【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

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47話 世界線の収束(feat. 宇佐美時重)

 ──札幌の夕空に、爪の切り屑のような月が浮かんでいる。

 

「あんた、一体何がしたいんだ?」

 

 背後に佇んでいた人影が、おもむろにそんな言葉を投げかけてきた。長い黒髪が衣服に擦れる微かな音。振り返って、黄昏色に浮かぶ巨大なその気配を見上げる。

 吹き玉売り。ただ、その服装は正しくこの男を表すものではない。これは目的のための単なる目眩しでしかない。

 海賊房太郎──元より、不死身の杉元なんかが利害の一致でつるんでいるような相手に特別興味がある訳ではなかった。ただ。

 ──海賊には気をつけろ。

 そんな白石由竹の言葉が脳裏を過ぎる。まさしく同じ穴の狢であるところの白石がそれを言うのかと思った(実際口にした)が、彼は「タマちゃんが心配なんだよ」と続けた。少なくとも、彼女のことに関してはある程度の信頼を置かれているらしかった。

 彼女が、今さら突然現れた男の甘言に惑わされるようなことがあるとも思えなかったが。

 まあ、そんなことはどうでも良い。対面の男は無言の返答に腹を立てたふうもなく、へらへら笑いを浮かべたまま、

 

「第七師団の脱走兵なんだって?」

 

 それなら有古や谷垣もだ。

 内心だけで反駁する。

 

「金が欲しいのか? あんたみたいなのがわざわざこんな争奪戦に加わる理由がわからないな。……まさか、土方歳三が語る蝦夷共和国とやらに期待してる訳じゃないだろう?」

 

 黙って、その目を見返す。

 何か口先の誤魔化しを言ってやる気にもなれなかった。口を開けば開くほど不愉快な気分にさせられるだろうという確信があった。

 このままでは平行線だと思ったのか。

 

「俺はさ。昔、14人もいた家族をみんな疱瘡で亡くしたんだ」

 

 やや小首を傾げるようにして。海賊が、淡々とそう囁いた。大の男を容易に見下ろせる巨体の癖に、下方から顔色を窺われているような錯覚を覚える。

 

「嘘じゃないぜ。俺は嘘つきは嫌いだ」

 

 嘘。──嘘ばかりだ、とふと思った。

 衰弱死と偽られた母。

 自害と偽られた父。

 病死と偽られた弟。

 そして。彼女の横顔を思い浮かべる。

 真実はどこにいったのだろう?

 

「……家族っていいよな。血が繋がってるかどうかなんて関係ない。自分とそうあろうとしてくれる人間がいるっていうのは、とても尊いことだと思うんだよ」

 

 何が言いたいのか。

 自然に浮かんだその一言を、落ち着いて飲み込んだ。

 やけに持って回った言い方をする男だと思った。幸いにというべきか、そういう喋り方を好む男の心理については嫌というほどよく知っているつもりだった。

 相手をしないことが最適解。

 しかし、思うところがない訳ではなかった。喪失を知らぬだけの馬鹿者だと思われるのは我慢ならなかった。喪ってから気づくのでは遅い。そんなことはわかっている。

 拳に、力が篭る、

 

「……俺も“家族”を殺された」

 

 ──だからこそ、ここで“終わったこと”になどさせてやるものか。

 薫る硝煙を手向けの焼香としよう。真っ赤な花を餞に送ろう。今度こそ、本物の葬式を執り仕切ってみせよう。

 

「ケリをつけなきゃならん」

 

 誰も真実を知らないのだから。

 俺がやらなければ。

 そうでなくては、何もかもが無かったことになってしまう。無駄になってしまう。

 それではいけないのだ。

 これ以上、無益なお喋りを続けてやるつもりはなかった。踵を返す。

 

「へえ」

 

 その背中に放られる、

 

「それって、今自分の隣にいてくれる家族と過ごす時間より大切なことなのかなあ」

 

 背後から、頭蓋の真ん中を撃ち抜かれたような錯覚。

 半ば反射的に振り返っていた。

 肩越しに見据える海賊は、変わらぬ微笑を湛えてこちらを観察している。

 

「あの人はあんたとずっと一緒に居たいだけじゃないのか?」

 

 吹き抜けた夜風が、物の怪の類かというほど長い黒髪を靡かせている。

 

「…………」

 

 無言で、刳り抜かれた空洞のようなその瞳孔を見返す。

 次に浮かんできたのは怒りでも、悲しみでもなく。そこには既に、微かな驚愕が残滓として漂っているだけだった。漠然とした気怠い虚無感だけが広がっていた。

 彼女の願いとは。

 もはや、それは湿った期待の入り込む余地などない問いだった。

 

「……あいつも……」

 

 ──あなたがここで何か成し遂げたいことがあるというなら、最後まで見守るよ。

 今になって思う。

 それは別に、こちらに寄り添いたいがための発言ではなかったのだ、という気がしていた。手段と目的。もしかすると彼女は、最初から。

 尾形百之助の選択。

 小瓶に捕まえた羽虫を詰め込んでその末路を眺める子供は、傍目から見ればそれを愛している──と呼べなくもない、のかもしれない。興味と愛情の違いは、どこにあるのだろう。

 ずっと一緒に居たいだけ。

 その拙い祈りに何もかもを委ねるにはきっと、俺たちは遠くまで来すぎてしまったのだろう。

 ──彼女も、これまでの全てに決着がつくことを望んでいるのではないか。

 そう思っていたいだけなのかもしれなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 娼婦殺害事件の犯人探し、その最終日。

 最後のピースは、日没直前に、命からがら宇佐美から逃げ出してきた石川啄木によって持ち込まれた。

 ホワイトチャペルとよく似た札幌の街。犯人はその犯行現場までもを再現しようとしていたのだ。ロンドンでの凶行と照らし合わせた結果、導き出された5人目の犯行現場は。

 ──札幌麦酒(ビール)工場。

 

 

「4人から3人一組の部隊を作り、工場周辺に散らばって犯人を待つ」

 

 急遽立てられたビール工場での炙り出し作戦。土方歳三の提案により、戦力を分散して犯人の確保に乗り出すこととなった。

 街娼に扮した囮役、囮を守って犯人を斃す仕留め役、他の部隊に犯人の出現を報せる合図役。合図の手法として、それぞれに二寸五分玉の花火筒が配られた。

 部隊は、4つ。

 杉元組、土方組、牛山組、都丹組。

 

「夏太郎、タマ、門倉、海賊が“街娼役”、永倉、シライシ、キラウㇱ、有古が“合図役”、土方、杉元、都丹、牛山が“仕留め役”」

 

 原作と違い、俺と尾形が加わった都合上、中途半端にあぶれてしまう者が出るが。

 何かと動かしやすいこの三役一組の配分を変えるという発想は、土方の中には生まれなかったようだった。

 

「アシㇼパと尾形はそれぞれの部隊で補佐に入れ」

 

 アシㇼパはもちろん俺を含めた杉元組、尾形は戦力を考えて牛山組に割り振られている。キラウㇱ門倉はニコイチでようやく一人前扱いらしいので、まあ妥当。

 

「…………」

 

 牛山の隣で髪を撫でつける尾形の横顔を、そっと盗み見る。……彼と離れてしまうことも、それなりに想定のうちだった。

 怪しむ怪しまない以前に、同じ場所に鉄砲撃ちを2人並べても仕方がない。戦力はある程度均等に分散させなければ意味がない。

 しかし、同じく囮役に抜擢された夏太郎には、この采配に思うところがあったらしい。

 

「タマさんだけ本物の女性ですけど大丈夫なんですか?」

「まあ、どちらにせよこんな夜更けに1人でいるような女は娼婦と思われるだろうし……」

「合図役にしたところで、万が一にも囮を無視してそちらに行かれたら本末転倒だ」

 

 正論土方。じゃあクソデカ房太郎を街娼役に起用したのは何だったんだよ。

 土方歳三が買ってくれたきり箪笥の肥やしと化していた化粧道具で、白石が俺の顔を彩ってくれる。他が紅を引いただけの3秒女装なのに対し(やらなくてよくない?)、俺はわざわざ白粉まではたく徹底ぶり。いや、そもそもこの化粧やらなくてよくない?

 

「ウーン、やっぱりタマちゃんとびきりの美人だねえ、囮役の中でもイチバン!」

「男と比べるな」

 

 いや単に男っていうか……髭とオッさんと水棲ゴリラと比べられても……

 

 

 

 

 そして。

 いざ、作戦開始となったはいいが。

 

「……来ないな……」

 

 待ちぼうけを始めて早十数分。道端で佇む俺の周りでは閑古鳥が鳴いている。

 あれ、おかしいな。原作では白石のプリケツに惹かれたスケベな男が、少なくとも1人は釣れていたはずだったけれど。

 俺のケツは白石以下か?

 

「…………」

 

 ──尾形。

 爪の切り屑みたいな月を見上げながら、ぼんやり思う。大丈夫だろうか。

 同じチームは門倉キラウㇱ牛山だから、少なくともここにいるよりはやりやすいだろうけれど。そこまで考えて……牛山組。

 宇佐美時重と遭遇する部隊だ。

 尾形百之助が殺す宇佐美と。

 

 ──……まだ、足りない、

 

 尾形は1人にならなかった。ビール工場での作戦に組み込まれた。けれど、まだ足りない。もっと、相違点を積み上げなければ。

 最終的にどう転ぶかなんてわからない。けれど、俺がかつて尾形トメの、ウイルクの殺害を阻止したこと自体は、決して無駄ではなかったはずなのだ。それが今、この状況に繋がってきた。

 少しでも変われば、それを起点に今後の流れも変わるかもしれない。

 油断はできない。

 殺人だ。

 やはり、殺人が分岐点なのだ。このビール工場で尾形は宇佐美を殺す。ただ、そのきっかけ自体は偶然の産物だ。

 防ぎようはある。

 はず、なのだ、

 

 ──ドォン。

 

 ぱあっと、周囲が明るくなった。

 とっさに顔を上げる。

 見上げた夜空に月はもう見えない。閃光の花びらがぱらぱらと散っている。

 

「……上がった、」

 

 背後で、アシㇼパの呟きが聞こえた。

 違う。

 これはキラウㇱの誤発で、

 

「行くぞ!」

 

 俺の隣を、杉元佐一が駆け抜けていく。続いて小さな影。アシㇼパだった。

 

「邪魔する奴は全員ぶっ飛ばすッ! ジャックの皮は俺が引っ剥がしてやる!!」

 

 ──追いかけなければ。

 ほっかむりを放り投げ、囮用の派手な打ち掛けを脱ぎ捨てる。中に着ていた小紋自体は普段と同じ、襷を掛けて裾を膝下まで詰めたものだ。そのままでは走れない。

 

「花火が上がった位置は“牛山組”の持ち場だ!」

 

 ワンテンポ遅れて後を追う白石が叫ぶ。

 尾形は今何をしている?

 諸々を鑑みれば、既に宇佐美を撃っていても不思議ではないのでは?

 あるいは、彼自身が。

 ──考えるな、

 

「急げッ、門倉とキラウㇱが頼りねえから犯人を逃すかもしれねえ!」

 

 角を曲がった先、

 

「杉元ニㇱパ!」

 

 キラウㇱと出会った。──1人だ。牛山と門倉がいないのは原作通りだ。でも。

 

「牛山たちは?」

「工場の中だ!」

 

 建物の外壁、1箇所だけ割れた窓ガラスを指差して、キラウㇱが叫ぶ。牛山はやはり工場に逃げた。では、彼は?

 

「尾形は!?」

 

 俺の呼びかけに、キラウㇱが強張った表情のまま首を横に振る。

 

「わ、わからない……俺がはっきり見たのは牛山ニㇱパだけだ……」

 

 わからない。どこに行ったのか。

 宇佐美を追いかけた。

 牛山についていった。

 どちらも有り得るし、どちらでもない可能性もまた、有り得るものだった。

 

「…………」

 

 ──今、ここで、俺が単独で尾形百之助を探しに行くことは許されるのか?

 汗がこめかみを伝う。

 拳を、強く握り込む。

 

「あっタマちゃんッ」

「タマ!」

 

 否。

 ……目の前に都合の良い可能性があるのなら、そちらに賭けてみるしかない。

 キラウㇱに背を向けて、割れたガラスから中に飛び込んだ。

 

「…………」

 

 暗い──が、問題ない。

 アルコールの匂い。立ち並ぶ樽の合間から複数人の気配がする。杉元たちだけではない。既に第七師団の面々が潜んでいる。

 歩みを進めていく。

 杉元とアシㇼパはどこだろう。

 ……足音が、近づいてくる。

 立ち止まって、その接近を待つ。ビール樽の影から出てきたのは、

 

「──────、」

 

 小銃を構えた月島軍曹。

 至近距離、とっさにこちらへ向けられたその銃身へ手を伸ばす。

 銃声は、しない。

 彼に向かって突き出した俺の指先。その間で鈍く煌めく黒鉄の筒──銃のボルト。月島が目を瞠った。それと同時に、斜向かいから飛び出してくる鯉登。

 

「うぐッ」

 

 その顔面目掛けて、力一杯ボルトを投げつけた。一瞬怯んだ隙をついて、

 

「Барчонок!」

「キエエッ尾形ぁあッ」

 

 捨て台詞とともに逃走する。幸い、不意打ちだけは上手くいった。しかし、銃を持っていても、俺が正面切ってこの2人とやり合うのは不可能だ。

 鯉登の猿叫を背に、ビール樽を駆け上がる。高所ならあるいは、と思ったが、今のところ誰の姿も見当たらない。

 ここで時間を取られる訳にはいかない。尾形がいないのなら、早くアシㇼパを連れて別の場所に移動しなければ。

 

「杉元ォ!!」

 

 二階堂の咆哮。

 眼下がにわかに騒がしくなる。

 そのタイミングで、向かいの樽の上に登ってくる人影が見えた。……菊田杢太郎。

 しまった。今降りてもビールの洪水に巻き込まれる──思った瞬間、対面の立ち姿が大きく揺らいだ。轟音。振動。

 間もなく決壊したビールの水音と、激しいアルコール臭が漂ってくる。

 

「アシㇼパ、」

 

 洪水を免れたはずの彼女はどこだ。

 振り落とされた菊田も見えない。

 慌てて樽の上を飛び移りながらあちこち探したが、姿が見当たらない。クソ、

 

「俺が見失ってどうする……!」

 

 どっちみち、菊田に確保されたアシㇼパはここでは自力で逃げ出す。それはわかっている。けれど。でも、

 

「どこだ、」

 

 とにかく、ここから出なくては。樽から飛び降りて、出口を目指す。

 観音扉まで辿り着いたところで、2人を見つけられた。出たばかりの位置で、両手を挙げた菊田に向けて和弓を構えるアシㇼパ。扉に隠れて様子を窺う。

 

「…………」

 

 どうすればいい。既に事は煮詰まってしまった。一旦はこのまま放っておくべきか。このタイミングで俺が手出しをして何か好転するのか?

 そこで、アシㇼパの背後から彼女に近づく人影に気づく。息が止まりそうになった。アシㇼパが捕まりそうだからではない。

 坊主頭に軍服の、その姿。

 ──宇佐美時重。

 息を呑む。

 そして、半自動的に脳内へポップアップしてくる思考。

 ……これは、願ってもないチャンスなのではないか?

 

「……ッ、」

 

 考えていたこと。

 尾形には、宇佐美のみを積極的に殺害しに行く動機までは存在しないはずだ。

 だから。

 ──もうひとつの選択肢。

 ゆっくり銃口を持ち上げる。照準、問題なし。この距離なら間違いなく撃ち抜ける。

 ここまで取っておいた禁忌(タブー)を。

 パンドラの匣を。

 彼に見られなければ、何も問題はないはずなんだ。一度だけ。この一度だけだから。

 引き鉄に、指を掛ける。

 俺が、宇佐美時重を、

 

「──嬢ちゃん逃げろッ!!」

 

 その時。

 何かが、建物の影から飛び出してきた。宇佐美の腰の辺りにぶつかって、彼が体勢を崩す。花柄の着物を羽織った、小太りの人影。

 

「あんたが捕まったら一番困る!!」

 

 門倉だった。

 そうだ、このタイミングで。

 捨て身の援護を受けた賢いアシㇼパは、脱兎の如くその場から逃げ出す。

 

「チ、」

 

 銃口を上げる。あっという間に混戦状態になってしまった。この状況では撃てない。

 とにかく、宇佐美を追いかけないと。

 その一心で、考えなしに物陰から飛び出したのが良くなかったのだろうか。

 

「おっと、」

「……!」

 

 今の今までアシㇼパに気を取られていたはずの菊田が、機敏に反応して。抜いたナガンの銃口を向けてくる。しまった。とっさに急ブレーキをかけて、その場に留まる。

 

「迷い込んできた娼婦……って訳でもなさそうだな」

「…………」

 

 こちらの動向を警戒しつつも、その口ぶりにはまだ余裕が窺える。……忌々しい。

 こんな奴に構っている場合じゃない。

 一撃で、決めなければ。

 

「参ったな……アイヌでもなさそうな若いお嬢さんまで巻き込んで何やってん、」

「撃たないのか?」

 

 遮って放たれた問いかけに。

 菊田が、口をつぐむ。

 

「その判断が命取りだ」

 

 後悔するなよ、

 

「なに、」

「地獄で戦死した弟が待っているぞ、菊田杢太郎」

 

 瞬間。──僅かながら確かに、その目を瞠ったのが見えた。照準がぶれる。ナガンを握る手が微かに緩む、

 

「……どうしてそれを」

 

 ──だから、その判断が命取りだと言っただろう?

 既に安全装置が解除された三十年式の銃口を持ち上げて。引き鉄を、引いた。

 脛を撃ち抜かれた菊田が、膝からその場に崩折れた。

 

「ッ、クソ、」

 

 完全に隙をつかれた代償は重く、彼は大事なナガンまで取り落としたらしい。それで、じゅうぶんな時間稼ぎになった。

 ああ。それでいい。自分に言い聞かせるように、内心で呟く。彼を殺す理由は俺には存在しない。

 ややあって背後から放たれた銃弾は、明後日の方向へ飛んでいった。

 走る。……どこに向かって?

 

「尾形……」

 

 朦朧と、彼の名前を呼ぶ。

 乾いた笑みが溢れる。

 探さなければ。

 そして、成功させるのだ。今度こそ、何もかもを“大丈夫”にしてみせるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──燐寸の頼りない灯りに照らされたその横顔を目にした瞬間、思わず呟いていた。

 

「宇佐美」

 

 わかっていたことではあったが、第七師団もこの捜査に乗り出していたのか。まさかそれが囮にかかるとは思わなかったが。

 ただ、その一瞬のうちに。

 より近い位置に潜んでいた不敗の牛山が、ヤツに掴みかかっていた。それでもう、手出し不要の取っ組み合いが始まってしまう。

 

「……今は撃てんな」

 

 牛山に当たる。

 まさか、こんなにも早く機会が巡ってくるとは思っていなかったが。急いては事を仕損ずる、だ。一旦、銃口を引く。

 その瞬間。

 すぐそばで、激しい炸裂音。銃声より朗らかなその響きは、土方から与えられた、

 

「あいつは犯人じゃないだろうが」

 

 夜空に咲く大輪の花に、呟く。

 ほんの一瞬、周囲が真昼の如く明るくなった。

 非常事態と見てキラウㇱが独断で打ち上げたのか。これが吉と出るか凶と出るか。

 

「おい門倉! こいつがまさかジャック・ザ・リッパーじゃねえよな!?」

「そいつは鶴見中尉の手下だ! やっちまえ!」

 

 門倉が高らかに叫ぶ。

 しかし──ひとまずは、凶と出たようだ。

 迫ってくる鶴見中尉の腹心たちに、踏み出しかけた足を引っ込める。敵味方入り混じっている中で、この人数は分が悪すぎる。

 結局、牛山は囮として宇佐美を放り投げ、その隙に工場の中へ逃げ込んだ。

 鯉登や月島がその後を追う中、なぜか宇佐美は門倉を追いかけていく。どういう訳だと少し考えて。

 

「……まさか……土方歳三は、門倉に刺青人皮を持たせているのか?」

 

 鶴見中尉並みに用心深いあの男のことだ。それくらいはやりかねん。

 

「まあ、それならそれでやりやすい」

 

 上手いこと二手に分かれてくれた。こうなればあちらを追いかければいいだけだ。

 三十年式を抱えて、飛び出した、

 

「ッ、」

 

 ──その足元を掠める銃弾。

 とっさに蜻蛉返りで暗闇に飛び込む。撃たれた。どこから。そこで、ふと。

 

「……ヴァシリ・パヴリチェンコ……」

 

 来たか。ここまで。

 花火のせいで居場所を悟られたらしい。

 とっさに浮かんできた感情は──やはり、だった。“手練れの狙撃手”ならば、かつての自身であれば、そうするであろうという確信があった。

 

「後で相手してやる」

 

 暗闇伝いに、宇佐美たちが逃げた方角へ足を進める。独り言ちながら、考える。

 ──良い狙撃手とは。

 ──憎しみに駆られて銃の引き鉄に指を掛けない者。

 ──冷血で、獲物の追跡と殺人に強い興味のある、慎重な臆病者。

 ゆえに。

 

「俺はもはや狙撃手ではない、」

 

 淡々と、事実として受け止める。

 仲間の死を悼む間も惜しんで日本にやってきたヴァシリ。今まさに、激情を燃料に銃を撃とうとしている自身。それなりに頑張ってはみたつもりだったが、はなから向いていなかったのかもしれないな、と自嘲する。

 銃は単なる手段でしかなかった。

 ──けれど、そこに誇りがなかった訳ではなかった。願いがなかった訳ではなかった。

 積み重ねてきた10余年は、最後に特大の鷹を産んだ。悪い気分ではなかった。

 

「まあ、しかし……引退したつもりだったが、期間限定で復活だな」

 

 これも、自分でつけるべき“ケリ”のひとつだ。

 ああ、けれど。三十年式を構える腕に力を込めながら、思う。

 狙撃手として生きて死ぬ道も、きっとそうそう悪いもんじゃなかったはずさ。

 

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