【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

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49話 きみは宇宙

 肩を貸してくれる尾形に半ば引きずられるようにして、その場を離れる。

 こんな形で彼に迷惑をかけている場合ではないはずなのに。

 わかっているつもりだった。それなのに、今になっても何の現実感もない。踏みしめる地面の感覚すら曖昧で、どこか夢を見ているようでさえあった。

 煙の匂いがする。

 マイケルが苦し紛れに放った火種が、工場の中で燃え広がっているのだろう。上エ地はもう死んだのだろうか。

 ──ドンッ。

 唐突に響いた鈍い轟音に、顔を上げる。

 電信柱に追突した麦酒宣伝車、そこから投げ出された白石と杉元が、再びわたわたと車に乗り込むところだった。

 

「何やっとるんだあいつらは……」

 

 呆れた口調でありつつも、尾形はこれをまたとない好機と見たのだろう。俺を支える腕に力がこもり、歩みが速まる。それにいち早く気づいたのは杉元だった。

 

「あっ!? 尾形!」

「早く乗せろ、こっちはヴァシリ・パヴリチェンコに狙われてる」

 

 ──ヴァシリ。

 何気ないふうで発せられた一言だったが、どきりとする。

 やはり、尾形はこのビール工場でヴァシリから狙われていたのだ。気づいた、ということは、つまり撃たれたということだ。原作同様、幸い大事には至らなかったようだが。

 車内に引っ張り上げられる。

 

「頭巾ちゃんか……」

「というか何なんだこれは」

 

 怪訝そうに見慣れない自動車の内部を見回していた尾形だったが、そこで違和感に気づいたらしい。1人、足りない。

 

「……アシㇼパは?」

 

 控えめな呼びかけに、杉元が唇を噛んで軍帽を引き下げる。代わりに白石が口を開いた。

 

「鶴見中尉に……」

「…………」

 

 述語の欠落した呟き。それでも賢い尾形は即座に事態を飲み込んだようだった。肩に回ったままの腕に、微かに力が篭る。彼は何を思っているのだろう。

 

「タマさん、」

 

 つむじに、張り詰めた声が降ってくる。杉元だった。

 

「何かあったのか」

 

 ……何よりも大切なアシㇼパが最も危機的な状況にあってなお、俺を気遣ってくれるのか。その優しさは、今は痛いだけだった。

 問われた尾形は、すぐには答えなかった。数秒の沈黙があった。それから、

 

「……いや……」

 

 珍しく言い淀んだような口ぶり。

 杉元も、それ以上は追及してこなかった。

 ……足元を、何かが流れている。

 黒い川。何気なくその流れを追っていった先。飛び込んできたその姿に、ぞっと背筋が粟立った。男には稀な長い黒髪、

 

「……海賊房太郎……」

 

 座席にもたれかかる大柄な人影。

 不自然に硬直した手足、青白い顔、血濡れたシャツの胸元──明らかに、死んでいた。

 昨日の今頃には、酒を飲んで、笑って、俺に話しかけてきた男だった。

 広がっていく。素肌をムカデの群れがのたくっているような不快感。俺は最初から知っていた。彼がここで死ぬことを。

 知っていて、何もしなかった。

 ──防げたんじゃないのか?

 彼は死んだ。筋書き通りに。尾形百之助と大沢房太郎、何が違うのだろう。

 視界が歪む。

 俺が、崩れていく、

 

「──────、」

 

 傾いた体を力強く抱きとめられて、はっと我に返った。尾形の腕だった。

 ばらばらになりそうなのを繋ぎ留めるように胴体へ回った腕に、必死にしがみつく。視界に入る手足が震えている。感覚が遠い。

 

「有古イポㇷ゚テだ!」

 

 そんな杉元の声が聞こえても、もう、顔を上げられなかった。抱きしめた熱だけが、今は世界の全てだった。

 

 

 

 

「アシㇼパ、飛び乗れッ」

 

 それから、どれほど経ったのか。いきなり車が大きく揺れた。

 窓から身を乗り出した尾形が叫ぶ。

 ──有古イポㇷ゚テのアシㇼパ奪還計画は、とりあえず無事に成功したらしい。

 脳の表面だけでぼんやり思う。

 俺と尾形という異物が混じっても、何も変わらない。何も。良いことも、……悪いことも?

 アシㇼパがソフィアもろとも隣に転がり込んでくる。銃声。三十年式。

 立て続けに鳴る。今度はもっと軽い。拳銃だ。

 

「イポㇷ゚テが撃たれたッ、杉元止まって!」

「止まるな!! 行け!!」

「アシㇼパちゃん危ない!」

「馬鹿、伏せろッ」

 

 言いながら、尾形の腕が俺の頭を抱き込んでくる。そのすぐ脇を銃弾がすり抜けていく。

 現実味が無い。何もかも。

 映画を観てるみたいだ。

 

「アシㇼパさん頭下げてッ」

「アシㇼパ、行け!!」

 

 ──ドンッ。

 鈍い銃声。イポㇷ゚テ。隣のアシㇼパが叫んだ。

 宣伝車が止まることはない。

 

「っ、」

 

 おもむろに。

 腹に軽い圧迫感を覚えて、目を向ける。アシㇼパが、俺に抱きついていた。そんなわかりやすい接触の感覚すらどこか曖昧に感じる。全身が薄い膜に包まれているようだった。

 震えている。

 傷ついている。悲しんでいる。怯えている。それはわかるのに、何をすればいいのかはわからなかった。手足が動かない。

 こうされるのは初めてではなかった気もする。

 俺は今まで、どうしていたのだっけ。

 微動だにしない俺を訝しんでか、アシㇼパが胸元から顔を上げた。

 

「……タマ……?」

 

 困惑したような、気遣うような声色。何も思えなかった。顔を上げる。窓の外を見る。

 雨が、降っていた。

 

「…………」

 

 がたごとと、宣伝車は揺れながら停車場に向かっている。終着点へ。終焉へと。

 俺たちの旅が、終わろうとしている。

 その先、何が待ち受けているのだろう。

 ……俺はその時、どうすればいいのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──函館山のロシア領事館。 

 海賊房太郎が、最期に白石由竹へ遺したその手がかり。鍵を鶴見中尉が手に入れてしまった以上、もはや我々には一刻の猶予もない。

 ──列車でそこへ向かいながら、車内で刺青人皮の暗号を解く。

 その半ば賭けとも言える方法しか、こちらに活路は残されていない。

 唯一の鼻持ちならない男客をつまみ出し、貸し切り状態になった一等車を丸ごと占領して、暗号を解き始めることとなった。

 とはいえ、主力はウイルクをよく知るアシㇼパと土方歳三くらいなもので、他の人間は賑やかし程度にしかなっていない訳だが。……それはつまり、余裕が生まれたということだ。

 

「少し横になったほうがいい」

 

 隣の彼女に、呼びかける。

 俺が言わなければ、遅かれ早かれ杉元か白石のどちらかが口にしていただろう。それくらいの有様だった。

 あの不可解な恐慌状態からひとまず落ち着いた──というよりは、何かが良くない方向に極まってしまった。そんな印象を受ける佇まい。

 

「ひどい顔色だぞ」

 

 項垂れていたのが、微かに面を上げる。眼球だけが動いて、視線を投げかけてくる。

 

「…………」

 

 崩れた前髪の奥から覗く、不安げとも恨めしげとも取れる陰鬱とした眼差し。とにかく、大人しく従うような気分ではないらしい。

 だからといって、暗号が解けるまでここにただ座らせておくのが良いとも思えなかった。

 

「大丈夫だ、」

 

 血の気のない頬に指を滑らせる。冷たい肌。死人のようだ、とふと思う。

 杉元佐一が無言でこちらを見ている。何かと気に食わない野郎だが、彼女にとっては安心材料のひとつだろう。

 

「杉元も、……アシㇼパもここにいる。何かあればすぐに起こす」

「あれ? ボクは?」

 

 腹の立つ笑顔で視界に入り込んでくる白石由竹を意図的に黙殺しつつ、軽い身体を座席に横たえた。特に抵抗されなかったことに微温い安堵を覚える。

 彼女は少しの間、薄目でこちらの様子を窺っていたようだったが、観念したのかやがて瞼を下ろした。微かな呼吸が聞こえてくる。

 穏やかとは程遠い、強張った寝顔。目を逸らす。立ち上がる。

 三十年式を抱え直す。

 ヴァシリ・パヴリチェンコはまだ付いてきているのだろうか。

 

 

 

 

 扉から露台に出て、双眼鏡を構える。

 丸い視界を流れていく景色。

 ──奴は、俺が麦酒工場を離れたことには勘付いているだろう、という確信があった。

 どこかで決着をつけなければ。

 ……背後から、気配が近づいてきている。扉が開く音がした。視線だけをそちらに向ける。

 

「尾形」

 

 白石由竹が、見慣れた柔らかい微笑を湛えてこちらを見下ろしていた。

 何か言うより早く、

 

「はー……よっこいせっと」

 

 若さの感じられない掛け声とともに少し離れた場所に腰を下ろし、胡座をかく。そのまま唇を尖らせて何もない空間を見つめている。

 何の用だと切り出してやる義理もない。黙っていたところに、前を見据える白石がゆっくりと語り出した。

 

「……ボウタロウな。お前とタマちゃんのことやたら聞きたがったんだぜ」

 

 房太郎。

 死んだ人間の名前がこの男の口から出てきたことに、まず少し驚いた。そんな感傷的なところがあるようには見えなかった。

 それから改めて内容を精査する。

 

「……聞きたがった?」

「ウン。羨ましかったんじゃねえの?」

 

 鬱陶しいちょっかいをかけてくる怪しい男、という認識しかなかったが。そういえば、最期にしたのも「家族」についての会話だったと思い出した。

 ──あの人はあんたとずっと一緒に居たいだけじゃないのか?

 あれはある意味、彼なりの恨み節だったのかもしれない。今になって思う。

 

「家族がみんな疱瘡で死んで。それで、死にきれないほど家族が欲しい……王様になりたいって。ずっとそばに居てくれるやつが欲しかったんだ。お前にとっての、タマちゃんみたいな」

 

 海賊房太郎はこちらのことを知っていた。

 どこまで耳にしたのだろう。どれだけ傷ついても“弟”を見捨てなかった彼女の姿は、男の目にどう映っていたのだろう。

 

「アイツ……すっごい寂しがり屋だったんだよ。でも、それだけだったのにな」

 

 白石は落ち着いていて、悲しんでいた。海賊房太郎という男が迎えた死への葬いがそこにはあった。

 

「本当の家族が全員いなくなっても、寂しくないと思えるようなことがあれば良かったのかもな……」

 

 空を見つめながら、振り絞るようにそう呟いてみせる。

 何度もその機会はあったはずなのに。大事に温めすぎてとうに腐ってしまった願いなんか捨てて、やり直せたはずなのに。

 叶わぬ理想に生き、理想に死んだ。

 それは、

 

「…………」

 

 目を逸らす。

 白石にこちらを気にした様子はない。最初からただ吐き出す場所を探していたのかもしれなかった。目を閉じて、呟く。

 

「ま。寺で育った捨て子の俺にゃ、よくわからなかったけどよ」

 

 申し訳程度に、何気ないふうで付け足された吸湿剤。はたと顔を上げる。脱獄王と呼ばれた男の、その出自。

 両親のいない捨て子。

 その発言の本質はそこにはない。

 わかっている。それでも、引っ掛からずにはおれなかった。欠けた人間、

 

「…………愛のない両親の間に生まれた子どもは、何かが欠けているのでは?」

 

 ずっと掌で包んで、大事に温めていたはずのものだった。いつの間にか、随分と遠くに感じていた。それでも口に出す。

 呆気に取られた表情の白石が目を瞬いたのが見えた。

 

「え?」

「両親がお前を捨てていなければ、お前は網走監獄になど入ることなく、満たされた人生を送れたのではないか?」

 

 初めから祝福された人間であれば、刺青囚人としてこんな争いに巻き込まれることもなかったのでは?

 両親が自分を見捨てなければ。

 愛されて育つことが出来たならば。

 白石はまだ黙っている。

 

「…………、そんなの……」

 

 やがて、両手を坊主頭の後ろで組み。気の抜けた仕草で、空を仰いだ。

 そうして、

 

「考えたこともなかったなァ」

 

 白石由竹は。

 きっぱりと、何でもないことのようにそう言い放った。

 

「──────、」

 

 二の句が継げない俺の前で、垂れ目がちの瞳を穏やかに細めて。

 

「尾形ちゃんってさ。とっても真面目で寂しがり屋なのね」

 

 真面目な寂しがり屋。

 お世辞にも褒め言葉とは呼べない形容詞だったが、嫌な気分にはならなかった。落ち着いた気持ちでそれを受け止める。

 その間にも、白石は与えられた仮定条件に思考が引っ張られたのか、ううんと軽い調子で唸って。

 

「何か変わったかもしれないし。変わらなかったかもしれねえな。でも、結局のところ俺は俺だよ。やりたいようにやるさ……」

 

 気取っているようには見えない、いっそ淡々とした口調だった。羨望も、嫌悪も入り込む余地がない。自然体の、柔らかい無関心だけがそこにはあった。

 

「どう生まれたかでひとの見る目を変えるなんて馬鹿らしいぜ。あのアシㇼパちゃんだって生まれてスグ母ちゃんを亡くしてるし。タマちゃんも捨て子だった。でも、だから何だって話だろ?」

 

 馬鹿らしい──馬鹿げている。

 自らに投げかけ続けていた問いに、解答がもうひとつ増えた。遥か昔に与えられた最初の答えと、全く同じ形をしていた。

 そんな問いは馬鹿げているのだ。

 ああ、

 

「……そうか」

 

 きつく握りしめたままだった拳が開いて。陽の光に照らされた掌の上にはもう、何もなかった。

 隣の白石は穏やかに笑っている。

 

「しかし、まあ。お前、ずっとそんなこと考えてたんだな」

 

 胡座に頬杖をついていた彼が、ゆっくり立ち上がった。こちらに背を向ける。

 

「でも……聞けて良かったぜ」

 

 彼とこうして話すのは、これが初めてだった。それを今になって意識する。

 彼女は確かに白石由竹という男に一定の信頼を置いていたようだった。その理由が、何となく理解できたような気もした。

 そこで、扉を開けてまさに車内へ戻ろうとしていた彼が、おもむろに足を止める。

 

「……そういや、結局」

 

 肩越しにこちらを振り返り。問いかけてくる。

 

「お前の夢は何だったんだ?」

 

 一昨日の晩。

 酒の席で海賊房太郎に投げかけられて、聞かなかったふりをしたその質問。少し考えて、

 

「第七師団長」

「エ」

「……だった」

 

 遅れて付け足されたその三文字に、強張った表情が温かく解ける。それを黙って見つめ返す。

 母が最期まで愛した将校の椅子。“第七師団長”という肩書きさえあれば、何もかも上手くいくような気がしていた。それだけあれば何も要らない。何を捨てても、何を壊しても、手に入れたいものだった。

 そのはずだった。

 これは、後悔だ。

 今さらそれに怯えることはなかった。いつか抱いた理想を懐かしく思うこと。執着を忘れてしまうこと。それこそが人の生の在り方だった。後悔を積み重ねることでしか、人間は生き遂せられない。

 

「……結局、俺の周りにいた真面目な寂しがり屋は、お前しか残らなかったな」

 

 息を吐き出した白石由竹が、自らの坊主頭を撫でつける。

 

「もう手放すなよ」

 

 最後にそう柔らかく言い残して、今度こそ車内に消えていった。その背中を見送る──横顔に露台の隅から投げかけられる、

 

「……あの……もう、何も言いませんから、そろそろ車内に戻っても……?」

「…………」

「ヒッ」

 

 槓桿をわざと音を立てて操作して、黙らせておいた。

 

 

 

 

 何気なく振り返った車両の中では、未だにアシㇼパと土方歳三が刺青人皮の群れと睨み合いをしている。

 彼女はまだ眠っているらしい。ここからではその華奢な足しか窺えない。その奥で、同様に船を漕ぐ杉元の姿が見える。

 

「…………」

 

 それを眺めながら。

 麦酒工場での、彼女の恐慌を反芻する。

 ──いきなり嘔吐したかと思えば、遮二無二暴れ出した。頻りに何事かを呟いていたようだったが、ほとんど聞き取れなかった。

 明らかに、精神に何かしらの異常を来しているとしか思えない苦しみようだった。

 不安定なところがある、と感じたことなどない。彼女はむしろ、大抵の場合で異常なほどに冷静だった。

 常人ならば、繰り返し肉体の死を迎えた時点で発狂しているのではないか。けれど、それは彼女にとってはむしろ瑣末事であったようにさえ見えた。

 でも、彼女はあの場面で明確に錯乱した。

 彼女の本質はどこにある?

 言い知れぬ不安が心の底に満ちて、細波を繰り返している。小瓶に捕まえた羽虫を詰め込んでその末路を眺める子供。

 

 ──本当にそうだったのか?

 

 今となっては、何か大事なことを見落としている気がしてならなかった。このままでは彼女は一人で苦しみ続けるだけだ。考えろ、

 

 ──知っていたんじゃないのか。

 

 知っていた。

 当時はほとんど苦し紛れの発言だったが、今思えば的を射ているような気もした。

 客観的に見て、彼女がそこまで心身の調子を崩すような事象があの工場で起きたとは思えない。第七師団の兵士を殺してしまったことか。人間に向けて一切の躊躇なく小銃の引き鉄を引ける女が、今さらそんなことに怯えるものか?

 或いは、外部から要因を見出そうとすること自体が誤りである。

 こちらには見えない場所にある。

 “それ”は彼女の中にしか存在しないものなのではないか?

 

 ──お前は俺を誘導しようとしているんじゃないのか?

 

 そうだ。思い出せ。

 彼女は最初から、一貫してこちらの行動を妨害していたのではないか?

 金塊も、アイヌも、第七師団も、彼女にとってはその道程を構成する要素のひとつでしかなかった。

 ロシアでの病院からの脱走──否、ウイルクの殺害──違う、もっと遡れる、

 

 ──百之助がお母さんを殺さなくて良かった。

 

「──────、」

 

 瞬間。

 脳裏を駆け抜けた稲妻に、思わずこめかみを押さえる。

 

 ──やっぱり、おっ母の鍋に殺鼠剤を入れるべきだった。

 

 爆ぜた雷鳴が、ひとつの答えを照らし出す。

 

 ──彼女はそれを“知っていた”。

 

 あまりに荒唐無稽な仮説だ。

 しかし、そう仮定すれば全ての辻褄が合ってしまうこともまた、事実だった。

 彼女は鶴見中尉と繋がってなどいなかった。そんな真似をする必要さえもなかった。彼女の知識はそれ以上の外側にあった。

 

 ──百之助はそんな人間じゃない。

 ──いつかわかる日が来る。

 ──兄様はけしてそんな人じゃない。

 ──きっとわかる日が来ます。

 

 あの発言の重なりが、抱擁が、偶然の産物などではなかったとすれば?

 

 ──花沢勇作はお前じゃない。

 

 何か意味を持って放たれた発言だったのだとすれば。彼女はあの203高地の出来事すら。否、それを考えていたらきりがない。

 最初の仮説に立ち返る。

 誘導しようとしている。

 どこに?

 ……彼女の望む未来に?

 

 ──そういうことになってるんだ。

 

 そういうことになっている。

 彼女の中には、金塊争奪戦の路線図が完成している。何十年も前から続いたこの線路の先に、何があるのかを知っている。

 だから何度も繰り返してきた。例え命が終わろうとも、望んだ終着点に辿り着くまでは“上がれない”。

 

 ──このままじゃ何も変わらない、

 

 おそらく彼女はあの麦酒工場で、彼女しか知り得ない“何か”を防げなかった。同じ道を辿ってしまった。致命的な失敗だった。だからあそこまで取り乱した。

 このままでは良くないことが起きる。

 それを彼女は知っている。

 可能性ではない。確定事項に近い。

 金塊を鶴見中尉に奪われる。誰かが負傷する。

 そうではない。彼女の真意は最初からそこにはない。かつての彼女が視た旅の終わり。

 取り返しのつかないこと。

 ──死。

 誰かが死ぬ。

 アシㇼパ。杉元佐一。白石由竹?

 ……否、

 ふと。顔を上げる。

 明瞭になった視界を景色が流れていく。

 ごうごうと、風が吹き荒んでいる。その不明瞭な響きは、体内を巡る血液のそれによく似ている。彼女が最も恐れる未来、

 

「…………俺か?」

 

 思わず漏れたその呟きは、激しい風の音に紛れて、ひどく他人事じみて聞こえた。

 

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