私が生まれて初めて覚えた感情は恐怖だと思う。
その原因は父と母によるものだったと断言出来る。
父は昔から酒癖が悪かったそうで、お酒が入ると人が変わったかのように暴れ始め、家の中は毎日壊れた家具や割れた皿で溢れかえっていた。
母は父の振るう暴力に毎日怯え、まるで奴隷のように従っていた。
そんな両親が娘のことをまともに愛してくれる筈もなく、何も抵抗出来ずに泣いてばかりいる私は両者が共有しているストレス発散用のサンドバッグでしかなかった。
毎晩夜遅く、父が家に帰ってくると母はお面を被ったかのように性格が変わり、私のことは途端に見向きもしなくなる。
父は片手に下げている袋一杯の酒をテーブルに置き、私と母を予め指定された場所に座らせる。
母はぎこちない笑顔で夕方から用意していた料理をテーブルに並べ始める。
もちろん、この料理は父の機嫌を損ねないようにするために作ったものであり、私の分はない。
しばらくの間、父はひたすらに酒と料理を腹の中に流し込む。
張り詰めた空気が食卓を包む中、父はようやく口を開く。
家の中であったこと。
私の様子。
職場の話。
通常の家ならば、たわいのない内容の会話である筈なのだが、我が家ではこの後に地獄が待ち受けている。
私か母かが父の質問に対してあやふやな回答をしたり、何か父の機嫌を損ねるような内容の発言をすると、途端に父の顔は真っ赤になる。
父の怒るラインに関しては一切不明だ。
前回は気にしていなかった内容で激怒することもあるし、逆の場合もある。
呂律の回らない状態で私と母に罵声を飛ばし、同時にテーブル上の皿が空を飛ぶ。
父の話している内容がさっぱり分からないのでまともな返答も出来ず、その度に声を荒げ、私や母に手を上げる。
テーブル上の皿が全て床に落ち、つまみが無くなると父は私に近くのコンビニへ買い出しに行くように命令し、訓練された犬のように私はそれを受諾する。
改めて当時を振り替えると何故そのタイミングで逃げ出さなかったのだろうと疑問に思う。
父からはいくらかのお金は渡されるし、自宅からコンビニまでは少し遠かったので、いくらでも回りに助けを求めることは出来た筈なのだ。
それだけ当時の私は自分で考える力が奪われていたということなのだろうか。
時々コンビニの店員などから怪訝な目で見られることもあったが、父からのお使いという名目で無理矢理押し通した。
我が家の荒れ具合は近所でも有名だったので誰も私のことに深入りしたくなかったのだろう。
警察などに連れていかれることもなく、淡々と買い物を済ませることが出来た。
買い出しの帰り道、我が家の近くの住宅街に差し掛かると各家々の窓から子供の笑い声が耳の中に入り込んできた。
そこには我が家に無いものがきっと全てあったのだろう。
笑顔の両親。
暖かい食事。
賑やかな会話。
思わず窓の先の光景を覗いてみたかったが、そんなことをしたところで自分が惨めになるだけだと分かりきっていたので結局一度もやらなかった。
頭の中で次々と浮かんでくる幻想を振り切るように私は早足で住宅街を通り抜けていった。
父が寝静まることでようやくこの家の一日は終わる。
泣きながら食器を洗い、落ちた料理や皿を片付ける母を尻目に私は家の隅で目を閉じる。
ちなみに一度だけ、そんな母のことが心配になり何か出来ることはないかと尋ねたことがある。
母を助けたい一心での行動だったが、母はその時持っていた皿の破片で突如、私の腕を切りつけた。
何が起こったのか理解出来ず、おろおろとしている私の頭を掴み、眼前でこう低く言い放った。
「その目で私を見るな。二度と見るな。次同じ目で見たら、その目の玉をくり貫く。」
その夜、傷とは別の痛みで眠れなかったことは今でも鮮明に頭に刻み込まれている。
最初の頃は玄関のドアが空く音がまるで地獄の入り口が開いたかのようなものに感じ、言葉にならない恐怖に全身が支配された。
しかしその感覚は日を重ねるにつれて、次第にうすれていった。
父がいない昼の間も家の中は地獄であることを学んだからだ。
昨夜家の中で暴れたことをすっかり忘れ去っているような父を母と一緒に玄関で見送り、父という厄災が過ぎ去った家の中で母は私に牙を剥く。
私の存在を呪う言葉を浴びせ続け、突然泣きながら床下に散らかっているものを私に目掛けて投げつけてくる日もあれば、何も言わずにただひたすら近くにあるもので黙々と殴り続けてくる日もあった。
「あなたさえいなければ!あなたさえ!私は幸せになれるのに!」
「あんたなんか生むんじゃなかった!お腹の中にいるときに殺しておけば良かった!」
「ねぇ?何で生まれてきたの?教えてよ。教えなさいよ!!」
絶え間ない暴力と共に、私の心と体を蝕んでいった呪いは「私」という存在を叩き潰すのには十分すぎる代物であった。
そんな両親であったが、私の誕生日の時だけは別であった。
この日だけは父も母も暴力は振るってこない。深夜遠くのコンビニへ一人で買い出しに行かされることもないし、皿が床へ叩きつけられることもない。
二人ともいつもなら絶対に見せない笑顔でこう言ってくれるのだ。
「お前は私の大切な子供だ。」
「いつも辛い目ばかりに合わせてごめんね。」
「お前はこの家の宝物なんだ。」
「これからも私たちの家族でいてね。」
私は当初、この言葉をそのままの意味で受け取っていた。
普段の両親は凄く辛いことだらけの毎日を送っているのだろう。
そんな状況でも娘の誕生日だけは大切に祝ってくれる。
なんて素晴らしい親子愛なのだろう。
私はこの家に生まれて良かった。
その時は本当にそう思っていた。本当にだ。
まだ幼く、家の外の世界について何も知らなかった私にとって年に一回訪れる誕生日という存在は唯一の希望であったのだ。
そんな希望も結局は金メッキで上塗りされただけの絶望でしか無かったことに気が付いたのは小学三年生の時であった。
その年の誕生日は私以外家に誰もいなかった。
母は早朝に家から出ていったきりであり、父に関しては夜になっても帰りが遅くなる旨の電話は一つもかかってこなかった。
私は待った。
時計の針が十時を過ぎても重い目蓋をなんとか開けながら父と母の帰りを待ち続けた。
母が帰ってきたのは次の日の朝だった。
リビングでそのまま寝てしまっていた私はドアが空く音で目が覚め、慌てて玄関へ向かった。
母の体からは嗅いだことの無い町の匂いがしており、何と書いているのかは分からない外国語の紙袋を提げていた。
「あら、もう起きていたの。」
母は家に上がると私のことを気にも掛けずに荷物の片付けを始めた。
「うん・・・あのね。お母さん。」
「何?今から片付けや着替えで忙しいんだけど。」
いつもだったら母が怒ることを警戒して、ここで引き下がっていただろう。
でもこの時の私は母を通して確認したかった。
自分の誕生日が昨日であったことを。
何かしらの用事が入ったことで祝うことが出来なかったと。
謝罪なんてものはいらなかった。
ただ自分がこの世に生まれた日が昨日であったことを認めてもらい、たとえ遅れたとしても祝ってほしかった。
私が生まれてきたということを。
「昨日が何の日だったか覚えている?」
「昨日?なんだったかしらねぇ。」
怪訝そうな顔をする母に私は勇気を振り絞って口を開いた。
「昨日はね・・・誕生日だったんだよ。私の。」
母は震える声で話す私を横目でちらりと見る。
「あらそう、おめでと。」
無機質にそう言い放つと母は着替えるために奥の部屋へ向かい、リビングには私一人が残された。
私の誕生日の日に母は愛人と遊びに出掛けていたことと、父が駅前の居酒屋で女と一緒に泥酔していたことを知ったのは数日後である。
父と母にとっての「私の誕生日」とは、互いの愛を表面上取り繕うためのパフォーマンスでしかなかったのだ。
消費期限ぎりぎりの安物のケーキと形だけの笑顔だけで娘が喜ぶなら安いものだったのだろう。
誕生日に見せていた笑顔は私に向けられたものでは無く、それぞれが勝手に自己満足する目的のためだけに作ったものであったのだ。
そのようなガワだけの薄っぺらい誕生日など、二人に出来た新しい愛人と比べたら比較対象にも上がらないものだったのだろう。
そして私への愛のメッセージは祝いではなく、呪いだったのだ。
日頃の暴力に対する形だけの贖罪。
壊れかけの家族を取り繕うためだけに必要とされた私という偶像。
親の愛を子供へ一方的にぶつけることによる現実逃避。
これらによって得られる「家族」としての一時的な満足感。
あの家での私はたったこれだけの為に生きていた存在でしか無かったのだ。
こんなことなら最初から誕生日など無ければ良かった。
ずっと私の存在を嫌っていて欲しかった。
朝から晩まで殴られ続けていた方がどんなにマシであったか。
唯一の希望が絶望の一つとして塗り替えられたことで私の中の柏崎仁美は音を立てて崩れ去っていった。
私の価値など何処にもない。
自分の価値を失ったという現実は当時九歳になったばかりの私にとって背負うにはあまりにも重すぎた。
そして私が突然大赦に呼び出されたのはちょうどその頃であった。
初めて訪れた大赦の施設は見たこともないほど綺麗で神秘的な場所であった。
辺りを見渡すと仮面をつけた大勢の大人が施設の内部を行き来している。
普段の生活とはかけ離れたその異質さに圧倒されていると一人の女性職員が近づいてきた。
「柏崎仁美さんですね?ご用件は伺っております。どうぞ此方へ。」
仁美は女性職員に促されるまま、彼女の後を付いていった。
案内された場所は一般家庭にある和室を何十、何百倍も大きくしたような大広間だった。
奥にはカーテンのような仕切りで分けられた場所があり、内部に数人の神官がいるのが見える。
「柏崎仁美さん。本日はお越しくださり誠にありがとうございます。どうぞ此方にお座りください。」
仁美は女性職員によって案内されるまま中の方へと向かい、目の前に敷かれている座布団にゆっくりと腰を下ろす。
神官自体はあまり見たことがない。
学校での行事や神社でたまに見かけるぐらいで直接話す機会なんて一度もなかった。
緊張しているように見えたのか、奥の方から聞こえる声は張りのある真っ直ぐな口調で此方へ話し掛けてくる。
「流石に緊張するか。すまないな。まだ遊び盛りのお年頃にこのようなことをさせてしまって。」
「ご心配ありがとうございます。私自身あまり神官様たちとお話をさせていただいた経験がないので・・・」
学校で習ったばかりの敬語を見よう見まねで使っているが正しく使えているか全く分からない。
さっきからやたらと口の中が渇くのもやはり緊張している影響なのか。
「そこまで畏まらなくてもいい。話自体もそんなに時間が掛かるものではないからな。」
なんだかこの人は普通の神官と比べてかなり異質だ。
まるで近所のお姉さんと話しているような距離感で会話を投げかけてくる。
「お心遣いありがとうございます。私の方は大丈夫ですので、お話の方についてご説明よろしくお願いします。」
「ああ、もちろん。今から一から説明する。柏崎仁美さん。」
後半、突然声の雰囲気が場の空気とともに引き締まるのを感じた。
次に発せられる言葉を前にして思わず息を飲む。
「柏崎仁美。貴女に乃木家への養子入りを命じます。」
・・・ようしいり?
あまりの内容に頭が理解の拒絶を始めた。
言っている意味が全然分からない。
乃木家は大赦の中でもトップクラスの権力を持つ家柄だ。
私のようなごく普通の一般人でさえ分かるほどの超エリート家系である。
何故自分のような人間を乃木家は養子に取ろうとしているのか?
「あの・・・すみません。神官様。」
「どうぞ。柏崎仁美さん。質問なら答えられる範囲に限り、何回でも許可する。」
「何故私なのでしょうか?私の家は乃木家とは何の縁も無いですし、私には何の能力も・・・」
「いいや、それがあるんだ。乃木家の当主として必要不可欠とされている勇者としての素質がな。」
勇者としての素質?
そもそも勇者とは一体・・・
奥からの声は頭の中が疑問符でいっぱいになっている私の様子をまるで見透かしているかのように会話を続ける。
「外の世界が謎のウイルスによって滅んだことは学校で習っているだろう?」
確かに外の世界については学校でそう習っている。
私たちが暮らす四国以外の場所には恐ろしいウイルスが蔓延しており、嘗て多くの人々がそのウイルスによって亡くなったと聞いた。
唯一、四国だけは神樹様の加護によってそのウイルスから守られており、私たちが平和な毎日を送ることが出来るのもその加護によるものだというところまでは教科書にも書かれていた筈だ。
「はい。学校の授業でそう習っております。」
「なるほど・・・実はね、その話。半分は正解だが半分は間違いだ。」
「芝田殿っ!」
仕切りで隔てられている向こう側の内部から一人の怒号が聞こえてきた。
「本当にそこまでお話になるおつもりなのですか!?まだあの子供が養子になると決まった訳ではないのですぞ!」
「子供には半分嘘の情報だけ握らせておいてそれで納得すると思っているのか?そんなことをしたら後で私たちが痛い目を見ることになるのは明確だと思うのだが。」
「しかし・・・この話自体急に決まったものである以上、判断にはもう少し慎重になるべきかと・・・!」
「今回の件の責任は私が全て取る。前回の合議でもそうお話した筈だが?」
「それは確かにそうだが・・・」
「それなら此方側の意向も多少通してよいのでは?今回の場を用意したのも私です。ならばこの会合が私主導で行われることになんの問題があるのでしょうか?」
「芝田の小娘め・・・何が起こっても我々は絶対に責任はとらないからな・・・」
「ええどうぞ。私は全然構いません。此方のやり方でやらせてもらいます。」
内部での論争に一通り方が付いたのか、再び此方の方へ話し掛けてきた。
「さてと。さっきまでの会話では何処まで話したかな。」
「ええと・・・確か学校で習った話は半分正解だけど半分間違いだというところまでお話されていました。」
「そこまで話していたか・・・了解。今から続きについて話していく。」
さっきの会話もだったがこの人の話し方、神官にしてはかなりフラットではないか?
なんだか想像していた厳かな感じとは随分とかけ離れている。
私が小学三年生だから、このような人が担当しているのだろうか。
そんなことを頭の隅で考えながら、フラットな神官の話に耳を傾ける。
「まず前提として話すが外の世界を襲い、人類の大半を死に至らしめたのはウイルスじゃない。バーテックスという化け物たちだ。」
「バーテックス・・・」
聞いたこともない名前だ。
どんな容姿をしているか想像もつかないが、神樹様相手に戦いを仕掛けることが出来る時点で恐ろしい存在だということだけは容易に理解出来る。
「確かに今の四国は神樹様の加護によって護られている。だが私達の祖先が四国に大勢逃れてきて間もない頃、神樹様と共に人類の存亡をかけて戦った者たちがいたことは知らないだろう?」
「その方々たちが勇者・・・ですか?」
「呑み込みが早くて助かる。そうだな。神樹様に選ばれた四人の少女。当時の人々は彼女らのことを勇者と呼んでいたそうだ。」
人類の未来を背負って戦いに身を投じた少女たち・・・
確かにそんな話は教科書のどこにも書いていなかった。
今の私とはかけ離れすぎた存在過ぎてどんな人たちであったのか検討も付かない。
少なくとも、自分なんかよりずっと勇敢で優しくて多くの人々から必要とされていた存在であったのは確かだろう。
「そして、その四人の中でも特に勇敢な者であったと言われているのが現在の乃木家の初代当主、乃木若葉様だ。」
乃木若葉・・・今の大赦の中心を担っている乃木家の始祖的存在。
現在の大赦の勢力図から察するに乃木家は彼女の手によって築き上げられたものであるといっても過言ではないだろう。
そんなが伝統ある家が何故私を養子にしようとするのか?
かつて勇者と呼ばれた凄い人たちがバーテックスと呼ばれる敵と戦っていたこと、乃木家の当主には勇者としての適性が求められることまではなんとか理解出来た。
しかし勇者について知れば知るほど、益々自分が選ばれたことについて、ますます訳が分からなくなってくる。
「勇者に関しては理解出来ました。しかし何故、私が選ばれたかについてはまだ分かりません。」
「そんなに知りたいのか?自分が選ばれた理由について。」
小学生相手になんと大人げない意地悪な質問だろう。
まるで私の心の中を上から覗き込もうとするような聞き方だ。
ここからだと話している人物の顔は見えないが、にやついた顔で言っている様子が容易に想像出来る。
「現在、乃木家次期当主の座は空席の状態が続いている。跡継ぎ争いを親族同士でするくらいなら、神樹様から養子として全く別の子を選んでもらうべきだと現当主によって決まった。」
「そんなことが・・・」
「それで神樹様から養子として選ばれたのがお前というわけだ。どうだ?これなら納得しただろう。」
思わず渾身の力でふくらはぎをつねるが、目が覚める気配は全くない。
どうやらこれは夢で見ている幻なんかではなく、本当の話のようだ。
「つまり、私は神樹様から選ばれた存在であると・・・?」
「ああ、そうだ。これ以上ない大義名分だろう?」
神樹様から選ばれた。
この私が。
しかもあの乃木家の養子として。
頭の中でこの言葉を反芻しているとこれまで失っていたような気がする感情が心の奥底から沸々と沸き上がってきた。
神樹様から直々に命じられた大赦の中心とも言える乃木家への養子入り。
これだったのだ。
これこそ今までの私と両親の幻影を全て取っ払い、本当の自分を手に入れるために必要なものだったのだ。
これまでだったら絶対に手にすることが出来なかったであろう圧倒的な「力」がそこにはあった。
この力こそが今の私を全て破壊し、未来の私を創造してくれる唯一絶対の方法だったのだ。
改めて思い返してみれば私の両親は力が無かったからこそ、あのような惨めで滑稽な生き方しか出来なかったのだ。
会社では常に周りと比べられ、能力不足という現実から逃れるために酒に溺れ、妻と娘には暴力で己を誇示することしか出来ない父。
手を上げる夫には常に媚び、何も出来ない娘へ一方的な憎しみと愛情をぶつけることで自分が置かれた現実から目を背け続けていた母。
私の両親はとても弱い人間だったのだ。
そんな二人は自分たちよりも貧弱な存在であった私をいたぶり、蔑み、愛することでちっぽけな自尊心の残りカスを保たせていたのだ。
だが、私は違う。
私は神樹様から選ばれた人間なのだ。
自分たちの子供すらまともに愛することも出来ない大人たちの愛玩人形なんかじゃない。
この養子の話は正に天命と言うに相応しい巡り合わせであったのだ。
ならばこのチャンス、見過ごすなんて絶対に出来ない。
「どうだ、興味が湧いてきたか?最もこの件を断るのは・・・」
「なります!私をどうか乃木家の養子にしてください!お願いします!!」
気が付くと自分でもびっくりするほど大きな声が出ていた。
姿勢も勢いに身を任せた結果、まるで土下座のような格好になってしまっている。
だが、今の私にはそんなことは大きな問題ではない。
目の前に転がっている一つの熟れた果実。
熟しに熟しきっているその実は今取り逃すと、一生食べることが出来ないだろう。
これは私として生きるために、柏崎という呪いから逃げるためになんとしても勝ち取らなくてはならないものなのだ。
「私、柏崎仁美は神樹様に選ばれた者として乃木家への養子入りという重役を必ず全うしてみせます!・・・そして。」
目の前にこれまでの惨めな光景がちらつく。
もう私はあの頃に戻りたくない。
私は欲しい。
誰からも一方的に搾取されることもなく、常に私としていられる強さが。
その強さはただ乃木家の養子となるだけではきっと手に入らないだろう。
何の力も無い小娘一人がまともに立ち向かえるほど、この世界は優しくない。
大赦や乃木家に関しても同じだ。
何処の馬の骨だか分からない私の存在なんて、大人たちがその気になればすぐに捻り潰すことが出来るだろう。
仁美は部屋の奥の方へと顔を上げ、声の主に向けて腹の底から声を振り絞る。
「そして、乃木仁美は乃木若葉様をも超えるような勇者になることをここに誓います!」
そう、伝説と言われた初代勇者の一人であり、乃木家の初代当主でもある乃木若葉。
あの人を超えた先にしか私の未来は無い。
だからこそ私は乃木若葉という壁をなんとしても越えなければいけないのだ。
大広間は静寂に包み込まれ、数秒後向こう側からゆっくりと沈黙の空間が破られた。
「ほぅ・・・若葉様を超えるとは随分大きく出たものだな。」
奥の声はさっきまでの口調とはまた異なる雰囲気で語りかけてくる。
声自体は同じ人物のものであるのは分かるが、声と共に醸し出しているオーラは全くの別物だ。
「養子になるということは今の両親とは家族の関係ではいられなくなるのだぞ?お前は本当にそれでいいのか。」
「私は大丈夫です。自分の血の繋がりよりも神樹様からの天命を優先する所存です。」
私は柏崎を捨てる。
これからは乃木の人間として生きるのだ。
そしていつかは、どんなに時間がかかろうとも、私は乃木若葉という高すぎる壁を乗り越えてみせる。
その先にある本当の私の価値を絶対に手に入れてみせるのだ。
「そうか・・・お前がそうしたいならばそれでいいのだろうな。」
奥の声はやや低めの声でそう呟くといつの間にか左右の両端に大勢座っていた神官たちへ改まった様子で高らかに言い放った。
「ここで改めて宣言する。柏崎仁美に乃木家への養子入りを命ずる!」
数週間後、私は正式に乃木家への養子入りが決まり、私は柏崎仁美から乃木仁美になった。
因みに私の両親の様子はというと、乃木家と養子縁組になったことで大量の補助金が貰えることだけを喜んでいた。
あの様子だと私が産まれた時より喜んでいたのではないだろうか。
よっぽど機嫌が良かったのか、正式に乃木家との養子縁組が決まった日は生まれて初めてファミレスへ連れていってくれた。
何でも頼んでいいぞと二人は言ってくれたがその時はちっともお腹が空いていなかったので一番安いスパゲッティを頼んだ。
私たちの様子は何も知らない人からは正に理想の家族像に見えていたのかもしれない。
父は食べることも神樹様に仕える上では大事なことだぞと自分のハンバーグを半分も分けてきたし、母に到ってはデザートは別腹よねと言い出し、一番高いパフェを勝手に注文してきた。
どちらもその場では作り笑顔で美味しそうに食べたが、味なんてものはちっともしなかった。
そして食べたものはファミレスのトイレで全部吐き出した。
本当は家のど真ん中で吐き散らしたかったのだが体の限界だった。
便器一面に広がる吐瀉物を前に私は背筋を貫くような背徳感を抱く。
さっきまで皿に盛られていた彩り豊かな料理は全てこの嘔吐物へと変わり果てた。
黄色く濁った液体にはスパゲッティの一部が浮かんでおり、鼻の奥にツンと付く匂いと共に私の醜い内面を表しているかのようだった。
「私の好きな食べもの、焼き鳥だったんだけどなぁ・・・」
誰もいないトイレの中で私は便器に向かってボソリと呟いたが、ごぅごぅと換気扇の音が響き渡るだけでこの話を聞いてくれるものはここには誰も居なかった。
トイレから出ると両親は入り口の方で仲良く待っていた。
思いきり吐いた直後だったこともあり、顔色などから体調を心配されたりしないだろうかと淡い期待を何故か私はここで持ってしまった。
思えばこれが二人に求めた最後の願望だったのかもしれない。
乃木家の養子となれば二人に会う機会は特別な場合を除き、ほとんど無くなる。
腐っても血が繋がった家族としてせめて最後だけでもと二人に親としての本当の愛情を求めてしまったのだろう。
しかし、二人はトイレから出てきた娘のことを確認すると何も声を掛けずにさっさと車に乗り込み、私の最後の希望を意図も容易く砕いていった。
それ以降父と母のことで覚えていることは何もない。
私が乃木仁美となった数ヵ月後、二人が金銭トラブルが原因で殺人事件を起こしたという旨のニュースを耳にしたが、もうどうでも良かった。
私はもう柏崎仁美ではないし、あの二人は既に私の両親ではない。
私の名前は乃木仁美。
乃木家次期当主として神樹様に選ばれた存在。
そしていつかは乃木若葉を越える勇者となるものだ。