【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

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10話 恐い女

 どうも、小樽の山中からこんばんは。

 俺は今、仮小屋の中で白石由竹から刺青囚人の話を聞いています。with(泥酔した)アシㇼパ杉元。俺はザルなので酔わない。

 

「めっぽう腕の立つ猟師で、毛皮商人たちからは畏怖の念を込めてこう言われていた……冬眠中の羆もうなされる──悪夢の熊撃ち、二瓶鉄造」

 

 ──二瓶鉄造。

 予想通り、ファーストエンカウントはこいつになるらしい。

 というか、昼間に杉元たちとちらっと見たんだよな。マジで歯車みたいな頭してたなって感じ。

 

「……二瓶鉄造、」

 

 その時。トドマツの葉で組んだ仮小屋の屋根をセルフで突き破ったままのアシㇼパが、何かを言った。

 

「その名前、聞いたことがある」

「アシㇼパさんなんか言った?」

「昔、猟師を殺して獲物を奪う悪い奴らがいた」

「だから聞こえねーって……んもぉ〜」

 

 杉元が席を立ち、クソコラみたいになっているアシㇼパを回収しに行く。

 

「私と父が熊を撃った時も、そいつらに狙われたことがある……」

 

 ──無事に屋根から収穫されたアシㇼパは、鹿のチタタㇷ゚を頬張りながら、二瓶鉄造が網走に収監されるきっかけとなった出来事を話してくれた。

 

 

「……とんでもない男だな、」

 

 話を聞き終えた杉元は、まず苦々しい顔でそう呟いて。それから何かを思案するような顔つきになり、

 

「その二瓶ってのはどんなやつなんだ? 容姿は?」

「毛皮商が数週間前に見た時は、茶色のアイヌ犬を連れていて、18年式の単発銃を持っていた。俺が知ってる限りじゃ、髪は白髪混じりで初老の男さ」

「……!」

 

 白石の発言に、杉元は目を瞠り。まずアシㇼパを見て、次に俺を見た。

 昼間、杉元が仕留め損なってレタㇻが喉笛を噛み切った鹿の残骸。それを眺めていた男二人組。その片方の特徴そのものだった。

 

「……昼間見た男かも」

「ああ……兵士の装備をした男の連れだ」

「あ、そうだ! それともうひとつ、」

 

 白石がぱんと手を叩く。それで、3人分の視線が再び彼に集まった。

 

「そいつは、『もし、白い狼の毛皮が手に入ったらいくらで買う?』……と、毛皮商に聞いていたらしいぜ」

 

 その一言に、アシㇼパがこれまでになく動揺を見せた。父譲りの青い瞳が揺れる。

 

「……レタㇻだ」

 

 ──初老の男マタギなどあちこちにいくらでも居れど、白い狼は彼一体しかいない。

 そこでようやく、アシㇼパは二瓶たちの本当の狙いに気づいたようだった。

 

「白石、なんでそれを早く言わない!」

「そうだぞ白石、てめーは『フㇷ゚チャの刑』だ噛めオラ!」

「ええ? 屋根じゃんそれ──ばあああッ」

 

 杉元の手により屋根からむしられたトドマツを口に押し込まれる白石。新芽以外は苦いってだけで、別にそれ刑でもなんでもないだろ。

 

「レタㇻ……」

「アシㇼパさん、今は朝を待とう。しっかり休まないと……レタㇻが心配なのはわかるけど」

 

 落ち着かない様子のアシㇼパを、冷静になだめる杉元。──けれど、その瞳には既に獰猛な闘志が燃え盛っていた。

 

「…………」

 

 見て見ぬふりで、匙を口に運ぶ。

 あの瞳はいつか、俺に向けられるかもしれない。その時俺は、何を思うのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「タマはここに残ったほうがいい」

 

 ──で、翌朝。

 いざ二瓶鉄造確保に出発、という直前、アシㇼパがとんでもないことを言い出した。

 ここに、残れと。俺に。

 

「…………ええ?」

 

 今まさに仮小屋を出ようとしていた時にそんなことを言われた俺は、「なあんだただの尾形か」みたいなポーズで固まってしまった訳だが。杉元までもが訳知り顔で俺を見下ろしている。え、俺クビ?

 

「何故、」

「その銃……弾が残り少ないし、手に入れるあてもないんだろう? 無茶はしなくていい。銃は杉元が持っているし、私にも弓矢がある」

「え? 俺は?」

「二瓶を確認できるのはお前だけだろ」

「…………」

 

 銃の残弾か。ちょっとホッとして。

 ……言わなきゃ良かったかな、と思った。ちょっとした雑談のネタのつもりだった。が、弾切れすればバレることだし、理由があって黙っていたと思われるのも面倒だ。

 事の成り行きを無言で見守っていたらしい杉元が、ぼそっと口を開く。

 

「……タマさんの、かなり古い銃だよな」

 

 軍人だけあって、尾形ほどではなくともそれなりに詳しいらしい。少なくとも俺よりは。

 

「うん……もともとは祖父のものなんだ。それを家から持ち出してきた。弾も銃も古い輸入品で、今はもう出回ってないと店の人間が……」

「そうか」

 

 村田銃を使い続ける二瓶のように、そんなもん使うなとでも言われるかと思ったが、杉元は谷垣ほど手厳しくはなかったようだ。

 鋭い表情がぱっと温んで、

 

「あ、じゃあ俺が連れの兵士から軍用銃ぶん取ってきてあげようか?」

「ウフフ……杉元は優しいな。でも、とりあえずは大丈夫」

「いいのぉ? 撃ち方だって俺が教えてあげるし」

「あなたは銃があまり上手くないからいい」

「え? いきなり辛辣」

「しょうがないなぁ杉元!」

 

 いや物騒な会話だなオイ。

 しかし、三十年式を手に入れたほうが良いのは間違いないのだ。弾薬が入手できないライフルなんて充電の切れたスマホ並みに役に立たない。嘘、鈍器くらいにはなる。

 では、なぜそうしてもらわないのか。

 杉元に三十年式の使い方を習いました、なんて尾形に知れてみろ。「やはり俺ではダメか」ルートまっしぐらだ。道中で軍用銃を手に入れなかったことに確固たる意図がある訳ではない(また1人で覚えるのは面倒臭いとか値段とか色々と挙げられる)が、杉元の介入を避けることには明確な意義がある。

 今までこの銃一丁でやってきてしまった以上、既に俺には尾形合流までこれを使い続けるという道しか残されていない訳だ。

 うーん。何となく尻込みして買わなかったけど、買っておけばよかったか?

 でも尾形、この銃見たら喜ぶだろうし、三十年式の撃ち方教えて〜?(合コンのさしすせそ)とか言ったらもっと喜ぶだろうしな。

 うん。とりあえずいいか。

 杉元たちに向き直る。

 

「……私のことは大丈夫だから。とにかく、気をつけてね」

 

 一応そう口にしておく。アシㇼパが、威勢よく頷いてみせた。

 

「ああ。レタㇻを狙う囚人を、必ず捕まえてくる!」

 

 

 

 

 ……と、いう訳で。

 酒盛りの爪痕で屋根が穴だらけになってしまった仮小屋に1人、取り残された。

 しばらくは大人しくしていたが。

 

「……アシㇼパ」

 

 できれば現場までついていって、守ってやりたかった。

 なぜなら、二瓶鉄造のやり方は普通にクソと思っているからだ。子どもがかわいそうなの無理なんだって。

 あの都丹庵士にもチカパシを巻き込まないという程度の思いやりはあったのに、いくらアシㇼパが餌になるからといってもあんまりではないか。拷問してレタㇻを効率よく呼び出そう的な外道手段をやらかさなかっただけマシなのかもしれないが、それでもライン越えだ。

 アマッポにかかった谷垣に応急処置してあげたあとの彼女(ていうかこれ恩仇ってレベルじゃねーぞ)を、何とか二瓶から逃がせれば──

 

「できるじゃん」

 

 はたと思い当たる。

 いや、できる。今の俺なら。むしろ、今の俺にしかできないことだ。

 なぜなら、その時点の杉元と白石は必死にアシㇼパを追いかけている真っ最中なのだから。

 

「よく考えたら、あの2人はアシㇼパを人質に取られて引き離されたのだった」

 

 むしろ、ついていかなかったほうが良かったまである?

 いや、それならそれでまた出来ることはあったと思いたいけれど。

 

「時間さえ稼げば、あとは杉元たちが何とかしてくれる。……レタㇻのつがいがウェンカムイになるのも防げる」

 

 一石二鳥。汚れ役押しつけてすまん杉元。

 本当は、俺が隙をついて二瓶を殺すのが一番手っ取り早いのだろうが。

 今までしてこなかった以上、積極的な殺人はできるだけ避けたほうがいい、という感覚がなんとなくあった。それに、俺のほうは殺されても別に問題ないのだから、有事の際にはそちらを優先すべきだ。

 まあ、とにかく。

 

「……行くか」

 

 立ち上がる。銃を背負う。

 軍人が食えた飯のぶんは働くというなら、俺は与えられた光のぶん動くだけだ。

 

 

 

「足跡を追う。ちょっとは“らしく”なってきたか?」

 

 仮小屋を出て、銀世界に残された3人分の足跡を眺める。一番大きいのが杉元、小さいのがアシㇼパ、中くらいが白石。

 そこまで考えて、ふと思う。

 

「……二瓶鉄造と谷垣源次郎は、俺の存在に気づいていた?」

 

 鹿の周りに残された俺たちの足跡を見たはずだ。人数くらいは訳なく割り出せただろう。うーん、しかし。

 

「白石由竹だと思われたかもしれない」

 

 足跡は3つ。現れたのは3人。

 俺はそんなに足が小さいほうではないから、そう勘違いしても不思議ではない。

 試しに、白石らしき足跡の横を軽く踏みしめてみる。……うん、やはり大して変わらない。履き物も似たようなブーツだ。

 

「これが吉と出るか凶と出るか」

 

 少なくとも、3人が俺の情報を二瓶たちに漏らすことはまずないだろう。

 命惜しさに仲間を危険に晒すような真似はしない人たちだから。

 

「……急がないと、」

 

 目指す場所は、昨日鹿を撃った場所から、さらに先? それなりに距離がある。

 

「間に合うか? ……鹿垣がある方角へ先に向かったほうがいい?」

 

 幸い、その場所自体はアシㇼパから既に教えてもらって見当がついている。

 鹿を撃ったエリアを経由せず、そちらへ真っ直ぐ向かおう。一応、身を隠しながら先を急ぐ。

 進み始めてしばらく経った頃、

 

「──谷垣!! 2人が逃げたぞぉ!!」

「声でっか」

 

 大気を震わす二瓶のクソデカボイス。

 普通に野鳥の群れが飛んで逃げてった。こりゃ冬眠中のヒグマもうなされますわ。

 

「杉元たちは無事逃げ出したか……でも、合流するまでにだいぶタイムラグがある」

 

 時間はないが、危険は増した。二瓶もこちらに向かってきている。

 少し考えて、足元の雪を掬って口に含む。素人の猿真似だが、意味がない訳ではないだろう。うーん……シロップが欲しい。

 

「……見つからないようにしないと」

 

 開けた場所が見えてきた。

 アマッポがあるエリアに到達したらしい。人為的に倒された巨木の影に潜みながら、向こう側の気配を、

 

「アマッポがあるっ!」

 

 ──アシㇼパの悲痛な叫び。

 顔を出して、そちらを見遣る。前方の斜面下に、蹲る男の姿が見えた。そこに寄り添う少女の後ろ姿も。

 

「……谷垣……」

 

 最終戦でケツ撃ち抜かれても馬で追いかけてくる義理人情があるなら、ここで死ぬ気で二瓶止めとけよな(無茶振り)。担がれていたのが金カムの光担当で本当に良かった、俺なら当然のように見殺しにしていた。

 とか言っている間にも、林から出てきた二瓶鉄造が彼らに近づいてきている。

 ……まさか、まだ見ぬ4人目が潜んでいるなどとは夢にも思っていないのか。そもそも俺は二瓶とも谷垣とも一切面識がない。

 夢にも、というならそれはアシㇼパや杉元たちも同じか。……こんな芸当、未来が分かってでもいなければ不可能なのだから。

 

「…………」

 

 既に弾薬を装填した小銃を、構える。

 弾数がやや厳しいのはそうなのだが、銃持ったマタギにタイマンで勝てる訳がない。

 いや、でも殺さず無力化したい時ってどこ狙えばいいの? 教えてオガえもん。

 

「……フー……」

 

 ──子どもを人質にする、なんて卑怯なやり方には、それ相応のやり返し方ってもんがあるよな。

 

「……ああ、」

 

 今まさに。二瓶鉄造が、アシㇼパに向けて銃口を持ち上げようとして。

 ──その手元目掛けて、引き鉄を引いた。

 

「っ、」

 

 さすがに予想外の一撃だったか。

 村田銃が吹っ飛んで、新雪の上を滑っていく。どこに当たった? ……手か。

 この距離なら外さない。

 排莢して、間髪入れずにその右足を撃ち抜く。──だが、二瓶鉄造は止まらなかった。

 膝をついてなお、杉元から奪ったのであろう三十年式を即座に構えて──発砲。マジか。かなり近い位置を掠めた銃弾に、乾いた笑いが出た。

 

「クソ、威嚇にもなりゃしない……!」

 

 いや、なんでこの世界の人間って足撃ち抜かれてもピンピンしてるんだ? 白石といい尾形といい。

 

「──ッ、いい、わかってたことだ、っ」

 

 ちょっとくらい足止めになるかと思ったが、やはり撃ち合いでは玄人に勝てない。俺は狙撃手としては下の下なのだ。

 でも、俺にはもうひとつ弾がある。

 ──俺の命という鉛玉が。

 丸太を飛び越えて、斜面を滑り降りる。というか、飛び降りる。全く見覚えがないであろう女の姿に、さすがに銃を構えた二瓶の動きが止まった。

 

「ぅぐっ」

 

 唯一の好機だ。見逃す訳がない。硬直したその体をクッションにする形で着地する。

 その際、驚愕に染まったアシㇼパの顔がようやく見えた。そりゃそうだ。

 

「タマ!? なんで……っ」

「逃げろアシㇼパッ!」

 

 二瓶にしがみついたまま、叫ぶ。こいつは牛山ではないので、ただの女の危険タックルとはいえ虫でも払うようには振り解けないだろう。──と、思っていたのだが。

 

「早く──がッ、」

 

 固めた拳が思いっきり横顔にめり込んで、普通に雪へ沈む。ぶん殴られて目の前に星が散る、をリアルで初体験した。

 いってえ馬鹿。殴ったね、尾形にも殴られたことないのに! でも俺は二瓶のこと既に2箇所も撃ってるんですけどね。

 軽い足音が遠ざかっていく。

 ……ああ、とりあえず良かった。

 とっさにそれを追いかけようとする二瓶。その脛を狙って、小銃をフルスイング。

 

「この、ッ」「ぐ、」

 

 渾身の一撃は弁慶の泣き所と銃痕にジャストミートして、さすがに動きが止まった。で、今度は蹴られる。だから痛いって。

 いや、なんでこんな泥試合してんだ。狙撃手の恥すぎる。尾形にはナイショだよ?

 ──最終的に、仰向けに横たわった俺の心臓に三十年式の銃口が突きつけられて、一旦の膠着状態になった。

 風切り音と、谷垣の不規則な呼吸だけがしばらく2人の間を流れて。口を開いたのは、圧倒的有利を確保した二瓶のほうだった。

 

「……あのお嬢ちゃんの仲間か……最初から隠れて、好機を窺っていたな? 二対一では勝ち目がないと」

 

 別にそういうんじゃないけど、無言を貫くことでそういうことにしとこう。

 なんかそっちのほうが賢そうだし。馬鹿みてえな泥試合しちゃったけど。

 二瓶が目を細める。

 

「ああ。……本当に、女は恐ろしい」

 

 ──女。……女、か。

 彼の口癖じみたもので、深い意味はないのだろう。けれど、今の俺にはある種クリティカルな問いだった。

 前世の俺と、今世の俺。

 男と、女。

 男の俺ならこんなことはしなかったのだろうか。二瓶の執着を理解し、アシㇼパが人質になるのを見過ごしたとでも?

 

「……くだらない、」

「何?」

 

 ──否。馬鹿げた話じゃないか。

 こんなものに男も女も関係ない、

 

「あんたに理解する気がないだけだ」

 

 与えられた光の分、体が動いただけ。

 二瓶が白けたように鼻を鳴らした。

 

「……悪いが、理屈っぽいお喋りは嫌いでね。今はそんな暇もない」

 

 ここで俺に構っていても意味がない、ということに気づいてしまったのか。

 

「…………見失ったか、……!」

 

 退こうとした二瓶が構える村田銃──その銃身を、思いきり握って引き留めた。

 駄目だ。まだ、足りない。

 もっと時間を稼がなければ。俺がここで殺され、二瓶がアシㇼパを再び追っても、もはや彼女に危険が及ばないくらいには。

 

「一度構えたなら撃て、二瓶鉄造。こんな出来損ないの命、銃床の傷にもなりはしない」

 

 刻まれた7つの傷。人を殺した罪悪感。

 殺した責任を背負い込むような甘ったれは、兵士なんぞにならないで俺と熊撃ちをしていれば良かった──その通りだ。

 罪悪感があるならば。

 兵士になど、第七師団長になどなるべきじゃない。俺と、田舎で鴨でも撃っていれば良かったのだ。

 

「……どこでそれを?」

 

 二瓶はさすがに少しは驚いていたようだったが、それでも落ち着いて聞いてきた。

 原作ではキラウㇱに話したという体で明かされた話だ。二瓶鉄造の名とともに広まっていてもおかしくはない、と思ったのか。

 ここでキラウㇱの名を出してもしょうがない。問いは受け流す。

 

「……あいにく死ぬのには慣れたもんでね。今さら恐怖など感じない。獣の糞になる覚悟はできている」

 

 足音は聞こえない。杉元たちはまだここを見つけられていないのか。

 背中が冷たい。二瓶が皺の刻まれた頬を歪める。余裕のある笑みだった。

 横顔に谷垣の視線を感じた。何を考えている? いや、そんな余裕はないか。

 

「面白い啖呵を切るお嬢さんだ、」

「本当かどうか試してみろっつってんだよ」

「…………」

 

 二瓶の、匂いが変わった。

 引き鉄に、指が──

 

「──おおおおッ!?」

 

 その瞬間。苦悶の叫び、骨が砕ける音。

 衝撃は来ない。

 とっさに目を開ける。……頭上に、予想外の光景が広がっていた。

 二瓶の左腕にかじりつく、巨大な白い塊。なめらかな白銀の被毛、黄金の瞳、鈍く輝く肉食獣の歯並び──エゾオオカミ!

 

「レタㇻ……!」

 

 レタㇻ。いや、見間違うはずがない。白い狼なんて彼くらいしかいない。

 何故。どうして。

 混乱で頭がうまく回らない。

 

「アシㇼパが呼んだのか……!?」

 

 とっさに見回した雪原に、あのこぢんまりとした立ち姿はない。なおさら何故?

 有り得ない。

 完全に予想外だった。可能性から完璧に除外していた。

 誇り高きホㇿケウカムイが、アイヌですらない人間のためにここまでやってくるなんて。

 万が一、億が一にも俺なんかのためだとしたら、なおさら来るべきではなかっただろう。アシㇼパを守るためならともかく、こんなマリオもどきのためにウェンカムイになるのはあんまりだ。

 いや──それどころか、彼のほうが二瓶に殺されてしまうかもしれないのに!

 

「っ、」

 

 では、かくなる上は。

 上は?

 俺が──ここで二瓶鉄造を殺す?

 スムーズにポップアップしてきたその発想に、一瞬思考が止まる。

 視界の端に、あのライフルがある。

 銃がある。弾がある。それができる。……だから、そうしようとしている?

 それだけだった。

 

「…………」

 

 ──人を殺してはいけない。

 ──罪悪感があるから。

 ──地獄に堕ちてしまうから。

 

 泡のように、浮かんでは消える。

 消えて──残らない。

 どこにも、その名残さえ。

 ああ。やはり、俺はどこまでも。

 ライフルのレバーが薬室に弾薬を送り込む微かな響きを、どこか遠くで聞いた。

 

「……まさか、こんな場所で会えるとは思わなかったがな。俺の勝ち、────」

 

 歯車じみた奇妙な髪型、その後頭部に突きつけられた──俺が突きつけた銃口。

 二瓶鉄造の勝ち誇った呟きが、尻切れトンボになる。

 振り返ろうとする。その前に人差し指へ力を込めようとして、

 

「────ッ、」

 

 灰褐色、ついで鮮烈な赤。

 ──現れた別の狼が、二瓶の頸動脈を噛み切った。……原作通りに。

 それを理解したのは、二瓶が村田銃を取り落とし、その場に膝をついてからだった。雪の白に、ぱたぱたと赤が散る。

 

「ぁ……」

 

 照準の先には、もはや誰もいない。

 空虚な雪原が広がっているだけだ。

 我に返る。銃を下ろす。

 

「…………」

 

 2頭の狼はまだ二瓶に威嚇している。

 そこへ、弾丸のように駆けてくる茶色い毛玉。アイヌ犬のリュウだった。恐れていたはずの狼に負けじと怒鳴り返し、そのあまりの剣幕にか、先ほどまで怒り心頭という様子だった狼も引き下がる。

 

「……よしよし、リュウ……湯たんぽにしては頑張ったな」

 

 二瓶の手が、その後頭部を優しく撫でた。

 それから寄り添う2頭を見遣り、

 

「なるほど……“つがい”だったか」

 

 女房にとっちゃあ、男同士の勝負など知ったことではないか。

 やはり、女は恐ろしい。

 なあ、おっかないお嬢さん。

 不敵に笑いながら、そう呟いて。

 

「……だが、満足だ」

 

 くぅん。

 リュウが応えるように、物悲しげに鼻を鳴らした。それで、最期だった。

 

「……二瓶……」

 

 ──稀代の熊撃ち、二瓶鉄造は。

 生涯をかけて狩ってきたどのクマの爪でもなく。この北の大地に住まうホロケゥカムイの牙で、その命を閉じた。

 

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