我等の行った漁村での蛮行に狩人である事を止め、我等の生み出した実験棟の惨状に人で居る事にすら耐えられず、マリアは自ずから獣となった。
彼女の人としての面影を人形として残したのも、あるいは獣化の制御による獣の克服を目指したのも、未練だったのだろう。我等はつくづく愚かしいものだ。彼女を失ってなおそれを後悔とする事が出来ないなどとは。未だに過去に出来ずにいるというのは。なあ、ローレンス。
いや、獣となった彼女を狩るのを止めた君が未練を残すのはしようのない事だ。だが、彼女の事を狩ってなお未練とする私は……。
全ての獣を狩り、全ての上位者を狩り、そしてその術とした全ての狩人を狩り、獣とその源となる血を断つ。これ以上血が――獣が継がれぬ様に。その為に長らえようとして、上位者の道具へと成り下がった私と、獣を狩るのではなく克服する事で私の行いを否定しようとして、結局は獣と成り果てた君。
それで全てが終わりとなったのならどれだけ良かった事だろうか。
どうして今になって彼女がただ獣になったのではないなどと知ってしまったのだろうか。
彼女自身が疎み続けたその血か、彼女が獣となる時に捨て去った啓蒙か、あるいは私の願望が生み出した夢なのだろうか?
月の魔物の操り人形と化した私の目の前に現れた記憶と業を持たぬマリア、その似姿。
この夢に所属する狩人が狩り集めた血の遺志を狩人の血肉へと変える術を持つ神秘の産物であり、しかし、記憶も業も無いとはいえその精神はマリアのそれである様に思えた。それとも私がそう思いたいだけだったのだろうか? 今の私にはもうどちらだったのか分からないんだ。
獣狩りとは弔いであった事を忘れ、ただの手段とし、分不相応の夢を見て無理を押し通そうとした私が月の魔物の道具とされ使い潰されるというだけであるならば仕方のない事だ。だが、マリアまでもが月の魔物の道具とされる謂れは無いだろう?
私が技術を伝え、マリアが血の遺志を力へと変える事で夢の狩人を育て、その狩りの成就の後に夢の狩人を私が狩ってその夢の狩人としての遺志を継ぎ、それを月の魔物が狩り取る。
それらに関与するのは私の知識と業だけで、私の意思は何一つとして物事に影響を及ぼす事はなく、私にできるのは祈る事だけであった。
しかしそれに誰が答える事も無かった。既に願いに答えられて夢の中に居るのだから、更にもう一つ叶うなどというのは欲張りというものだろう。
この永い夢の中、私もじきに知識と業だけを残し擦り切れてしまうのだろう。月の魔物の狩りの道具として必要な部分だけが研ぎ澄まされた物になるのだろう。
私はもはやこの夜に彼女の似姿すら見る事は叶わなくなっている。あの人形が意思を持ち、動いていた事も忘れてしまうのだろうか。
◇
私の一族は偉大なる者の末裔であり、偉大なる者が終えられなかったという大いなる狩りを終わらせる為に青ざめた血を求めている。
一族の皆は「青ざめた血を求めよ。狩りを全うするために」を合言葉として探索に赴き、しかし生還しても成果が上がる事はなく、そもそも生きて戻る事すら少ない。得るものの無い、無謀なばかりの探求に一族は人も資産も擦り減らし続けていた。
……祖先だという偉大なる者がどれだけ偉大だったとしても私の一族が"今も"偉大であるとは到底思えなかったし、そもそも終えられなかったという狩りも、その術としての青ざめた血も、その言葉しか残っていない状態で何とかなるとも思えはしなかった。
事実かも定かではない夢の為に死にに行く一族の皆は異常者としか言いようがない存在だった。
探求に全てを費やし続けていた一族は見る間に没落して行き、最後に残った私を含めた数人の住んでいた小さな家すら焼けて私以外は皆死んだ。
――それは心中だったのかもしれない。私以外もはや探索に赴ける体では無くなった老人ばかりで、私は探索に赴ける様な体を持たずに生まれ、探索する気すらない『使命に背く悪い子』だったから。
事実かも定かではなく危険ばかりが山の様に積み上がる、得る物なんて無い青ざめた血の探求と狩りの全うという異常者の一族の悲願。私の子にまでこの使命を引き継ぎたいとは思えはしないけれど、一族の使命を覚えているのは私だけだったから。私まで投げ出したらもうきっと誰も覚えていてくれないから。だから、私が狩りを全うしようと思った。
叶えられずにいた使命を継ぎ、そして終える。私達の名前よりも、私の他の過去よりも強く、私という存在を規定するちっぽけな意地。
他の全てが削ぎ落されたとしても、他の全てが押し流されたとしても、それだけが残っていればきっと私は私で居られる。そんな意地だった。
だから、得体の知れないヤーナムの血の見せる悪夢に多くを忘れても、遺志の継ぎ接ぎになって私だった部分なんて殆ど残っていないのだとしても、全ての終わりに人を失ったとしても、それだけが残っていれば私は私のままなんだ。
◇
それは生まれるよりも先に母を亡くした子であった。しかしそれは尋常な存在では無かった為に母と共には死なず、生まれ、同じ様に求める者と感応した。
求めたその面影に一度は零れ落ちた意思を注ぎ求めた通りの母、あるいはその模造品を生み出し、思いを同じくした彼のもう一つの求めるものの術ともした。
母は狩人であり、子もその血を継いでいて、また彼も狩人であった。
子は人では無い為に人の様な狩りを行う事は出来ずとも感応した狩人を手段とする事を本能で知り、母の手で遺志を注ぐ事で世から失われた業すらその身に与え、また狩人の師の手でそれを狩人の業へと昇華させた。
狩りの終わりに狩人から遺志を回収しては狩人を人の世に帰し、帰した狩人が人の世で別の狩人の師となる事で更に磨かれた狩人の業もいずれはは遺志として子の元に来る。
狩人を使って遺志を得て、使い終えた狩人には狩人の業の改良と養殖を行わせ、いずれまた新たな狩人がそれを狩り取る。無駄というものの少ない狩りの円環。
彼が求めるものが二つあったのと同じ様に、子にも求めるものは二つあった。
一つは失われた母。もう一つは己の子。
本能で狩りを知っていたのと同じ様に、己の子を求めるのもまた本能によるものだった。
改良と養殖を繰り返された狩りの業を集め、その全てを凝縮し純化した狩りの業を作り与えるのも
血を薄め広めてから、それらを集めて凝縮して赤子を作り出すのも、少なくとも彼の子らにとっては同じ事。
上位者への入口へと立ち、もはや己の狩りの術とはできない夢の狩人に、自分の血と意思を受け渡す事で狩人だったものは狩人と子――月の魔物、あるいはフローラ――の混ざり合った坩堝に変わり、そのどちらでないとも、どちらであるとも言い難いものを生み出させる。
子――月の魔物が本能故に命を賭して己の子を生み出したのに対し、その子となった狩人と月の魔物の混合物の成果――青ざめた血の魔物が積極的に子を求める事が無かった理由は、さて、何に求めるべきであろうか。
◇
狩人様のお世話をし、狩人様が狩り集めた遺志を力へと変える。その為に用意されたヒトガタが私です。
ゲールマン様と共にこの悪夢に訪れた狩人様が狩りを終えられる様に、夜明けを迎えられる様に、必要なものを備えた道具なのです。
古い出来事を覚えている必要があるのも、会話が出来るのも、全ては狩人様の為。だというのに、どうして私は狩人様が去る事を寂しく思うのでしょうか。悲しく思うのでしょうか。
私達が居るのは悪夢。夜明けには夢と消え二度と出会う事のないもの。狩人様が人として生きるのには不要な場所です。
狩人様の事を思うのであれば少しでも早く夜が明ける事を、悪夢が終わる事を願うべきなのに、私は少しでも長く居て欲しいと思ってしまうのです。
ゲールマン様の姿が見えなくなったのはいつの日の事だったでしょうか。狩人様にはまだ捉える事ができる様でしたが私の目にはもう見えなくなって久しくて、私に見えるのは言葉も通じない小さな彼らと、この悪夢の彼方から此方を眺めるフローラと、そして狩人様だけなのです。
かつてここから去られた狩人様の中にはその時々の狩人様に言伝を残してくださる方も居られますが、二度とは会えないのがとても寂しいのです。
私は狩人様の為の物だというのに、狩人様の為にならない、余計なものを体の内に仕舞い込んでいます。どうして私はこんなものを持っているのでしょうか。必要なもの以外は何一つ持っていない方がきっともっと狩人様の為になったのではないか、と。そう思います。
ああ、だから。この狩りの終わりにフローラの血と遺志を継いだ狩人様がこの夢にお残りになられた時に、私はとても嬉しく思ったのです。
ゲールマン様は見える事も無くなってしまいました。フローラはずっと彼方に居ました。小さな彼らは言葉も通じません。狩人様は去ってしまいます。
この狩人様は去りません。言葉が通じます。此方に居ます。見えなくもなりません。
共に居てくださるのです。