【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

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50話 愛は暗闇の中にある

 家の裏庭に、子猫が迷い込んできたことがある。

 尾の先から鼻頭まで真っ黒の猫。ねずみに齧られでもしたのか、右耳の端が欠けていた。

 俺は野良猫になんか興味がなかったので、その子猫が縁側でどれだけ鳴いていようが放置していたが。どういう訳だか、それは幼い尾形百之助の興味を惹いたらしかった。

 人懐っこい猫だった。尾形が近寄っていって、無造作に頭を撫でても逃げるどころか嫌がりもしない。そのサービス精神を受けてか、尾形はわざわざ自分の食事を取っておいて、子猫に与えたりもしていた。

 愛嬌はやはり得なのだなあ。

 その程度の感想しか抱かなかった俺がその猫に関わり出したきっかけは、何というか、後味の悪さを避けたかったからである。

 何せ、知識のない尾形少年は到底猫に与えちゃ駄目だろというようなものさえ平然と食わせようとする。猫も猫で単なる畜生なので、食えそうなら何でも口に入れようとする。ネギの味噌汁で作った猫まんまを与えようとしていた時は恐れ入った。昔の犬猫は短命な訳だ。

 現代人の知識を後ろ盾に得た子猫はすくすく成長していった。尾形も、その猫をそれなりに可愛がって、慈しんでいる──ように見えた。

 別れは、本当に唐突だった。

 ある日、日課の鴨撃ちから家に帰る途中で。数歩先を行く尾形の足が、おもむろに止まった。

 

「…………?」

 

 俺が近づいていっても反応しない。彼はじっと地面を見つめている。その視線の先、

 

「あ」

 

 一匹の猫が横たわっていた。

 右耳が欠けた、真っ黒な猫。

 柔らかそうな腹が裂けて、臓物が引き摺り出されていた。見開かれたままの鮮やかな蛍光イエローの瞳が虚空を見つめていた。

 要するに、死んでいた。

 

「…………」

 

 病気か、事故か。縄張りに入って、カラスの群れに突き回されでもしたのだろうか。あまり頭の良くなさそうな猫だったからな。

 野良猫とはいえ、身近な生命が初めて失われて。“尾形百之助”は、何を思ったのだろう。

 やがて母を殺す少年の目に、無残に命を奪われた野良猫の姿はどう映ったのだろう。

 

「……百之助?」

 

 まあ、まだトメは生きている訳だが。……俺がそんなことを考えている間にも、まだ清らかな尾形少年はおもむろにその場へしゃがみ込み。

 ──大事な獲物であるはずの鴨を容易く脇へ投げ捨てて、両手で猫の死骸を抱き上げた。

 

「え、」

 

 滴る赤黒い体液。愛着の無い俺には生理的嫌悪感しか湧き起こらなかったが、尾形は淡々と。

 

「葬式……しないと」

 

 葬式、

 

「そ、…………」

 

 それを聞かされた俺の頭にまず初めに浮かんだのは「禁じられた遊び」だったことは許されたい。まあ……尾形百之助はそんな段階を踏むまでもなく普通に母親を殺すのだろうけれど。

 この類のエピソードが彼の人格形成に多大な影響を及ぼしているのだとしたら、それが原作で描写されていないのはおかしい。ただ、トメの死以前から葬式というものにこだわりがあったのだなという発見はあった。

 いや、“儀礼”に対するこだわりか。

 曖昧を嫌う──或いは理解できない彼にとって、儀礼は明確な認識の指標として機能しているということか?

 だから大事にする。それしか自分の感情に納得を与える術を知らないから。

 自分で言っておきながらよくわからない。飽くまでこれは漠然とした仮定だ。漠然としすぎていて、忘れてしまいそう。そうでなくても俺は覚えていなければならないことが多すぎる。

 

「……そうだね」

 

 とりあえず、頷いておいた。

 ──それからの尾形の手際の良さは、特筆すべきものだった。

 家から持ち出してきたのはシャベルとマッチと行李と一号壺、そして餌入れに使っていた皿、線香。まず猫の死骸を皿と共に行李に入れて火をつけ、焼け残った骨を拾って壺に入れる。シャベルで掘った穴に壺を埋め、拾ってきたらしい比較的四角い石を突き刺す。最後に線香を立て、手持ち無沙汰な俺に摘んでこさせた雑草(この時期に花なんか無い)を供えて、手を合わせる。

 それはまさに“葬式”だった。

 幼い子どもの真似事などではない、甘えの入る余地のない、明確な儀礼だった。

 こんな歳で、どこでそんな細かいやり方を学んできたんだとか、色々聞きたいことはあったが。

 

「…………」

 

 冷徹なほどに形式ばって儀式を完遂することこそが、尾形なりの悲しみの発露であり、死を悼んでいるという証なのかもしれない──と、ふと思った。

 その小さな背中を眺めながら。

 

「猫に九生有りって言うだろ。だから、きっと大丈夫だ」

 

 何となく、そう口に出していた。

 言うだろ、とは言ったものの、「猫に九生有り」の由来は英語のことわざだ。A cat has nine lives──この時代に日本人として生きる尾形は、基本的に知る由もない。

 「蛇は一寸にして人を呑む」と言っても現実の蛇がそうある訳でないように、実態は単なる比喩表現に近い。要するに、しぶとさを表したい時の洒落た言い回しということだ。

 尾形は黙って俺を見ている。

 その背後で沈みゆく太陽に視線を移す。もうすぐ日が暮れそうだった。

 帰らなければ。

 泥にまみれた尾形の小さな手を、そっと取る。冷たい手。何度目か、同じことを思う。

 俺が握ることで、少しでも温まっていてくれれば良いのだけど。

 

「9個も命があれば……どれかひとつくらいは、満足の行く死に方ができるはずさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「っ、」

 

 ──目が覚める。

 左半身の下に、列車の硬いシートの感覚。断続的に揺れている。今、自分がどこで何をしていたのかを、一瞬遅れて思い出す。

 

「タマ」

 

 声のしたほうに、反射的に顔を向ける。……隣に腰掛けた尾形百之助が、こちらを見下ろしていた。

 

「少しでも眠れたか」

 

 何となく起こしかけた上体を、やんわり引っ張り上げられる。身体に力が入らない。彼の半身へ完全に体重をかける形で落ち着く。

 ぼうっと、自身の膝を見つめる。

 少しでも眠れた。睡眠が取れたのは事実だ。ただ、夢を見るのはレム睡眠の時が多く、深く眠れたとはかぎらない。……どうでもいい話だった。

 昔の夢を見た。

 懐かしい──とは感じなかった。俺はあの鴨鍋を食べても何も思わなかった。

 懐かしむ過去を持てない人間が成長することはない。感情を伴わない単なる脳内記録としての思い出たち。必要が無ければ取り出されることもなく、海馬で埃を被っていくだけ。

 馬鹿馬鹿しい。

 

「…………」

 

 まだ、暗号は解けていないらしい。

 全身が重い。意識さえどこまでも沈みゆくようで、実際、その底には何も無いのだ。伽藍堂だけが在る。空っぽに飲み込まれていく。

 全てが欠落した人間。最初から。

 もはや悲しみすら感じなかった。

 俺の手に絡まる尾形の骨張った指が、揉むような動作を繰り返している。

 それを無言で眺める。

 何がしたいのだろう。やがて彼は、ぽつりと。ごく何気ないふうで、

 

「手が冷てえ」

 

 冷たい。何が。

 ふと、我に返る。

 

「…………手……?」

 

 重なった手と、手。

 温かい。

 それを今、ようやく意識した。

 ごつごつと筋張って硬い、鉄砲撃ちの手のひら。いつか帰り道に握った手であり、肌に、頬に触れた手だった。

 

「……それ……ずっと、お前に思っていたことだ、」

 

 思わず、口に出していた。

 

「冷たい手だと……」

 

 冷たい手。だから温めてやりたかった。温めてやらなければと思っていた。

 ずっと昔から。

 ……ずっと昔?

 

「…………」

 

 顔を上げる。これまでになく落ち着いた気持ちで、25歳の尾形百之助の顔を──弟の顔を、仰ぎ見る。目が合う。瞳の奥、凪いだ夜の海が、穏やかに俺を包み込んでいる。

 ああ。蟠った呼吸を、飲み込む。

 あれだけ長くそばにいたのに。

 初めて見たような気さえするのは、どうしてなのだろう。

 

「百之助」

 

 手のひらで、傷跡の目立つ頬に触れる。

 困った目をした、手の冷たい子どもはもうそこにはいない。ずっと、隣に寄り添っていた。そのつもりだった、

 

「大きくなったな」

 

 その呟きに。尾形が、残った隻眼を微かに細める。

 気づけなかった。

 気づこうとしなかった?

 俺の背をとっくに追い越して。もう、その手を取って温めてくれるお前だったのだね。

 そうか。なら──良かった。

 本当に、良かった。

 だって、

 

「もう……俺が居なくても大丈夫だな?」

 

 ──俺という異物が取り除かれて初めて“尾形百之助”は完成する。

 その通りだ。

 だから、お前はもう一人で行くんだ。アシㇼパたちと、鶴見中尉の結末を見守って、かつてのお前が歩めなかったその先を歩むんだ。今度こそ、普通の人間として。

 ずっと、心配だった。

 でも、お前は俺の力なんか借りずとも、いつの間にか“大丈夫”になっていたじゃないか。

 もう、これで安心だ。

 そうだろう?

 

「…………」

 

 尾形は──何も言わなかった。

 確かに重なっていたはずの視線が外れる。無表情のままに、俯いてしまう。その仕草に、言いようのない不安を覚える。

 

「百之助……」

 

 ああ。

 そうなのだと言ってくれ。

 射し込む夕陽の残滓が、車内を赤く染め上げている。

 

「……解けたみたいだ、」

 

 背後から、そんな呟き。

 ──あ。

 途端、手の内側から温もりが逃げていく。さりげなく席を立った尾形が、アシㇼパたちのほうへ淡々とした歩みで向かっていく。

 それを、黙って見送る。

 今はそれしかできなかった。

 

 

 

 

「──大丈夫か?」

 

 何の感慨もなく、函館五稜郭を示した暗号の解を眺めて。再び座席に腰を下ろしたところで、誰かが声を掛けてきた。アシㇼパだった。

 函館駅の到着は、もう間近だった。

 

「ああ……もう、大丈夫だ」

 

 隣へ慎重に腰掛けてくるのを視界の端に捉えながら、思う。

 もう、“大丈夫”になった。

 舞台は整った。あとは、最後に彼がどの選択肢を選び取るかだけ。

 気持ちはもはや、恐ろしいほど凪いでいた。脱力していると言ってもいい。現状から意識が逸れて。今まで見て見ぬふりをしていた自分自身に、自然と目がいった。

 尾形タマではなく。

 佐藤理玖という男について。

 

「アシㇼパ」

 

 呟きに、隣の彼女が顔を上げる。それを肌で感じる。俺の人生とは、一体何だったのか。

 

「まだ小さいお前にこんなことを言うのも何だが……人生っていうのはさあ、本当に、ほとんど嫌なことしかないんだ」

 

 生きているのはつらかった。生き続ける意味を見出せなかった。死んでしまいたいと思っていた。そして佐藤理玖は、尾形タマに成った。

 俺が過ごした26年と324か月。

 生まれ変わってもまた、嫌なことばかりだったような気もする。それでも。

 

「でも……そんな中で、お前たちと出会えてよかった……」

 

 たくさん失敗した。けれども、確かに素晴らしい旅路だった。何もかも得難い煌めきだった。

 

「生きてるっていうのはつらいことだ。人生に楽しいことなんてほんのちょっぴりしかない。その“ほんの少し”がお前たちとの──尾形百之助との旅で、俺は良かった」

 

 ああ。そうか。

 言って、ふと思う。

 俺──ちゃんと、何かを懐かしく思えるんじゃないか。単なる記憶の群れから、大事な思い出を選び取れていた。気づけないまま、こんなところまで来てしまったけれど。

 

「無駄なこともたくさんしたな。でも、俺はちょっと……ずっと、先を急ぎすぎていたのかもしれない。どんなに馬鹿げて見えたって、大事なことはたくさんあるんだ。あったはずなんだ……」

 

 もっと尾形百之助に優しくしてあげればよかった。俺にしかできないことだったのに。

 本当にお前のためになることなんて、何ひとつしてあげられなかった、

 

「っ、タマ、」

 

 アシㇼパの、どこか空回ったような呼びかけで意識を引き戻される。顔を向けた先、彼女は強張った表情筋へ強引に笑みを塗り重ねたようなぎこちない笑顔で、俺を見ていた。

 

「何もかも終わったら、杉元と一緒に故郷に行って、あいつが好きな干し柿を食べるんだ」

 

 そういえば、彼らはそんな話を大雪山の鹿の腹でしていたのだっけ。その約束は守られる。それがどうした、と思ったところで。

 

「タマも来るだろう?」

 

 さりげなく、かつ拒否権を器用に覆い隠した誘い文句。……上手な断り方が、思い浮かばなかった。

 

「……わかったよ、」

 

 頷いた先、ようやくその笑みが微かにほどけたのがわかった。

 

「約束だからな!」

「……約束……」

 

 約束。それを聞いて、頭に浮かんだこと。握った拳の中、小指だけを立てた右手を、何となく彼女に差し出してみる。

 しかし、

 

「……?」

「……ああ、」

 

 怪訝そうな反応だけが返ってきた。単なる手遊びのようなものだ。アイヌ民族の彼女が知らなくてもおかしくはない、か。

 

「指切り。……和人はこうやって約束するんだ」

 

 ひとまず、自分の左手を稼働して、セルフで一度やってみせる。賢い彼女はそれですぐさま理解できたようで、慣れた動きで小指を差し出してきた。そこに、同じく小指を絡める。

 

「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。……指切った」

 

 メロディには乗せず、お決まりの文句だけを読み上げて、指を離す。

 

「これで、約束」

 

 約束が締結されたのにもかかわらず、アシㇼパの表情は未だどことなく晴れない。俯いて、

 

「針千本は嫌だな……あ、でもそんなに針があったら、他所のコタンにいる女たちにも配ってやれる……」

 

 アイヌの女にとって、針はとても貴重で大事なものなんだ。何度も耳にした、アイヌに関する豆知識。それを、ぼんやり聞き流す。

 

「…………」

 

 車窓の向こうの景色を、彼女を透かしてじっと見つめる。土地勘などない俺には、ここがどこなのかはわからない。俺の意識が既にここにはないことに気づいているのか、いないのか。

 

「……約束だぞ……」

 

 絞り出すように呟いた彼女の瞳を、見られなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何気なく目を向けた車窓の外は、既に暗闇に包まれている。

 

 ──俺は、これからどうするべきなのだろう。

 

 今まで意図的に忌避してきたその問いを、改めて手の中で眺め回してみる。けれど、それが内包する煌めきは、想定していたよりずっと複雑で、難解なものだった。

 ただの木の箱だと思っていたものが、寄木細工の秘密箱だった。そんな錯覚。自分自身では到底解けそうもないその箱を、俺はどうすれば良いのだろう。

 それをずっと、考えている。

 答えはまだ出ない。

 

「…………」

 

 刺青人皮の暗号は解けた。

 これから函館五稜郭に向かう。

 恐らく、彼女が想定していた通りに。

 

 ──俺が俺の意志で行動することこそが、彼女を不幸にしていくんじゃないのか?

 

 彼女は一貫して俺の行動を妨害していた。

 それは、その結果が彼女の恐れる未来に繋がる可能性を高めるからに他ならない。

 母、勇作、ウイルク。

 

 ──宇佐美時重、

 

 今になって思う。

 彼女は、あの麦酒工場で、俺が宇佐美を殺すことを防ごうとしていたのか?

 それが失敗した。

 だからあそこまで錯乱した。

 正直な話、それが俺の生死にどう繋がるかなど見当もつかない。しかし、彼女がそう判断したからには、そうなるのだろう。彼女の脳内に広がる路線図。はっきり提示されたところで、複雑すぎて理解しきれる気がしなかった。

 

 ──彼女に聞けば良いじゃないか。

 

 これから先、どうすべきかを?

 ……それこそ馬鹿げた解決策だ。今さらだ。余計に負担を掛けるだけなのではないか。

 

 ──彼女も、これまでの全てに決着がつくことを望んでいるのではないか。

 

 漠然と抱いていた感覚に、後付けの骨格が付け足されていく。

 はっきり言って。

 樺太でもう引き返そうと思えば、それが出来たはずだ。しかし、彼女はあの場面で土方歳三の元へ向かうことを提案した。途中放棄は彼女の選択肢にはない。そう見るしかない。 

 あなたがここで何か成し遂げたいことがあるというなら、最後まで見守るよ。

 彼女は結末を求めている。

 

 ──その結果として、尾形百之助が死亡したとしたら?

 

 ……繰り返しの思考は、いつもここで蟠る。

 今さら死ぬことに対する恐怖がある訳ではない。けれど、それで彼女がこれ以上苦しむならば。

 随分と綱渡りな作戦のように思える。

 彼女が求める結末と、尾形百之助の死は隣り合わせに存在している。 

 彼女が望むことをしてやりたい。願わくば、手に入れる結果が満ち足りたものであってほしい。そのためなら何を失っても構わない。

 そうだ、

 

 ──俺は死んでもいい、

 

 飽くまでも仮定の話だ。

 いざとなれば。

 彼女は一人ではない。

 

 ──もう、俺が居なくても大丈夫だな?

 

「…………」

 

 握る拳に力が篭る。

 何があっても俺の死だけは避けようとしてきた人を、取り返しのつかない方法で傷つけてしまった。何度も。彼女には素晴らしい蘇りの力があった訳ではない。死ねなかっただけなのだ。

 これ以上、巻き込めない。

 俺には彼女が必要だった。けれど、彼女は最初から一人で生きていけたのだ。

 彼女は俺が生き延びることを望んでいる。

 わかっている。

 だとしても。

 もしもの時は。

 万が一は。

 

「…………不死身の杉元……」

 

 背後で座席に腰掛ける男に、呼び掛ける。

 返事どころか微動だにした気配もなかったが、聞いているだろうという確信があった。

 この男にこんな頼み事をするのは、本当に癪なんて言葉では言い表せない。けれど。

 

「……俺に何かあった時は、あいつを……タマを……」

 

 他ならぬ彼女のことだ。

 この際、背に腹はかえられない。彼女が一人で苦しんだり、悲しんだりするようなことは確実に避けねばならない。

 

「…………」

 

 杉元は黙っている。

 無視されているとは思わなかった。その沈黙からは怒りも呆れも感じ取れない。しかし、安心材料としては足りない。

 続けて口を開こうとした、その瞬間。

 

「タマさんはお前の選択を最後まで見届ける覚悟があるって言ってたぞ」

 

 淡々と、低く抑えた呟き。穏やかに、咎める響きを孕んだ呼びかけだと思った。

 否、今この男は何と言った?

 

「お前はあの人のことを……役目をそんなあっさり他に譲るのかよ」

 

 非難されている。それだけは漠然と感じ取れた。選択を見届ける覚悟。役目、

 

「…………」

 

 今度はこちらが黙る番だった。

 何と言ったらいいのかわからない。杉元は彼女から何かを言われていた。いや、まさかあの網走監獄潜入前夜にしていた話か? 内容までは詳しく聞き取れなかった。

 杉元は、ひどく冷静だった。

 対照的にこちらが纏まらない思考を掻き集めている間にも、

 

「……カント オㇿワ ヤク サㇰ ノ アランケㇷ゚ シネㇷ゚ カ イサㇺ」

 

 耳慣れない響きだった。何、と聞き返そうとするより早く、杉元が平坦に種を明かす。

 

「俺がこの話をしたら、アシㇼパさんが教えてくれたんだ。天から役目なしに降ろされたものはひとつもない……アイヌのことわざなんだって」

 

 役目のないものは存在しない。

 唾液を、飲み込む。

 アイヌの諺なんて、とはもう思わなかった。

 彼女の役目。何のためにここまでやって来たのか。或いは、尾形百之助の、?

 

「タマさんが言ったように、何があってもアシㇼパさんを守って、あの子の選択を見届けるのが俺の役目だ。俺にしかできないことだ。ここまで来たからにはもう譲るつもりはねえよ」

 

 彼女は、杉元佐一が全うすべき役目を看破していた。彼女自身が見出した己の役目。

 尾形百之助の選択を、見守ること。

 それぞれの使命。

 ごうごうと。耳の奥からあの風の音がする。体内を巡る血潮の音。

 

「俺は俺の成すべきことをしたぞ」

 

 杉元佐一が、ゆっくりと振り返る。やや持ち上げられた軍帽の鍔、その下からこちらを真っ直ぐ見つめてくる瞳。その眩い煌めき。

 どこかで見た。

 勇作、

 

「お前の役目は何なんだ?」

 


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