【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について 作:捕まえようとした蝶
──兵営にいた頃、雑談の種が尽きると、宇佐美はよく故郷の話をした。
曰く、新潟の生まれらしかった。「月島軍曹と同じ」と言ったら少し嫌な顔をしていたが、「俺は茨城出身だ」と付け加えたら、じゃあまるっきり反対だ、と笑っていた。
正反対。宇佐美の昔話の半分は鶴見中尉との思い出だったが、もう半分は自身の家族のことだった。
実家はそれなりに大きな稲作農家だった。でも、白米を食べられるようになったのは軍に入ってからだと言っていた。新潟は日本一の米どころなのだと誇らしげにしていた。
力自慢の父と、家族想いの母。快活な姉と、やんちゃな弟と、幼い妹がいた。馴染みのない俺の脳裏にもはっきり情景が思い浮かぶくらい、詳細に、朗らかに彼らの話をした。
宇佐美はこちらが妾の子だと最初から知っていたから、嫌味の一環で言っているのかと思ったこともあった。でもきっと、そうではなかったのだ。
戦場で兵士が抱く罪悪感。
犬と、羊。
生まれながらにして欠けた人間。
俺は、宇佐美時重にはなれない。
ダンッ。
短い銃声が鳴り響いた。
脇腹に咲く赤い花──宇佐美時重が、驚愕の眼差しでこちらを見下ろしていた。
「……よくも勇作を」
鉄の味がする。
敗北の味であり、勝利の味でもあった。切れた唇に咥えた弾薬の冷たさが、まだ舌に残っていた。
途端。情けなく尻をついた奴の呆気に取られた表情に、微かな笑みが乗った。
「勇作殿を殺したのは僕じゃない」
思い出すたび腹が立つから、お前には言っていなかったけど。
お互いに向かって必死に走るホクロの刺青たち。永遠に縮まらない距離。その間で、唇が弧を描く。
「本当は────」
小銃を抱えて、敷地内をひた走る。
宇佐美時重を見つけなければ。
そして、殺さなければ。
尾形百之助より早く。
そうして成し遂げるのだ、
「……はっ、……は、ッ……」
その時。
──ガシャン。
どこかで、窓ガラスが割れる音がした。
とっさに顔を上げる。
「……マイケル・オストログ……」
──猛烈に、嫌な予感がした。
待て。……そもそも宇佐美は、一度尾形から逃げ出せていたのではなかったか?
汗が、滲む。
尾形は彼を見失った。
でも、再び見つけるのだ。
杉元佐一の怒りを買い、窓ガラスを突き破ったマイケル・オストログ。その音に意識を引かれて、偶然にも。
わざわざ宇佐美を探す必要は最初からなかった。俺はただ、マイケルをアシㇼパたちより先に見つけて殺せば良かっただけで、
「っ、」
背後から微かに蹄の音。
近づいてくる。──殺す。殺さなきゃ、
まだ。俺は。
三十年式を構えるより、早く。
──シュパァアッ。
宇佐美の左胸から、赤が噴き出して。馬上の体が大きく揺らいだ。
あ。
「ぁ────」
心臓を、一撃。──稀代の狙撃手が、左撃ちで、宇佐美時重を仕留めた。
もう、遅い。
膝から力が抜けた。
その場にへたり込んで、鶴見劇場を観客席の外からぼうっと流し見る。
「…………」
間に合わなかった。
尾形は、宇佐美を殺してしまった。
原作通りに。寸分違わず。
宇佐美時重の死が、尾形百之助を狙撃手として完成させた。
最後の分岐を変えることはできなかった。ならば、この列車はもはや終点まで、?
……尾形、
「…………尾形……」
そうだ。
──彼のところに、行かなければ。
膝から、半ば強引に立ち上がる。
行って──行って、どうすればいい?
絶対に避けなければいけない事態が起こってしまった。ここに来て。
俺は何をすればいい?
考えるな。
……弾はどこから飛んできた? ふらふらと、糸に引き摺られるように歩を進める。
大丈夫。
大丈夫……にしないと。俺が。
俺しかいないのだから。
そこでふと、気づく。
「……尾形、」
尾形百之助が、少し離れた建物から出てくるところだった。一瞬、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。
──それを、俺以外にも見ていた人間が一人いた。
軍帽、コートに身を包んだ若そうな男。小銃を持っていた。──第七師団。
息を呑んだ。
尾形はまだ気づかない。
どうして。男が、銃身を構える。駄目だ。このままだと。スリングに手を掛ける。
引き鉄に指が、
「あっ」
────ぱん。
思ったより軽い音が鳴った。
男がいきなり体勢を崩す。頭から勢いよく突き飛ばされたみたいに。それで、うつ伏せに地面へ倒れた。痛そうな音が鳴った。
動かなくなった。
あれ。
腕が、重い。ふらついて、尻餅をついてしまった。そこで何気なく目を落として。
──硝煙が燻る三十年式。
「──────、」
俺が撃った?
「タマ、」
俺に気づいたらしい尾形が、こちらに駆け寄ってくる。
男から目を離せない。
びくともしない。
ってことは。
「……死んだ?」
死んだ。頭に当たった。
「死んだよな、」
後ろから眉間を撃ち抜かれて生きてる人間がいる訳がない。
俺の呟きに、尾形が背後を振り返る。男が動く気配はない。救急車。病院。もう無駄だ。即死。その二文字が踊る。
「……頭だった……死んでる」
彼が厳かに呟いた。
まあ。そりゃそうか。
そうだよな。
手が、肩に触れてくる。
「悪い……大丈夫か」
いや、そうじゃなくて。
死んだ。
殺してしまった。
俺が。尾形百之助の目の前で。
今になって。フラッシュバックが、脳裏で花火のように爆ぜては消えていく。
──何故だ? 手を汚したくなかったからか?
ここまで頑張ってきたのに。
意味がなかった?
──お前がこの銃で人を殺すところを見てみたい、
俺は清い人間などではない。
でも、どうしてもその建前が必要だった。ぶち撒けた水は二度と盆には返らない。崩壊した建前はもはや机上の空論でしかない。
死んだ人間は生き返らない。
焦りが、風船のように膨れていく。
駄目だ。
このままじゃ何もかも台無しになる、
「……アシㇼパのところに行かないと」
立ち上がる。
それはまさしく、閃光のようなひらめきだった。輝きに突き動かされて、足を動かす。
「……は、?」
「鶴見中尉から取り返さないと」
「捕まったのか」
小走りでついてくる気配がする。
暗号の解き方。鶴見中尉が知らなければいいのだ。その前に引き離せればいい。金塊がどこにあるのか、俺は既に知っている。
誰よりも早く、終わりに辿り着ける。
それしかない。
「誰から聞いた? お前が見たのか?」
「ソフィアも……海賊房太郎は死に、杉元佐一と白石由竹では間に合わない、」
「っ、」
尾形は、今度はすぐに言い返してはこなかった。半開きの口から細く息が漏れる。恐る恐るといったふうで手首を掴んでくる。
視線を動かす。目が合う。
「…………」
眉を下げた、戸惑いの表情。
彼が慎重に唇を動かす。
「お前……さっきから何を言ってるんだ?」
頭の中で。
ばらばらと、コミックの頁が捲られている。早送りのように脳裏をコマが過ぎ去っていく。25巻、26巻、27巻。覚えている。端にこぼしたコーヒーの染みの形さえ。
札幌麦酒宣伝車追跡劇。
海賊房太郎こと大沢房太郎。
小樽の病院で見た女、
「そういうことになってるんだ!!」
だから。
彼の手を振りほどく。
「っ、」
走り出す。向かわなければ。
あの教会に。
「このままじゃ何も変わらないッ、」
どこかで帳尻を合わせないと。
俺はあと、どれとどれを壊せばいい?
何を変えれば未来が変わる?
なんでもいい、
「──タマ!」
でないと、
「行くな、────勇作ッ!」
──勇作。
この場で放たれるはずのないその名に、とっさに足が止まった。振り返る。戸惑いに焦りが一瞬、塗り潰される。
「…………?、……」
振り返ったその先。
尾形は、その場にただ立ち尽くしていた。
彼らしくもない、呆気に取られたような表情。握りしめられる拳が微かに震えている。
「……お前の、」
肩を上下させる合間に、彼が身体の奥底から絞り出すように、言葉を紡ぐ。
困惑、焦燥、悲壮。強張った茫然自失の下に渦巻く、色とりどりの感情が見て取れた。
尾形は困って、焦って──そして、純粋に悲しんでいた。
「お前のことが、……心配なんだ……」
──は。
呼吸が、止まった。
何度目か、聞いたことのある台詞だった。
お前のことが心配なんだ。
……何故?
見て見ぬふりをしていたその匣の蓋が、緩みかかっていた。──否。答えは最初から俺の中にあったじゃないか、
こんな真似はもうやめろ。
それは。
尾形百之助が、
──俺のことを愛しているから?
あ。
ダメだ、
「────う、」
何かが迫り上がってくる。
視界が、歪む、
とっさに口を覆った手の内側から、どんどんあふれる──止まらない、
ぐちゃぐちゃの。
どす黒い。ぶち撒ける。
これは何だっけ?
ひどい気分だ。
気持ち悪い──穢らわしい、悍ましい。見たくもない。必死に抑えて、隠していたはずの。“俺”の中身が、こぼれていく。
あ。ああ。
そうだった、
──夢。
将来の夢は何ですか。
佐藤理玖の夢は、サラリーマンになることだった。小学校も中学校も高校も大学も、全部全部全部そうだった。
たくさん勉強して、良い学校に入って、良い会社に入りたかった。
そのためにたくさん頑張った。どんな辛いことだって耐えられた。
……何故?
──どうしていつもみんなと同じにできないの?
母さん、
──理玖、お前がわからないよ、なんでこんなことをしたんだ?
父さん、
──ちょっと変な子なのよね……
──佐藤お前、頭おかしいよ、
──どうかしてる。
──普通じゃない。
佐々木先生、山田先輩、金井、赤崎。
普通。ふつう。
みんなと同じ、
そうだ。俺はずっと、“普通の人間”になりたかったんだ。
だって、“みんな”が俺をおかしいって言うから。俺はみんなの思う“佐藤理玖”になれなかったから。
映画や漫画や小説をたくさん観た。
興味なんかこれっぽっちも無かったけれど、それでも観た。何かのランキングに入った有名な作品を、片っ端から買って読んだ。
『ゴールデンカムイ』を読んだのも、きっとそんなことが始まりだった。
何年の、何のランキングだったのかは、もう覚えていない。
普通のみんなのことを理解したくて。そういうことを繰り返せば、いつかきっと同じ生き物になれるんだと思っていた。
なれなかった。
誰も俺を理解できない!
故に、俺は俺を否定しない。
誰も俺を理解できないのなら、せめて俺自身くらいは俺を肯定してやりたかった。
だって、そうしないとあんまりつらくて、生きていけないじゃないか。
だから尾形百之助のことが嫌いだった。
彼は“普通”だったから。
何も欠けてなどいないのに、欠けたふりをしていたから。ただ、愛した人から愛されたかっただけの子どもだったから。
憎たらしいと思った。
でも、目が離せなかった。
中途半端な巻数ばかり並んだ本棚の中で、気づけばゴールデンカムイだけはきっちり最終巻まで収まっていた。何度も読み返した。
お前のことが嫌いだったから。
俺はずっと、お前を見ていたよ。
──尾形百之助は、何をどうしたらあの結末を回避できたのだろう?
母を殺し、弟を殺し、父を殺し。
もはや尊属殺人フルコンプ説のある彼の道程は、始まる前から全てが終わっていた。
──尾形百之助は、どの時点で、何をどうすればあの悲劇的な死を回避できるのか?
普通の人間だったのに。
最後の最期までそれに気づけなかった。気づいた時には全てが手遅れだった。
そんなの馬鹿みたいじゃないか。
俺はこんなに“普通”になりたかったのに。そうだ。俺はお前になりたかったんだ。
だから、教えてやりたいと思った。
──……何のために?
たくさん、たくさん人を傷つけたな。
二瓶鉄造、辺見和雄、家永カノ、江渡貝剥製所にやって来た兵士、都丹庵士、彼の仲間たち、月島基、鯉登音之進──そして、ビール工場で出会った第七師団の彼。
人間を傷つけて、殺してなお、それをなかったことにできる“道理”などこの世には存在しない。
その通りだ。
因果応報。地獄に堕ちろ。
──欠けた人間、
俺に罪悪感は存在しない。
欠けた人間だから。
何もかも間違ってるんだ。
そんなことわかってる。俺は正しくなどない。何ひとつ肯定などできない!
正しくなりたい。
正しくなれない。
あああ。
生きているのはつらかったです。
死んでしまいたい。……あ、死ねないんだっけ。不死身だから。
馬鹿らしい。
前世でさっさと死んでおけばよかったんじゃないか? そうすれば温情で来世は普通の人間に生まれ変われたのかもね。
あんなゴミみたいな人生、縋る価値もなかった。
誰の目から見ても正しくなかった。
生きている必要がなかった。
なんでこんなことになっているんだっけ。尾形タマでも、この時代に生きる誰でもない異常者。普通からは程遠いじゃん。
俺は一体何なんだ?
ああもう、尾形百之助のことなんてどうでもいいんだって。気に入らないなんて思ったのが全ての間違いだった。
誰か俺を助けてくれないですか?
全部お前のせいだろうが。
上手くいかない。
上手くいかない。何もかも。
最低の存在。
早く殺してくれよ!
──……尾形百之助、
真面目で優しい子。
違う。考えるな。
俺を愛してくれた、
──違う!
こんなのは正しくない、
俺という異物が取り除かれて初めて“尾形百之助”は完成する。
そうだ。その通りだ。
存在しなかった。
最初から。
──俺を愛さないで。
だって、佐藤理玖はずっと何もしてあげられなかったじゃないか!
お祖父様、お祖母様。
結局、短い手紙しか残してやれなかった。
杉元佐一。白石由竹。アシㇼパ。
アシㇼパを裏切らないでくれと言われた。約束を守ろうとしてくれた。……心配、してくれた。
谷垣、エノノカ、チカパシ、インカㇻマッ、キラウㇱ、牛山、門倉、夏太郎、土方、房太郎──
俺の居場所はここにあった。
全部、俺が壊した。
──どうして?
罪悪感なんてない。
感じられない。
欠けた人間だから!
──お前のことが心配なんだ。
──愛しているから。
……尾形百之助、
あ。ああ。顔を手で覆う。
ごめん。ごめんね。
本当にごめんなさい。
期待に応えられなかった。
あんなに愛してくれたのに。
慈しんで、大切にしてくれたのに。
愛を返してあげられなかった。
──何もかも、俺のせいだ。
……ふと、我に返る。
煉瓦に擦れる手の甲が痛い。空気の抜けたタイヤみたいな自身の呼吸が煩い。壁際で蹲って、頭を抱えていた。
吐き気と頭痛。手足が震える。
視界の焦点が合わない、
「タマ」
声がした。
すぐ隣からだった。
こめかみに食い込んだ指先が、やんわり引き剥がされる。頬に、包み込むように手のひらが添えられる。温かい。顔を上げた。
尾形が、俺を見ている。
柔らかい闇。
尾形百之助が俺を見るその目。いつかの杉元佐一の瞳であり、白石由竹の瞳であり、アシㇼパの瞳だった。
ああ。
どうして、
「……尾形……」
──こんなことはもうやめてしまおう、の一言が、何故言えない?