【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について 作:捕まえようとした蝶
──ごとん。ピッ。
鈍い音と、甲高い断末魔。
「獲れたっ!」
罠にかかり、石に押し潰されて圧死した小型齧歯類を、アシㇼパがつまみ上げる。うーん、トムとジェリーのダメージ描写レベルにぺらっぺら。
「そのネズミ、下山するにつれてだんだん獲れなくなってきたな。山の上にはいっぱいいたのに」
「高いところにしかいない変なネズミなのかもしれないな」
さっきから皆してネズミネズミ言っているが、こいつは確かエゾナキウサギ。希少な動物である。
隣の尾形はきゅっと引き絞られた瞳孔でそれを見つめている。ンー、猫ちゃん!
「またネズミかぁ」
白石はわかりやすくガン萎えだが、俺は絶滅危惧種を食うという現代なら犯罪まっしぐらの行為にちょっと興奮しています。
……今さらだが。
寝袋代わりのエゾシカに目をつけたヒグマに襲われかけたりしつつも、俺たちは無事に大雪山を越えようとしていた。
今はもう、高地に棲むナキウサギも獲れなくなってくるような辺りまで降りてこられたところだ。
「我慢しろよ。銃声が追手に聞こえちまうかもしれないから、鹿や鳥がいても撃たないほうがいい」
「タマ、あとでくくり罠を見回ってこよう。木ネズミが獲れてるかも」
「そうだね」
「ネズミばっかり〜〜〜ッ」
でんぐり返り白石のケツを眺めながら、こんがり焼けたナキウサギをかじる。食うところがほぼ無い。
「少ないけど、百之助も食べろ」
リスより貧相なその肉塊をアシㇼパから受け取った尾形、無言でカリカリ。本日もノーヒンナ。
「百之助ぇ、ヒンナは?」
「…………」
で、無視。大人気ねえですよ。
ほっときなよ、と杉元が苦言を呈するのにも構わず、アシㇼパは例のシパシパ顔で、
「百之助はいつになったらヒンナできるのかな? 好きな食べ物ならできるか?」
圧倒的、無視。黙ってナキウサギをかじる尾形を、彼女はしばらく見つめていたが。やがて、くるっと俺に向き直り。
「……タマ〜、百之助の好物って何だ?」
「あんこう鍋」
「…………」
アシㇼパ、尾形が言わないことは全部俺に聞けばいいと思ってるんじゃないのかね。
まあ良いけど、と思いつつ答える。
「ケッ、大人の男ぶっちゃってよ」
でお前は何なんだ杉元。
その小物感溢れる悪態は華麗に無視して、尾形が立ち上がる。外套のフードをきっちり被って、これ以上構うなムードだ。
放っておくかと背を向けたところで。すれ違い様に、ぽつりと。
「……鴨鍋」
その、さりげない呟きに。先ほどの発言を訂正したかったのだな、と咄嗟に思った。
尾形の好きな食べ物。
あんこう鍋ではなく──鴨鍋?
ああ鴨鍋、
「え゛ッ」
「え?」
「うん?」
──その意味を理解した瞬間、喉奥から踏み潰されたカエルのような声が漏れた。
しかし、尾形は当然振り返ることなく、変わらぬ歩みで離れていってしまう。その背に何か言うこともできず、黙って見送ることしかできなかった。
やがて、その背中が完全に視界から消え。微妙な沈黙だけが流れる。
その静寂を破ったのは、気遣わしげな顔をした杉元だった。
「……何かあったのか?」
何かあった?
……何と答えたらいいのか。とにかく想定外のことが起きたのは確かだった。
尾形百之助が、好物を問われて“鴨鍋”と答えた。
あんこう鍋でも、他の何でもなく、よりによって鴨鍋、と。
「っ、…………」
それを、俺はどう受け止めるべきなのだろう。
とにかく、何か言わなければ。
心配、好奇心、純粋な疑問。色々な感情が混じった3対の瞳を、決心して見つめ返す。
話そう。俺たちのことを、少しだけ。
「ずっと、昔の話だ」
「実家にいた頃……百之助は冬になると、毎日のように畑に出て鴨を撃ってきて……それも、まだ10にもならないような時分からの話だ」
さっそく、杉元と白石が驚愕の顔を突き合わせる。
「あいつ、そんな小さい頃から?」
「どおりで銃が上手い訳だよ、」
「……あんこう鍋は、どこから出てきたんだ?」
ただ1人、尾形の銃の腕前には大して興味がないらしいアシㇼパが、その勘違いの出処について問うてくる。
「あの子の母親がよく作っていた料理で……でも、もともとは百之助じゃなく、その父親が『美味い』と言ったものだった」
不穏な気配を感じたのか。ゴールデントリオが揃って黙り込む。
「百之助の母親は、どうしても自分を捨てた父親にもう一度振り向いて欲しくて──百之助は、どうしてもそんな母親を振り向かせたかった」
そのための銃であり、鴨だった。
──でも、結局それは最期まで叶わなかった。
俺の呟きに、3人が息を呑んだ。
そう。尾形トメは死んだ。最期まで都合の良い夢に浸ったまま。土間で揺れる鴨の脚。受け取られなかった尾形百之助の“愛”。
俺がそれを代わりに受け取った──否、奪ったのだ。今になって、思う。
「百之助は私じゃなく、母親に鴨鍋を作ってほしかったはずだ。でも、あの人が鴨を受け取ることはなかったから……」
だから、尾形は。
唇をなぞる。殺鼠剤の入った鴨鍋の味。吐瀉物が喉を焼く痛み。
やはり俺では駄目だった。代わりになってあげられなかった。答えはあの時、出ていたはずなのに。
「百之助……」
……おかしな話だが。
ここに来て、初めて尾形百之助の悲しさを自分ごととして考えた。
悲しかった。寂しかった。けれど、尾形はそれをどこかで諦めてしまったのだろう。存在しなかった。そういうことにした。母が作ったあんこう鍋の味を忘れることで。
そんなことは最初からわかっていたはずなのに、こうやって事実として突きつけられて出てきたのは、後悔だった。
俺のせいだ。
項垂れる。
愛してやるなどと言っておきながら。こんな単純なことにも実際、俺は耐えられないのだ。
息が詰まるようだった。真綿で首を絞められている感覚。──俺が、尾形百之助の記憶から母親を消し去ってしまった、
「タマ」
肩に手が置かれる。
はっと、我に返る。……アシㇼパが、優しい眼差しで俺を見つめていた。
「大事なのは“誰がするか”じゃないはずだ。百之助のハポがやらなかったことをお前がやった。それはとても意味のあることだったのだと思う」
意味があった。そうなのだろうか。
俺にはわからなかった。
「現に、百之助はお前の鴨鍋が好きだと言ったじゃないか。お前が百之助に伝えたかったものは、きちんとあいつの中で息づいてる」
アシㇼパは、鴨鍋について「誰かがやるべきことだった」と解釈しているのか? そして、その“誰か”が特定の人間であった必要はない、と。
本当は母親が、という無いものねだりに初めから意味などない。価値があるのは、行為そのものなのだから。尾形もそう考えていて、だから「鴨鍋」と答えたのだ、と?
俺が、尾形百之助に伝えたかったもの。
……愛、か?
尾形は、俺の愛を受け入れている。少なくとも、アシㇼパにはそう見えている。
それなら、いい──のだろうか。
「……ああ」
少なくとも、気分はやや晴れた。
多少明るい気持ちで、顔を上げる。俺がやってきたことは無駄ではなかった。
他の誰かからそう見えているのなら、それでいい。少なくとも今は、そういうことにしておこう。
再び目が合ったアシㇼパは柔らかく表情を緩め。しかしその直後にあ、と声を上げて、
「じゃあ、百之助はタマが作った鴨鍋ならヒンナできるのか……フフ、良いことを聞いた」
「なんでそんな尾形にヒンナさせたがるのぉ?」
「なっ、タマ!」
アシㇼパのきらきらした瞳が向けられる。おっと、これは期待されている顔か?
うーん鴨鍋、鴨鍋ねえ。
いや、
「もう私は飽きたから向こう数十年は作るのも食べるのもしたくない!」
「急に辛辣〜☆」
「タマさんが好きな食べ物は何だい?」
「甘いもの」
……4人分の喧騒が、少し離れた場所から微かに聞こえてくる。
その騒めきには背を向けたまま、ぼんやりと口ずさむ。ほとんど無意識に。
「……鴨鍋」
鴨鍋。空を往く鳥の影。
眉間を押さえる。ゆっくりと、瞼を閉じる。
穏やかな、晩秋の昼下がりだった。
兵舎の窓ガラス越しに、快晴の青天井を渡っていく鳥影を見た。
見慣れたその姿──今年ももうそんな時期か、とぼんやり思って。
「……鴨」
何気ない呟きだったが、隣の男の耳には届いてしまったようだった。途端にぐっと顔を寄せ、こちらを覗き込んでくる。
「兄様、いかがなさいましたか?」
「いえ鴨……近い近い、少々近すぎます勇作殿」
規律が緩みますので。
軍帽が文字通り鍔迫り合う位置まで迫ったその巨躯を、嗜めつつやんわりと押し返す。年季の入った板張りの廊下が、男2人の体重を受けて大きく軋んだ。
──会話を適当に聞き流し、窓の外を眺めていたことに対する叱責はない。その輝く瞳には、“兄”の言葉をひとつも聞き漏らすまいとする、純粋な好奇心だけが宿っていた。
距離を取って、ため息混じりにその顔を見返す。弟であり、その前に上官であるはずの男──花沢勇作少尉の、端正な顔を。
「申し訳ありません、退屈だった訳ではないのです。ただ……少し、昔のことを思い出しておりました」
「昔のこと、ですか」
そこで、窓ガラスに歩み寄った勇作が、同じようにその向こうに広がる空を見上げる。そうして、困ったような顔をした。
「鴨、……なのでしょうか?」
「ええ。あの翼と体色はそうでしょうな」
「兄様は大変、目が良くていらっしゃる」
照れたように笑ってから。ふと、思い出したように、
「……兄様ほどの狙撃の名手ともなれば、幼い頃からご実家で、猟の手伝いなどもされていたのでしょうか?」
頓珍漢なことを言われて一瞬、面食らった。
そういえば、入隊する以前の話を勇作にした覚えはない。そもそも、軍の中でも鶴見中尉と、宇佐美くらいにしかした覚えはないのだけれど。そんなことを思いながら、口を動かす。
「別に、家業で猟師をやっていたという訳でもないのですが。鳥は、よく畑に出て撃っておりました。小さい頃から」
ただ事実を述べただけのつもりだったが、勇作はなぜか大きな瞳をこぼれ落ちそうなくらい見開いて。ぱんと胸の前で両手を合わせたかと思えば、
「それは……ああ、やはり兄様は素晴らしい才能をお持ちです! 並みの人間にできるようなことではありません。我が軍の宝と呼んでも過言ではない」
「……勇作殿、士官が一兵卒をむやみやたらと褒めちぎるものではありません。規律が乱れます」
嫌味なくそんなことをはきはきと言われて、むずがゆいような、尻の座りが悪いような感覚に陥る。
我が軍の宝。日ごろ何かあったらとこちらをいびってくる他の上官が聞いたら、卒倒しそうな発言である。
……けれど、その裏で漠然と、心が落ち着くような感覚もあった。矛盾している。しかし、悪い気分ではなかった。再び口を開く。
「……初めて鴨を撃った時、」
はい。勇作が穏やかに相槌を打つ。
それに、後押しされたような気持ちになって。
「本当は、母に渡すつもりだったのです」
低い呟きに、小さく息を呑んだのが聞こえた。
山猫の子は山猫。どこから広がったのか、そんな下卑た噂話は、既に聯隊中に蔓延していた。信じる信じないに関わらず、その内容自体は勇作の耳にも入っていたのだろう。
そして、それ以上に彼には思うところがあったはずだ。父が捨てた妾の子。祝福されなかった、出来損ないの倅。
「鳥があれば、母はあんこう鍋を作らないだろうと思って……でも、そんな目論見は外れてしまいましたがね」
瞼を閉じる。息を吐き出す。
手の中で温度を失っていく鳥の死骸。引きずった小銃の重さ。煮えるあんこう鍋を愛おしげに見つめる母の顔。──何もかも、昨日のことにように思い出せた。
でも。
「やむを得ん、捨ててしまおうと思ったところに……祖父母の養女が現れて、私に言いました。捨てるならその鴨をくれ、と」
そこまで言ったところで、勇作がまた驚いたのがわかった。
「他にご家族が?」
「捨て子だったそうです。私と歳も近く、入隊するまで実家でともに暮らしておりました」
「そうだったのですか、」
指先で口元を押さえてみせる。祖父母や親はともかく、きょうだいに近い人間が身近にいたという事実は、それなりに彼へ衝撃をもたらしたらしい。
まあ、一人っ子の寂しさ余ってこんな人間を兄と呼び慕う男のことだ。きょうだいという存在に並々ならぬ思い入れがあるのだろう。そう自分を納得させて、続ける。
「そいつは、私が鴨を渡すと、不器用な手つきで羽をむしって、見様見真似で鍋を作って出してきました。生まれて初めて鴨の鍋物を食べましたが……まあ、素人の餓鬼が知識もなく作ったものです。最初の頃は食べられたものではありませんでしたよ」
血と臓物の味がする鍋だった。不味い、と伝えたら、不貞腐れた顔でうるせえ、と返ってきた。でも、段々と上手くなっていって。
「……おかしな女でした。幼い頃は特に。笑いも泣きもせず、何を考えているのかさっぱりわからない。……でも、私が畑で撃ってきた鴨を渡すと、いつでも『ありがとう』と言って。嫌な顔ひとつせずその鴨を捌いて、鍋を作るのです」
そこで、記憶の沼から浮上して。こちらを見つめる勇作の目が、何か眩しいものでも見るように細められているのに気づく。
「……なにか?」
「いえ。良いお話だな、と」
良い話。
……まさかそんな評価をされるとは思いもよらず、一瞬口をつぐんだところで。柔らかく表情を緩めた勇作が、さらに続ける。
「兄様は、その方にとても──愛されていたのですね」
──愛。
心臓に、深々と突き刺さったその言葉に。今度こそ、しばらく二の句が継げなかった。
「──────、」
愛されていた。……愛されている。
「…………」
──ああ。
喉の辺りで蟠っていた息を、大きく吐き出して。顔を上げた。軍帽の下の煌めきが、穏やかにこちらを見据えている。
目が合って、優しい微笑が悪戯っぽく崩れた。
「ふふ、申し訳ありません。知ったような口を聞きました」
「……いえ」
目を伏せたこちらとは対照的に、勇作は顎を上げて、再び空を仰いだ。
「姉様」
姉様──夢見るような甘さをはらんだ呟きに、思わず苦笑じみたものが漏れる。
自分に“兄様”なんて畏まった呼び名が似合わないように、彼女にもそんな大仰な呼称は相応しくないように思えた。
「……私もそうですが、勇作殿と血は繋がっておりませんよ」
「そうですね……それでも、兄様の大切なご家族ですから。許されるなら、そうお呼びしたい」
胸に手を当て、至極真面目なふうでそんなことを言ってのける。
「いつか──機会があれば、勇作も頂いてみたいです。……姉様の作られた鴨鍋」
それからにっこりと、花が咲くような微笑み。
どんな人だったか、ちゃんと教えてね。
いつか聞いたそんな囁きが頭をよぎる。
姉様と呼ばれて、どんな顔をするだろう。いや、まずちっとも似ていない、と笑われるだろうか。帰ってくるなりまた鴨鍋か、と今度こそ呆れられるかもしれない。
そこまで考えて、ふと。
──何だ。なんだかんだ言って、それなりに期待しているんじゃあないか。
「……はは、」
つい、笑みが漏れた。
観念して、自身の坊主頭に手を伸ばす。
ああ。まったく、悪い気分ではないあたりが我が事ながら小憎たらしい。
「……ええ。きっと、あいつも喜ぶでしょうな」
「…………」
──目を、開ける。
兵営のよく軋む廊下ではなく、鬱蒼と茂る森の木々が視界に広がっている。
隣には誰もいない。彼が、あの微笑みをこちらに向けることはない。永遠に。
外套越しに、左胸に手を当てた。軍服の内側、縫い付けられた衣嚢。その中身。
忘れることも、手放すこともできなかった。
「勇作」
澱んだ瞳で彼の名を呟く。
同胞の名を。弟の名を。
朦朧と仰いだ空に、鳥影はない。
果たされなかった祈りと約束を抱いて、白雲だけが穏やかに流れている。