師匠は実力者に好かれるタイプ。
走るのは好きだ。
それ以上でもそれ以下でもない。ただ気持ちよく走れればそれでいい。
誰かみたいにずっと先頭を走りたいわけでもない。誰かみたいに挑んでくる相手を全て食らい尽くしたいわけでもない。
ただ私は気持ちよく走りたいだけ。
順位なんて興味は無い。冠なんて興味は無い。そんなものは走ったあとについてくるオマケ。
周りが弱いとは思わない。自分が強すぎるなんて思わない。そもそもそんなことを考えたことなんてなかった。
ただ気持ちよく、楽しく走っていたら勝っていた。
ただ気の向くままに走ってたらここ―――トレセン学園―――に居た。
それだけ。
ここでの生活は好きだ。可愛い後輩が居る。楽しい同級生がいる。頼りになるトレーナーが居る。文句なんて有ろうはずもない。
でも、それだけなのだ。
それ以上ではない。
走る。勝つ。もはやそれは一つの作業となっていた。
「だっりゃぁあああああああっ!!」
ある日、トレーニングの最中にそんな声を聴いた。腹の底から絞り出すような、しかしどこか楽しそうな声。ふと目をやれば、青いツインテールのウマ娘がターフを全力疾走していた。
そう、全力疾走していたのだ。ウォーミングアップでも、クールダウンでもない。タイムを計っているわけでもない、瞬発力を測っているわけでもない、おそらく、「一本走ってみよう」そんな程度のランニング。
それでも、そのウマ娘は全力だった。
傍らにいたトレーナーらしき男性―――微笑みを浮かべた優男―――は何も言わない。おそらくその全力疾走はいつもの事なのだろう。
「変わった子もいるものねぇ」
その時の私にとって、そのウマ娘はその程度の認識だった。
そして私はいつもの日常に戻る。学生生活とトレーニング、レース、そして勝利。
この流れが変わることは無い。
いや、少し変化が有った。
私とレースをするウマ娘が減った。
正確に言えば、私が出走するレースを回避するウマ娘が増えたのだ。
担当トレーナーの言を借りれば「負けを回避する」為、らしい。
何故、と思った。
レースなんてしてみなければわからない。だって私なんかより、貴方達の方がよっぽど勝利への執念を持っているのだから。
私はただ楽しく走れればそれでよかったのに。みんなと一緒に走れればそれでよかったのに。
勝利が欲しいわけでもない。かといってレースを楽しめるわけでもない。
その時の私には走る理由が無くなっていた。
トレセン学園に籍を置いている以上、実績を残さなければならない。レースに出走しなさ過ぎて、退学一歩手前までいったウマ娘もいたらしい。
だから私は今日も出走する。別にレースが嫌なわけではない。ただ以前ほどの楽しさを感じなくなっていた。
ガシャコンッ、とゲートが開くと同時に飛び出して―――。
「おぉおりゃぁあああああああっっ!!」
視界の隅を青い影が通り過ぎていった。
「あら、あの子……」
何時ぞや見たトレーニングで全力疾走したウマ娘だ。確か名前は―――ツインターボとか言ったか。ターボとは中々に良い響だが、果たして、彼女はその名に恥じない加速を見せる。
けれども。
「ありゃりゃ……あれじゃぁ、最後までもたないわよ」
スタートダッシュから爆走するツインターボ。そこにペース配分や戦術なんてものは微塵も感じられない。
ただ先頭を走る。誰よりも先に、誰よりも前で。至ってシンプルでわかりやすい。
もっとも、それも実力を伴えば、の話だろう。事実、第四コーナーを前にして彼女のスタミナは尽きていた。
ズルズルと下がってくる小柄な背中。
(まぁ当然よね。それにしても……)
呆れより先に、可愛らしさが胸を突いた。かつて私にもあんな時期があったのか。我武者羅に、只管に、ただ走る事だけを求めた時期が。
僅かでも「走ることを楽しんでいた」自分を思い出せた。そのことに感謝しつつ、私は彼女を置き去りにする。
私だけではない、後続のウマ娘達にもどんどん抜かされ、レースが終わってみれば大差のドンケツ。後先考えない大逃げではそうなるもの当然だ。
そしてレースは私が一着。
―――速過ぎるよ―――
―――あれで本気じゃないとかマジ無理……―――
―――モノが違うじゃん……勝てるわけないよ―――
そんな声が聞こえてくる。またこれだ。勝利の余韻なんて欠片も感じられない。もはや慣れた物だ。
勝って満たされないなんて、ある意味贅沢な悩みだろう。
「マルゼンマルゼンマルゼン!!」
どこか遠くに意識を飛ばしていた私に声が掛けられる。はっと声の方向へ視線を向ければ、そこにはツインターボの姿。大人と子供ほどの体格差な彼女が、特徴的なオッドアイを輝かせこちらを見上げている。
「あら、何かしらターボちゃん。お姉さんに何か御用?」
「マルゼン、お前速いな!!」
「ん? そうかしら」
「そうだ!! すっごく速い!! なんせこのターボに勝ったんだから!!」
それは貴方が自滅したから、という言葉を寸での所で飲み込んだ。だって、純粋に私を褒めてくれるこの娘がとても可愛らしかったから。
「いぇいっ。そう言ってもらえるとお姉さん嬉しいわぁ」
これは本心だ。私もやはりウマ娘、自身の走りを褒められて悪い気はしない。有難う、と当たり障りのない返事をしようとして。
「だから次も勝負!! 次はターボが勝つね!!」
言葉に詰まった。
だって、彼女ががあまりにも真っすぐこちらを見つめてきていたのだから。
その瞳と言葉に、一切の虚勢は籠っていない。次のレースでは自分が勝つ。そう信じてやまない気迫。
それを無知ゆえの言葉と取るか、必勝の自信と取るかは人それぞれ。
そして私はどちらとも取れなかった。
普段の私なら「それは楽しみ!! でもお姉さんも負けないわよ!!」みたいなことを言って終わっていただろう。
そう言えなかった。
「あっ!! トレーナーが呼んでる!! じゃあねマルゼン!! また勝負勝負!!」
「あっ……ええ、またね……」
嵐の様に過ぎ去っていったターボを見送り、私はしばらく立ち尽くしていた。
僅かに心臓が高鳴った。
ある日のトレーニング後、トレーナーが話がある、と切り出した。
私のトレーナーはあまり主張をしない。このレースに勝とう、とか、このタイトルを取ろう、とか一切言ってこない。過度な期待をもたないし、背負わせもしない。
今まではその距離感が心地よかった。
そんな彼がいくつかのレースをピックアップしてきた。
「あら珍しい」
私の言葉に、トレーナーは一言言い放つ。
「ツインターボが出走する」
その言葉に、今までの私なら首を捻っていただろう。だって彼女と一緒に出走したレースは私の大差勝ち。
勝負付けが済んだウマ娘が出るレースに意味など無い。精々トレーニング代わりの叩きになるぐらいだ。
でもその時の私は違った。
「そう、じゃあお姉さんアゲアゲでいかないとね」
何故自分がそう言ったのか、わからない。ただ無意識のうちにそう言い放っていた。その言葉に、トレーナーは僅かに微笑むだけ。
まるで私がそう言いだすことが分かっていたかのように。
「あら、その表情は何かしらトレーナーくん」
「気付いてないのか?」
「?」
「キミは随分と嬉しそうだぞ」
「へ?」
そこで漸く自覚する。私は笑っていた。ツインターボが出走する。彼女と一緒に走れると知って喜んでいた。
「―――そうね。楽しみなのね。私」
「格好悪い所は見せられないな」
「ふふ、そりゃ当り前田のクラッカーよ!!」
いぇい、とブイサインを送る私に、トレーナーは微笑み返す。そう言えば、彼の笑顔を見たのも久しぶりだった。
「来たな、マルゼン!! 今日のレースはターボが勝つもんね!!」
「あらあらバッチグーなテンションじゃないの!! いいわ、私についてこれるかしら?」
そうして始まったレース。結果は私の圧勝。ターボどころか他のウマ娘を引き離しての大差の大勝利。
今までなら気にとめないような結果。けれども今回は違った。
「さぁどうかしらターボちゃん。お姉さんの実力を……ってありゃりゃ」
ゴール付近を振り返った私が目にしたのは、地面に倒れ伏した彼女。クールダウンの歩行の為の体力すら使い切り、もはや一滴も残っていないと如実に語っているその姿。
「ターボちゃーん? 大丈夫?」
ぜぇはぁしている彼女を突いてみる。観客席で見ている彼女のトレーナーが苦笑を浮かべ慌ててない辺り、何時もの光景なのだろう。ややあって、芝を顔一面にくっ付けて彼女が顔を上げる。
女の子としてそれはどうなんだという恰好ながら、どこか微笑ましい姿。
「マル……ゼン……やっぱり、はや……いな…でも、次は、ターボが……勝つ、もんねっ……!!」
そこまで絞り出し、再びターフに沈みこむ彼女。その言葉に、私は自分の口角が上がるのを自覚した。
なんて素敵な子なのだろう。先程のレース、私は手を抜いたつもりはない。全力で走り、周囲に、そして彼女にそれを見せつけた。掲示板に灯る「大差」の文字がそれを語っている。
でも、それを見せつけられてなお、目の前で倒れているウマ娘は挑戦してきた。しかも見栄や虚勢ではない。
心の底から、次は自分が勝つと思い込んでいる言葉。
自分で言うのも憚られるが、私とレースをして心を折られるウマ娘は少なくない。勿論私自身にそんなつもりは毛頭も無いが、相手も同じウマ娘。実力の隔たりはトレーナーや観客以上に感じ取れる。
そしてある段階を過ぎるとこう思うのだ。
「絶対に勝てない」と。
幸か不幸か、私はそんなことを感じたことは無い。感じさせる側だったのだから。
その結果が私とのレースを回避するウマ娘達。
心を折られることを求めるウマ娘などいない。わざわざ担当のウマ娘を負けるレースに出すトレーナーは居ない。
圧倒的な力は、時として周りを巻き込む暴力となる。
それでもなお、ツインターボは挑んでくる。
私と勝負して、ましてや圧倒的な差を見せつけられてなお、その心は折れない。
「―――素敵だわ」
胸中に熱が湧く。ぞくぞくとしたそれに私は身震いする。快楽にも似たそれは私が求めていたモノ。
私の心に熱を与えてくれるモノ。
楽しみだわ。ターボちゃん。
そこから幾度となくレースを繰り返した。そのたびに、ツインターボは大差敗け。観客からは呆れと通り越して哀れだと声が上がるほど。
けれども、私は決して手を抜かなかった。トレーナーも何も言わなかった。
だって、彼女と走るのがこの上なく楽しかったのだから。
「マルゼン!! 今日はターボが勝つよ!! トレーナーと一緒にいっぱい、いっぱい特訓したからな!!」
びしっ、と私に指を突き付けそう宣言するツインターボ。いつしかレース前の恒例となったやり取り。周りのウマ娘たちも呆れている。
彼女達は知っているのだ。ツインターボが毎回同じ宣言をして、同じように撃沈しているのを。
だから誰も彼女を相手にしなかった。
それはそうだろう。「自分より下」だと思い込んでる相手の発言なんて気にする必要はない。
そんな彼女の宣言を、私は微笑ましさを感じながら受け取る。随分と可愛らしいものだ。
「嬉しい宣戦布告じゃないの!! お姉さんもアゲアゲで行くわよ!!」
ゲートが開く。各ウマ娘が一斉に飛び出した。勿論ハナを切るのは私―――ではなかった。
『さぁスタンド前、ツインターボが行った行った行ったぁーーー!!』
スタートダッシュなどという話ではない。最初から全力疾走な彼女がハナを切った。体力の温存など知った事かと言わんばかりの大暴走。誰も彼もが呆れた。あんな走りでは終盤までももたないと。
そしてそれは私も同じだった。どこか冷静な頭の一部が告げるのだ。「放って置け、どうせ潰れる」と。
確かに彼女の速度は悪くない。だがそれを維持できればの話だ。
『さぁ、各バ第一コーナーから第二コーナーを通過。ここらで形が作られていきます。流れは大方の予測通り、ツインターボが先頭でレースを引っ張る形―――次いでマルゼンスキー。二番手に付け様子を見ています』
コーナーを曲がり、向こう正面へ。大差をつけるターボの姿に観客席からどよめきが起こる。
だがそれも今だけの事だ。第三コーナーにかかるころには体力も尽きて垂れてくる。そこを差し切って終わり。
『さぁ、中盤を越え以前先頭はツインターボ。この辺りから後続の各ウマ娘の動きが激しくなってくる。後続のウマ娘が挙って追い上げて―――しかし、ツインターボ先頭です!! 今まで逆噴射を繰り返していた彼女が、ここにきて未だにペースが落ちない!? 大逃げそのまま走り続ける!? これはどうしたことだ!?』
実況の裏返った声。その声を耳にした各ウマ娘達が、一斉に『えっ』という表情をした。
今までと違う。
今までのツインターボの走りとは違う。
垂れて―――こない。
何故、今までの彼女ならとっくに体力が尽きて終わっている筈なのに。
―――いっぱい特訓したぞ!!―――
レース前の彼女の言葉が思い出される。いつもの考えなしの言葉だと思っていた。その場限りの言葉だと思っていた。
けれども、それはそのままの意味で。
『ツインターボ逃げる!! ツインターボがそのまま逃げる!! 難しい第四コーナーをぴったりと回る!! 後ろからは誰もこない!! 後ろからはまだ誰もこない!? これはこのまま逃げ切りとなるのか!?』
少し前の自分を蹴り飛ばしたい。
何が可愛らしいだ。
何が微笑ましいだ。
そんな子供扱いをするほど、私は頭のどこかで彼女を侮っていたのだ。
全くもってつまらない事をしていた。
何時から私は「安定した勝ち方」なんて考える様になったのだろう。
私は何のために走っている?
「楽しく走る」ためだ。
勝利や着順なんて二の次だ。
それを忘れるなんて。
「いやん、チョベリバ~」
ぼそり、と呟いた。おそらくこれ以降は喋る余裕などなくなるだろうから。
遅まきながら速度を上げようとして。
その時。
「マルゼンスキー!!」
掛けられた声に、ハッと顔を上げる。一瞬だけこちらを振り返った彼女は。
「ターボについてこーい!!」
さらに加速した。
最終加速。おそらく彼女の身体は限界だろう。
だと言うのに。なんと気持ちよさそうに走るのか。
ぞわり、と背筋が粟立った。口角が吊り上がる。
理性が、知性が、ウマ娘としての本能に塗りつぶされた。
「――――!!」
負けられない。
負けたくない。
いや、そんな気持ちではない。
私は、あの子とレースがしたいのだ。
ギア切り替え。エンジン回転数アップ。アクセルべた踏み。自身の体内でエンジン音が甲高く響き渡る錯覚。
―――かっとばすわよ!!―――
『第四コーナーを抜けて以前ツインターボが先頭!! ペースが落ちない!! ペースがまだ落ちない!! これはこのまま逃げ切りとなるのか!? ―――いや後ろからは来たぞ来たぞ来たぞ!! 一番人気、マルゼンスキーが猛烈な勢いで追い上げる!! だが前までの差はまだある!? 最終直線は短いぞ!? 前に届くか!? 届くのか!?』
届くではない。届かせるのだ。それも出来ないようでスーパーカーが名乗れるか。
加速、加速。加速。
壊れてもいい。全力でいけ。自身の身体に叫ぶ。
勝ち負けの問題ではない。全力を絞り出さなくては、前を走るあの子に対して失礼だ。
彼女は全身全霊尽くして走っている。それに応えなくて何が「お姉さん」だ。
『マルゼンスキーの凄い脚!! 徐々に差を詰める!! ツインターボは既に射程圏内だ!! しかし以前ツインターボもペースが落ちない!! レースは既に二人のマッチレース!!』
そう、このレースは私達二人の物だ。二人だけのものだ。
スタンドから地鳴りのような歓声。でも今の私にそれを気にする余裕はない。ただ目の前の小さな背中を追いかける。
フォームのぐらつきだした背中は、既に限界を超えていることを表している。そしてそれは自身も同じ。急激なペース変化にさらに加速。乱れた呼吸は戻らないし、脚や肺の痛みだって酷い。
だから、どうした。
そんなことで、この気持ちの高ぶりが―――歓喜が収まるものか。
「―――ぁぁあああああああっ!!」
絶叫。それが自身の声か、前を行く少女の声か、もはや判断できない。
前へ、前へ!!
一歩でも早く!!
一歩でも先に!!
目の前の背中に追い付くために。
追い越すために。
少女の走りに応えるために。
ああ、なんて素敵な瞬間だろう。
ずっとこの時間が続けばいいのに。
私とあの子だけの時間。
もっと頂戴。
もっとこの素敵な時間を頂戴。
私とあの子に。
共に走り続ける歓びを。
『マルゼンスキー差し切るか!? ツインターボ残すか!? 2人並んで叩き合いだ!! 身体をびっちりあわせ、先頭はツインターボが内!! マルゼンスキーが外!! どっちだ!? お互い一歩も譲らない!! 譲らない!! 今、二人並んでゴールイン!!―――』