【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について 作:捕まえようとした蝶
──ふと、我に返る。
周囲がにわかに騒がしい。
あれ。俺は何をしていたのだっけな。
そこまで考えて。
ああ、そうだ──
「勇作殿」
顔を上げる。
「……飲み過ぎですよ」
俺の咎めるような呼びかけに、対面に座った弟──花沢勇作少尉が、バツの悪そうな顔で手に取りかけた徳利を机上に戻した。
卓上には空になったそれが3つ。申し訳程度に頼んだ食事とつまみの皿が、端のほうに追いやられている。
こうして休日に彼と食事をしたこと自体は何度かあったが、酒が入ったのは今日が初めてだった。
「ん……」
暑いというほどの気温でもないのに、赤く染まり上がった彼の頬に、また嘆息。明らかに酔っている。
「すみません……兄様とこうして酒を酌み交わせる日が来るとは思わず……つい……」
ふにゃふにゃと、締まりない笑顔。どこにいてもよく聞こえてくるその声も、日曜の居酒屋の喧騒に飲まれかけるほど覚束ない。
──失敗だったか。
グラスを傾ける。ただの水を含んだはずの喉奥に、苦いものが広がる。多少酔えば気が大きくなって、“事”が上手く運ぶかもしれないと思った。ただそれだけだった。
まさか、あの勇作が新年会の飲み比べかという勢いで酒をかっ喰らい、案の定ひどく酔っ払うなどとは考えてもみなかった。
“多少”で良かった。それなのに。
「…………」
まいったな。
自らの坊主頭を掻く。このまま放っておいても、すぐには酔いも醒めないだろう。
思わず漏れたため息に、とうとう船を漕ぎ出した勇作が顔を上げる。捨て犬のような頼りない表情がこちらの様子を窺ってくる。
……やむを得ない。
「今日はもう兵営に戻りましょう。部屋まで送ってさしあげます」
「──まったく、」
勇作の勢いに怯んだだけだったが、こちらは早々に飲むのをやめていて良かった。
肩を貸す──というか、旗手を務める恵まれた体格を半ば引きずるように通りを戻りながら、思う。俺まで泥酔していたら兵営に帰れなくなるところだった。
「聯隊旗手ともあろうお方が、こんな下町の呑み屋で泥酔とは。父上が知ったら、さぞお嘆きになられるでしょうなあ……」
「申し訳ありません、」
「ほら、勇作殿……ご自分で立つ。あまり兄を困らせないでください」
「ふふ……」
何を笑っているのか。再びため息が漏れた。
こちらはこの後の予定がめちゃくちゃだ。俺たちの来訪を待っているであろう遊女たちに申し訳が立たない。けれど、よもや寝込みを襲えなどと言う訳にもいかないし。
「勇作殿?」
「いえ……こんな場所にまで誘っていただけたのが……嬉しくて……」
「…………」
暢気なものだ。
こちらは、異母兄という立場を利用して、高潔で御立派な青年将校を誑し込もうとしているだけだというのに。そう思って、
「お優しいのですね、兄様は……」
優しい。その言葉を聞いた瞬間。
全ての思考を踏み倒して脳裏に蘇る、
──お前はとても真面目で優しい子だよ。
忘れないで。
……タマ、
「それ……タマも……」
気づけば、そう口走っていた。
いけない。慌てて口元を手で覆ったが、時既に遅し。肩口に突っ伏していた勇作が、顔を上げた気配がした。
「……タマ?」
残念ながら、聞き流されなかったようだった。舌打ちをとっさに飲み込む。なんだかんだと言って、俺も酔っているのかもしれない。
「いや、」
「姉様のお名前でしょうか」
「……チッ……」
クソ、こんな時だけ妙に勘が鋭い。できればその勘の良さを普段から発揮して、俺を壁際に追い詰めるのをやめてほしい。
うんざりした気持ちになりつつ、とりあえず適当に誤魔化してこの場を切り抜けることにだけ意識を向ける。どうせ相手は酔っぱらいだ。
「……、そんなこともあったと思い出しただけですので。母にも、父上にも愛されなかった私のような存在が、勇作殿や……あいつのような良き人間であるはずもない。初めから何かが欠けているのですよ。私には人並みの優しさなど……罪悪感さえも、」
「兄様ッ!」
「ゔぇ」
自嘲めいた呟きが、唐突に上半身を襲った衝撃で打ち切られる。──往来で、勇作に抱きしめられていた。
道の中央に近い場所で抱き合う軍服の若い男2人に、通行人の視線が集まるのを感じる。その中には同じ制服を着た男たちのものも混じっていた。
一瞬、意識が明後日の方角に吹き飛び掛けて、やめさせなければ、と思い直す。
「ゆ……勇作殿? 人目につきますから、」
「兄様はけしてそんな人じゃない!」
やかましい。
耳元で叫ぶな、
──百之助はそんな人間じゃない。
「きっとわかる日が来ます、」
──いつかわかる日が来る。
声が、聞こえる。
抑揚のない、幼い少女の声。
提灯に彩られた安っぽい呑み屋街の夜景に、初夏の木漏れ日に照らされる木立を見た。
鼻を啜る音で、ふと目を瞬いて。
次の瞬間には少女の姿も、青々と茂る緑も消えていた。
「……何を泣いとるんですか」
腕を、引っ込めて。体を離す。
勇作は泣いていた。宝石のような瞳から、その破片がはらはらと剥がれ落ちている。何となく指の背で拭ってやると、また抱きつかれた。耳元で囁かれる。
「兄様には……タマ姉様と……勇作が……」
ぐう。
寝言じみたそれを、最後まで言い切ることなく。脱力した体が容赦なく体重を掛けてくる。
「……重てえ……」
勇作は、既に肩口ですうすうと平和な寝息を立てている。……往来に一人、取り残された気分になった。
「おや、」
結局。
遊郭で控えていた鶴見中尉のもとに辿り着いたのは、それなりに夜も更けてからだった。一人で現れた俺の姿を見て、彼が柳眉を跳ね上げる。
「随分と遅かったな。勇作殿は?」
落ち着いて尋ねてくる。期待に沿えなかった。微かな焦りを感じつつ、今さら慌てたところで仕様がない。
「……だいぶ酔っていた様子でしたので、今しがた、兵営まで送り届けてきたところです」
「そうか」
いつも通りの淡白な受け答え。それにまた、尻の据わりが悪いような心持ちになる。気づけば、口が勝手に動いていた。
「酔いすぎては使い物にならんでしょう」
俺の言い訳じみた付け加えを聞いて。中尉が、静かに目を細めた。ごく柔らかく。
百之助。名前を呼ばれる、
「──お前が潰したのか?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。俺が、勇作を? 中尉殿の命に逆らって?
そんなまさか。
「……、勇作殿が勝手に杯を重ねて……私に呼ばれたことがどうたら……とか、」
「なるほど。随分と懐かれているようじゃあないか」
陽気に紡がれたその発言に、胸を撫で下ろす。大丈夫。俺はまだ。
「……好都合でしょう」
成し遂げてみせる。
この人に従ってさえいれば、俺が求めていたものは絶対に手に入る。甘い万能感が、心地良かった。
「誑し込んでみせますよ」
次は、必ず。
鶴見中尉殿──だから、俺を。
完成された微笑みに、笑い返す。上手く笑えていただろうか。
日夜、兵営で訓練に明け暮れて、たまの休みには勇作と出掛けたりもして。
でも、そんな平和な日々は、長くは続かなかった。日露戦争が始まった。声援に見送られて、俺たちはロシアと戦争するために満州へ向かうことになった。
戦地へ赴くこと自体には──はっきり言って、大した思い入れはなかった。父が指揮する師団にいる。それだけが全てだった。何だっていい、彼との繋がりが欲しかった。
ただ、毎日毎日、無策な進行で蟻のように一兵卒が死んでいくのを見るのは、気分がいいものではなかった。わざわざ敵陣に突撃するまでもなく、遠距離狙撃ならば無傷で相手の戦力を削げるのに。
そう上官に進言してみたこともあったが、すげなくあしらわれて終わった。彼らにとって、一兵卒とは代えの利く駒でしかないのだ。
──……勇作、
聯隊旗手となった彼は、この旅順攻囲戦において、203高地に軍旗を打ち立てるという重要な命を帯びていた。
朝靄の中。塹壕から頭を出したロシア兵のそれを、順繰りに撃ち抜いていく。
……今日が正念場だろうな。
ふと、思った。
「尾形上等兵」
じっと俺の手つきを観察していた鶴見中尉が、慎重に声をかけてくる。
「……とうとうだな」
──とうとう。
花沢勇作は今日、この旅順攻囲戦で死ぬ。俺が、後ろからその頭を撃ち抜くことで。
そういうことになっている。
「…………」
中尉は結局、俺と勇作のやり取りに手ごたえを感じられなかったようだった。計画を変更する。日本を発つ直前、そう伝えられた。
彼の目的には、第七師団という根城が必要だった。そのためには、意のままに操れぬ“高い駒”は、要らない。戦場は格好の隠れ蓑だった。
その通りだ、
「……鶴見中尉殿、」
「うん?」
前を見据えたまま、空薬莢を吐き出す。また撃つ。絡繰仕掛けの人形のように。
彼らは今この瞬間にも命を失っている。あのロシア兵と勇作、何が違うのだろう。
「……この白兵戦において、兵士はみな花沢少尉を神聖化しています。……彼の生死は部隊全体の士気に関わるのでは?」
沈黙が、流れた。
「そうか」
肩に、手が触れる。彼の目がこちらを見ている。闇を塗り込めたような漆黒の瞳。どこかで見たような覚えがあるのは、気のせいだろうか。
「よく、わかった」
お前の言う通りだろう。
鶴見中尉は続けてそう言った。
「……、……?」
その時。視界の端に、何かが映った。兵士というには華奢なその立ち姿。女のようにも見える。ただ、銃を持っていた。
何だろうと顔を向けたら、もういなかった。気のせいだろうと思うことにした。
──負傷した花沢勇作が野戦病院に運び込まれたのは、夜が明けて間もなくのことだった。
203高地から撤収したその足で、野戦病院に向かった。
本来、一兵卒が単独で上官の見舞いに行くなど類のないことだったが。一応は親族であるから、という理由で特別に許可されたようだった。
「……兄様、」
即席の寝台の上から俺の姿を見た勇作は、開口一番。
「軍旗は……」
憔悴した表情だった。それでも、なお。
旗手として。士官として。
軍帽を取り、肋骨服を脱いでもなお、彼はどこまでも、皆に望まれた高潔な青年将校であった。唾液を飲み込む。喉が、乾いていた。
「……鶴見中尉殿が」
中尉は、勇作が取り落とした軍旗を躊躇いなく拾い上げ。それを、203高地に打ち立てた。歓声は、思ったよりも上がらなかった。
我々は多くのものを失いすぎた。
「そう、ですか」
勇作が力なく応えた。失意の滲む声音に、腹の底がざわついた。不安定さを誤魔化すように、拳をきつく握り締める。
「勇作殿。我々は勝ちました。勝ったのです」
「いいえ、」
食い気味に、きっぱりと否定された。表情の翳りが、消えない、
「肝心な所で弾に当たり……天皇陛下から親授された軍旗を取り落とし……鼓舞するどころか多大な心配を掛けた上で、こうしておめおめと生き延びてしまいました、」
父上に申し訳が立ちません。
手を撃たれたらしい。すれ違った一等卒がそう言っていたのを聞いた。
唇を噛み締めながら、その手元を見やる。包帯で巻き取られたその右手は、拳を固めたままそうした、というには小さかった。
指が、ない。利き手の指が。箸をきれいに操る指が。冗談めかしてバツを作る指が。
鼓膜のすぐ内側で、血潮が激しく流れている。心臓が肥大化して、ほかの四臓と六腑を飲み込んでしまったかのようだった。
「いっそあのまま、ひと思いに死ねていたならばと……私は、父上の顔に泥を塗るような真似を、……こんな不具の身ではもはや旗手として、いえ、兵士としてすら、」
死んでしまいたかった。
尻切れ蜻蛉のその先が、砂嵐の中でもはっきり聞こえた。
勇作。
──そう気を落とすものではありません。
──有坂閣下が精巧な義手の研究をしていると聞きました。
「…………」
「……兄様……?」
──名誉の負傷です。
──父上があなたを見捨てるはずもない。
伝えたいことはいくつも頭に浮かぶのに、どれも音にはならなかった。唇が、縫い付けられてしまったかのように動かない。
自分の脳味噌は何を考えているのだろう。
それすらよくわからなかった。
奥歯が軋む。
だから。
「…………っ、い、」
俺は、
「ぃ、…………生きておれば、……それでよいのです……」
瞬間。ぎょっと、勇作が目を剥いた。
歓喜ではなく、驚愕と怖気の滲んだ仕草だった。はっと、我に返る。
──俺は今、何を。
「っ、あにさ、」
仮にも帝国軍人の端くれならば到底、口にすべきではないことだった。
国のために死ね。1人でも多くの敵兵を殺して死ね。兵士とは等しく成すべき大義のための駒であり、そこに情など必要ない。そうあれと常に厳しく言い聞かせられてきた。
聞かれれば、何らかの処罰は免れない。それがわからない身ではないはずだった。
それでも。
長い長い、沈黙があった。
「……あ、」
勇作が、震える唇を開く。
きらきらと、光を湛えた瞳が揺れている。瞑った眦からその輝きがこぼれて、汚れた頬を伝って枕に落ちた。美しかった。
「……兄さまから、そのように言っていただけたこと……私は、……勇作は、弟としてうれしく思います……」
ああ。
こめかみを、冷たい脂汗が伝っていく。それをはっきりと感じていた。
「…………」
気をつけの姿勢のまま、軍袴を強く握りしめる。体が鉛のように重かった。
息を吐き出すことすら出来ず、黙って勇作の、その涙を見つめていた。
そして、あっという間に数日が経った。
あれから何の報せもなく。こちらとしてもすぐに再び顔を合わせる気にもなれず、尻込みしていた矢先に、それは起きた。
──その朝は、陣営が妙に騒がしかった。
落ち着きのない一兵卒どもが、口々に囁き合う内容によれば。
「…………死んだ?」
──死んだ。
花沢勇作が。
非業の聯隊旗手が。
……そんな馬鹿な、
「良くない菌が入って、体の内側から腐って死んだんだと」
有り得ない。
「眉目秀麗なお方であったし、そんな姿を見せたくなかったんだろう」
違う。
「俺たちに心配をかけまいと、緘口令を敷いていたらしいじゃないか、」
違う、
「鶴見中尉が看取ったそうだ」
そこで。
視線が、集まる。
「……あの、山猫の子は?」
俺は、何も聞いちゃいない。
廊下に立ち尽くすその姿が、奴らには答えに見えたようだ。ひそひそと何事かを囁き合いながら、それとなく遠ざかっていく。
亡骸は酷い有様で。
伝染病が流行っては困るから、今日の夜にはもう焼いてしまって。無論、対面は御法度で。──死体は、使われていない物置に安置してある。
「…………勇作、」
考えるまでもなかった。
足が、勝手にそちらを向いていた。
こんな形で終われない。終わりたくない。早歩きが、だんだん駆け足になって。気づけば、物置代わりの天幕の中に半ば転がり込んでいた。
伝染病、と脅されたせいか、周囲に人影はほとんど無い。誰にも見咎められることはなかった。薄暗い中、寝台に横たわった白い塊を、じっと見つめる。
「勇作」
整わない息で、名前を呼ぶ。
白い塊は、動かない。
頭から爪先まで、シーツを被せられたその姿。──こんなものは、勇作じゃない。
そうだ。
確かめなければ。
火花が散るように、そのひらめきが脳裏で爆ぜ散る。抗い難い強烈な輝きだった。
勇作がこんな宙ぶらりで終わるはずがない。偽物の葬式なんかするはずがない。
手を、伸ばす、
「尾形上等兵」
ぴしゃりと、言葉の鞭で打ち据えられた。その痛みで、咄嗟に動きが止まる。
「……ここに来てはいけない、と聞いてはいなかったか?」
──出入り口に、鶴見中尉が立っていた。ごく自然なふうで。
続いて、やんわりと嗜められる。柔らかく、冷たい響きだった。
「…………」
俺を、止めに来たのだ。
そう思った。ゆっくりと、腕を引いて。寝台から後退りする俺に、反対に中尉は歩み寄ってくる。──伝染病が、と言ったのは彼自身のはずなのに。
肩に、手が置かれる。
彼は微笑っていた。
「誑し込まれたのは、お前のほうだったな」
何の話、
「早く持ち場に戻りなさい。……このことは、お前の働きに免じて黙っておいてあげるから」
甘い蜜が、耳道を伝って喉奥へ滑り落ちていく。
心地良く感じていたはずのそれに、初めて胸焼けじみた不快感を覚えた。
──花沢勇作少尉の葬式は、翌日には滞りなく執り行なわれた。
焼かれた骨は、小綺麗な骨壷とともに桐の箱に収められた。さすが尉官は扱いが違う、と呟く声がどこかから聞こえてきた。203高地では未だ腐りきらない軍服の遺体が折り重なり、ところどころ山を成していた。
お前も持っていきなさい。
そう言われて、どこの骨ともわからない白い欠片を中尉に手渡された。見当をつけず、203高地目掛けて放り投げておいた。
線香の匂いが、消えない。
足音が、背後で聞こえた。
「……宇佐美……」
弾んだ足取りで近づいてきた、妙に上機嫌なその面を睨むように見つめる。この男のことだろうから、どうせちょっかいを出しに来ただけなのだろうけれど。
「アハハ、ひっどい顔」
「…………」
いつも以上に相手をしている気分ではなかった。視線を外して、何もない地平を睨む。
「死んじゃったねえ、ユウサク殿」
他人事みたいな言い方だった。今さら腹も立たなかった。彼について、宇佐美と語り合うことなど何もない。
そもそも宇佐美は、第七師団長の息子であり、鶴見に目をかけられていた勇作を敵視していたような節があった。死を惜しむような、
「ま、僕が殺したんだけどね」
────は。
「…………は、?」
……殺した?
誰が。宇佐美が。
勇作を、?
そこまで、理解して。
伝染病などではなかった。
──浮かんできた副詞は、「やはり」だった。勇作は、殺されたのだ。
“計画通り”に。
「え。だって、もともとそういう話だったじゃん?」
──僕的にはラッキー、って感じ?
──ムカつく奴を殺す時ってさ、やっぱりスカッとするし。
──……あ、ほんとはどうやって死んだか教えてあげようか?
宇佐美の声も、もう頭に入ってこなかった。手足が冷たくなっていく。
殺した。士気が落ちると言った。
攻囲戦には勝った。
だから、もう必要無くなった?
勇作、
「百之助」
──生きていたはずの命だった、
「……ほんと、ばかだねえ」
穏やかな呟きで、我に返る。
宇佐美は、落ち着いた微笑を浮かべて俺を見ていた。いっそ慈しむような笑みだった。
「僕はね。お前がやらなかった、やるべきことをやっただけだよ」
お前は選択を間違えたのだ。
きっと、ずっと前から。
喉元を、緩慢に、しかし確かに絞め上げられていくような感覚。頭が、痛い。
視界が暗く、狭まっていく。
黙りこくる俺を見て、今度は息を吐き出して笑った。明確に、嘲る意図を含んでいた。そうして、足元の地面が、
「使えない駒。……いや、」
──もう、駒ですらないか。
せいせいしたと言わんばかりの、実に晴れやかな笑顔。あ、
「お前、もういらないんだよ」
堕ちていく。
真っ逆さまに。
ああ、鶴見中尉殿。
俺を。俺は、
──初冬の北海道は、未明ともなれば相当冷え込む。
黒塗りの馬車が、旅亭じみた豪邸の前に停まっている。ああ。父は、あんな立派な家に住んでいたのか。枝ぶりの影で双眼鏡を覗き込みながら、そんな場違いな感慨を得た。
まあ、たぶん、もう“いない”のだけど。
案外、何の感情も湧いてこなかった。
やがて。明らかに浮き足立った様子で、見慣れた坊主頭がその中から出てきた。
予め計画していた日程を、中尉が変えることはなかったようだ。おかげで──という言い方もおかしいが、今、ここで一部始終を観察していられる。
──本当は、俺があそこに行くはずだったのだろうか。
樹の幹にもたれかかって、ぼんやり思考を巡らせる。中尉の囁きを思い返す。勇作がいなくなれば、父の寵愛を受けられる。ならば、父がいなくなれば、?
──第七師団長、
「……士官学校すら出ていない上等兵が、第七師団長にまで出世するのは不可能だ」
かつて、鶴見中尉に言えなかった言葉を、今ひとり口ずさむ。
「いや……中央に鶴見一派を売れば、あるいは?」
少なくとも、鶴見中尉を頼るよりは現実的な案に思えた。あの人はきょろきょろよそ見してばかりだから。
「…………」
気づけば。
人通りの途絶えた道に、女が一人、立っている。和服の女だった。銃を背負っていた。
黒鳶色の髪を流したその後ろ姿には、見覚えがあった。
通りの中央でじっと馬車を見つめているのにも関わらず、誰も声を掛けない。花沢中将暗殺計画、その漏洩の危機だというのに。
「存在しない」
口の中で呟いてみる。
あれ以来。いつの間にか、はっきりと姿が見えるようになっていた。でも、存在しない。
あれは悪霊なのだ。
見えてはいけない。気づいてはいけない。そもそも、何故?
「……死んだのか?」
日本に帰ってすぐ、定期的に届いていた手紙が、急にぱったりと途絶えた。
日を待たずに何度も事務所を訪ね過ぎて、最初は丁寧に応対していた係の者も、今や俺の顔を見るなり「来ていない」と吐き捨てるようになった。……ああ、そうだ。
死んでしまった。
誰も、彼も。
「結局、父上は中尉の謀略に斃れ、なるかもしれなかった勇作も死んだ」
失意の中で。
何も思い通りにはならなかった。
──馬鹿げていると思わないか?
脳裏で女が嗤う。
「欲し、焦がれたそれに価値などない」
わかっていた。わかってしまった。
所詮は風前の灯火。与えられただけの美しい器に過ぎない。誰かが故意に落とせば、割れて粉々になる。その程度のモノだった。
おや、それでは。
「──俺が第七師団長になることに、もはや意義はなかった?」
自ら確かめるまでもなく?
欠けた人間でもなれる、そこにある無価値さを証明するまでもなく、最初からその椅子に価値などなかった?
否、おっ母は父上を立派な将校さんだと言った。……しかし。
「…………」
目を伏せる。銃に触れる。
憂いと、戸惑いと、悲しみだけがあった。
母が最期まで愛した将校の椅子。“第七師団長”という肩書きさえあれば、何もかも上手くいくような気がしていた。それだけあれば何も要らない。何を捨てても、何を壊しても、手に入れたいものだった。
そのはずだった。
……そのはずだった?
「……ぁあ、」
呻きが乾いた唇から漏れる。
駄目だ。これは過ちだ。考えるな。
──後悔するな。
奇妙な浮遊感に頭を抱える。
今まで確かに踏みしめていた足場が、急に崩れて砂と化したかのような、嫌な錯覚。気分が悪い。思わず伸ばした手は空を切った。
「第七師団長の座に価値などない、」
胸を掻きむしり。喘ぐように呟く。
「ならば、“価値”とはどこにある?」
探さなければ。
だって、このままじゃ生きてゆかれない。
宙ぶらりんだ。おっ母も、父上も、タマも、勇作も、鶴見中尉も──何もかもが。
それではいけない。
偽物の葬式は二度と御免だ。
今度こそ、間違えない。立ち止まらない。後悔しない。尾形百之助と、彼らのために。
そして、手に入れるのだ、
「俺が本当に欲しかったもの、……」
……あれ。
俺は一体、何がしたかったのだっけ?
わからない。
否、
「……確かめなければ、」
左胸に触れる。
軍服の、その内側。
中身は数枚の便箋と──飾り紐が一本。
納棺の直前、望まれた完璧を貫いた花沢少尉の肋骨服から装飾が足りなくなっていたこと、気づいた人間はいただろうか。
稚拙な悪戯だったと我ながら思ったが、それくらいしかできなかった。
双眼鏡を、仕舞い込む。
「まずは……造反組だな」
「──────、」
はっと。
顔を上げる。
──いつの間にか、寝てしまっていたようだった。とっさに辺りを見回したが、周囲の風景に変わった様子はない。
先ほどまでと同じ、北海道行きの船の中。眠っていたのは、ほんの短い間だったらしい。
「…………」
昔の夢を見た。
自身の手を、じっと見つめる。──ここはあの呑み屋街でも、遊郭でも、203高地でもない。既に過ぎ去った場所であり、永久に戻らぬもの。
右肩が温かい。
隣の彼女が、ややこちらにもたれかかるような姿勢で窓の外を眺めていた。
俺がうつらうつらしていたことなど、全く気づいていない様子だった。彫像じみたその横顔。ここではないどこかを熱心に見据える、底のない瞳。冷たい闇。
鶴見中尉の目であり──あの悪霊の目だった。
──お前はずっと、そんな目をしていたのか。
気づかなかった。……気づけなかった。ずっと、目を逸らしていたから。
あれは確かに悪霊などではなかった。お前は最初から、俺を守ってくれていたのだな。
それから、癖のない黒鳶色を今まで通りに束ねる黒紐を見る。──守ってやってくれ。お前を救えなかった俺がこんなことを頼むのは、あまりに虫が良すぎるかもしれないけれど。
飾り紐を、そっと撫でる。
──……うん。大丈夫だ、
さすがに意識が向いたのか、彼女がこちらを振り返った。不思議そうな表情。指の背を頬に滑らせると、こそばゆそうに目を細めた。
今になってようやく、少しだけわかった気がする。
この旅で、自身が何をすべきだったのか。
大丈夫。随分と、遠回りをしてしまったような気がするけれど。
お前の優しさも、悲しみも、兄が無駄にはしないから。
「……ああ、」
勇作。
たったひとりの弟だものな。