TS悪役令嬢になったオレ! 王子と婚約してるけど悪役令嬢だから婚約破棄されるだろうし、気にせず生きていくぜ! 作:冬月之雪猫
窓から差し込む光と鳥の鳴き声。
廊下を歩く生徒達の足音や話し声。
ふわふわなベッドと夜に焚いた香油の甘い残り香。
いつもと変わらない朝。
「……名残惜しいな」
そんな言葉が自然と口から零れ落ちた。
愚かだと分かっている。何もしなければ、何も変わらない。この朝に満足しているのなら、何もするべきではない。そして、正しい道は何もしない事だ。
過去を忘れて、頑張り屋さんなお姫様を応援する為に生きる。それは間違いなく、アリーシャとしても、ヴィンセント家の令嬢としても、結崎蘭子やアシュリーとしても正しい選択肢だ。
だって、誰も望んでいない。アルトギアは改心している。
―――― 『弟って、すごく可愛いんだよ』
それが賢王陛下の判断を誤らせた。そう、わたしはルミリアに言った。だけど、そんな事はあり得ない。
個人としての感傷程度で、賢王の権能が誤った判断を許す事は絶対にない。
アレはネルギウス王陛下が編み出した権能ではなく、先代であるエルトリア・アガリアが策謀家の権能と救世王の権能を統合する事で編み出した継承系の
継承系の権能は保有者ではなく、信仰する人々の想念を優先する。本人の思想は信仰によって塗り潰される。
アルトギアに邪心があれば、賢王の権能は必ず見抜くだろう。そして、陛下が如何に弟を溺愛していたとしても、権能が彼を始末させる筈だ。
どれほど強靭な精神の持ち主だろうと、どれほど深い愛情があろうと、究極権能の強制力に抗う事は何者にも出来ない。それは一人で何万、何億の人間と綱引きで勝負するようなものなのだ。
賢王陛下がそこに在る事を許している。それこそがアルトギアの改心を証明している。
巫山戯るな――――。
アルトギア・ディザイア。
初代魔王の側近として現れ、世界を混沌と破滅へ導いた男。
魔王亡き後も邪教の集団を率いて、異界から神獣を喚び出して世界を滅ぼしかけた男。
それだけではない。彼は時代の節目節目に現れては、多くの嘆きを苦しみを生み出し続けて来た。
極悪という言葉の体現者。それを倒す事は紛れもなく正義であり、歴代の勇者達も全員が彼を敵と定めて戦った。
彼を倒す事は正しい事だった。そうあるべきだった。それなのに、彼は改心してしまった。彼を倒す事が間違った事になってしまった。
何の罪もない人々を虐殺しておいて、なんだそれは。
「……悪党なら……、悪党でいなさいよ!!」
どれだけ叫び声を上げても、どれだけ涙を流しても、どれだけ壁を殴りつけても、どれだけ炎王様のお姿を思い浮かべても、この怒りは消えてくれない。
笑ってしまう。亡き弟の為と口にしながら、この国の人々の為と口にしながら、結局はこれが理由だ。
ただ、わたし自身の怒りを晴らしたい。その為にアルトギアを殺したい。
狂っている。
わたしはもう、まともじゃない。
我欲の為に人を害そうとしている。多くの人を困らせる事になると分かっていながら、止まれない。
理性は夜の間に溶け消えてしまった。
―――― 随分と待たせたものだ。
声が聞こえる。
―――― さあ、身を委ねるがいい。
いつかの星降る夜にも聞いた声。
集落を焼く炎の中を歩むわたしを声は導いた。
この炎は魂の嘆きであると――――。
―――― 許せないのだろう?
初代魔王その人の声ではない。
直接聞いたわけではないけれど、何かの折に炎王様が見せてくれた初代魔王ザラク降臨の際に彼が発した声とは明らかに違っていた。
あのような、ソプラノボイスとは程遠い武骨な声だ。
恐らくは権能を紡ぐ人々が空想する魔王の声なのだろう。
―――― 災厄を齎し、多くの命を奪いし悪鬼。許されざる大罪には、相応しき罰が下されるべきだ。
これは人々の想念が編み出した概念だ。
禍々しき悪意の化身。その言葉、その思考は悪意に満ちている。
そうあって欲しい。そうでなければいけない。そうであるべきだ。
そうした人々の感情が結晶となり、過ちに寄り添い、甘言を用いて奈落へ導く悪魔の囁き。嘗ての魔王へ回帰させる誘いの言霊。それこそが、魔王の権能を発現させるスキル、『魔王覚醒』。
発現スキルとも呼称される権能取得の前提スキルは覚醒後も消える事なく残り続ける。
その声に耳を貸すべきではないと分かっている。それなのに、遠ざける事が出来ずにいる。
より深く、より暗く、奈落の底へ引きずり込もうとする。
もはや、耳を塞ぐ意思すら溶け消え、わたしはわたしではなくなり――――、
「『海賊王の権能』」
「……え?」
視界がスパークした。内側から聞こえてくる声ではなく、ハッキリと空気を揺らして響き渡った声と共に世界が一変した。
「う、み……?」
視界に映り込んで来たのは紺碧の海だった。
理解が追い付かず、思考がフリーズした。その為か、魔王の声も遠のいている。
「どこ……、ここ……」
「クリムゾンリバー号ですよ、アリーシャ」
いきなり背後から声を掛けられて、心臓が止まるかと思った。
慌てて振り向くと、そこには見知った顔があった。
「ルミリア!? それに、クリムゾンリバー号って……」
辺りを見回すと、ようやく自分が立っている場所が建物の一画などではない事に気が付いた。
船だ。その甲板にいる。薄気味悪い深紅の船体とクリムゾンリバー号の名前がアシュリーだった頃の記憶を呼び覚ました。
「レッドフィールドの船!?」
その船影が彼方に見えたのならば、すべての積み荷を海へ投げ捨てひたすらに逃げよと言われた船。
唖然としていると、どこからかパチパチという音が聞こえて来た。
その音に顔を向けると、綺麗な顔の少年が微笑みながら拍手をしていた。
その笑顔はまるで、獲物を見つけて牙を剥き出しにした獣のようだった。
―――― 敵だ。
魔王の権能が囁く。臨戦態勢を整えろと警鐘を鳴り響かせている。
心に恐怖が渦巻いていく。魔王の権能が彼を脅威とみなしている。
ここがクリムゾンリバー号の船上であるのならば、目の前の少年こそが海賊王の権能を継承した今代のレッドフィールド。
七英雄の一画であり、海の悪夢。極まった光と極まった闇。二つの側面を持つ男。大海賊ウェントワース・レッドフィールドの末裔。
彼は二代目魔王ロズガルドを討伐した英雄の一人に数えられている。
当時は魔王と呼ばれていなかったけれど、時代の移り変わりと共に二代目魔王の呼称が定着した事で七英雄は『魔王を打ち倒した者』という側面を得た。
「……やはり、危惧していた通りですね」
少年は言った。
「アリーシャ・ヴィンセント。貴女の権能は暴走状態にあります。本来ならば、活性状態と非活性状態を任意で切り替えられるスキルが活性状態になってしまっています。非活性状態に切り替えられますか?」
「なんで?」
「無駄な労力を割きたくないもので」
恐怖の中に苛立ちが混じる。
不可解だ。多少見下すような言動とはいえ、相手は十代前半の子供。
三つの人生を生きて、精神年齢だけで言えば中年に差し掛かる身として、子供相手にこの程度の事で目くじらを立てるなんてあり得ない。
「……それ、スキル?」
「おや、気付かれましたか。ええ、ご推察の通りです。これは海賊王の権能の一端。あまねく存在に対して、わたしが敵だと理解させるスキルです」
一見、意味不明なスキルだ。けれど、今度は前世の記憶が警鐘を鳴らした。
結崎蘭子がゲーマーの友達と遊んだゲームの中に、似通ったスキルが存在していた。
いわゆる、タンク職と呼ばれる
攻撃を引き受ける為に、敵の
そのスキルを使う意味は一つ。
「……これ、楽しくないんだけど」
「つまんなーい」
気付いた時には遅かった。全身を見えない鎖で雁字搦めにされている。
恐らく、予め準備していたのだろう。一つや二つではなく、幾百もの封印や結界魔法で全身をガチガチに固められてしまった。
その上、さっきまでは誰もいなかった筈の空間に見知った顔が並んでいた。
「エレイン……、みんな……」
「よぉ」
エレインはバツが悪そうな顔で片手を上げた。
「不意打ちからの騙し討ちで完封って、ありなのか?」
「別に彼女を傷つけたいわけではありませんからね。ただ、油断はしないように」
ルミリアを睨みつける。この絵を描いたのはきっと彼女だ。
まさか、エレイン達まで巻き込んで強硬手段に訴えて来るとは思っていなかった。
「それで……、どうするんだ?」
「さあ」
「さあ!?」
少年は自分の役目は終わったとばかりに後ろへ下がって行った。
「お、おい!?」
「私の役割はここまでですよ。彼女と個人的な交流のない私の言葉など、何一つ彼女には届かないでしょうからね」
そう言うと、レッドフィールドは船の手摺を背にして寛ぎ始めた。
舐めている。確かに、素の力では抜け出せない。だけど、権能の力を使えば話は別だ。
「妙な動きはダメだよー」
「いやいや、動いてくれた方が楽しめそうじゃん?」
炎凰の権能を行使しようとした瞬間、二つの殺気が膨れ上がった。
シャシャ・シーライル・ウルクティンとキャロライン・スティルマグナス。
神器の継承者と剣聖の弟子。
この二人は厄介だ。戦う事になれば、それは殺し合いになる。
「……エレイン達はここから出て行ってくれない?」
「行かない。わたし達が出て行ったら、お前ら殺し合いを始めるだろ」
驚いた。頭の回転が速い子だとは思っていたけれど、思った以上に深い所まで見通されている。
わたしがシャシャとキャロラインを迎え撃とうとすれば、エレイン達は戦闘の余波で死んでしまう。
レネやローゼリンデは承知しているのだろうか? そう考えて、彼女達の目を見る。
「……ちぇー」
全部知ってますって顔だった。手や足を震わせながら、決意の籠った眼差しを向けて来ていた。
「負けたよ。指し手は誰? ルミリアじゃないでしょ。ここまで悪辣な手は打てないだろうし……、君?」
わたしが睨みつけると、レッドフィールドは首を横に振り、一人の少女を指差した。
「……エレイン?」
「実行手段を考えたのはお前の推理通りの奴だぜ」
そう言うと、意を決した様子で彼女はわたしの前に立った。
「アリーシャ。今更言葉だけで止まれるとは思ってねぇよ。それで止まれるなら、ルミリアが止めてやれてる筈だ」
「お見通しってわけね。わたしの過去も知られちゃってる感じ?」
「ああ、少しな」
少しどころではない事が彼女の複雑そうな表情から伝わって来る。
「なら、どうするの? わたしを殺す?」
「殺すわけねぇだろ」
「……それ以外で、わたしを止められると思ってるの? この捕縛結界だって、いつまでも続くものじゃないでしょ。この空間だって長続きはしないよ。異界形成は究極権能でも制限時間がある」
「分かってる。だから、これだ」
「これ?」
エレインは拳を掲げている。
「……え?」
「おい、ジョーカー。捕縛結界を解除しろ」
「言葉での説得を試さないのですか?」
「言ってんだろ。また聞きでしか事情を知らないわたし達にルミリア以上の説得なんて無理だ。あとはもう、吐き出したい事を吐き出させてやるしかねぇ」
ジョーカーは苦笑している。
「……えーっと、どういう事?」
「殴り合おうぜ、アリーシャ」
遂に理性だけではなく、耳の機能まで失ってしまったようだ。