【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

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35話 Q.E.D.

 木立の向こうから、モシンナガンM1891の、重く鋭い発砲音が5発。

 装填数も、5発。

 

「──────、」

 

 時が来た。ようやく。

 ゆっくりと身体を起こす。

 雪を含みすぎた舌の感覚がない。凍りついたように全身の筋肉が重い。

 しかし、この機会を逃す訳にはいかない。

 

 ──ウイルタ族の棺は、偽装(フェイク)偽装(フェイク)だった。

 ──ただし、そう思わせるためには俺自身が“偽装(フェイク)”を完璧に演じ切る必要があった。

 ──息を殺し。熱を殺し。己の生命の証を全て握り潰して、それを成し遂げた。

 

 樹木の幹に立て掛けていた三八式──雪原から回収したその銃口を、棺を睨む男の横顔に向けて引き鉄を、

 

「っ、」

 

 一瞬、視界が歪んで、傾いた。

 発砲音。

 まずい、ととっさに思った。

 ──外した? 顔を上げる。視界には殺風景な木立が映るばかりで、先ほどまでその中央にいたロシア人の姿は見えない。

 当てたのか。

 肝心な部分を見逃してしまった。くだらないミスだ。俺としたことが。

 

「ぅ、……」

 

 ひとまず身を隠そうとしたところで、再び視界が揺れる。血液が、臓腑が激しく脈打っているような不気味な感覚。暑くて寒い。

 気分が悪かった。

 吐き気を堪えて、じっと木々の向こうを睨みつける。こんなところで隙を見せて撃たれでもしたら、堪ったものではない。

 

「…………」

 

 動く気配は、ない。

 日露戦争延長戦。

 俺は、それに勝利した。

 飛び出そうとして、

 

「はあ、ッ……」

 

 今度こそ、盛大にふらついた。

 狂った平衡感覚では自立状態を保つことが不可能で、雪原に膝をつく。

 脂汗が止まらない。

 

 ──こんな場所で立ち止まる訳にはいかない、

 

 震える手足を叱咤して、立ち上がる。

 歩いて、歩いて……どれだけ進んだのか。いつの間にか、目の前にはあの馴鹿橇と、ウイルタ族の親子がいた。

 

「──────」

 

 息子が何か言っている。

 しかし、通訳がいない今は、ロシア語でもアイヌ語でもないその言語から意味を読み取ることは不可能だった。

 

「……ッ、」

 

 再びよろめいたところで、男の手がやんわりと橇に座らせてくる。抵抗する余力は既に残されていなかった。

 やがて、

 

「尾形ちゃん」

 

 隠れて双眼鏡で様子を観察していたのであろう白石たちも戻ってきた。

 

「随分と顔色悪いな、いつも悪いけど……」

「ひどい熱だぞ」

 

 小さな手が額にかざされて、その温度にかアシㇼパが驚愕の声を上げる。

 

「……大丈夫か、尾形」

 

 キロランケの呼びかけ。

 ……心配されている。その事実に気づいて、腹の底の据わりが悪くなる。

 何か、何か言わなければ。意識を逸らさなければ。その不安感のようなものが、体調不良を押し退けて顔を出す。

 

「……少し……雪をくちにし過ぎただけだ……こんな熱どうってことな、……」

 

 そこまで言って、ふと。

 3人を自然に押し退けるようにして、こちらの前にやってきた人影に気づく。

 和服、白い肌、細い指。

 

「……タマ……」

 

 ──来てくれたのだ。

 熱くも冷えきった心の裡に、微かな煌めきのようなものが灯る。

 あの時は様子がおかしかったけれど、何か彼女なりに考えることがあったのだろう。彼女は俺のことが心配なはずだ、

 

「タマ、」

 

 顔を上げて。──凍りついた。

 

「っ、」

 

 そんな。有り得ない。

 途端にばくばくと、心臓が激しく脈打ち出す。

 そこに立っていたのは、彼女ではなく。

 ──長く癖のない黒鳶色を結ばず、下ろしたままの姿。

 背負っているのは三八式でも、三十年式でもなく、夕張の土に偽アイヌとともに眠っているはずの、スペンサーM1860。

 雪国に相応しくない、白い長襦袢一枚というその格好。そして、その下腹部に広がる赤い、

 

「白湯飲んだ? たくさん飲んだほうが良いよ」

「急いでここから移動するぞ」

 

 白石とキロランケの呼びかけも、もはや耳に入ってこない。

 

「尾形」

 

 “それ”が──久方ぶりに目にした悍ましいその悪霊が、うっそりと微笑んでみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 馴鹿橇が、雪原を駆けていく。

 隣には、“それ”が座っている。

 

 ──どうして?

 

 底冷えするような悪寒が治らない。

 夕張で彼女と再会してからは、ずっと視えていなかった。それなのに、なぜ今になって。

 そもそも、当の彼女はどこだ?

 姿が見当たらない、

 

「寒い」

 

 眼下で、小さな声がした。

 とっさにそちらへ視線を向けて──瞬間。ぞっと、背筋が粟立った。

 太ももを枕に横たわり、こちらを見上げる幼い少女。いつの間に。鳥肌が立ったが、恐怖はそれだけでは済まなかった。彼女の右側頭部は大きく抉れており、脳漿と血液が崩壊した頭蓋から絶え間なく滴っている。

 誰がどう見ても生きているとは思えない、グロテスクな風貌だった。

 見覚えがあった。

 顔にも、──傷にも。

 

「ここは北海道より寒い」

 

 同じ声で隣から呟き。投げ出していた左手を握りしめられる感覚に、再び総毛立つ。

 膝上のそれとよく似た、それよりやや幼く見える少女が、俺の手を握って俯いていた。その唇からぽたぽたと滴る赤。

 悍ましい。気分が悪い。

 タマ。早く、何でもないように笑いかけてほしかった。それだけで良かった。

 どこにいるんだ、

 

「本当は存在しない」

 

 右隣からぴしゃりと声が飛んできた。

 心を読まれている。不思議と驚きはなかった。この世のものではないのだから、それくらいの真似はしてもおかしくない。

 頬杖をつき、流れていく雪原を眺めていた“それ”が、喉を鳴らして笑う。深い焦茶の髪が風をはらんで美しく靡いている。

 

「それこそが幻覚だったのでは?」

 

 幻覚。まさか。心臓が煩い。

 

「死んだ人間が生き返るはずもない」

 

 膝上の少女が淡々と呟く。

 死んだ? そうだ。

 間違いなく。けれど、

 

「最初からいなかった。ずっと都合の良い夢を見ていただけだった」

 

 隣の少女が、幼い見た目に似つかわしくない形式ばった口ぶりでそう紡ぐ。

 ごぷ。その喉奥から濁った音がしたかと思えば、緩やかに吐血した。小さな口から大量の吐瀉物を垂れ流しながら、それでも少女は顔色ひとつ変えず、自身の膝を見つめている。

 ニンニクの刺激臭にも似た、ツンとした臭いが鼻をつく。

 鴨鍋に入れた、殺鼠剤。それを口に含む前の少女だけが“本物”だった、と?

 考えてみれば、それが最も『妥当』な結末で。けれど、そう信じるにはもう、俺の中には色々なものが積み重なりすぎていた。

 俺を騙そうとしているだけだ。邪魔をしようとしている。取り殺そうとしている。

 馬鹿げている。

 悪霊が。

 

「……悪霊?」

 

 すぐそばで声がした。

 いつの間にか、“それ”が鼻先のつきそうな距離からこちらを見下ろしていた。影が落ちる。解いた髪の滝に視界を遮断される。

 目を、合わせるな。

 視線を落としたその頬を包み込む冷たい指先。氷のようだった。

 

「そうだな。お前が俺を殺したのだものな、尾形」

 

 “それ”はただ、優しく微笑っている。その気配がする。

 

「百之助、」

 

 耳慣れた呼び名に、とっさに顔をそちらに向けたが。澄んだ青い瞳に迎えられただけだった。彼女ではない、

 

「立てるか? 中に入って暖まらせてもらおう」

 

 気遣わしげなアシㇼパに支えられながら、座席から降りる。いつの間にか橇は停止していて、周囲には湯気のくゆる小屋が立ち並んでいた。

 

「……どうした?」

 

 ──タマは?

 そう尋ねようとして、できなかった。

 誰のことだ──当然のようにそう聞き返されたら。そう思った瞬間、唇が縫いつけられたように動かなくなった。

 “それ”は、入り口に立ってこちらに手を伸ばしている。血濡れた指先を。

 

「ほら……おいで」

 

 

 

 

 小屋に入って座らせられた途端、楽器を手にしたウイルタ族たちが賑やかな音楽を奏で始めた。それについてキロランケやアシㇼパが何か言っていたようだが、もはや内容を咀嚼して意味を飲み込む余裕はなかった。

 騒ぎを、ひとつの外套を同じように頭から被った“それ”の胸に顔を埋めたまま朦朧と聴く。

 

「うるせえな」

 

 俺の髪を撫でながら、ごく軽い調子で嘲笑ってみせる。

 触れる肌の柔らかさも、丸みも、確かにここに感じているのに。薄い長襦袢越しでさえ、その鼓動は聞こえてこない。

 ……いや、そもそも彼女の鼓動など聞いたことはあっただろうか?

 考えるな。

 疑念を振り払う。

 

「……会いたいか?」

 

 細い指の背で頬に触れながら、“それ”が穏やかに問うてくる。同じように高温の湯気を至近距離で浴びておきながら、汗ひとつかいていない冷たい肌。

 

「お前に残った、たったひとつの“大切”」

 

 大切。頬の手が、するりと喉を滑って。軍服の胸元に重なった。

 捨てることも、忘れることもできなかった。手紙。写真。そして、

 

「また会えて嬉しかった」

 

 膝に寝そべる少女がぼそりと口ずさんだ。どきりとした。

 嬉しかった。……俺が?

 

「とても楽しい旅だった──本当に、」

 

 左肩にもたれかかった少女が淡々と続ける。絡まったままの手に力がこもる。痛いくらいだった。

 ああ。

 楽しかった。嬉しかった。

 ヤマシギの脳みその味、鹿の胎の温度、燻したヨモギの匂い、マンボウの刺身の歯ごたえ、ラッコ鍋の煮える音、頬の柔らかさ。何ひとつ失いたくない、大切な光だった。

 素晴らしい旅路だった。

 だから守ってやりたかった、

 

「でも、また殺した」

 

 “それ”が吐き捨てる。

 ひゅ。乾いた喉が鳴る。

 濡れた感覚。長襦袢の腹から染み出した鮮血が、床にまで滴っていた。鉄と、土と、獣の臭いが。消えない。ずっと。

 殺した。穢した。

 守ってやれなかった、

 

「……勇作……」

 

 勇作。俺の弟。

 会えて、嬉しかった。楽しかった。……はずなのに、どうして?

 

「最初から間違えていた」

 

 違う、

 

「後悔するな」

 

 違う!

 俺は何も間違えてなどいない。

 宙ぶらりのままではいられない。それでは生きていかれない。人生に二度目の葬式は存在しない!

 

「百之助、大丈夫か?」

 

 アシㇼパが覗き込んでくる。いつの間にか、音楽は止んでいた。頭痛がひどい。

 

「……頭が痛え」

「たくさん汗はかいたし。もう横になって休んだほうがいい、」

「何だこれ」

「鉢巻」

「そりゃ見ればわかる」

 

 その背後で似た顔がみっつ、ウイルタ族から手渡された──何か帯のようなものを眺めて話し合っている。

 促されるまま、柔らかい敷物に横たわって。その上から毛皮を掛けられた。

 血濡れの少女たちとともに鉢巻を弄んでいたはずの“それ”は、既に隣へ寄り添うようにして寝そべっている。

 

「子守唄でも歌ってやろうか」

 

 要らない、と拒否する余裕もなく。俺の胸元を一定の間隔で叩きながら、“それ”がどこかで聴いた歌を口ずさみ始める。

 

 ──行きはよいよい、帰りはこわい、

 

「…………」

 

 聞き慣れた声で紡がれる、破綻のない美しい音色。柔らかく眠りに誘うその響き。

 ──ああ。やはりお前は。

 ゆっくりと、瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 荒野でひとり、空を仰いでいる。

 

「……俺は愛のない妾の子だから、罪悪感なんて感じないんじゃないのか?」

 

 暗いのに、どこか明るいその色。

 夜だった。星は見えない。

 吹き荒ぶ風が、冷たい。

 

「愛がない両親の間に出来た子どもは、何かが欠けているのでは?」

 

 虚空に放られたその問い。答えるものは誰もいない。そう、思っていたのに。

 あ。

 息を呑む。──いつの間にか、誰かに抱きしめられていた。

 

「兄様はけしてそんな人じゃない!」

 

 軍帽、肋骨服。美しい瞳から涙を流す花沢勇作が、俺を抱擁してそう言った。

 力強く、温かかった。

 

「きっとわかる日が来ます、」

 

 勇作殿。──勇作、

 恐る恐る伸ばした両腕が。

 

「……っ、」

 

 空を切った。

 ふらつく。膝をつく。

 先ほどまで確かに重なっていたはずの体温も、質量も、どこにもなく。もはや、その名残さえ欠片も見当たらない。

 二度と還らぬ温もり。

 そうだ、勇作は。

 

「百之助はそんな人間じゃない」

 

 耳元で、そう囁かれた。

 はっと我に返る。幼い少女の声だった。背中に腕の回りきらない小さな身体。 

 ──タマ、

 

「いつかわかる日が来る」

 

 冷たく、柔らかい声。

 俺だけの優しい闇。

 ああ。でも。でも、俺は。

 

「お前は、……お前だけは……」

 

 そのためなら、俺はこれから何を失っても構わない。はっきりそう思えた。

 だから。

 抱きしめ返そうとして、

 

「もう遅い」

 

 ──突き飛ばされた。

 一瞬で体が離れる。

 既に、少女の姿はなく。“それ”が、冷えた無表情の底に確かな悲しみと憤りを滲ませて、肩越しにこちらを見下ろしていた。

 尻餅は、つかなかった。

 地面がない。ただ、真っ直ぐに奈落の底へと堕ちていく。──地獄へと。

 遠ざかっていく“それ”が唇を歪めた。

 笑ったみたいだな、と思った。

 

「いい加減目を醒ませよ。尾形」

 

 すぐ耳元で声が聞こえた。

 視線を上げる。

 その瞳を、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「百之助」

 

 瞼を、開けた。

 誰かが枕元に腰掛けて、肩越しにこちらを見下ろしていた。

 

「……良かった、目が覚めて」

 

 熱も下がったみたいだね。

 冷たい手が額を撫でる。一瞬、小さく肩が跳ねる。けれど、その姿は。

 

「……タマ」

「うん?」

 

 リボンで結ばれた黒鳶色の尾を揺らしながら、女が──タマが小首を傾げる。慈しむような、柔和な微笑み。

 起き上がって、

 

「わ、」

 

 その華奢な背に腕を回した。胸元に顔を埋める。横顔を小紋の袷目に押しつける。

 

「どうしたの、百之助……」

 

 タマは少し驚いていたようだったが、拒みはしなかった。優しく髪を撫でられる。

 ──鼓動が、聞こえる。

 温かい血が内側に流れる音。魂の足音。ああ、生きている。

 

「魘されていたよ。嫌な夢でも見た?」

 

 その何気ない呟きを、噛みしめて飲み込む。そうだ。少し嫌な夢を見ただけだ。

 あの悪霊はもう視えなかった。

 不安が解けて、柔らかい温もりに包まれていく。甘い万能感が心地良かった。

 彼女は生きて、ここに居る。

 何も、恐れることはない。

 

「出発には、まだ時間があるし。もう少し寝ていても……」

「いや、」

 

 やんわりと離れていこうとする体を、腕を伸ばして繋ぎとめる。

 悪寒も、頭痛も、既に消えていた。満ち足りた気持ちで、彼女の耳に唇を寄せる。

 

「もう……大丈夫だ」

 

 ──そう。大丈夫なのだ。

 何もかもが悪い夢で、幻。

 だから、何の問題もない。

 

「問題は、ない」

 

 ああ。

 今度こそ。

 

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