マルゼンスキー「Tu fui,ego eris」【追悼と、残される者のために】 作:木下望太郎
走っていた、走っていた。レース場なんかじゃなく――どこだろうここは、とにかく見知らぬ街中、アスファルトの上――、とにかく私――マルゼンスキー――は、自らの脚で走っていた。
走っていた、そのはずなのに。上がっていた、息が。唇が乾き、舌が粘りついていた。体は重く、まるで鉛のジャケットでも着ているよう。走るどころか、気がつけば歩いていた。手にした杖――接地する部分が四股に分かれた、しっかりしたもの――にすがりついて。
目を瞬かせてそれを眺め、苦笑する――いやだわ、どうしてこんな物持ってるのかしら。まるで私が――。
そこまで考えて、立ち止まっていることに気づいて。私はまた歩き出す――そうだ急がなくっちゃ、こんなところで止まっていられない。そうだ確か、今日は大事なレースの日、ずっと戦いたかった先輩たち、上の世代の三強との、だから――。
そのとき。声が聞こえた。耳から入って反対側の耳まで貫くような、大きな声。
「あぁっっ!? いたあああぁっ!!」
何事かと思う間に声の主は駆け寄ってくる、そのウマ娘は――濃い栗色をした髪は肩にかからない程度で切り揃えられていて前髪だけが白い。その頭を巡るように巻かれたものは編まれた地毛だろうか、そういう形のヘアバンドだろうか――。
彼女は駆け寄って私の手を取る。
「良かった……良かったぁ、なまら心配したべさ……大丈夫、おばあちゃん?」
聞いて、さすがに頬が引きつる。
おばあちゃん、ですって? このピチピチヤングギャルを捕まえて?
腰に手を当て、少しだけ唇をとがらせて私は言う。
「ね。それはちょびっとごあいさつじゃない? 知らない人に対して」
彼女は口を開けていた。その唇が震え出し、目元も震え出し。きつくつむったまぶたの端から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「おばあちゃん! 私だよ、私だよ! 孫の――」
孫?
私は首をかしげた。私たちの可愛い孫はついこの間生まれたばかりで、そうだ確か私の似顔絵をもらったわクレヨンでぐじゃぐじゃと描いた線のようだったけれど彼女の三歳の誕生日に――
――あれ?
私が再び首をかしげる間に、彼女は強く手を握ってきた。
「ねえ、とにかく、帰ろう? 帰りましょう、一緒に」
私は肩をすくめ、ため息をつく――チョベリバだわ、急がなくちゃいけないのに。だって早く帰って、夕飯を作らないといけないのに、あなたと子供たちに。いつまでも待たせるわけには――。
そう思いながら少女に目をやると。
彼女が私の手を強く握る、その手とは反対の手で。何度も涙を拭っていた。
私は小さく笑った。
「メンゴメンゴ。帰りましょう、おばあちゃんと一緒にね。だから泣かないで、ね?」
彼女の頭をゆっくりとなでる――持ち上げた私の手はなんだか重くて、震えていた――。
また涙を拭ってうなずく彼女を見ながら、私は思う――ごめんね、あなた。もう少しだけ待っていて。だってこの子のこと、放っておけないでしょう――。
少女が私の手を引いていったのは、清潔感のある建物だった。病院のよう、けれどどこか暖かみのある色合いの壁。
自動ドアの玄関が開いて、飛び出してきたのは娘と孫たちだった。
「お母さん! 大丈夫、どこ行ってたんですか!」
娘の声を尻目に、孫たちが駆け寄ってくる。
「うわああああーーーんっ! どこ行ってたのおばあちゃーーんっ!!」
「おばあ様……大丈夫、おケガはない……?」
「おばあさま~、ゆっくりお散歩できましたか~、うふふ」
孫たちと、よちよち歩きのひ孫の頭をなでながら私は笑う。
「はいはい。大丈夫よ、みんないい子ちゃんね」
そうして、職員の方に連れられて、私は施設の部屋に帰っていった。
私のそばであなたが言う。
――まったく、どうしちゃったんだい。孫の顔も忘れるなんてさ――
「うふふ。そうね、どうかしてるわ。でもちゃんと覚えてるわ、今日はあなたとの結婚式。さ、式場に急ぎましょう」
あなたは肩をすくめ、息をつく。
――おいおい、ずいぶん遅刻したもんだな。この花嫁さんは――
「本当ね。メンゴメンゴ」
そうして私たちは、同じ顔をして笑った。
気がつけば。いつの間にか眠っていたのか、私はベッドの上にいた。すぐそばの窓から、レースのカーテン越しに昼の光が降り注いでいる。家族は――夫も――帰ったのか、姿は見当たらなかった。
代わりにお客様がいた。
「やあ。調子はどうだい、マルゼンおばあちゃん」
小さなシルクハットのような髪飾りを頭に載せた、ミスタシービー。ただその髪には白髪が目立っていたし、何より。車いすに乗っていた。
私は息を呑み、思わず口元を押さえる。
「どうしたの、それ……それじゃあ、レースには……」
彼女は目を見開き、それから口の端を吊り上げて笑った。
「へえ……キミは思うのかな、少しでも。車いすに乗ったぐらいで、ミスターシービーさんの自由が阻まれるとでも?」
言って軽やかに、その場で車いすを転回させてみせる。一回、二回と、素早くはないが優雅に。
それがどこかフィギュアスケートの技のように見えて、私は小さく拍手した。
「なるへそ、心配は要らないみたいね。そうだ、それより主人が来てたんだけど……あなた、あなたー?」
あなたを呼ぶ声はしかし、返事のないまま宙を漂って消えた。
彼女はつぶやく。
「妬けるね」
ゆっくりとうなずき、優しく目を細めて続けた。
「『二万四千回のキッス』で、寺山修司が
「『二万回目のキッスをしたとき、おまえは腸カタルで養老院に寝ていた。我輩は、故買の
「『二万三千九百九十九回目のキッスをしたとき、おまえはすでに墓地の中。我輩は
「『我輩はとてもさみしく思うのだ。二万三千九百九十九回のキッスをするのは一生かかればいいだけだが、あとの一回をするには百万の夜があっても足りないのだ』」
彼女の大好きな詩人の作品を引用してみせた後で、彼女は笑った。目尻と口元のしわを増やして。
「まったく、妬けるね」
私はよく分からないまま、あいまいに微笑んだ。目尻と口元のしわを増やして。