【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

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41話 ブレス・ユー!

「尾形が逃げたッ!!」

 

 ──聞こえてきた杉元の叫びに。

 はっと、我に返る。

 “時間”だ。

 行かなくては。とっさに立ち上がった俺の腕に縋る──小さな手のひら。アシㇼパだった。

 タマ。彼女が俺の名前を呼ぶ。

 祈るように。手繰り寄せるように。

 

「だめ、行かないで、……そんな傷で動いたら、本当に死んでしまう」

 

 ──お前のことが心配なんだ。

 

「は、…………」

 

 唾液を飲み込む。心臓が、喉が痛い。

 

「…………」

 

 息を吸って。吐き出して。

 ゆっくり膝を折る。同じ高さで、彼女と向き合う。潤んだ瞳が揺れている。

 

「アシㇼパ、」

 

 右手で、彼女の肩に触れる。その華奢なラインに手を滑らせて、頬を包み込んだ。温かく、柔らかい。命の手触りだった。

 アシㇼパ。お前がいたからここまで来られた。お前が俺を生かしたのだ。

 だから。

 

「永遠にお前の味方だ。……どこにいても」

 

 ──そんなお前の想いに応えられない山猫の不義理を、どうか、許さないでほしい。

 アシㇼパが目を瞠る。

 

「俺が行かなきゃ。ひとりにできない」

 

 あの時、誰も尾形を追いかけなかった。

 でも、誰かがやるべきことだったんだ。

 そうだ。今、わかった。

 

「っ、タマ!」

 

 鞄と上着を引っ掴み。アシㇼパの声を振り切って、背を向ける。光を目指して走る。肩が痛い。包帯の内側から血が滲む気配がする。

 体はもうとっくに限界を超えている。彼女の言った通り、いつ死んでもおかしくない。

 意識だけが、冬の朝のように鋭く、冷たく冴え渡っていた。どこまでも。

 

「ッ……はっ、……はあッ……」

 

 ──もう遅い、

 

「遅くない、」

 

 独り言ちる。

 まだ。まだ、こんなところで終われない。俺の旅は。俺たちの旅は。

 走る。尾形は馬を調達して逃げたはずだ。ならば、馬小屋を探してそちらに向かえば良い。夜目が利く体質は、こんな場面でも役に立った。

 尾形。ここまで、どれだけの時間をかけて、どれだけのものを犠牲にしてきたのか。こんなところで終われない。立ち止まっていられない。……お前も、そう思っているんじゃないのか?

 ──目の前の小屋から、馬に跨った人影が出てくる、

 

「────尾形ッ!」

 

 とっさに叫ぶ。

 人影がこちらを見た。片目を包帯で覆い、貫頭式の病院着に身を包んだ男。

 その歩みが、一瞬止まる。

 驚愕に染まった表情と、目が合う。

 尾形。まだ、足りない。走らなければ。でも、もう足が動かないんだ、

 

「……手を、」

 

 彼に向かって、震える右手を伸ばす。足がふらつく。頭が重くて、項垂れる。

 ……彼は、動かない。

 やはり駄目か、

 

「っ、」

 

 思った瞬間。

 信じられない力で、馬上まで引っ張り上げられた。衝撃に耐えられずその体に倒れ込んで。しかし、危なげなく受け止められる。

 ──どうして。尾形の顔を見ようと顔を上げたところで、

 

「タマっ!」

 

 アシㇼパが、よろめきながら馬小屋の影から飛び出してきた。

 

「嫌だ! 行っちゃダメ!」

「アシㇼパさんッ」

 

 なおもこちらに駆け寄ってこようとするその体を、杉元が抱きかかえるようにして押し留める。銃は、持っていなかった。

 

「不死身の杉元、」

 

 俺の呟きに、杉元が俺を見た。硬く、強張った表情をしていた。

 

 ──あいつがもし、俺たちを裏切った時。

 ──あんたは、尾形についていくのか?

 

 ふと、彼の声が頭をよぎる。そんな会話をしたことを、今になって思い出していた。

 心臓が、跳ね回っている。

 アシㇼパのことは大切だ。大切で、尊い煌めきに決まっている。でも。俺は。

 唇を噛み締める。真っ直ぐ、彼を見据える。

 杉元佐一、

 

「頼んだぞ……!!」

 

 ──俺は、俺のやるべきことをやったから。

 ──あなたは、あなたの成すべきことをして。

 

 杉元は、じっと俺を見つめていたけれど。やがて、泣きじゃくるアシㇼパの肩を支えたまま、厳かに顎を引いた。……ああ、

 

「……ありがとう……」

 

 お前の光は、これからはお前の大切にだけ使ってあげて。俺にはもう必要のないものだから。俺にその輝きは眩しすぎるから。

 さよならだ。本当に、ありがとう。

 

「…………」

 

 馬は、穏やかに荒野を進んでいる。

 杉元たちも、病院も見えなくなった頃。寒そうな肩にいつもの上着をかぶせてやった尾形が、小さな声で俺の名前を呼んだ。

 

「……どう、して……」

 

 どうして。彼らしくもない、頼りない呟きだった。思わず笑みが漏れた。

 そんなもの決まっている、

 

「愛だよ、愛!」

 

 振り返った尾形が、目を瞠って。

 次の瞬間、

 

「──────、」

 

 今にも泣き出しそうな、それでも満ち足りた。柔らかくて、痛々しい微笑。

 乾き切った空洞の虹彩が、今は水分を含んで微かに揺れている。

 見ているこちらの胸が締め付けられるような笑みが、朝陽に照らし出されている。

 息を呑む。

 美しく、脆く、儚い。

 ──何も言えず、黙って彼の顔を見つめ返した。お互い白い吐息だけが、朝の澄んだ空気に揺蕩っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、どれだけ進んだのか。

 馬は、やがて人気のない古びた小屋の前で止まった。近くに村がある訳でもなく、打ち捨てられて廃墟と化しているようだ。

 先に降りて中の様子を調べたらしい尾形が、俺の手を引いて小屋に足を踏み入れる。

 ──埃っぽいが、設備はある程度そのまま残っていた。

 部屋の奥にある煉瓦造りの巨大な暖炉は、ペチカだろうか。少数民族にばかり世話になっていたから、ロシア式の家屋をまじまじ見るのは初めてかもしれない。

 

「……休んでろ」

 

 言い残した尾形が、小屋を出て行く。

 ──それはそうか。

 どちらにせよ、ここからさらに移動できるような状態ではない。お互いに。

 

「う、…………」

 

 撃たれた肩を、とっさに押さえる。興奮が収まって、また痛みが出てきた。吊られた左腕の感覚がほとんどない。

 

 ──良くなるのだろうか。

 ──どのくらい時間がかかる?

 

 撃たれて、生き延びてしまったのは初めてだった。痛い。このまま左腕が動かないままだったらどうしよう。銃が、撃てない。

 不安ばかりが募る。

 ……とにかく、椅子に座ろう。

 そう思って、伸ばした手が。

 

「あッ」

 

 目測を見誤って、中途半端な位置についた。一本足のミニテーブルが大きく傾いで、乗っていたものがばらばらと散らばる。

 俺自身も体勢を崩して、埃の積もった床に倒れ込んだ。

 

「ッ、つ……」

 

 したたか尻餅を打ってしまった。

 腰をさすりながら、起き上がった視界に入ってきたのは。

 ──先ほどテーブルから落ちたらしい、やや錆びついたペティナイフ。

 

「──────、」

 

 それを目にした瞬間。俺の脳裏には、それが自らの首筋に深々と突き刺さったビジョンが、明確に浮かんでいた。

 これがあれば、死ねる。

 とっさにそう思う。

 ──死ねば、この苦痛から解放される。

 ──元通りの俺に戻れる、

 

「…………」

 

 ──死なないと。

 何もかも、無かったことにしないと。

 ほとんど強迫観念じみていたが、それを意識している余裕はなかった。

 もう、耐えられない。

 震える手で、落ちたナイフを掴む。それを、喉元に突き立てようとして、

 

「っ、」

 

 次の瞬間。

 からんからん。

 背後で響く乾いた音と、手の痛み。

 戻ってきた尾形が俺の手から勢いよくナイフを薙ぎ払ったのだ、と気づくより早く。彼の匂いと、温度を感じた。

 冷たい床の上で、彼に抱きしめられていた。

 

「…………おがた、」

 

 耳元で、微かに乱れた呼吸だけが聞こえる。

 ああ、網走の時みたいだ。

 止められた。自殺を。“リセット”を。

 事実と、想起。ふたつの思考が脳内で絡まり合って、ぐちゃぐちゃになる。

 痛い。

 ええと。ああ、そうだ、

 

「お前も……怪我しているのに、このままだと足手まといになる……」

 

 見られたのは失敗だったな。もっと早くに済ませておくべきだった。淡白な後悔だけがあった。

 でも、尾形だってわかっているはずなのに。

 手負いの体をこのままにしておくべきではないと思った。非合理的だからだ。ずっと、今までもそうしてきたのに。

 

「お前を、守れない……」

 

 これでは銃を手に入れても、どちらも撃てない。単なるお飾りになってしまう。それでは意味がないのだ。俺にはそれを“解決”するための方法がある。だから、

 

「尾形……」 

 

 離してくれ。そんな思いを込めて、右手で彼を押し退けようとしたけれど。その体はびくともしなかった。血が、滲む。痛い。

 ああ、痛くて痛くて堪らない、

 

「…………痛い、」

 

 漏れた呟き。腕に、力が篭る。

 痛くて、痛かった。

 

 

 

 

「…………」

 

 ──ぱちぱちと、薪が爆ぜる音。

 沈み込んでいた意識が浮上する。

 ゆっくりと瞼を開ける。……天井が近くて、少し驚いた。

 あれから。ペチカの上で横になっているうちに、寝てしまっていたらしい。

 まだ、肩は痛む。眠っている間に死ねたらとも思ったが、そう上手くはいかなかったようだ。というか、それはそれで余計な心配をかけてしまうか、

 

「……いい匂いがする」

 

 ……尾形。

 眼下、ペチカのコンロで鍋をかき混ぜていた彼が、顔を上げた。料理していたのか。珍しい。

 尾形の格好は寒そうな病院着から、軍服を羽織ったごく普通の服装になっていた。

 

「……お前の金を勝手に使った」

「うん」

 

 いざという時──言ってしまえば、こういう状況に備えてこつこつ貯めていたものなので、むしろ有効活用してくれて良かった。

 煮えたのか。やがて、かき混ぜる手が止まり。湯気のくゆるホーローの小鍋を片手に、尾形が慎重に梯子を上がってくる。

 中身は……何か、雑穀米か何かを煮た、粥のようなもの。香ばしい匂いが漂ってくる。

 

「それ……」

「Каша」

 

 ああ……なんて?

 特に詳しい説明は無いまま、鍋を置いた彼が、俺を抱き起こしてくる。

 あれからどれだけ経ったのか。血を流しすぎたせいな気もするが、とにかく腹が減っていた。

 渡してくれるのかと思いきや。尾形は鍋をかき混ぜていたスプーンで粥を掬って、軽く息を吹きかけたかと思えば、真顔でこちらに突き出してくる。え?

 えっ、と。……俺が怪我しているのは左腕で、別に1人でも食事くらいはできるというか、確かに鍋は熱そうだが、その、

 

「…………」

 

 …………もちもちしている。

 バターの風味と、香ばしさ。これは……蕎麦だろうか? 蕎麦の粥とはまた、日本人には馴染みのないセレクトだ。

 未知の食物に考えながら咀嚼している間に、スプーンで再びそれを掬った尾形が、今度は自分の口に入れる。なんだ味見させただけかと思いきや、

 

「……ぁ、」

 

 またもや突き出される匙。仕方なく頬張ると、次は自分自身の口へ。そうして交互に粥を食べて、やがて空になった鍋が傍らに置かれる。

 腹がくちくなったせいか、起きたばかりなのにまた眠くなってきた。──生あくびをする俺の頭上に、伸びる尾形の手。

 

「っ、……」

 

 そこで、思い出す。あの黒いリボンを失くしてしまったこと。アシㇼパが代わりにマタンプㇱを結んでくれたこと。

 

「リボン……失くしたみたいで……」

 

 せっかく、お前がくれたものだったのに。

 俯く俺を、尾形は黙って見ていたようだったが。やがて、軍服の内側に手を滑らせて。

 

「……?」

 

 内側から取り出された──黒い紐?

 糸というには太いが、縄というには細い。何に使うのか全く見当がつかないというか、どうしてそんなものを持ち歩いていたのかがわからない。短すぎて、特に実用性はなさそうだが。

 謎の紐を眺める俺の前で、尾形が腰を上げて、背後に回り込んでくる。

 

「あ、」

 

 ──マタンプㇱが解かれる気配がした。とっさに頭へ手をやろうとしたが、すぐに尾形の手が散らばった髪を再び束ねて。軽く引っ張られる感覚。例の紐だろうか。

 解けたマタンプㇱは首に回って、スカーフのようにゆるく結ばれる。やや形の崩れた刺繍を、指先でなぞる。

 アシㇼパ。優しい子。もう泣いてはいないだろうか。

 

「……まだ安静にしてたほうがいい」

 

 用は済んだのか。言いながら、俺の体を再びシーツに横たえさせる尾形。……安静にしていたほうがいいのは、お前もだろう。

 眼球に猛毒の矢が突き刺さって、それを麻酔無しで強引に摘出されたのだ。普通ならばショック死していてもおかしくはない。

 俺の面倒など見ている場合ではないはずなのだ。せめてものアピールで、彼の服の裾を掴んで、やんわりベッドに引きずり込んだ。

 尾形は特に抵抗しなかった。狭いペチカの上、同じ布団の中で寄り添った熱が、こちらをじっと見つめている。

 

「…………、今までのこと」

 

 しばらく無言でそうしていた彼が、唐突に口を開いた。俺の瞳の奥を覗き込んだまま。

 今までのこと? 

 該当する範囲が広大すぎるため、意識が記憶の海に漕ぎ出したのとほぼ同時に。

 

「すまなかった」

 

 ──引き戻される。

 え。今、

 

「怒っていたんだろ。ずっと」

 

 しかし。すぐに続いたその発言で、掴みかかった衝撃が押し流されていく。

 今、この男は何と言った?

 確かに知っている言葉のはずなのに、とっさに理解が及ばなかった。

 

「…………怒った、?」

 

 朦朧と、反復する。

 怒っていた。

 誰が。……俺が?

 尾形百之助に。

 どうして?

 

「…………」

 

 ……ヴァシリに狙撃された時か。

 ややラグはあったが、思い出せた。できれば忘れていたい出来事だった。

 でも、あれはたまたまで。とっさに言い訳しかかって、立ち止まる。あの時、俺は何と言ったのだっけ。

 ──何度も俺を殺したくせに。

 ああ、これではまるで。

 俺は、尾形百之助に。

 

「……怒っていた、……のかもしれない」

 

 実際に口に出してみても、まだしっくり来なかった。けれど、今となっては何となくそんな気がしていた。奇妙な納得があった。

 何か、言わなければ。

 尾形はただ待っている。焦燥感に後押しされて、再び口を開く。

 

「あまり……そういうことは、考えないようにしていた、から……」

 

 だって、“尾形タマ”には不必要な感情だったから。

 何度も何度も一方的に殺されて、それでも愛し続けられる人間なんていない。

 でも、俺がもし道理に従って尾形を心から憎み、拒絶したら、そこで全てがおしまいになってしまう。

 実際、あそこで強く拒絶を受けたせいで、尾形は流氷原であんな凶行に及んだのだと考えられなくもない。俺がありのままの感情で彼と接しても、悪影響しか生まないのだ。だから。そこまでつらつらと考えて。

 ふと、尾形に問いを投げ返してみる。

 

「……百之助は私に怒っていてほしいの?」

「…………」

 

 なぜか無言のまま。何でやねん。

 何にせよ、そうあって当たり前、と思っているのか。でも、そんなことをしたら。

 

「嫌いになるかもしれないよ」

 

 言われても。尾形は、まだ黙っていた。

 自然に伏せられたその瞳は、全てを受け入れる覚悟をしているようでもあった。

 ……落ち着かない。何となく、身動ぐ。

 

 ──俺が今お前を見捨てたら、お前はあの列車で死ぬかもしれないのに。

 

 お前はそれでいいと思っているの?

 確かめようのないことなのに、内心で問わずにはいられなかった。俺が再び尾形を拒絶したら、今の彼はそれを当然のこととして受け入れてしまうのか?

 考えてもみなかったことだった。

 そもそも、どうして彼はいきなりそんなことを言い出したのだろう。今の彼はあの恐慌が嘘みたいにひどく落ち着いている。何かきっかけがあった?

 わからない。

 行き場のない焦燥感が、腹の底で渦を巻いている。気持ちが悪い。

 目を逸らす、

 

「……大好きだよ。本当に……」

 

 誤魔化すように、彼の肩に顔を埋めた。本心とは程遠い甘言をまた口にする。

 尾形は何も言わなかった。寄り添った体は蝋人形のようにびくともしない。

 さらなる不安感が、さざなみのように内側へ広がっていく。──間違えているかもしれない、という不安。目隠しされたまま手探りで知らない場所を歩いているような、そんな感覚。

 間違えている。何をだろう。こんな時にそんな言葉が浮かぶこと自体が致命的な間違いなのではないか?

 

「…………」

 

 尾形は俺に謝った。

 それは罪悪感があったからだ。

 罪悪感。俺の罪悪感。

 

 ──欠けた人間、

 

 俺のことなのだろうな。

 思いながら、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 よく眠れた感じがしないまま、薄暗いうちに目が覚めた。

 隣には尾形だけがいて、妙な問答も殺しもなく、甲斐甲斐しく世話をしてくれて。未だかつてなく平和な暮らしのはずなのに、今になっても胸騒ぎばかりがするのは何故なのだろう。

 どこかで鳥のさえずりが聴こえる。

 

「…………」

 

 寝直す気にはなれなかった。

 俺の枕ごときに大事な右腕を貸して、それでも穏やかに安らいだ尾形百之助の寝顔を、じっと見つめる。

 片目の欠けた痛々しい顔。

 何とか防いでやりたかった──のかもしれない。起こってしまった今となっては、当時の気持ちなどもはや思い出せなかった。

 だって、原作通りだし。

 ……おかしいよな。

 既に“知っていた”からといって、家族の片目が抉られて平気なものか?

 

 ──今の尾形は。

 俺が「もうこんな危ない争奪戦からは手を引いて、田舎に帰ってふたりで静かに暮らそう」と言えば──そうするのかもしれない、と。ここに来て、ふと思った。

 これまで、俺はただ原作をなぞる尾形を追いかけていただけだった。俺の横槍など聞き入れる訳もないと思っていた。だから、そんなことは考えてもみなかったけれど。

 今、何もかもがイレギュラーな中にあって、その第三の選択肢が浮上してきた。

 実際、それは尾形の望みでもあったはずだ。少なくとも、彼もそう口にしていた。

 この世界線の彼がどことどう繋がっているのかは、未だによくわからない。けれど、そこにどんな遺恨が残っても、なんでもない顔で「わかった」と頷いてみせるのだろう。

 そうするべきなのかもしれない。

 ……いや、そうするべきなのだ。

 俺が本当に尾形を愛しているのなら。

 ヴァシリも、金塊も、第七師団も、俺には何ら関係のないことなのだから。

 これから彼に起こり得る事象を、俺は既に知っている。

 今ならまだ、逃げられる、

 

 ──杉元佐一。

 

 否。

 何もかもを捨てて逃げるのか。今までのことは全て無駄だったと?

 

 ──白石由竹、

 

 何のために彼らの覚悟を、愛を踏みにじってここまで来たのだろう。

 

 ──お祖父様、お祖母様、

 

 これ以上続けて、その先に何が待ち受けていても後悔しないと言い切れるか? 今、尾形百之助はここで生きているのに、

 

 ──勇作……

 

 “選択”を見届けることを放棄するのか。勇作も、鶴見中尉のことも。まだ何もわかっていないのに。結論が出ていないのに。かつての彼が生涯を懸けて追い求めたそれらは、邪魔でしかなかったとでも言うつもりか?

 

 ──……アシㇼパ、

 

 俺は何のためにここに居るのだ?

 思い出せ。

 何もかもを忘れて、無かったことにして、彼と平々凡々に生きるためではないはずだ。

 そうだ。

 尾形百之助の“選択”を。

 見てみたい。ただそれだけだ。

 祝福された彼の選択を。行く先を。多くの人に渇望されたであろうifを。

 ──その解答を出すにはまだ、足りない。

 

「百之助」

 

 名前を呼ぶ。

 その瞬間。自然に伏せられていた瞼が、予備動作なく開ききった。待ち構えていたかのようだった。微睡みの名残を欠片も窺わせない狙撃手の眼差しが、俺を射抜いてくる。

 それを真っ直ぐ見つめ返しながら、告げる。

 

「土方歳三のところに行こう」

 

 傷の目立つ頬に浮かぶ、得意げな笑みが答えだった。尾形らしいその笑顔に、優しく微笑み返す。それができる。

 

 ああ。やはり欠けた人間なのだ。

 俺は、尾形百之助を愛してなどいない。

 それで一向に構わない。

 ──この呪われた旅路に、全ての決着をつけに行こう。

 

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