぶんと長い夢を見ていたね、さゆちゃんセンセ。あまり寝過ぎると起きるのがツラいぜ?しかし懐かしいモンみたな」
ほ、と肩の力を抜いた。
目の前で悪戯げに笑う彼女こそ、私の知っている蜜香さんだ。
とん、と軽い様子で机の上から降りた彼女は、よく見ればスーツを着ていた。
「せっかくそんなに着飾ってるんだ、踊ろうよ」
「えっ?」
慌てて自分を見下ろすと、ウェディングドレス姿だった。
「ワルツの心得は?」
「あ、いえ、ダンスは……」
「それじゃあ僭越ながらリードさせて頂こう。私の手を取っていただけますか、レディ」
す、と膝をついて手を差し出される。
ふふ、そういうとこ、変わらない。ちょっとキザっぽくて、演技じみてるのにそれが嫌味にならない。
その手を取ると、恭しく指に触れるだけのキスをされた。
「ホールドくらいはわかるかな?右手はこちらに、左手は肩へ、そう、上手。ああ、肘はさげていいよ。気楽に踊ろう。誰が見るわけでもないんだから」
任せて、というように力強く抱きしめられて、顔が近づく。
中性的な美貌は幼さが抜け始めて、少し吊り目の切れ長の目元が涼し気に見える。三年前はもう少し丸くて、猫目のようだった。
ああ、時間がたったのね。あの頃の貴方は、身長もまだそんなに高くなかった。
「曲は、そうだな、誰も寝てはならぬにしよう。ワルツじゃないけど踊れるさ」
すぅ、と息を吸い込んだのがわかる。
「“Nessun dorma.Nessun dorma.”」
誰も寝てはならぬ、寝てはなりません。あなたもです、姫君。
寒い部屋で星を見上げ、愛と希望に震えながら!
私には秘密が隠されている、私の名を知るものはいない!
ああ、ああ、貴方に口付けて打ち明けよう。
陽の光が差し込む頃に!
私の口付けは沈黙を破り、貴方は私のものとなる。
夜よ、消え去れ!星よ、沈め!
勝利するのは私、私が勝つのだ、貴方を勝ち取る!
「どう?さゆちゃん、楽しい?」
「ええ、すっごく!贅沢ね、あなたの歌であなたにリードされるなんて」
こんな特等席、
「そう、夢だよさゆちゃん。早くキミを待つ人のもとへ帰っておいで。そのために迎えに来たんだから」
あたりは暗く、シャンデリアが煌めいていた。
いつの間にか教室ではなく豪華なダンスホールにいたらしい。
「夜が明ける頃に、答えを教えてあげるよ。待ってるね、さゆちゃん。さあ、お目覚めの時間だ。あのドアをくぐるといい」
彼女が指差す方に見えたのは木製の扉。あの、教会にあったような。
「おはよう、眠り姫」
とん、と背中を押された。
3日続かなかったね!