【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

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40話 feel guilty.

 何もない暗闇の中を、ただ走っている。

 

 ──お父っつぁまみたいな立派な将校さんになりなさいね、

 

 時折、泡のように言葉が浮かび上がっては消えていく。どれもこれも、どこかで聞いた覚えのある囁きだった。

 

 ──誑し込まれたのはお前のほうだったな、

 ──申し訳ありません兄様……

 ──弁えろよ!

 

 声は聞こえるのに、姿は見えない。

 もう、どれだけ走り続けているのだろう。いくら進んでも、何も見えてはこない。

 そもそも、俺は一体どこから走り出したのだっけ。この足は本当に“前”へ向かっているのだろうか?

 ……駄目だ。振り返るな。

 

 ──1度寝返ったやつはまた寝返るぜ、

 ──百之助が好きな食べ物はなんだ?

 ──良かった……会えて、本当に、

 ──随分と顔色悪いな、

 

 はっ。はっ。

 自分の吐く息がやたら耳につく。

 苦しい。頭が痛い。

 弱音を吐くな。

 

 ──お前には稀な銃の才能があるよ、

 ──風邪、引かないようにね、

 ──百之助は物知りだねえ、

 ──俺が、今さらそんなことをお前に期待するとでも?

 

 違う。

 これは夢だ──覚めろ。

 息ができない。頭を抱える。

 右眼からどろりと滴る、

 

「────ぅ、ぐ……ああ、」

 

 痛い。痛くて痛くて堪らなかった。

 駄目だ。吐きそうだった。

 口を開くな、

 

 

「……ぁ、……?」

 

 その時。

 ふと、気づく。

 見渡す限り何もなかった空間に、いつの間にか何か──誰かが立っていた。

 こちらに背を向けたその姿。

 和服にスペンサーM1860を担いだ、長髪の女。見慣れてしまったそれを視認した瞬間、浮かんだのはもはや恐怖ではなかった。乾いた笑いだけが喉から漏れた。

 

「……夢の中にまで出てきやがって……」

 

 悪霊が。

 

『……悪霊?』

 

 応えるように、声がする。目の前からではなく、どこでもない場所から。

 天から降り注いでいるようでもあり、地の底から湧き上がってくるようでもあった。

 何だか、猛烈に苛立っていた。

 

「はあ、?」

『そもそも、何かおかしいとは思わなかったのか?』

 

 こちらを振り返らないまま。ぴくりともしないまま、声だけが聞こえてくる。

 

『タマは初めから生きていた。生きて、今もそばにいる』

「……どういうことだ」

 

 じわじわと。

 足元から、寒気のようなものが這い上がってくる。気分が悪かった。酩酊に近い、漠然とした不安感。目を逸らす。

 ……目を、逸らす?

 俺は、最初から。

 ──考えるな、

 

『目を合わせないようにしてきた。向き合おうとしてこなかった』

「何の話、」

 

 荒げた声を、遮るように。

 “それ”が、ゆっくりと振り返る。

 深い黒鳶色をした、癖のない長髪が背を流れる。

 前髪の下からこちらを見つめてくる──黒曜を思わせる、煌めく瞳。

 伊豆諸島のほうでは、星空を閉じ込めたような珍しい黒曜石が採れるのだ、と言っていたのは誰だっただろうか。実物を見たこともないのに、輝きの散ったその虹彩は、きっとその石によく似ているのだろうと思った。

 ああ。息を呑む。

 

『罪悪感だ』

 

 ──あれだけ長くそばにいたのに。

 初めて見たような気さえするのは、どうしてなのだろう。

 冷や汗がこめかみを伝う。

 罪悪感、

 

「…………俺の罪悪感?」

 

 思わず、そう呟いて。

 その瞬間、喉から、耳から全身に広がる冷たい怖気。体の中身をぐちゃぐちゃに掻き回されているような、言語化できない。

 ふらつく。たたらを踏む。

 そんな。有り得ない。

 違う──違う、

 頭を振る。激しく。

 

「……いや、幻覚だ……毒だ、目玉を抉られた傷のせいだ、」

『こんな真似はもうやめろ』

 

 ──タマが初めて俺を愛してくれたから。

 

「殺した後悔などしとらん……!」

『いつかわかる日が来る』

 

 ──罪悪感があるってことは、俺は愛情のある親が交わってできた人間ってことか?

 

「父上はおっ母の葬式に来なかった、」

『今は愛していない。愛した瞬間があった、ということでは?』

 

 ──罪悪感など無いと証明したくてタマを殺したのに、必要なかった?

 

「毒がまだ、残って……錯乱してる、」

『お前のことが心配なんだ』

 

 ──俺は欠けた人間なんかじゃなくて、欠けた人間にふさわしい道を選ぼうとしてきただけでは?

 

「っ、駄目だ! それでは、最初から間違えていたことになる……!」

『……後悔するな』

 

 黒曜の瞳が、俺を見ている。

 真っ直ぐに。

 その、光が、

 

『愛しているから』

 

 

 ──タマの存在が俺に罪悪感を気づかせた、

 

『違う』

 

 “それ”がぴしゃりと言い放った。

 違う、?

 

『最初から自分は罪悪感などない欠けた人間だと思い込んでいたから、良心の所在を他者へゆだねざるを得なかっただけ』

 

 どきりとする。

 ……罪悪感は、最初から俺の中にあった?

 

『だから、お前の良心はいつだって誰かの形をしている。それはいつかの花沢勇作であり……アシㇼパであり、尾形タマだった』

 

 悪霊が邪魔をしていると思っていた。

 けれど、あれは他でもない、俺自身の良心の呵責だった?

 

『自らの罪悪感を否定しようとするたびに、お前はその“罪悪感を投影した誰か”を現実で傷つけることになる。それは初めからお前の中にあったものなのに、』

 

 どこか悲しそうな顔。

 それでも淡々と、続けていく。

 

『俺は最初から悪霊でも、尾形タマでも……言ってしまえば、お前の罪悪感でもない。その表現は正解だが、正確ではない。ただ、お前が俺を通して自分自身を見ていただけ』

 

 一人芝居。その四文字が頭をよぎる。

 俺は、最初から尾形タマの姿をした自らの良心と、自問自答していたに過ぎない、

 

『お前は一度だって彼らそのものと向き合おうとはしなかった。……今だって』

 

 

 

 

「……タマ」

 

 顔を覆ったまま、呟く。

 “それ”が──タマが、微かに微笑んだ。それが見えた。

 

「なあに、百之助」

 

 穏やかに、呼びかけられる。

 もう、どこでもない場所から響く声ではなかった。彼女の唇から、確かに息を伴う音として紡がれた言葉だった。

 暖かい。暖かくて、悲しかった。

 

「……やはり俺は、生まれながらにして欠けた人間だ。……俺だけが」

 

 彼女は、どこも欠けてなどいなかった。

 俺とは違う人間だった。

 彼らと向き合うことを拒否して、自身の罪を押しつけて、傷つけて。それを、今の今まで気づかずに生きてきた。

 俺が。俺は、

 

「生きている価値のない存在だった、」

 

 瞬間。

 びくっと、彼女の肩が震えた。

 

「────っ、」

 

 鋭く息を吸い込む音。

 その顔が、今にも泣き出してしまいそうなほど、くしゃりと歪んで。

 

「馬鹿ッ、どうしてそうなるんだ……!」

 

 数歩の距離を詰め。俺の肩を両手で強く掴んだ彼女が、吼えた。

 強く、悲壮な叫びだった。

 きれいな星空が。

 間近で、揺れて、

 

「こんなに愛されているのにッ!」

 

 愛、

 

 ──お前のことが心配なんだ。

 ──愛しているから。

 

 

「百之助」

 

 重なる体温で、ふと気づく。

 ──抱きしめられていた。

 強く、強く。もう、一生離すまいとするかのように。温かかった。

 耳元で、絞り出すようなタマの声。

 

「……両親の愛の有る無しだけで、子どもの人生が決まって堪るか。子どもは親を選べない。だからこそ、初めから祝福されて生まれた子でなくても、満たされた道は選べるはずなんだ」

 

 おっ母の葬式の晩。

 月明かりに照らされた幼い彼女の、微かに強張った表情を思い出していた。

 

「愛した瞬間があった。……だからなんだ? 花沢幸次郎はトメを見捨てた。祝福されて生まれていない。そうだ。それが何だって言うんだ。そんなことで何が欠けるんだ? その価値観そのものが馬鹿げてると思わないか?」

 

 お前は何を証明したいの?

 答えられなかった。

 彼女は既にその正解を持っていた。そんな問いは馬鹿げている、という答えを。

 

「タマに罪悪感があったように見えたのは、ただ、タマがお前とは違う人間だからだ」

 

 蛇ときゅうりが嫌いで、甘い物が好きで、あまり笑わないくせにふざけた洒落ばかり言って。賢くて、何でもすぐ器用にできるのに、歌だけは下手くそで。

 少しだけ違った。

 少しだけ同じだった。

 だからこそ、

 

「人間は──世界は、お前が思っているよりずっと複雑で、むずかしいものなんだ。かつてのお前はそれに耐えられなかった。……でも、いつかきっと、それが救いになるから」

 

 花沢勇作はお前じゃない。

 でも、俺はそんな彼のことを。

 ──いつの間にか、見慣れた実家の畑の中で2人、立っていた。

 山並みの向こうが、薄紅色に淡く光り輝いている。夜明けが近かった。

 

「お前は欠けてなんかいない。最初から、愛し方も、愛され方もきちんと知っていた。一番愛してほしかった人にそれを受け取ってもらえなかったから、いつの間にかどちらもわからなくなってしまっていただけ」

 

 一番愛してほしかった人?

 我に返る。息を呑む。

 

 ──おっ母。見て。俺を、見て。

 

 叶わなかった願いがそこにはあった。

 手に取るように思い出せた。

 忘れない。忘れなどするものか。

 視界が揺れて、滲む。受け取ってもらえなかった鴨。宙ぶらりんの白い足。

 ああ、おっ母、おっ母──

 

「──っ、でも……でもっ、それ以外はなんにもいらなかったんだ!!」

 

 吼える。

 ──ああ。最初からそうだった。

 少尉も師団長も狙撃手も金塊も中央も、何もかもがどうでもよかったんだ。

 おっ母さえ俺を見てくれたら。愛してくれたら。ただ、それだけだったのに。

 愛を返してもらえなかった。でも、仕方ない。そう切り捨てることはできなかった。他に欲しいものなんて、何ひとつなかったのに。

 どうして置いていってしまったの?

 俺にはあなたしかいなかった!

 いつの間にか俺より大きく感じる体にしがみついて、わんわん泣きじゃくる。

 

「おっ母……いなくならないで、おれを置いていかないで……さみしいよ、」

 

 つらくて、悲しくて、堪らなかった。

 そうだ。ずっとさみしかった。

 気づかないふりをしていただけだった。だってそのほうが苦しくないから。欠けた人間のままでいられるから。

 今だって苦しくて仕方ない。けれど、この痛みと同じくらい強く抱きしめてくれる彼女がいるから、怖くはなかった。

 ──夜が、明けようとしていた。

 どれだけそうしていたのか。

 朝陽に照らされる彼女が、優しく俺の坊主頭を撫でて。

 

『……だからタマを殺した』

 

 そう、淡々と呟いた。

 

「っ、」

 

 瞬間。

 さあっと、背筋が冷たくなった。

 殺した。その囁きに喉がきつく絞め上げられる。嗚咽さえも、ままならなくなる。

 涙でぐしゃぐしゃの顔を離して、おそるおそる見上げたタマは──ひどく悲しい顔をしていた。

 

『……代わりになってあげられなかった。やはり俺では駄目だった』

 

 違う。違うんだ。

 タマがいい。

 タマじゃないと、

 

「ちがう、」

 

 必死に首を振る俺から、彼女がそっと体を離す。強い意志の滲んだ動きだった。手繰り寄せようと伸ばした指が、空を切った。

 

「っ、タマ!」

 

 こちらに背を向けたその姿が、紙に落とした墨のように空間へ広がる闇に沈んでいく。名残惜しげな、悲しげな顔が黒に溶ける。

 彼女が、闇に消える、

 

「俺をおいていかないで!」

 

 俺のことが嫌になってしまったの?

 たくさん与えて、守って、あんなに愛してくれたのに。愛を返してあげられなかった。……仕方ない、とは思えなかった。

 俺のせいだ。

 ああ、ああ!

 

「タマに嫌われるなんて嫌だ!」

 

 そんなの耐えられない!

 ──……愛しているんだ、

 

「ごめん……ごめんね、タマ……」

 

 いなくならないで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────ッ、」

 

 全身に、痺れが走って。

 瞼を開ける。目が、覚めたのか。

 ぼんやり考える。夢を見ていた。長い、長い夢を。苦くも甘い舌触りが、まだ残っていた。

 欠けた視界。薬の匂い。誰の気配もしない。……ここはどこだ?

 寒くて、薄暗い場所。

 

「は……」

 

 右眼が、脈打つように痛い。

 とっさに手を伸ばして。

 ……全てを、思い出した。

 

「っ、」

 

 ──流氷原。悪霊。小銃の引き金。

 今までのことが、アルバムを勢いよく捲るように脳内へ流れ込んできて。

 色彩と、触覚と、感情の混ぜものを、苦い唾液と一緒に飲み下す。ああ。

 

 ──……タマ。

 

 ……ここには居られない。

 勢いよく、ベッドから身体を起こした。

 

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