【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

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39話 その残光を見よ

「……行こう」

 

 永遠にも思えた氷上の沈黙。

 それを打ち破って声を上げたのは、やはり杉元佐一だった。

 

「タマさん」

 

 顎が上がって。軍帽の鍔から露わになった琥珀色が、俺を見下ろしてくる。

 先ほどまでとは違う。

 眩い、晴天の瞳。

 ああ。懐かしい気持ちになった。あのホテルから、随分と遠くまで来てしまった気がする。

 けれど、お前は変わらないでいてくれたんだね。

 俺の光であり、希望。

 

「──────、」

 

 そうだ。

 脱力していた四肢に、力が篭る。

 まだ光は消えていない。

 まだ。まだ……死ねない、

 

「行くぞ白石……アシㇼパさん」

 

 呟いた杉元が、俺を抱き上げる。あの時よりも丁寧にしっかりと抱えられて、それが悲しくも、嬉しくもあった。

 ──けれど。

 

「…………」

 

 それではいけない。

 杉元が俺を抱えてしまったら、意識のない尾形を運べる人間がいなくなってしまう。

 

「すぎもと、」

 

 何とか動く右腕を持ち上げて、ぼろ切れのように打ち捨てられたままの尾形を指差す。

 ──彼が俺を気遣ってくれているのは、痛いほどわかった。けれど、駄目なのだ。

 すぐに俺が意図するところがわかったらしい杉元は、ゆっくりと目を瞠って。

 声にならない唸りが、その喉奥から漏れ出した。憤怒。焦燥。悲壮。色とりどりの感情がぐちゃぐちゃに入り混じったその吐息が、一瞬だけ白霧を成してすぐに掻き消える。

 

「〜〜〜〜ッ、くそ、」

 

 吐き捨てた彼が、語気の荒さとは対照的に、緩慢な動きで膝を折った。慎重な、壊れ物を扱うような手つきで氷上に降ろされる。視界が歪む。ふらつく身体。

 それを受け止める、

 

「タマちゃん、」

 

 白石由竹──憔悴しきった横顔が、痛々しかった。胴体に腕が回って、支えられる。

 

「ああ……俺のせいだよな、あんだけ頼まれてたのによお……情けねえ……」

 

 乾いてひび割れた、苦笑のなり損ないがその唇から漏れる。彼にそんな笑い方をさせてしまったことが悲しかった。あんなに頑張って、期待に応えようとしてくれたのに。

 それだけでじゅうぶんだった。

 

「いい。もう、いいんだ……」

 

 肩に回された右腕を動かして、坊主頭に添える。撫でる、とも呼べないぎこちない仕草だったが、それでも伝わったようだった。

 

「……よくやってくれた、……白石由竹」

 

 俯いていた白石が顔を上げて。呆気に取られた表情が、こちらを見た。見開かれた瞳が一度大きく揺れて──決壊した。

 大粒の雫が絶え間なく頬を伝う。鼻水まで垂らしながら、それでも拭う真似はせず、全身で俺を支え続ける白石が前を向く。

 

「ちくしょう……絶対死なせねえぞ、」

 

 涙交じりながら、芯の通ったその呟き。

 自分自身に言い聞かせるような口調でありながら、俺に対する叱咤激励のようにも感じられた。

 おかしな話だが。ここに来て、おもむろに生の実感が湧き起こってくる。

 そうだ。

 俺はまだ。

 ならば、やるべきことはひとつだろう。深く、息を吐き出す。

 

「……アシㇼパ。もう泣くな」

 

 左腕は──全く動かない訳じゃない。少しだけ感覚が戻ってきたそれを、しゃくり上げる彼女に向かって差し伸べる。

 何度目か、涙を拭って鼻を啜ったアシㇼパが俺を見た。泣き腫らした青の瞳がまた揺らいで、彼女が腕に飛びついてくる。軽い衝撃に、痛みが走る。けれど、それこそが生きている証なのだと思えた。

 血が流れるのも、痛いのも、命があるからだ。当たり前のことを今、ようやく実感として受け止める。

 俺は、ここで生きている。

 ああ、

 

「進まないと」

 

 足を、前に出す。

 地面を踏み締める。

 こんなところで、立ち止まっている訳にはいかないんだ。

 

 

 

 

「ありがとう。……思い出させてくれて」

 

 悲壮な顔の白石に支えられながら。激動の世を孤独に生き抜いた虎、その最期を見守る。

 アシㇼパの囁きに、血濡れのキロランケがはっと目を見開いた。

 

「…………そうか、」

 

 呟いた彼は。

 ──今まで見たことがないほどに、穏やかな顔をしていた。雲間から射し込んだ陽光が、その安らかな微笑みを照らし出す。

 

「あとは頼んだぞ、アシㇼパ……!!」

 

 “成し遂げた”男が遺す、祈りと、呪い。血と涙で錆びついた、愛の楔。

 

「“俺たち”のために……ソフィアと、」

 

 そこで、はっと虚空を仰ぐ。

 

「ソフィア……!!」

 

 そう、短く叫んで。

 それが、最期だった。

 沈黙。アシㇼパが、再び口を開く。

 

「……キロランケニㇱパが、アチャを殺したというのは本当か?」

 

 ──キロランケは、応えなかった。

 その瞳はもはや、何も映してはいない。

 彼が過ごした素晴らしき日々の記憶さえも。

 最期に、愛した女の背を幻影の中に見て。彼は、永い永い旅を、この始まりの地で終わらせた。

 

「キロランケニㇱパ。キロランケニㇱパ、……キロランケニㇱパ……」

 

 アシㇼパの呼びかけだけが、流氷原に虚しく響き渡る。

 

「……キロちゃん、……キロランケ」

 

 隣の白石が、呻くようにその名を呼んだ。

 もしかしたら、彼が尾形以上に心を許していたかもしれない男。そして白石も、その想いに応えていたのだろう。

 でも、今は俺がいる。

 彼は、その瞼を下ろしてやれない、

 

「……行ってやってくれ」

 

 肩に回していた右腕をゆっくり離して、その背を軽く押し出す。不思議と、意識ははっきりしていた。少しなら立っていられる。

 

「でも、」

「お前しかいない」

 

 お前しか知らないキロランケがいる。

 潤んだままの瞳をじっと見つめ返す。眉を下げる白石はしばらく逡巡していたようだったが、やがてぐっと唇を噛み締め。

 俺に背を向ける。遠ざかる。

 キロランケのもとへ、歩いていく。

 

「埋めてあげよう。……流氷で」

 

 俺を支えていた両手が、愛おしそうに割れた氷の破片を掬い上げる。丁寧に、彼の体を覆っていく。

 

「この流氷……アムール川の水が河口で凍ったものなんだって……」

 

 キロちゃんが教えてくれた。

 ──春が来たら、そのまま故郷の水にとけて眠れる。

 手袋が外された、震える指が。キロランケの顔に翳される。再び現れたその表情は、穏やかに眠っているみたいだった。

 

「真面目すぎる男だったんだよ、キロちゃんはさ……!!」

 

 それは確かに、慟哭だった。

 真面目すぎた。

 間違えて。辿り着けなくて。たくさん失って。それでも諦められなくて、こんなところまで来てしまった。

 何度もそのチャンスはあったはずなのに。大事に温めすぎてとうに腐ってしまった願いなんか捨てて、やり直せたはずなのに。

 叶わぬ理想に生き、理想に死んだ。

 

 ──尾形百之助、

 

 真面目で優しい子。

 お前も同じだ。

 けれど、キロランケは最期に望んでいた答えを掴んだ。蘇ったアシㇼパの記憶を以て、この旅は精算された。希望が、残った。

 

 ──この旅は、無駄ではなかった。

 ──やってきたことは、無駄ではなかった。

 ──満たされた人生だった。

 

 俺も最期に、そう思いたい。……そう、思ってもらえる生涯であってほしい。

 視線を動かす。

 尾形を背負う、杉元の横顔が見えた。

 

「…………」

 

 ──杉元佐一は結局。尾形がウイルク殺害に加担していた事実を、アシㇼパと白石の2人には……あるいは俺にも、伏せて話した。

 キロランケが合図を出した。

 インカㇻマッはそれを見ていた。

 それだけだった。

 

「……杉元……」

 

 頭が痛い。

 視界の焦点が合わない。

 ……この状態で立っているのは、今はこれが限界のようだ。転ぶ訳にはいかない。

 慎重に膝を折って、座り込む。

 吐く息が白い。まだ大丈夫。じっと俯いて、どれほど経ったのか。

 

「タマちゃん、」

 

 ──弔いを終えた白石が、戻ってきていた。

 重い頭を擡げて顔を上げると、露骨に安堵した表情と目が合った。

 

「ほら……お尻が氷にくっついちゃうぜ、」

 

 微笑んだ彼の肩を借りて、再び立ち上がる。

 視界が高くなる。

 杉元とアシㇼパの姿が見えない。ついでに、原作では振り落とされていたはずの尾形の姿もない。

 

「……ぁ、」

 

 そこで、ようやく気づいた。頬にうちかかる髪。リボンが解けてしまっている。

 ──撃たれて倒れた時か?

 とっさに後ろを振り返ったが、見渡す限り白が広がっているだけ。あの黒いリボンはもう、どこにも、

 

「えっ……あれ岩息?」

 

 白石の呟きに、そちらを見る。

 ──尾形を背負ったままの杉元、隣のアシㇼパ、そしてその背後に聳える巨岩。

 見覚えのある姿に、彼が顔を引き攣らせた。

 

「いやいや……なんで連れてきてんだよ、」

「……知り合いだったんだな……」

「あ……そうか、じゃあ杉元たちはあいつの刺青を手に入れてるのか!?」

 

 スチェンカで手も足も出なかったうちのアウトレイジとは違い、ステゴロ全振りみたいなメンツの揃った先遣隊は無事、岩息舞治にまで辿り着いていたのだ。原作通りに。

 いよいよこちらに近づいてきた岩息に、いち早く反応を示したのは鯉登だった。

 

「あッ!」

 

 声を上げて。すたすたと近づいていき、彼の前に立ちはだかったかと思えば。

 

「おいデカブツ! 月島を運べ! ひどい怪我をしておるのだ! 谷垣は荷物を持て!」

 

 順応が早いよ。まだ一緒に行くとも言っていないのに、使えるどころか使えそうなものは刺青囚人でも使おうとしていくスタイル。さすが筋金入りのお坊ちゃん。

 

「は? おいッボンボン、」

 

 しかし、それに異を唱える者があった。連れてきた当の杉元佐一、青筋を立てながら、

 

「岩息! タマさんを背負えッ、こっちのほうが重傷だ!」

「はあ!?」

 

 ……なるほど。原作ではその経緯までは描かれていなかったが、杉元は俺の運搬要員として岩息を連れてきたのかもしれない。

 しかし、自らの意に逆らった平民を許す鯉登ではない。同じく青筋を立てて、

 

「おい杉元ッ!」

「こっちゃ撃たれてんだぞ!?」

「肩ごときが何だ、月島は首から血が出ているのだぞ!?」

「軍曹は仮にも軍人だろうが!」

「だからこそその命、こんな場所で失わせる訳にはいかん!!」

「てめえタマさんは死んでもいいってか!?」

 

 当事者の意向を置き去りに、不毛なお気持ち論争がヒートアップしていく。

 あーもうこんな時に……という周囲の呆れた内心が聞こえてくるようだった。

 

「おやめなさいッ」

「ゔっ」「ぶッ」

 

 結局。埒があかない舌戦を、仲裁(物理)しに入る岩息。ほぼ無傷な不死身の杉元はともかく、既に負傷している鯉登少尉がオーバーキルを受けている。

 

「議論なんてそんな野蛮なッ……やはりここは穏便に暴力で、」

「穏便?」

 

 月島を背負った谷垣がちょっと引いている。

 

「そもそも、他の皆さんならともかくそのお二方なら問題なく運べます! おふたりとも小柄ですからなあ!」

 

 大丈夫? ただの女の俺はともかく、その発言帝国軍人の地雷踏んでない?

 

 

 ……で。ともかく。

 

「お久しぶりですねえタマさん!」

「耳元でデケえ声出すんじゃねえよぶち殺すぞ……」

「…………」

 

 折衷案として、左腕に俺、右腕に月島というあまりにゴリラ過ぎる運搬方法となったが、さすが岩息、ピンピンしている。

 おくちの治安が貧民窟な瀕死の女の登場(しかも岩息と知り合い)に、虚無顔になる同じく瀕死の月島軍曹。ていうかこいつ誰だよの表情である。今ちょっと具合悪すぎて淑女ぶってる余裕ない、許せ。

 

「たはっそれは失礼ッ☆ お元気でしたか!?」

「見りゃわかるだろ失明してんのか……?」

 

 お元気なやつは敵もろとも犯罪者に抱っこされて運ばれるなんて憂き目に遭わない。

 

「……岩息」

「ハイ?」

「目覚ましになんか喋れ……なんでもいい、眠くなってきた。今寝たら死ぬ、」

「ええ!」

「おい、」

 

 ノータイムで良い返事が来た。向かいの月島がなんか言っている気がするが無視。

 

「ふむゥ。監獄で初めて私が牛山さんと闘り合った時のお話などいかがでしょう?」

「は?」

「いい……内容は問わん、」

 

 では。ごほんとわざとらしい咳払いをした岩息が、滔々と語りはじめたのは、

 

「彼を見た時……私は、目の前に山が現れたのかと思いました。ひと目で見てわかる鍛え上げられた肉体……変形した耳……ここまで私の胸を高鳴らせる雄は初めて見た……溢れる生唾を飲み込み、私は自分の体が火照っていくのを感じていました、」

「…………」

「普段は何人もの看守と一斉に闘るのがお決まりでしたが、彼は“俺1人でいい”と他の看守や囚人を遠ざけました。1人じゃ物足りないかもしれない……そんな私の不安を粉々に打ち砕くほど……彼のモノはスゴかったッ! 柔よく剛を制す。彼の逞しくもしなやかな腕で、汚れた床に組み敷かれたあの瞬間の法悦が忘れられず……私は彼との行為にのめり込んで……」

「…………」

 

 官能小説なんだか格闘の実況なんだか計りかねる怪文書が良い声で垂れ流される。月島の目が死んでいる。

 

「──そしてとうとう彼の熱く猛った拳が私の臓腑(ナカ)に、」

「おい誰かこれやめさせろ」

 

 今回の一番の被害者、鯉登の尻拭いで重傷を負った上にこんな話を聞かされる月島軍曹。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 渡ってきた流氷を逆戻りし。亜港近郊のニヴフ民族の集落にて一旦、ひと休み。

 杉元が率いていたメンバーには何名か、懐かしい顔ぶれがいた。傷の手当てをして、ようやく少し落ち着いたところで、

 

「タマ」

 

 その中の1人──樺太アイヌの少女、エノノカが控えめに声をかけてきた。

 尾形と月島は同じ小屋の中で横になっているが、俺は眠る気にはなれず、座って休んでいたところだった。今も、ぎりぎりのところで繋いでいる意識だ。眠ったら、糸が切れてしまうかもしれない。それが嫌だった。

 

「どうしたの……怪我してる?」

 

 心配そうな声。俯いた彼女が胸の前で手を重ね、何事かを呟く。アイヌ語だろうか。

 

「大丈夫だ。……久しぶりだな」

 

 感覚を取り戻してきた右手を、そっと差し出してみる。左腕はそもそも三角巾で吊られていて、動かせない。

 小さな小さな両手が、その指をきゅ、と軽く握り返してきた。温かかった。

 

「元気にしてたか」

「うん……わたし、元気」

「そうか、」

 

 憂いを帯びた表情のエノノカが、そこで何かに気づいたように振り返った。とっさにその視線を追った先、戸口に立つ小さな人影と目が合う。

 

「尾形カッケマッ……」

 

 こちらはエノノカ以上に久しぶりだった、

 

「チカパシ、」

 

 緊張した様子の彼はしばらく戸口のそばでまごついていたようだったが、やがておずおずとこちらに近づいてきた。

 元気そうで何よりだ。ちょんまげが愛らしい頭をわしわしと撫でる。エノノカがくれたホㇹチリが額で揺れている。

 なるほど、男子三日会わざれば何とやら、というやつか。

 

「網走以来だな……少し大きくなったか?」

「ほんとに?」

 

 気持ちを解したいがための小手先の誤魔化しだったが、チカパシは素直に表情を輝かせる。そのタイミングでこちらに近づいてきた谷垣を振り返り、

 

「谷垣ニㇱパ、俺大きくなったって!」

「そうか……良かったな」

 

 あっちでエノノカと遊んできなさい。

 柔らかい声でそう促され、元気よく頷いたチカパシが、エノノカの手を取って外に駆けていく。出ていく直前、俺に向けられたグッドサインに、こちらも親指を立て返しておく。本当にいい子だ。

 それを見送った谷垣が、俺にゆっくり向き直った。膝をついて、同じ高さから顔を覗き込んでくる。

 何となく、思い詰めているように見えた。ふう、と息を吐き出してから。決心した表情で、

 

「インカㇻマッがお前の身を案じていた」

 

 ──インカㇻマッ。

 頭から冷水をかぶった気分になる。

 彼女は結局、こちらでもキロランケに刺されてしまったのだろうか。

 谷垣と杉元が話題に出していたということは、とりあえずあの場で死亡してしまったという訳では無さそうだが。改めて、安堵する。同時に、申し訳ない気分になった。

 

「……性懲りも無くまた死にかけていて、申し開きの言葉もない」

「いや、……」

 

 言葉を濁した谷垣が、目を逸らす。強張った無表情。彼は、杉元から全ての事情を聞いたのかもしれないな。今、なんとなくそう思った。

 手甲に巻きついたままの腕飾りが視界の端にある。擦り切れてはいるが、まだちぎれていない。

 

「貰ったエカエカのおかげで、何とか生きてると伝えておいてくれ」

「……ああ、」

 

 谷垣は、そこでようやく薄っすら微笑んでみせた。

 最後に、大きな手が祈りのように左肩へ軽く触れて。立ち上がった優しい子熊が、のっそりと小屋を出ていく。

 

「人気者だね」

 

 入れ替わり立ち替わり知り合いがやってくる状況を眺めていた杉元が、微笑んでそんなコメント。

 子どもたちと谷垣がいい子なだけだろう、と思ったが、そこに最悪な冷や水をかけてくる、

 

「“弟”とは大違いだな」

 

 高飛車が滲むその響き。同じ部屋にいたことを、今さら思い出す。振り返る、

 

「その洞穴みたいな目だけはそっくりだ」

 

 出た薩摩のバルチョーナク。

 男ながら悪役令嬢の四字熟語(四字熟語ではない)が誰よりも似合う鯉登音之進が、勝ち気な瞳で俺を見下ろしていた。

 自然と笑みが漏れる。

 

「……ボンボンが」

「キエッ」

 

 ほぼ初対面の女からこんな侮辱を受けるとはまさか思っていなかったらしい明治の九州男児、カッと目を見開いて、可哀想なくらいわなわなと震えて。

 

「女ァ!」

「誰が女だタマさんって呼べゴラァ!」

 

 喧嘩っ早い×喧嘩っ早いの化学反応により、目にも留まらぬスピードで場外乱闘が始まってしまった。もうなんか仲裁する気力もなく、月島と一緒に死んだ目でその泥試合を見守る。

 

「……あの元気さ分けてほしい」

「同感だ」

 

 大変ですね、お互い。いやまあ、俺が売り言葉に買い言葉したせいなんだけど。

 さんざんぎゃーすかやって、どこかで区切りがついたのか、飽きたのか。いつの間にか静かになっていた中で、鯉登が鼻を鳴らす。

 

「フン……尾形の」

 

 いやどういう呼び方? マスタング大佐かよ。

 

「貴様、尾形と行動していたのだよな? あいつは一体どういう目的で、」

「お腹すいた……」

「飴あるよタマちゃん」

「キエェッ」

 

 猿叫。無視って飴をもらう。

 鯉登少尉、大成する器なのは確かだが、なんかこう……初対面でもちょうど良くナメやすいんだよな。ぺろぺろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪が降っている。

 白み始めた空からちらちらと降り注いでくるそれを、ぼうっと見上げる。

 顔を上げると、視界に入ってくる。

 静まり返った村の中、唯一明かりがついた建物。──尾形百之助が、治療を受けているロシア人の病院。

 重傷の月島軍曹は集落に残っている。俺もやんわり待機を勧められたが、強く希望して連れてきてもらった。

 家族だから。ほとんどの面子はそれですんなり納得したようだったが。

 

「タマ」

 

 背後から呼びかけられる。

 ……神妙な顔のアシㇼパが、こちらに近づいてくるところだった。

 

「……寒くないか?」

 

 言いながら、俺が椅子代わりにしていた橇に、わざわざ乗り上げてくる。

 

「大丈夫、」

 

 杉元でもあるまいし、肩を撃たれた人間があちこち動き回っていたらそれは心配にもなるか。

 ……本当に?

 アシㇼパは、俺が胸に抱いている尾形の上着をじっと見つめている。脱がされて、置いていかれそうになったのを俺が回収した。三八式と三十年式は、両方あの流氷原に置いてきてしまった。

 彼女は何かを感じているのかもしれない。恐れている。そんなふうにも見えた。

 

「……百之助は……」

「…………」

 

 答えない。代わりに、誤魔化すように解けたままの髪に触れてくる。

 

「リボン、」

「ああ……」

 

 そこに言及してきたのは、彼女が初めてだった。

 黒いリボン。尾形からの贈り物。耳だ何だと言われて、トレードマークのようなものだったはずだけれど。……無くなっても案外、誰も気にしないものなのだな。

 

「あそこで解けて……失くしてしまったみたいだ……」

「…………」

 

 アシㇼパは、しばらく苦しげな表情で俺を見つめていたが。やがて、荷物を漁って、何かを取り出した。

 紺色の、短い帯のようなもの。表面に複雑な刺繍が施された、

 

「マタンプㇱ……?」

「昔、フチと一緒に作ったものだ」

 

 予備として持っていたのか。それが何だと思ったところで。

 ──背後に回ったアシㇼパが、そのマタンプㇱで器用に俺の髪を結び出した。あっという間にいつものポニーテールが完成する。

 そもそも髪を纏めるためのものとはいえ、そういう使い方をするためのものではない。けれど、彼女は。

 

「アシㇼパ、」

「私が、“耳”の代わりになるから……だから、」

 

 思わず振り返った先。悲痛に顔を歪めたアシㇼパが、それでも真っ直ぐに俺を見据えていた。どくん。鼓動が跳ね上がる。

 どくどくと、血の流れを感じる。

 全身が脈打っている。

 だから。

 

「もう、無茶な真似はやめてくれ……!」

 

 もう、どこにも行かないで。

 失いたくない。

 青が、光が、揺れている、

 

「お前のことが心配なんだ、」

 

 何度目か。

 聞いた覚えのある響きに、息が詰まる。

 ──お前のことが心配なんだ。

 それは、何故?

 彼女は俺のことを、

 

「っ、」

 

 ──考えるな。

 負ける。

 目を逸らす。

 冷たい肺の裏側で、心臓だけが重く、激しく脈打っている。アシㇼパは俺を黙って見ている。瞼を、きつく瞑る。

 

「…………」

 

 ……ああ。ここは良い場所だ。

 暖かくて、優しくて。

 光に満ちている。今、改めてそう思った。何より尊いもの。こんな煌めきが俺の手に入るだなんて、考えてみたこともなかった。

 ずっと、冷たかった。

 寒さに慣れてしまっていた。その冷えた手を、温めてくれる人たちがいた。

 

「……アシㇼパ……私、は……」

 

 エノノカ、チカパシ、谷垣、インカㇻマッ、杉元、白石──そして、アシㇼパ。

 皆、俺を大切に思ってくれている。

 傷つけば悲しむ人たちがいる。

 俺の居場所はここにある。

 けれど──でも、

 キロランケ、

 

「俺は、」

 

 俺の、旅は。

 

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