【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

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34話 感情の清算をお願い

 ロシア人の農村で、岩息舞治の刺青を手に入れることを諦めた俺たちだったが。

 海岸で捕まえたトドの皮を買ってくれたアイヌの紹介で、その残りを養狐場に持ち込むこととなった。

 キツネの養殖、馴染みのない文化だ。そもそも現代では毛皮の売り買い自体が難しい立場だしなあ。

 

「キツネは何でも食うよ! 魚は安いけど、そればっかじゃ栄養が偏るから、飼料に牛とかクジラとか色々混ぜんのよ。トド肉も有難いわ!」

 

 気前の良さそうな飼育場の主人。肉食動物を使っての畜産業は大変そうですね。

 何となく檻の中を覗き込む。腥い獣臭。黒い毛並みのキツネたちがくつろいでいる。見慣れない色だ。

 

「黒いキツネって初めて見た」

「……私たちはシトゥンペカムイと呼んでる。病気を治してくれたり、海の漁で助けてくれたりする善い神様なんだ」

「そこにいるのはみんな外国から輸入したキツネでね。白い差し毛が入ってるのは“銀狐”って言って、高値で取り引きされるんだよ」

 

 樺太は寒いから良質な毛ができる、と笑って言う。

 アシㇼパが言っている“シトゥンペカムイ”とは、単に突然変異であるメラニズムの個体か──あるいは、こういった養狐場から逃げ出した生き残りなのだろう。

 

「……このあたりに樺太アイヌの村があったはずだが、知らないか?」

 

 いつの間にかアシㇼパの隣に来ていたキロランケが、主人にそう問うた。彼はああ、と軽く応えて、

 

「2、30年前にはここにアイヌの村があったらしいけど。この飼育場を建てる頃には、もう何もなかったな」

「…………」

 

 無言で俯くキロランケ。そのあからさまな仕草を見たアシㇼパが、穏やかに呼びかける。

 

「誰か知り合いがいたのか?」

 

 問われたキロランケは、顔を上げ。

 

「──ここには、お前の父親……ウイルクの生まれた村があった」

 

 ウイルクの母親も、そのまた両親も。

 そう呟く彼の瞳には、雪原を埋め尽くす広大な檻しか映っていない。

 

「……みんな、どこに行ったんだ?」

 

 アシㇼパの呟きに、空虚な飼育場を見つめるキロランケが唸るような声音で答える。

 

「日本とロシア、2つの国の間ですり潰されて──消えてしまった、」

 

 その重苦しい語りを聞きながら、ゆっくりその場から遠ざかる。何となく、俺が聞くべき話ではないような気がしていた。

 

「…………」

 

 黙って、離れた場所で檻の内側を眺める。つがいなのか、きょうだいなのか、折り重なるようにしてしきりに互いを毛繕いする2頭のキツネ。──どうせ、この後は皮を剥がされて死ぬだけだというのに。

 

「タマ」

 

 すぐ後ろで、声がした。

 尾形百之助が、光のない目でこちらを見つめていた。

 

「百之助……」

 

 無言で、隣に立つ。肩がぶつかりそうなほどすぐ隣に。そのまま、しばらく2頭のキツネを眺めていたかと思えば。

 

「のっぺら坊は……ウイルクは、娘でなければ解けない暗号を残した」

 

 この距離でなければ聞き逃してしまいそうな、独り言じみた囁き。否、問題はその内容だ。金塊の暗号──どきりとした。

 

「今、おそらくアシㇼパの頭の中には、暗号を解く鍵がある……」

 

 本来、これはキロランケとの間だけで交わされる黙約だったはずだ。

 それを、なぜ俺に?

 考え込んで二の句が継げない俺を、尾形が見下ろしてくる。その眼差しは、俺に何を求めているのか。わからない。

 黙ったままの俺を、いつもより柔らかく見える無表情で見つめる彼が、続ける。

 

「アシㇼパはお前を信用しているはずだ」

 

 だから──何だ?

 お前は、何を考えているんだ?

 そう、尋ねかけて。

 すんでで、飲み込んだ。何と答えるべきなのだろう。わからなかった。目を逸らす。

 

「…………、そう……」

 

 結局、曖昧な返事で茶を濁して。尾形に背を向ける。

 金塊の鍵──ホㇿケウオㇱコニ。

 俺は既に知っている。けれど。

 

 ──今、答える訳にはいかない。

 

 まさか尾形も、今のアシㇼパさえ気づいていない金塊の鍵を、俺が既に手に入れているなどとは思ってはいないだろうが。

 

「…………」

 

 尾形はそれ以上、何も言ってはこなかった。

 ケーン。シトゥンペカムイの高らかな鳴き声が、だだっ広い檻に虚しく響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 樺太アイヌの犬橇と契約して早々に辿り着いた国境近くの町、敷香。

 そこから少し歩いた森の中で。

 ──ドォオン。

 天高く木製の棺を掲げるウイルタ族の“天葬”を眺めていた俺たちの耳に届く、一発の銃声。

 

「……なに?」

「尾形ちゃんかな」

 

 まあ、このメンツで俺以外に銃持ってるの尾形しかいませんからね。

 

「百之助、何を撃ったんだ?」

 

 近づいていくアシㇼパの背中を追いかける。慣れた手つきで三八式を排莢する尾形、その足元に倒れ伏す大型の偶蹄目。

 おっと。

 

「エゾシカだ」

「…………」

 

 尾形の呟きに、やや遅れて来たキロランケが、緊張した面持ちを向ける。代わりにアシㇼパが答えた。

 

「これはユㇰじゃないぞ。……確かに似てるけど、こんなの初めて見る」

 

 ああ。これはシカではない。

 流血する頭部から生えた、特徴的な長いツノ。異文化交流に慣れた現代日本人の俺には、むしろ見覚えがあった。

 これは、

 

「……馴鹿」

 

 馴れた鹿と書いて、トナカイ。

 サンタさんの橇を引いてるアレね。と言っても、実物を見るのは初めてだったが。

 

「知ってたのか?」

「まあね」

 

 アシㇼパへ適当に相槌を打ちつつ、無言で見つめ合う男2人を観察する。

 ……おそらくだが。

 用心深い尾形は、網走監獄潜入前にあらかじめ、間宮海峡までの仔細な経路をキロランケから聞き出していたのだろう。その中には、ウイルタ族の飼馴鹿をわざと撃って猟に加えてもらい、彼らの衣装を借りて国境を越えることまで含まれていたはず。若かりしウイルクの経験を利用した、キロランケの案。

 キロランケとの交渉が決裂してなお、尾形はその役割をこなした。

 それは、この密入国は必要なことだと考えているから? ……あるいは、まだアシㇼパが“金塊の鍵”を思い出していないから。

 どちらにせよ、彼は間宮海峡でキロランケを裏切ろうとするのだっけ。

 尾形は、これから一体、どこに行こうとしているのだろう。

 

「あれ……この馴鹿。何か首から提げてるぞ」

 

 

 

 

 それから。

 尾形が撃ち殺した馴鹿の飼い主であるウイルタ族に出会った俺たちは、「馴鹿を殺したら馴鹿で返せ、返せないなら山馴鹿の狩りを手伝え」という提案を受けて、彼らの狩りに参加することになった。“予定通り”に。

 

「実は……アシㇼパの父親も若い頃、尾形と同じように飼馴鹿を撃っちまってな」

「アチャが?」

「…………」

 

 根性逞しいキロランケ、動じることなく自然にウイルクのエピソードを紹介する。

 というか、そもそもの目的を考えると“ウイルタ族を隠れ蓑に密入国”はむしろおまけみたいなもので、この話をアシㇼパに教えることが本題だったのだろう。彼女に父親とのことを思い出させるため。

 

「その話も初めて聞いたかも……」

 

 自分が知らない父の姿を見て、薄っすら頬を緩めるアシㇼパ。それから、顔を上げて。

 ──なぜか、俺を見た。

 

「タマ、行こう。何かアチャのこと思い出せるかも」

 

 自然に差し出される、小さな手。

 それを見て。

 ──アシㇼパはお前を信用しているはずだ。

 養狐場での、尾形の発言がフラッシュバックする。アシㇼパは俺を信用している。

 ……だから、何だ?

 

「……、うん」

 

 疑念を振り払って、その手に手を重ねる。

 アシㇼパが優しく微笑んだ。今は、それが全てだった。

 

「──ウイルタたちは、飼馴鹿を“ウラー”、山馴鹿を“シロ”と呼んで区別している」

 

 キロランケが指差す先には、無心で雪を穿り返す山馴鹿の群れ。彼らの目当ては、その下に生えた餌となるトナカイゴケらしい。

 ただ、夢中になっているように見えても、群れの中には“ヌガ”と呼ばれる見張り役が必ずいるらしく。まずは、そのヌガを狙って混乱させるのが狩りの定石のようだ。

 

「ヌガに見つからないよう、飼馴鹿の首に長い紐をつけて先に走らせ。その後ろに隠れて、山馴鹿に接近する」

「……“オロチックウラー”」

 

 大人しく聞いていたアシㇼパが、ぼそっとそう口にした。キロランケが反応を示す。

 

「……どうしてそれを?」

「オロチックウラー……山馴鹿狩りの囮に使う、“化け馴鹿”。アチャが話してくれたのを今、思い出した」

 

 明るい笑みでそう話したアシㇼパに、キロランケも笑顔を見せる。……これも、“予想通り”な訳だ。

 アシㇼパはただ、父との失われた思い出を探すことに楽しさを覚えているだけだが、その思い出が宝となる人間にとっては「楽しい」では済まないのである。

 

 

 

 

 そして、いざ思い出の“化け馴鹿作戦”決行、となったはいいが。

 

「俺が撃つから、邪魔すんなと伝えろ」

 

 手練れの狙撃手の本領発揮である。

 冗談みたいなスピードと精度で群れを片っ端から斃していく尾形に、ついて来てくれたウイルタ族の親子どころか白石まで引いている。

 

「弾を込めろ」

 

 ぽいっとキロランケに放られる、空の三八式。弾のない銃なんて鈍器くらいにしかなりませんからね。そこそこ役には立つ。

 

「……はい。百之助」

 

 半強制的に手持ちの銃をパクられるウイルタ族が可哀想だなと思っていたところだったので、先手を打って俺の三十年式を差し出しておく。ちらっと俺を見てから、無言で受け取る尾形。どういう感情?

 うーん、それはいいのだが、普通に手持ち無沙汰になってしまうな……と思ったところで。

 

「……え、貸してくれるのか?」

 

 同伴のウイルタ族から、なぜか笑顔で差し出される小銃。そんな……尾形のカツアゲを免れたんだから、自分で持っていてくれていいのに。

 日本語しか喋れない身では上手く伝えられないので、とりあえず受け取ってはみたが。

 

「ベルダンM1870」

 

 うっ。

 途端、にゅっと背後から生えてくる銃と銃と銃のことしか得意じゃない鬱々ニㇱパ。わかりやすく興味津々のご様子である。

 

「……知ってるんだ?」

「帝政ロシアが採用した単発式の歩兵銃で、」

「ぁあ〜〜……うん! うん!」

「面倒臭がらないであげてえ?」

 

 あいにく、俺はミリオタでもなんでもないのでね(n回目)!

 というか、単発銃の撃ち方なんてわからないんだが。そう思ったところで。

 

「…………」

 

 ベルダンM1870。

 ……これを持っていたおかげで、尾形はヴァシリの狙撃を免れたんじゃなかったか?

 ふと思い出す。では、俺が持っていたらまずい。幸い、尾形はこれに興味を示している。

 

「使っていいよ。私、単発式の撃ち方なんてわからないし」

 

 右手でベルダンを差し出し。同時に、空の左手も出しておく。ただ、と前置きして、

 

「……三八式と交換ね」

 

 俺の三十年式は、ベルダンを貸してくれた彼に渡す。

 ──ここに来て、わざわざ無関係なウイルタ族を危険に晒す必要はない。

 撃たれるのは、俺だけでいい。

 

 

 

 

「国境はまだ!?」

「もうすぐだ!」

 

 馴鹿の蹄の音に混じって、白石とキロランケのそんな会話が流れてくる。

 橇の並びは、ウイルタ族の親子が先頭で、白石キロランケ、尾形アシㇼパ、そして俺が単独でしんがり。三八式を持っている俺が撃たれるとしたら、他のメンバーから離れていればいるほどいいからだ。

 もうすぐ、国境。

 誰かが、必ず撃たれる。

 

「っ、」

 

 半円形のハンドルを、きつく握りしめる。

 死にはしない……はずだ。

 そのために、おそらく男性用であろう馴鹿の毛皮を使った帽子を用意してもらった(逆に白石はなんで女性用被ってんの?)。

 相手は頭を狙ってくる。ダメージを減らすために、わざわざ内側に詰め物までしたのだ。きっと、致命傷にはならない。

 はあ。はあ。自分の呼吸がうるさい。

 緊張しているのだ。

 

「……慣れないもんだな、」

 

 乾いた笑いが漏れた。

 それと同時に、

 

「国境を越えた!!」

 

 その。“た”まで、聞こえなかった。

 一瞬で。──音が、消えた。

 側頭部に衝撃。何が何だかわからないまま、天地がひっくり返る。

 

「──────!!」

 

 明滅しながら回転する視界に、こちらを驚愕の表情で振り返るアシㇼパと──尾形が一瞬映って、すぐに見えなくなった。

 ……冷たい。雪に落ちたのか?

 どこまでが地面で、何が自分の身体なのかわからない。感覚器官がめちゃくちゃになっていた。

 

「…………う、……」

 

 ……最初に戻ってきたのは、耳鳴りだった。頭蓋が粉々になってしまいそうなその激しい脈動を感じながら、息を吸い込む。

 生きている。

 

「──────ッ、!!」

 

 耳鳴りにかき消されて、周囲の音がほとんど聞こえない。

 まさか、鼓膜が馬鹿になったんじゃあるまいな。そんな不安を覚えつつ、雪を握りしめる。ああ、これが俺の手足。

 

「……うるせ、」

 

 五感の復帰がまだ不完全で、ダメージ具合が計れない。申し訳程度に頭を振っておく。

 はあ。──撃たれたのだな。俺が。

 良かった。まずそう思った。

 無関係なウイルタの父親が、息子の前で傷つくことがなくて良かった。

 

「…………」

 

 だいぶ、感覚が戻ってきた。ゆっくりと、身体を起こす。立ち上がる。

 

「────マ、タマッ!」

 

 幸いあの衝撃でも鼓膜はイカれていなかったらしく、左右の背後からアシㇼパの悲痛な叫びが聞こえてきた。ああ。また心配をかけてしまったな。

 でも、まだ終わっていない。

 2本の足で、しっかり雪原を踏みしめ。彼方の林を睨むように見据える。ああ、自立歩行が可能な程度には体は動くのだな。

 

「…………」

 

 撃たれた方角はどちらだ。

 ヴァシリ・パヴリチェンコはどこにいる?

 次を撃ってくる様子はない。そうだろう。

 こんな、“撃ってみろ”といわんばかりの態度は、お前の気に食わないはずだ。

 これは我慢比べだ。

 そして、俺“たち”が勝つ。

 

 ──ドォン。

 

 すぐ脇をすり抜けていく銃声、

 

「っ、」

 

 ──手をぐっと後ろに引かれて、逞しい腕の中に閉じ込められる。硝煙の燻るベルダンをぶら下げた、尾形百之助。

 一瞬目が合って、それでも尾形は何も言わず、俺を抱えたまま橇の後ろに滑り込んだ。

 

「今だ、行けッ」

 

 その一言に、妙に安堵した。

 勝ったのか。我慢比べに。

 お前は、イリヤに当てた。本当は、これも避けるべき事態だったのかもしれないけれど。

 ……馴鹿橇は、森の中に入って少しの場所で、ゆっくりと停止した。

 

「はあ……」

 

 周囲の警戒もそこそこに、冷たい雪の上に躊躇なく座り込んだ尾形の腕の中、深く息を吐く。どっと疲れた。……背負っていた三八式と、借りた帽子は雪の中に落としてきてしまったな。

 手袋を外した手が、慎重な手つきで耳たぶに触れてくるのを甘受する。

 

「タマ、傷はッ!?」

 

 バタバタと駆け寄ってきたアシㇼパが、俺の側頭部を覗き込んでくる。すぐにほっとした表情になって、

 

「耳を掠めただけみたいだ……大きな帽子のおかげで狙いが逸れた」

「音は!? ちゃんと聞こえてるか!?」

「う」

 

 シライシ耳元で声がでけえ。せっかく守れた鼓膜がお前のせいで破けるかと思ったぞ。俺を抱っこする尾形は当然渋い顔。

 

「やかましい」

「聞こえてるよ……私は平気。百之助やお父さんが無事で良かった」

 

 少し離れた場所から、ウイルタの親子が心配そうな顔でこちらを見ているのに、手を軽く振って応える、

 

「ゔぇ」

 

 ……アシㇼパに、いきなり抱きつかれた。突然のことで、座椅子代わりにしていた尾形の体がちょっぴり揺らぐ。

 

「タマ……」

 

 俺の胸に顔を埋めたアシㇼパから漏れる、頼りない呟き。今にも泣いてしまいそうだった。

 

「…………」

 

 何と声をかけていいのか、わからなかった。とりあえず、帽子越しにその頭を撫でておく。

 ウイルタの親子は無事だった。

 尾形百之助も、そして、尾形タマも。

 俺がしたことは、間違っていなかった。……そう、思いたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日露戦争延長戦。

 あれからそう言い放って橇を離れた尾形だったが。なぜか、まだ見える範囲にいる。

 

 ──待っているみたいだ。

 

 何となく、そう感じた。

 行かなければ。半ば強迫観念じみて思う。

 さりげなくアシㇼパのそばを離れて、彼のところに向かう。ゆっくり近づいていくと、双眼鏡片手に佇んでいた彼が、目だけでこちらを見た。

 ……なぜ来た、とは言われなかった。

 代わりに、

 

「タマ。……無茶な真似はよせ」

 

 低く、抑えた呟き。短い響きへ無理に感情を押し込めたような、いやに違和感のある声音だった。

 

「……無茶?」

 

 乾いた気持ちのまま、繰り返す。

 何について言っているのだか。きっと、さっきの話なのだろうけれど。

 

「たまたまお前の三八式と交換した。それで俺が撃たれた。それだけの話だろう」

 

 そう口にしても、尾形は全く納得していないようだった。顎を引いて、薄く唇を噛みしめた、焦燥が滲んだ横顔。らしくもない。

 彼が、絞り出すように続ける。

 

「……挑発するような態度を取った」

「死んだふりなどして、さらに撃ち込まれたら堪ったものじゃない。手練れの狙撃手は、獲物がああいう態度を取ったらむしろ引く。そう思っただけだ」

「違う、」

 

 違う。怒りと、焦りとが明確に表出したトーンだった。声を荒げた。そう言っても差し支えない強い否定に、流石にたじろいだ。

 きっ、と。こちらを睨みつける尾形が、薄氷の平静を再び纏って、口を開く。

 

()()()()()んじゃないのか」

 

 知っていた。……不気味な響きだと思った。ぞくりと一瞬、背筋が粟立つ。

 その理由を精査しないまま、青ざめた彼の顔をじっと見つめ返した。

 

「……何を?」

「…………」

 

 尾形は、その質問には答えずに。無言で目を逸らす。彼自身、自分で口にしておきながら戸惑っているふうでもあった。

 唇をつぐみ、しばらく何か考えているふうだったが。やがて、顔を上げた。怯えを硝子の決心で上書きした、脆く儚いその表情。

 

「お前は、……俺を誘導しようとしているんじゃないのか?」

 

 だから、どこに?

 尾形はそこでも具体的なワードは口にしないまま、彼にしては珍しく、はっきりしないしどろもどろの調子で続ける。

 

「網走監獄の時も……キロランケがお前に手を出せば、俺はやつとの契約を放棄する……そういう見立てで、わざと、……」

「殺された?」

 

 切れた蜻蛉の尻を、ねじ込む勢いで貼りつけてやる。尾形が微かに肩を震わせた。

 気を抜くと荒ぶりそうになる呼吸を、必死に抑える。心臓が早鐘を打っている。──何故だか、妙に苛立っていた。

 

「お前が俺を助けに来ることを期待して?」

 

 空回りする激情を潤滑油に、唇を動かす。尾形はもはや、死人のような顔で俺を見つめているだけだった。瞬きさえしない。

 

「くだらない……くだらないな、」

 

 最初から。

 最初から、そう思っていてくれれば。そう考えることすらくだらない。何もかもが。終わったことで、どうでもいいことだった。

 ──クソガキが。

 もう、手遅れだ。投げ出していた手を持ち上げる。前髪を、ゆっくり撫でつける。

 

「──俺が、今さらそんなことをお前に期待するとでも? 尾形百之助」

 

 はっ。目を瞠った尾形が、短く息を吐き出した。鳩尾を殴られたみたいだな、とぼんやり思った。

 

「なに、を……」

「何度も俺のことを殺したくせに、」

 

 お前が。お前こそが。

 今さら、そんなことを俺に言う資格があるとでも思っているのかよ。ああ、くだらない!

 

「──────、」

 

 尾形は、こぼれ落ちそうなほどその瞳を見開いて。真一文字に唇を引き結んでいる。

 固く握られた拳が、微かに震えている──ように、見えた。

 それを見て、今度は無性に悲しくなった。全身の力が抜ける。項垂れる。

 

「……馬鹿げているとは思わないのか?」

 

 そんな顔するくらいなら、最初からするなよな。

 後悔するな。

 ああ。本当に、どうしようもない。

 

「…………っ、」

 

 一瞬苦しげに眉根を寄せた彼が、何かを言いかける。しかし、それは音にはならなかった。無言の彼が、こちらに背を向ける。

 遠ざかっていく。離れていく背中も、その歩みも、既にどこまでもいつも通りだった。

 後には、佇む俺1人が残された。

 視界から、その姿が完全に消えて。ふと、意識を取り戻す。妙な言い方だが、まさしくその通りの感覚に襲われた。

 ゆっくり、目を瞬く。

 

「…………言い過ぎた、……?」

 

 いや。言い過ぎたな。

 これは、客観的事実だ。

 じわじわと、インクが染み込むように後悔が広がっていく。後に悔やむと書いて後悔だ。

 ……馬鹿げている。俺のことだ。

 

「はぁあ」

 

 思わずその場に蹲って、顔を手で覆った。何やってるんだ。俺らしくもない。

 今さらこんなことで尾形を責めてどうする? 何の意味もない。忘れておくべきことだった。夕張の時はちゃんとできたのに。

 きつく瞼を瞑る。

 

「焦っているのか?」

 

 わからない。

 何もかも思った通りには進んでくれない。

 キロランケの手を早々に離れてしまった尾形の動向は、もはや全てが未知数だ。

 時間がないんだ。もう、時間が。……それでこんなことをしているようじゃ、本末転倒じゃあないか?

 

「尾形……」

 

 銃弾が掠めた耳が、今になって痛む。ずきり、ずきりと脈打つように。

 ここぞという場面に、最悪の精神状態で送り出してしまった。

 

「最低だ」

 

 そう自嘲することさえ、もはや自らに対する慰撫でしかないのだ。

 今の尾形は俺が大切なだけなのに。

 ──後悔するな。何度も反芻した言葉が、翻って己の心臓を貫く。ああ、本当に。

 

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