TS悪役令嬢になったオレ! 王子と婚約してるけど悪役令嬢だから婚約破棄されるだろうし、気にせず生きていくぜ! 作:冬月之雪猫
一筋の赤い光が夜空を
雲海を突き進んでいるのは赤い女だった。
「……さてさてさーて」
女はその身に纏う魔力を強めた。すると、その身を包んでいた装束が変貌を遂げていく。
彼女が嘗て、勇者メナスと共に雷帝ザインを打倒した時の装束が顕現する。それはまさしく、彼女が魔王であると人々に認知された時の姿だ。
アガリア王国の騎士という仮面を脱ぎ去り、魔王ネルゼルファーへ立ち戻り、彼女はその力を一振りの弓へ転じた。
「いくわよ、朱天」
それは彼女の二つ名であり、その弓の名でもある。
彼女はこの弓で雷帝ザインが作り上げた天空城イベルナスティルを撃ち落とした。
その矢の先を彼方に聳えるラグランジア城へ向ける。
「魔王の権能、朱天の権能、それから……」
望んだわけではないけれど、彼女には複数の権能が宿っていた。
その権能は一つ一つが
昔はそのどれか一つでさえ、満足に扱えてはいなかった。
けれど、望まずとも力を振るう必要に迫られ続け、今はすべての権能を十全に扱う事が出来るようになっている。
バルサーラ教会の聖堂騎士団筆頭騎士補佐という微妙な立場だった頃、暇な時間にノートに書き込んだ《わたしが考えた最強の必殺技》が実現可能になった。
「アルメニウス・イドラ」
その矢は魔法だ。
魔法の中には対象を選別するものがあり、対象以外には一切の影響を齎さないものがある。
彼女はその意味を考え、閃いた。
力とは速さであり、速さの為に必要なものは撃ち出す力だけではない。
物体が直進する時、見えない力が加速を阻もうとする。
それは大気であったり、空気中を漂う微粒子であったり、たまたま飛んでいた鳥であったりと様々だ。
そのすべてを無視した時、矢の速度は常識を超えたものになると考えた。
結果として、彼女は自らの
「消えなさい、愚かな王よ」
彼女が無視させたもの、それはヒッグス粒子というもの。
この世界はヒッグス場という量子場によって包まれている。物質はその粒子と相互作用する事によって質量を発生させている。
光が光速で動く理由は、光がヒッグス場と相互作用せず、質量が発生していない為だ。
本来、彼女の矢には質量がある。そういう物として生み出されたからだ。けれど、彼女が与えた特性はその質量をゼロとする。
質量を持ちながら、質量を持たぬもの。
その矛盾は存在する筈のない現象を巻き起こした。唯一無視する対象から外された標的に着弾した瞬間、それは
「それを撃たせるわけにはいかないな」
無論、そんなものを地上と面しているラグランジア城に撃ち込む事など出来ない。
故に、これは試金石であり、釣り餌だった。
朱天ネルゼルファーの名を知る者ならば、その一撃の意味を知っている。
「お前がラグランジア王の背後にいるという魔人か」
この状況は彼女にとって、想定通りのものだった。
彼女の矢が光速である以上、対処するには矢の発射を止めるしかない。
単純な遠距離攻撃では間に合わない。なればこそ、手段は限られる。その限られた手段を取れるか否かで敵の実力を測る事も出来る。
魔法か、あるいは自分そのものの転移。それが想定内という事は、転移してくる者を確殺する為の準備も当然整えている。
既に、《カテゴリー:キング》の権能郡による捕縛結界が発動している。
相手が己と同じ権能郡を持ち合わせていると想定した上で構築した結界だ。それを破る事は勇者とて容易ではないと踏んでいる。
これを破れるとしたら、それこそ相手は七王クラスの力を持っている事になる。
「死霊か……」
結界に捕らわれていたのは死霊系の魔人だった。
皮も肉もない頭蓋故に表情などは読み取れない。
「魔王ネルゼルファー。君が来る事は想定の範囲外だった。てっきり、オズワルド・アガリアが来るものとばかり考えていたよ」
声色からは焦りを感じない。
死霊故に感情の起伏が薄いのか、この状況が焦るまでもないという事なのか、冷静を装っているだけなのか。
ネルゼルファーは油断なく魔人を睨みつけた。
「お前は何者だ? 何が目的なんだ?」
「言うわけが無いだろう。君のように迂闊では無いのだよ」
「は?」
その時だった。突然、心臓を鷲掴みにされたかのような激痛が走った。
「……がっ!?」
「名前とは、個を識別する為の記号なんだ。だから、魔法に長けた者ほど、真名を隠すようになる。アルトギアのようにね」
「何を……言って……、ぐがっ」
「魔法の一種の極みとで言おうかな。元々はハロルド・カルバドルが研究していたものだよ。呪術と言ってね。異なる世界で生まれた発想だよ。その世界には魔法が存在しないそうでね。存在しないからこそ、様々な空想が生まれたそうだ。その空想を実現する事は彼にとって、夢中になれる趣味の一つだった。ああ、彼を責めないでやってくれよ。実現した後は世の為になるモノとならないモノを
悠長に話し続ける魔人を尻目にネルゼルファーは思考を巡らせていた。
カルバドル帝国の始皇帝には会った事がある。そもそも、勇者メナスと彼女を巡り合わせたのはハロルドだった。
彼はまさしく天才だった。異界の知識を持っていただけではなく、その知識を活かす事が出来る男だった。
だからこそ、この世界はおろか、異界でも生まれる筈の無かった技術を多数生み出す事に成功した。
これが彼の術によるものだとしたら、自力で状況を打破する事は難しいだろう。
彼女の脳裏には二人の男の姿が浮かび上がった。どちらかの下へ向かえば、この奇妙な魔法を解いてくれる筈だ。
「……ああ、そうだね。その二人ならば解けるだろう。一方は当然として、もう一方も問題なくね。だけど、どうやって行くつもりかな? 君の権能はいずれも強力なものだが、魔王の権能以外に移動系のスキルなど無いだろう。だが、魔王の権能は私の動きを封じる為に使ってしまっている」
ネルゼルファーは目を見開いた。
「お前……、思考を!?」
「ああ、読めるよ。そういう術も掛けたからね。だから、君が今まさに魔王の権能による結界を解除して、転移を行おうとしている事も分かる」
その言葉を受けて、ネルゼルファーは権能を解く事を躊躇った。
「それは正解だよ。君にとって、唯一無二の正解さ。だけど、今の躊躇いで不正解になった。何故って? 君の意思とは関係なく、結界が緩んでいるからだ」
「くっ!?」
複雑であればあるだけ、魔法には繊細な技術と集中力が求められる。
激痛は彼女の集中力を奪い、結界に綻びを生ませてしまった。
そして、綻びがあれば、魔人は容易く抜け出す事が出来た。
「君達は疑問を抱かなかったのかな? 何故、私がわざわざアザレア学園の使い魔召喚の儀式に干渉を行ったのか」
「……どういう事だ?」
「あれは招待状だよ。もっとも、君ではなく、アルトギアへの」
「アルトギアを罠に嵌める為か!?」
「そうだよ。彼は邪魔なんだ。なにしろ、私を超える魔法の使い手だからね。しかも、偉大なる霊王様の教えまで受けている。呪術にしても、彼の方が
魔人は彼女を背中側から抱き締めた。
「は、離せ!」
「様々な権能を持ち、自在に魔法を操る男を捕らえる為の準備をしていたんだ。それを君如きの為に消費しなければならないとは……、実にイライラするよ」
ネルゼルファーの瞳には焦燥の色が宿った。
徐々に体の感覚が無くなり始めたからだ。
「な、なにを……」
「君を私の傀儡にする。君の必殺技は実に強力だからね。適当な国を消し飛ばせば、良い交渉材料になるだろう」
その言葉に彼女は恐怖した。
人々は彼女を畏れたけれど、彼女は人々を愛していた。
弱き者は助け、悪しき者は正し、人と人が笑顔で助け合う世界を夢見ていた。
夢見がちな乙女の妄想だと馬鹿にされた事もある。それでも彼女は夢を見続けた。
表舞台には立たず、裏の世界に身をおいて、与えられた権能を正義の為だけに行使して来た。
その力が人々を脅かす為に使われる。その恐怖は筆舌に尽くし難い。
「おっと、死なせはしないよ。というか、意味がないよ」
自害を決断した彼女に魔人は言った。
「忘れたのかい? 私は死霊であり、死者を操る術も持っている。自害した所で、結局は傀儡のままだ。まあ、死んでくれても構わないと言えばそうなのだけど、生きていると色々と便利に使える部分もあるんだ。だから、自害は許さない。今の所はね」
意識が薄れていく。このままでは不味い。けれど、自害すらも意味をなさないとなれば、もはや打つ手がない。
彼女は涙をこぼした。そして、遠い日の事を思い出した。一人の少年との思い出だ。
臆病な男の子だった。いつもビクビクしていた。だけど、誰かの為にいつも一生懸命な子だった。
「……たすけて、メナス」
「愚かだね、ネルゼルファー」
完全に意識を失ったネルゼルファーを魔人は光の糸で縛り上げた。
「まあ、君だけに限った話ではないか……」
かくして、魔人は魔王を手に入れた。