マルゼンスキー「Tu fui,ego eris」【追悼と、残される者のために】 作:木下望太郎
気づけば、また眠っていたのか。夜になっていた。いや、たそがれ時というのか。夜と夕との、黒と赤との、誰も彼もの区別が消える、
部屋の電気はついていなかった。窓は開いていた、涼しくも薄温かくも感じる風が、カーテンを揺らして入ってきていた。
そのカーテンをかき分け、彼女は窓枠の上であぐらをかく。一つ上の先輩、私と競うはずだった一人、テンポイント先輩は。
「よゥ、久しぶりやの……ワシや」
流星の貴公子、関西の星――そう呼ばれた先輩は栗色の髪を風に揺らし、人形のように整った顔を歪めて荒々しく笑う。いつものように。
大怪我による闘病の後に、亡くなった先輩は。
私は横たわったままつぶやいた。そうしようと考えたのではなく、唇から言葉がこぼれ落ちた。
「死にたく……ないわ」
先輩は何も言わなかった。
私の唇はなおも動く。
「ねえ、先輩。このまま目をつむったら。ちゃんと朝が来るのかしら。もし朝が来たら――」
先輩は表情を変えずに言った。
「ワシにはそんなもん来ぃへんかった。けど、な」
掌を開いてこちらに見せる。そこにはゴム印で押したように黒く、『闘志』の字があった。三・五ミリ四方ほどの小ささで、しかし確かに。
それを握り締めてつぶやく。
「ワシはレースも、それを見に来る奴らも……南京町のブタマンと同じぐらい好きやねんで、おいしいおいしいてハッピーハッピーやんケ。ワシがブッちぎるとこを、ブッちぎられるとこを見た奴らにゃあ……みんな渡しとるつもりや。こんな風にの」
横たわる私の手を取る、そして。握手のように、握り潰そうとするかのように、強くその手を握った。
手を離して言う。
「別に皆に握手しよるワケやないけど。ワシの走りを見た奴の、心のどっかに残しとるつもりや、そうやって『闘志』の二字をの」
私は痛みの残る手を開く。そこには『闘志』の二字が――写ってはいなかった。まともに写ったとして鏡写しになるだろうその字はかすれて、黒い字のような何かにしか見えなかった。
「ええねん」
先輩は表情を変えず続けた。
「ええねん、薄れようが変わろうが。しゃあけど確かに、ワシの渡したモンはあんねん。それで、ええねん」
いつだったか、シービーがそらんじていた詩。その内容を思い出した。
テンポイント先輩を
歪んだ文字の残る掌を見て、それが涙でにじんで見えなくなって。それから私は、先輩へと手を伸ばした。
「先輩。お願い、もう一度、もう一度私に――」
闘志を。
そうしたらもう一度、もう一度だけ、走れるかしら?
先輩はしかし、首を横に振る。
「ムリやな。なんせオマエは渡す方や、ワシと同じにな。アホほど渡してしもうたんや――」
その言葉の合間に、情景が切れ切れに頭に浮かぶ――レース場、詰めかけた観客、最後のレース、ファンが掲げてくれた横断幕『語り継ごうおまえの強さを 讃えよう君の闘志を』――。
先輩は笑った。思い切り、歯を見せて。
「もう、渡してしもうとるやんケ。残った奴らはぎょうさん渡されとるやんケ。そんでオマエも誰も彼も、アホほどハッピーハッピーやんケ」
いつの間にかあなたがかたわらにいた。
――そうだね、もう渡してしまった。大事なものは全て、全てね――。
私は目を瞬かせる。涙が端からこぼれ落ちる。
「……渡せたのかしら。残せたのかしら」
でも、何を。先輩が闘志を残したのなら、私は何を渡せたのだろう。
「さァの。そりゃあ、オマエが決めんでエエことや。……残ったモンで形見分けや、オマエが残したエエもん全部」
先輩は親指で自らの胸を指す。
「必要なところを必要なだけ、必要な心を必要なだけ。それぞれの胸に持ってくんや……オマエは、それで続いてく。残されたモンの中に、必要な長さだけ」
そうして強く、うなずく。
あなたもうなずき、私の髪をなでる。
私は目を閉じ、うなずいた。
「そうね……それでハッピーハッピー、マンモスうれピー、だわ」
そのとき、だったか、ずいぶん経って、だったか。
部屋の戸が開き、廊下の明かりが洩れ入る。
様子を見に来たのか、施設の職員が出入口に立っていた。
私は目を瞬かせ、辺りを見回す。先輩もあなたの姿もなかった。
「ね、いつ帰ったのかしら。さっきそこに、テンポイント先輩とうちの主人が――」
職員の方は言葉を詰まらせたように口を開ける。
「え、でも、その方たちはもう――」
言葉を止め、それからすぐに微笑んだ。
「――もう、お帰りになられたんでしょうね」
おそらく夜も更けたころ、私はまた目を覚ました。常夜灯の薄明かりの下、
私はベッドに横たわったまま、手を明かりにかざす。
掌にはどこにも、先輩から託された文字はなかった。けれどあの痛いぐらいの力強さと、掌の温度は、確かに残っている。
それにしても。いつの間にこんなに細くなってしまったのかしら、私の手は。骨が浮かんで皮膚がたるんでしわしわで、すっかりおばあちゃんの手ね。
――きれいだ――
かたわらであなたが言う。
――きれいだ、マルゼンスキー。君の走りは。その栗色の髪も、白い肌も――
――きれいだ。その白くなった髪も、肌に浮くしわの一筋一筋まで。骨の浮いた、もう走ることのない脚さえも――
――きれいだ、君は。変わっても変わっても、君はきれいだ、マルゼンスキー――
――最高にハクいナオンちゃんで、マブいスケさ。僕の妻は――
私は微笑んで手を伸ばし、あなたの腕をなでる。
ふと、どこかで見た気がした。あなたが白い花に包まれて眠っているのを。礼服を着た子や孫たちが、そんなあなたに声をかけるのを。
そして、私はあなたに口づけた。
「ステキよ、あなたは。芝生みたいに固い髪も、大きな手も」
「すっかり薄くなった髪も、そこからのぞく肌も。骨の浮いた手も、しわの一筋一筋まで……かわいらしくて、ステキで、あなただわ」
私が言ったのだろうか、この言葉をあなたへ。
あなたが言ったのだろうか、この言葉を私へ。
「変わっても変わっても、いなくなってすら、ずうっと、ずっと――ステキよ」
いいか、どちらでも。
同じだわ、きっとそれは。
ねえ、あなた。ずうっと一緒だったように、今日もまた会えたように。
明日また、会えるわ。
――おやすみ。またね――
そう言ったのは私だったか、あなただったか。
いいえ、同じね。
そう思って私は目を閉じた。
白い花に包まれた私のかたわらにあなたがいて。
白い花に包まれたあなたのそばに私がいて――
ただ、肩を寄せ合う。
――Tu fui,ego eris(トゥ フィ、エゴ エリス)――
――私はあなただった。あなたは私になるでしょう――
(ラテン語の墓碑銘より)
(了)