【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について 作:捕まえようとした蝶
「俺のお父っつぁまはどんな人だったんだろう」
──あれから、少しだけ時間が経って。
尾形百之助は、以前よりは俺と会話するようになっていた。というか、それまでは話しかけようがうっかり足を踏もうがガン無視だった訳で、振り切れていたマイナスがようやくゼロになっただけとも言える。
で、案の定というべきかあれ以降毎日畑で鴨を撃ってくるので(粘着気質は母親譲りか?)、エンドレス鴨鍋記念日な訳だが。その味がいいねと言われた訳でもないのに。
とにかく尾形が俺に話しかけてくるのは、概ね処理の最中だった。今もそうだ。手伝えよ。
若干の憤りを覚えつつ、ナタでズドンと鴨の首を落とす。この瞬間だけはちょっと楽しい。
……で、何の話だって?
「……、花沢幸次郎のことか?」
言ってから、ものすごく他人事みたいな呼び方だったかもと思った。まあ、血筋的には他人事なんだけれど。
「立派な将校さんだって」
「立派、ねえ……」
雰囲気でやっている解体にもさすがに手慣れてきた。落としたばかりの生首をいじくりつつ、花沢幸次郎について思いを馳せる。
別に、明治の価値観でもヤリ捨てポイは褒められたもんではないのではないか。妾としてきちんと囲うなりするならまだしも。少なくとも、尾形は子として彼の所業を恨んでいたようだったし。
「…………」
現状。尾形トメは、まだ生きている。
今も台所であんこう鍋を作っているのであろう彼女を思う。食事時は俺がそばを離れないせいかもしれないが。原作では、祖父母の留守中を狙ったというようなことを言っていた気もするし。
母が自分を見てくれない。殺鼠剤は、その不満の行きついた先でもあったのだろう。でも、今は俺がいるからある程度のガス抜きができている?
ひとまず安心だが、今後はどうなるか。
「……タマは、」
自分の名前が出てきて、意識が引き戻される。……これは、初めてかもしれない。
顔を上げる。尾形はいつのまにか鴨ではなく、俺をじっと見つめていた。小さな唇が再び開く。
「俺が将校さんになったらうれしい?」
が、あまりに予想外の質問に、思考が一瞬明後日のほうへ飛びかけて──
「え、いや別に」
「…………」
「…………」
──つい“素”の感情が出てしまい、尾形を無言にさせてしまった。
いやだって、なってほしいとか言う理由が今のところ見つからないんですけど。当時の価値観なら普通なのか?
「……おっ母は、お父っつぁまみたいになりなさいって」
ならば、お前が俺に願うことは何?
尾形の語尾はそう俺に問いかけていた。
アシㇼパさんには山でチタタㇷ゚してヒンナヒンナしていてほしいんだ。網走監獄での杉元の願いが頭をよぎる。
母を殺さないでほしい。勇作を殺さないでほしい。欠けた道を歩まないでほしい。思い浮かぶことはいくつかあったが、どれも口に出せるようなものではなかったし。尾形にわざわざ伝えたいとも思えなかった。
──俺が、尾形百之助の人生に求めるものとは?
「……後悔するな」
悔やむな。振り返るな。そうせざるを得ない選択肢ならば最初から選ぶな。
お前には罪悪感があるのだから。
汚れていない左手を伸ばして。まだ傷も髭もないなめらかな頬を、指の腹で撫でる。
「お前はとても真面目で優しい子だよ。それを忘れないで」
それからしばらく、ぬるま湯のような日々が続いた。
当たり前だが、一日一日を終える度に、だんだんと春が近づいてきて。
俺は勝手に、この冬を越せばひと山越えたというような気になっていたけれど──その直前で、思いもよらぬことが起こった。
トメが、唐突に姿を消したのだ。
──大した騒ぎにはならなかった。
いや、それでは語弊がある。更なる醜聞を恐れた祖父母は、彼女の失踪を徹底的に秘匿した。
尾形百之助はその日以来、銃を持って畑に行くことは無くなった。
「尾形のヤツ……今日はどこ行ったんだか……う、」
早々に傾きかけた太陽を見上げて恨めしい気持ちになりつつ。びゅう、と鼻先を掠める木枯らしに縮こまる。
子どもは風の子元気の子──とはよく言ったものだが。風がもっとも冷たい早春のこの時期、外をうろちょろするのは子どもでもきついものがある。
でも、俺には外に出たい理由があるのだ。……それは“俺の理由”のほうとしてもそうなのだろうが、未来ある児童と行方不明の狂人を同列に並べられても困る。
こんなことを実際尾形に言ったら、ぶっ殺されそうだけれど。
「尾形百之助ぇ〜……」
そう。
お察しの通り、と言ってやるべきか、尾形は毎日トメを探してあちこち歩き回るようになってしまったのだ。雨の日も風の日も雪の日も、母想いで健気と言えば聞こえはいいが、俺(と祖父母)は気が気ではなかった。
原作では躊躇なく殺した母親をなぜ命懸けで探しているんだよ、とか色々言いたいことはあったが、問題は、とにかくこれが原作通りの展開ではないこと。その途中で尾形に何が起こり得るのかを俺は知らないのだ。
「はあ……」
──トメの失踪は、ある意味予想通りの展開だったとも言える。
男に捨てられ、そいつが好きだと言っただけの地元料理を執拗に作り続ける女の精神が、どこかで持ち直すとは残念ながら思えなかった。尾形がトメを殺さなくても、そもそも状況が好転する見込みはなかったのだ。
──尾形はただ、結論を急いだだけ。
他人事な悲しさだけがそこにあった。
まあ、終わった後なら何とでも言える、ということなのかもしれないけれど。
そんなことを頭の隅で考えながら歩いていたら、視界の端に覚えのある坊主頭を見た気がした。あちらも俺に気づいたらしく、近づいてくるのがわかる。やっぱり、
「百之助! うわ」
それは良いのだが、接近してようやくその惨状に気付く。今しがた土から掘り起こされました、みたいな有様についドン引きの声が出てしまったが。当の尾形は平然とした顔だ。
「またひとりで山のほうに?」
答えない。無言で俯いている。
いや山っつーか……掘りたてのタケノコみたいな汚れ方してるけどな。綺麗にしてやりたいがどこからどう手をつけたものか。
「危ないぞ……」
とりあえず葉っぱを落として、家から持ってきた手拭いで泥混じりの洟を拭ってやる。ぱっと見はやんちゃ小僧なのに、全く微笑ましい気分になれない。尾形はされるがままだ。その顔からは何の感情も窺えない。
とりあえず、手を差し出してみる。
「……うちに帰ろう。もう日が暮れる」
尾形はそこでようやく俺と、差し出した手とを見比べて。おずおずといったふうで、かじかんだ小さな指を乗せてきた。
真っ赤に染まって、氷のように冷たい手。温めてやりたくて、優しく握り込む。
ああ。
「百之助」
──今日は、彼に言わなければならないことがある。
最初に教えてきたのは祖父母だった。だから、家に帰れば2人が言うだろうし、あるいは時が来ればどちらにせよわかることだ。でも、彼らは“これ”が俺から百之助に伝わることを期待しているのだろう。
俺が思い詰めて、何かを言おうとしているのだけは伝わったのか、百之助が足を止める。気遣いなのか、反射的なものか。今はとにかく、好都合ではあった。
真っ直ぐ前だけを見つめて、口を開く。斜陽の名残が眼を刺す。
「あの人の……葬式の日取りが決まった」
重ねた手に、微かに力がこもったような気がした。
……その場では、いつも通り落ち着いているように見えた尾形だったが。
家に帰った途端、祖父母に食ってかかったのには少し驚いた。別に激昂していた様子はなかったが、そもそも尾形が彼らに反発するようなところは見たことがなかったから。俺に言わなかったのは、こいつにああだこうだ言っても無駄、というのが幼心にもわかっていたのだろうか。
どうして葬式をするんだ、やめてほしい、というようなことを淡々と言い募る尾形に、祖父母は困惑したようだった。それでも、トメが帰ってくる見込みは薄い、このままでは皆つらいだけだ、と懇切丁寧にそう決めるに至った経緯を説明してみせたが。──尾形は、首を縦には振らなかった。
何がそんなに嫌なんだ?
焦れた祖父の問いに、彼は一瞬口籠もってから、ぽつりと。
「おっ母が帰ってきた時に困るから」
それを聞いた瞬間──俺は、実に尾形百之助らしい答えだ、と思った。
自らを突き動かす衝動に、後から理屈という骨組みを与える。それに加えて、その主客転倒には都合良く目を瞑り、己は最初から理論立てて物事を進めているのだと思い込む。
けれど、本心ではその矛盾と脆弱性に気づいているから、後から苦しむのだ。
──母親が居なくなってさみしい、の一言がなぜ言えない?
生死不明の状態だというのに、こちらの都合だけで葬式を執り行ってしまったら、もしトメが帰ってきた際に彼女の居場所が無くなってしまう。そういう理屈だ。
季節は冬。いくら雪の降らない茨城としても、か弱い女が着の身着のままで数ヶ月も生きながらえられる訳がない。
もし近所の誰かが保護していたとしても、それをこちらに伝えてこないのはおかしい。尾形家の狂った出戻り山猫の噂は、この山間の村の中ではあまりに有名だった。
道筋だけは通った、けれど有り得ないことをさも当然のように口にする。はっきり言って狂気の沙汰だが、奇妙な納得もあった。
母親が見てくれなくてさみしい。
母親がいなくなってさみしい。
──死ぬ間際でさえ、その一言が口に出せなかったお前だから。
ああ、嫌だなあ。
「とにかく、もう決まったことだから」
最終的に。
祖父母は、これでは埒が明かないと判断づけてしまったらしく。その一言を最後に問答を打ち切ってしまった。
それはそうだ。そもそもが確定事項で、2人はそれを尾形にただ受け入れさせたかっただけなのだから。決定権のない尾形がうんと言わずとも葬式はできる。
「…………」
席を立った祖父母を、尾形は追いかけなかった。俯いて、正座の膝に乗った自分の拳だけを見つめていた。
準備があるためか、これから色々と忙しくなるらしい。夕飯は2人で食べろと言い残して、彼らはそのまま家を出て行った。
「百之助、」「……日にちが延びることはあるの」
日にち。何のことだろう、と考えたが、答えはすぐに尾形の口から紡がれた。
「おっ母の……葬式の」
葬式の日にち。何でまた。
……後に延びれば、そのぶん少しでも“猶予”が増えるから?
「…………?」
その瞬間。何か、違和感を覚えた。言語化できない不快感が背筋を撫でていく。
気のせいか? わからない。
「…………この辺りに葬式屋はあの小さな一軒しかないから……別の、ちゃんと死体がある葬式があれば延びるかもしれない」
別に死人がでなければいいけど。
祖父母がぼやいていたことを、特に思考回路を通さずそのまま繰り返す。彼らはさっさとトメの葬式を済ませたいのだ。
「まあ……冬場だからな……」
体感として、冬はよく人が死ぬ。熱中症より肺炎のほうが恐れられた時代だった。
出るかもねー、とも出ないかもねー、とも言い難く。黙っているうちに、視界の端で尾形が立ち上がったのが見えた。
「鴨を獲ってくる」
部屋を出ていく後ろ姿を、黙って見送る。
いやまた鴨かよ……とは、こちらもまた言えないんだなあ。でも、よく考えればこれも久しぶりのことだった。
「……迎えに行こうかと思った」
──で。鴨を獲りにいくと言った尾形は結局、家を出て、ずいぶん時間が経ってから帰ってきた。
外はもう真っ暗だ。心配で戸口のそばでうろうろしていたら、暗闇にいきなり白いものが浮かび上がってきて心臓が止まるかと思った。何のことはない、色白な尾形の顔だった、というだけなのだけれど。
既に暗くなりかけだったから、というのもあるだろうし、もうそろそろ鴨自体が北へ渡る時期なのだろう。あんこうの獲れる時期と、鴨の獲れる時期は似ている。
「……鴨の季節は、もう終わりだから……」
尾形もその程度の知識はあったらしく、そう言いながら鴨を片手に部屋へ上がってくる。
「また来年だな」
何となく言ったが、こんな日々がいつまで続くかはわからない。どちらにせよ尾形は、17歳頃には自ら陸軍に入隊するのだろうし。
「…………」
尾形の振る舞い自体は、至っていつも通り。つらくて夕飯なんか喉を通らない、と言い出さないあたりも“らしい”な、と思った。
珍しくも鴨の処理をやり出した彼を横目に、鍋の支度を始める。こうやって堂々と台所を使うのも初めてのことだった。今まではトメや祖母に遠慮していたから。いや結局は身長が足りなくてやりづらいな、
「処理終わった? ……俺より上手いな」
突き出される、羽根と臓物を抜かれて、翼と頭を落とされた鴨。それなりにやってきたからわかる、俺より早くて丁寧だ。今まで隣で見てただけのはずなのに。
ちょっぴりチェッ、みたいな気持ちになりつつ、ぶつ切りにした鴨肉を既に野菜の煮えた鍋にぶち込んでいく。尾形はそれをじっと傍で見ていた。
「……いただきます」
広い部屋で2人、鍋を囲んで手を合わせる。箸で口に運んだ鴨肉の味は──普通。
あれから何十回と作る機会があったせいか、さすがにそこそこ食べられる味になってきた。こんな小さい子だけで火なんか使わせて大丈夫かよと今さら思うが、安全の感覚が時代的に違うのと、そもそも銃の使用が黙認されているので何か言われたことはない。
「美味くも不味くもない。……そのうち上手に作れるようになるのかな」
言って、すぐに無いだろうな、と思った。
日々鴨鍋を作り続ける上で、PDCAサイクルとか特に考えてないからな。既にルーティン化しているし、ダメかもしれない。
「…………」
尾形からのコメントは今日もなし(初日だけ「不味かった」と言われた)。最後までみんなの前でチタタㇷ゚もヒンナも言えなかった男なので、こちらも別に期待はしていない。
無言の食卓。……トメについて何か言ったほうが良いだろうか?
でも、尾形も俺が彼女に何の思い入れもないということくらいは悟っているはずだ。だって最後の最後まで存在ごと無視されていたし。
……ああ、そうこうしているうちに食べ終わってしまいそう。まあ、いいか。
尾形はまだ食べている。先んじて、ごちそうさまでした、と口に出そうとして。
あれ。
「……?」
何かがおかしい。
思わず口元を指先で押さえる。
何だ、この違和感。体が熱い。腹の底から湧き上がってくるような不快感。
「ぅ、」
なにか、きもちわる、
「──げ、……ぇえッ」
次の瞬間。
畳へ、盛大に胃の中身をぶち撒けていた。それを理解したのは、焼けつくような喉の痛みと、足元に広がる吐瀉物の海を認識してからだった。
「ッ、……ァ……?」
吐いて、しまった。
こんなの何年ぶりだろう。この体になってからは初めてのことだった。
何故。どうして。
ああでも、それなのにまだ吐き気がする。手足が上手く動かせない。目眩が、する。
おかしい。何かが、おかしい、
「ぅぶ、」
押さえた手の隙間から、またゆるく吐きこぼす。白菜、鴨肉、消化するとかそういう段階ですらない食物の残滓が床に散らばる。
気持ち悪い、気持ち悪い!
毒……食中毒か? 何だこれは。
あたるようなものは入れていないはずだ。肉だって細心の注意を払って煮ている。
悪心、嘔吐、胃痛、麻痺。ニンニク臭。……典型的な黄リン中毒症状?
いや、そんな付け焼き刃の知識がなくたって“わかる”だろう。祖父母の留守。鍋。これは。
──殺鼠剤。
その結論に辿り着いた瞬間、全身が総毛だった。まさか、まさかまさか──最後の力を振り絞って顔を上げる。
当初と変わらぬ位置から無感動に俺を見下ろす尾形百之助と、目が合った。
ああ。凍りつく。
この、クソガキ。
やりやがった。
トメが姿を消したからといって油断した。尾形百之助という子どもを甘く見ていた。
もっと警戒すべきだった──いやでも、こんな結末、誰が予想できただろう?
そう言ってくれ!
「ぁ、ぐ……」
汚れた畳に爪を立てる。血が滲む。
毒でぐちゃぐちゃな頭の中でも、否、それだからこそ、俺は冷静に事の顛末を理解していた。どうしてこんなことになったのか。尾形は何を考えてこの凶行に及んだのか。
母の葬式の日にちを延ばしたい。
新しい葬式の予定が立てばいい。
それには、新しい死体が必要だ。
倫理の“り”の字もない三段論法だが、追い詰められた尾形少年にはこの上ない名案だったのだろう。──先んじて俺を殺して、トメの葬式の日取りを変えてしまえばいい。
有り得ない理論の組み方だ。だが実際に今この時、俺の身に降りかかっている!
ファッキュー!
「……くそ、が……」
目の前が霞む。
痛みと吐き気が、どこか遠い。
明治時代に黄リン中毒を治せる医者は早々いない。そもそも、黄リン自体が猛毒だ。
死ぬんだな、と思った。
どれだけ時間が経ったのか。のたうち回る気力も失われてきた。畳に這いつくばってひゅうひゅう虫の息を繰り返す俺に、尾形がようやく席を立って近づいてくる。
「おが、た……」
気負いない足取りで歩み寄ってきた尾形は、すぐそばに膝を折り。投げ出した手を取って、優しく指を絡め、握りしめてくる。
最期に見えたその顔は、やっぱり何を考えているのかわからない無表情だった。
ああ、もう。
お前はとんだ大馬鹿野郎だよ。