【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について 作:捕まえようとした蝶
「…………」
ぐわあ、ぐわあ。
マガモの濁った鳴き声が聞こえた気がして、初春の空を仰いだ。
「まだいるのか」
薄く雲の散りばめられた空を渡る、小さな黒い影。早く北に行ってしまえよ。漠然と恨めしさのようなものを覚える。鴨鍋の味にもいい加減、愛想が尽きたところだった。
19歳、春。
時間が経つのは早いもので、幼い子どもだと思っていた自分自身は、いつの間にか大人の女になっていた。
それと同時に目の前へ迫り来る『結婚』の2文字。現代ならいざ知らず、明治の女としては避けられない事態。尾形のことを考えると、呑気に身を固めている場合じゃねーのだが……今から断る理由を考えるのが億劫である。
「はあ」
朝方は、まだ冷える。
ようやく最近、吐く息が無色透明になってきた頃だった。
農作業が一区切りついたので、その足で山菜採りにでも行こうかと思ったが、一旦家に戻って茶でも飲んだほうがよかったかも。このままだと寒くて嫌になってしまいそうだ。
「北海道はもっと寒いんだろうけどな……」
見合いを断るのは面倒だが、別に尾形を追いかけての北海道入りが楽しみな訳ではないんだなあ。飛行機とかない時代だし、女の一人旅だし。
それを改めて突きつけられて、ちょっとげんなり。寒いのは苦手だ。
「……さっさと採って帰ろ」
なんだかんだとここまで来てしまったし。尾形には「寒いのは嫌だから……」とわざわざ第七師団に入る男とは思えない台詞で、同伴を断られている。北海道ナメんな。
まだ残っている落ち葉を踏み分けながら、獣道の脇に並ぶ草木に目を凝らす。
タラ、ウド。有名どころはもちろん、前世であればただの葉っぱにしか見えなかった山菜の名前もわかるようになってきた。視界の解像度が上がると、少し山に入るのが楽しくなる。知識は人生の栄養だ。
「お、コシアブラがある〜……」
ひょろっと地面から生えた木、その先端にある若芽を摘み取って籠に入れる。
タラの芽もそうだが、ヤマウルシの新芽と似ているので注意。口の中かぶれちゃうよ。
これが一番美味いと思うのだが、尾形曰く「違いがよくわからん」。出ればもりもり食べるので不味いと思っている訳ではなさそうだが。
「コシアブラいっぱい採れたし、今日はもういいか……」
案の定というべきかこの裏山、私有地なのであまり気にせず山菜採りに励めていい。
意識しているのは採りすぎないこと、くらいだろうか。だって、翌年採れなくなったら困るから。これはアシㇼパが語っていたカムイとの付き合い方と通じるものがある。
「よし」
籠を背負い直して、踵を返そうとして。
──できなかった。
唐突に浮遊感、
「────ッ、」
視界に落ち葉が舞う。
首筋に、夜露で濡れた土の感触。
転んだ?
……いや、引き倒された。誰かに。
背中から籠が落ちて、集めたばかりの新芽が地面に散らばる。ああ、もったいない。
仰向けで横たわり、顔を傾けてその惨状を眺める俺の体に、その“誰か”が覆いかぶさってくる感触。俺より体格が良い──男か?
概ね尾形、大穴で知らんやつ。
そう思って視線を向けた先、
「……な、」
……どうやら無事、大穴のほうを引いてしまったらしい。
全く見覚えのない若い男に、とっさに眉根が寄る。マジで覚えがない、誰だこれ。
「ぁ……?」
男はぎらついた眼差しで俺を見下ろしている。荒い吐息が横顔にかかって気色悪い。
すわ物盗りか、とも一瞬思ったが。今の俺は若い生娘なのだった。人気のない場所で男が見知らぬ婦女子を押し倒して、まあヤることはひとつだろう。
俺は今から、一切記憶にないこの男にレイプされるのだ。
「…………」
──うん、まずったな。
というかここ、私有地なはずなのに。暴漢にはそんなこと関係ないのか。まあ、家に押し入ったりする輩もいる訳で、量刑上乗せどんと来いというやつなのだろうか。
完全に油断していた。
尾形に銃でも借りておけばよかった?
いや、何もかも後の祭りだ。
「っへへ、前々からあんたには目をつけてたんだ、」
さいですか。眺めていた近所の柿が食べ頃になったから窃盗すると。畜生そのものだな。
ううん、死に物狂いで抵抗すれば行為自体は免れるのだろうか。代わりに殺されかねないが。無傷で撃退するのは難しいだろう。女とか男とかいう以前に、完全にマウントを取られた状態で持ち直せる人間は早々いない。
「大きな声を出したら、殺すからなっ」
殺すって。得物も何も持たず言っても説得力が無いのでは?
こちらがうんともすんとも言わないうちに、男の汗ばんだ手が、引きちぎる勢いで着物の袷目をはだけさせる。おいおい、一張羅なんだから乱暴に扱うなよ────あ。
「殺すな」
思わず、その一言が口をついた。
懇願ではなく、命ずる響きだった。
「は、?」
赤らんで、鼻の下が伸びた不気味な表情で固まる男。それから、俺の視線が覆いかぶさる自分ではなく、そのさらに背後を捉えていることに気づいて、とっさに振り返った──
「な、……ぁ、がっ」
──その唇に躊躇なくねじ込まれる、ライフルの銃口。男は目を白黒させ、銃の主は反対にうっすら笑みを浮かべた。
見慣れた小銃と、それを構える見慣れた少年──否、もう男と呼ぶべきか。
形の良い坊主頭、特徴的な目元。目立つパーツ自体は子ども時代から変わらず、けれど最近、大きく変わったのは。
「大きな声を出すな。殺すぞ」
「駄目だって……百之助、」
低音ボイスで放たれる色気たっぷりの殺し文句(物理)を、食い気味に制止する。17歳の尾形百之助が、途端に鼻白んだ顔をした。
というか、どうしてここに?
俺の帰りが遅いので、探しにでも来てくれたのだろうか。家にいない時の俺は十中八九この山にいるし、通るルートも大体同じだ。
とりあえず、相手の男に、銃を突きつけられて萎える程度の理性があって良かった。動かなくなったのを良いことに、その下から抜け出して、乱れた服を整える。
乳がこぼれる寸前まで露わになった胸元を見て、尾形がこの上なく嫌そうな顔をした。まだ何もされてませんよ。
「…………」
「ヒッ」
銃身で軽くどつかれて尻餅をつく男、不機嫌の治らない尾形。こいつ今すぐぶっ殺したい、が顔から滲み出ている。
「……馬鹿は死なんと治らん」
むしろ俺は、仮にも明治の男である尾形が、強姦魔は死ねという価値観を持っていることに少し驚いていた。目の前で襲われればそんな気持ちにもなるか。
「私たちがわざわざ治す義理もないよ」
駄目なもんは駄目、と念押ししておく。
が、尾形は納得いかなかったようで。しゃがみ込んで懐から折り畳みナイフを取り出し、それを男の下半身近くでわざとらしく弄びながら、
「二度と女を抱けん体にしてやろうか?」
字面とCV. 津田健次郎だけ見ればセクシーな口説き文句にも見えなくはないが、実際のところは単なる脅迫なので、男は青褪めてガタガタ震えている。
うーん。
「……まあ……その辺りは任せるよ」
「えっ」
なぜか見捨てられたような雰囲気を醸し出してくる強姦魔。こっち見んな。
こいつにもはや興味がなく、当然ながら同情する余地もまた無いだけだ。その場でぶっ殺しさえしなければ、男として使い物にならなくなろうが俺には関係のない話。
そんな俺のニュアンスを知ってか知らずか、尾形が薄い微笑みを浮かべる。
「目的の問題だ、タマ」
下げていた銃口をゆっくり持ち上げ、男の眉間に押し当ててみせる。ごり、と鈍い音がした。汗だくの男は、蛇に睨まれた蛙のように微動だにしない。
「……目的?」
「殺したいのは二度と立ち上がらせたくないからだ」
引き鉄に指を掛け──ばん! 尾形がわざとらしく口にした銃声の真似に、まあ可哀想なくらい震え上がる男。
「息の根が止まれば、その目的は未来永劫完璧に達成され続ける。……でも、それが駄目なら別の方法でその足を折ってやるしかない」
言いながら銃口を下げ、代わりに折り畳みナイフの煌めきを見せつけてくる。
二度と立ち上がれなくしたい。そのための銃であり殺人であるから、それを拒否しておしまい、ではない。代替品が必要なのだ。
そういうことか。
うーん、欲を言えばやめてほしいが、その辺りが最低限の譲歩ポイントだろう。
「……なるほど? 合理的」
「だろう?」
「え──ぎゃあッ」
自業自得な悲鳴をバックに、一足先にその場を立ち去る。
「……殺すなよー?」
念押しで振り返った先、尾形がひらひらと左手を振ってみせた。本当に大丈夫かな。
まあ、一応は同じブツを持っていた者として、人間オスの去勢ショーを間近で眺める趣味はありませんので。南無三。
尾形と別れて。
「……目的、」
畦道を歩きながら、ぼんやり思案する。
目的が要請する工程としての、殺人。
尾形にとっての“殺し”について。
……何だか、数年前にも同じようなことを考えたような気がする。
「トメの死体が見つかった時だったか?」
あの時の尾形は、トメが失踪し、偽物の葬式をせざるを得なくなったという結果を逆手に取って、自分が彼女を毒殺しようとしたことを肯定していた。
今の尾形は、強姦魔が二度と俺に危害を加えなくなるという結果を求めて、ヤツを銃殺しようとすることを肯定している。
目的と、結果。いや、
「……道理?」
目的に、殺人を肯定するだけの“道理”が存在すれば良い。それがあれば躊躇なく禁忌を犯せる。犯すことを厭わない。
罪悪感も、発生しない。
そういうことか?
「そんなことはないと思うけどな……」
これがあの時の回答? 人間というものを単純に考えすぎなのではないか。
──道理さえあれば、罪悪感など覚えずに人を殺し得る。その素質が、全ての人間に存在する。
だから、俺はおかしくない。
皆、同じはずなのだ。本当に高潔な人間など存在しない。
尾形の声が鼓膜の内側から聞こえてくる。
──そう振る舞っているだけでは?
花沢勇作の涙が脳裏をよぎる。
ああ、
「……本当の“欠けた人間”は、道理などなくとも人を殺せるんだぜ」
瞼を閉じて、拳を握る。
道理も所詮はエクスキューズに過ぎない。
それを欲する心の動きこそが罪悪感の発露であり、お前が欠けた人間などではない証拠なのだから。
皆同じ。その結論だけは間違っていない。尾形百之助が欠けた人間であるという前提が誤りなだけだ。彼は普通の人間だった。
ああ。嫌だなあ。
タァン。
聞き慣れてしまった銃声に、顔を上げる。あの銃で背後から頭を撃ち抜かれてからというもの、見えない位置でこの音がすると若干身構えるようになってしまった。
まさか、あの男を撃ち殺した訳ではなかろうが。音がしたほうに足を向ける。
「あ、」
案の定、発生源は尾形で。
けれど、彼はいつもの畑の脇で、撃ち落としたのであろう鴨を拾い上げるところだった。
「……百之助?」
呼びかけると、振り返ってこちらを見た。
男への仕置きは済んだらしい。帯に、紅白のまだらに汚れた折り畳みナイフが挟んである。紅は血として、白は……うん。
「ありがとう」
無言で鴨を差し出してくるのを、受け取っておく。ここで渡されても困るんだが。
今日もエンドレス鴨鍋記録更新だなー、とか思いながら獲物を眺めていたら。
同じく、尾形がじっと俺を見つめてきているのに気づく。
「なに、」
「陸軍に入ることにした」
語頭を食って放たれたその一言に、小さく息を呑む。
「……、そう」
知ってたけど。そろそろかなー、とは思っていたけど。やっぱり、そうなるのか。
胸に去来するのは、原作通りに事が進む安堵か、尾形百之助が俺のコントロール下から離れることの不安か。これから勇作とか幸次郎とか鶴見中尉とかあるけど大丈夫かな、
「明日ここを発つ」
「あし、」
急すぎるだろ〜。
予想外の衝撃に白目を剥きかけた。寝る直前にいきなり小学生の我が子から「明日の授業で空の2Lペットボトルが2本必要なんだけど」とか言われた母親みたいな気持ちになっている。いや知らんけど。
「……北海道の、第七師団だ」
その後に続く言葉は、大体予想がつく。
これだってそうだ。やはり尾形百之助は第七師団を選ぶ。わかっていたことだ。
でも、しらばっくれておく。
「何でまた、」
「父上はそこの師団長をやっている」
……どこからそういう情報を得ているのか。とにかく、いつの間にか中佐からそこまで昇進していたらしい。
妾とその子を捨てて本妻との間に男児が生まれたおかげで無事に中将になれたよ! やったね幸次郎!
「ならば……正妻との間の息子も、おそらく第七師団に入れたはずだ」
尾形の低い呟きで、我に返った。
「軍人の子は軍人」
父に愛された異母弟。祝福された子。昏く澱んだ瞳が、彼を想ってさらに濁る。
虚ろな表情のまま、一度ゆっくり瞬きして。ぱっと、顔を上げて俺を見た。
「そいつの顔を拝んでくる」
一転、勝ち気に笑んでみせる。そんな顔をされてもこちらの不安が減る訳ではない。
憂うと真顔になり、傷つくと笑う子だから、むしろ心配になるんだよな。
「北海道は寒いだろうね」
「ああ」
「風邪、引かないようにね」
「……ああ、」
「百之助、寒がりなんだから」
「お前もな」
「茨城は大丈夫だよ……」
しかし、火鉢にケンケンする猫ちゃんが真冬の北海道で雪食ってた(食ってない)りしてた事実、改めてよく考えると覚悟キマりすぎててヤバいんだよな。同じように恨みがあった二階堂は、それでも弱音じみたものを吐いてたのに。
「…………」
よしよし。手を伸ばして坊主頭を撫でる。尾形は嫌がらず、目を細めただけだった。
お前は偉いよ。本当に。
ちょっと……努力の方向性を180°間違えちゃってることを除けばね。
「……手紙書くから、」
ゆっくり体を離す。
「どんな人だったかちゃんと教えてね」
そこで、俺を見つめていたのが、自然な動作で目を逸らして。やがて完全にそっぽを向いてしまった。いや返信しない気だなこれ。
「…………」
尾形は真顔で、さっきまで撫でてやっていた坊主頭を撫でつけている。それ、後ろめたい時の仕草でもあるんだよなあ。
まあ良いけどね。
結局、1907年までには俺も北海道に渡る予定だし。
「……案外、汚い台詞を叫びながら局部を振り回す男だったりしてね」
「何だそれは」
言いながら、想像したのかちょっと嬉しそうな顔になる尾形。まあアレ杉元なんですけどね。
そこからしばらく無言が続いて、
「……帰るぞ」
普段そうやって尾形を先導する俺がだんまりを決め込んでいたせいか、珍しく彼のほうから言い出してきた。といっても俺を待つ気はないらしく、さっさと背を向け、先を行き始めてしまう。
「……うん」
──尾形は。
もしかすると、俺にも何も言わず出て行くつもりだったのかもしれない。
ふと、そんなことを思った。
──そして、もう二度とこの茨城に戻ってくるつもりはない。
原作と同じく、そう考えている。
いや、これは予想だが、祖父母をわざわざ始末してから旅立っていることを考えると、そう見たほうが自然だろう。
実際、原作の彼は再び故郷の土を踏むことはなかった訳だけれど。
──なぜ、俺に話す気になった?
「…………」
尾形百之助は、気まぐれに見えて“なんとなく”で意思を曲げたりはしない男だ。
一挙一動に必ず意味がある。
その理論が他人に理解できる強度なのかはさておくとしても。
──なにか嫌な予感がするな。
こういう時の予感、当たるんだよな。17年の付き合いは伊達ではない。
漠然とした不安を覚えながら、早足で前を行く背中を慌てて追いかけた。