【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について 作:捕まえようとした蝶
函館五稜郭を囲む、防風林の一角。
そのうちの一本に陣取って、双眼鏡を覗き込んでいる。
──土方歳三たちは、この籠城戦に持ち堪えられるだろうか。
どこまでが彼女の想定の範囲内なのだろう。こうなることさえわかっていて、あの無謀な戦いに身を投じたのだろうか。寒くもないのに、微かに悪寒のようなものを覚える。
──政府が破棄したがっている土地の権利書……そんなものが本当に存在しているとして、持っているのはアシㇼパだろう。
そうなれば、アシㇼパのそばについているのは白石由竹──或いは、彼女だ。
最も安全であるとも、最も危険であるとも言える立ち位置。しかし恐らく、そこに理屈は無いのだろう。彼女はアシㇼパの心身を案じている。勇気づけるために居るのだ。
──彼女の思い通りに事は上手く運んでいるのだろうか。
わからない。目の前にある判断材料からその可否までを読み取ることはできない。
ここまで来た以上、それについて考えていても仕方がないのでは?
──こんな騒ぎの中でも、一発撃てば俺の居場所を特定してくるだろうか?
導き出された答えは、“是”だった。
──きっと、あのヴァシリ・パヴリチェンコならば……
「…………」
五稜郭北口から、笹藪を踏みしだいて走り去る馬の群れ。その背に見慣れた顔を見つけて、一瞬胸を撫で下ろす。
彼女は成すべきことをした。
あとは、自分だ。
──この一発は、誰が為にある一発か?
風が吹いている。
アカマツの小枝が、針の葉が揺れて──その合間に、黒鳶色が流れていった。
腰掛けた枝。いつの間にか、すぐ隣に白い手首が並んでいた。“何か”が、こちらに背を向ける形で枝に腰掛けていた。
全く重みを、存在を感じさせないその佇まい。長襦袢の後ろ姿を飾るスペンサーM1860。
『まだ悩んでいるの』
呼びかけられる。穏やかな声だった。
今までになく落ち着いた気持ちで、その柔らかい響きに耳を傾ける。
『もう、後はあなたが選んでいいの。あなたが決めていいの。これはあなたの人生、あなたの物語』
甘く、優しい呼びかけ。くだらない。心の裡が静かに冷めていく。それを感じる。
都合の良い妄想だ。
既に自らで看破していたはずではないか。こんなものは、彼女の皮を被った醜い自己憐憫に過ぎない。
「……俺が勝手に言わせてるだけだ」
『そうね。これはあなたが感じてきた事実』
しかし、次いで投げかけられた言葉に、一瞬心臓が跳ねた。
『最初からわかっていたことでも……ずっとわからないふりをしてきたでしょう?』
自問自答。けれど、あの“悪霊”は最初から、無意識のうちに目を逸らしていた事実を、こちらに突きつけていたのだ。
自分だけでは見えないこともある。気づいていたはずなのに。
『それでたくさん迷って、苦しんできた。でも、誰のせいにもできなかった。あなたはどこまでも真面目で優しい、良い子だったから』
“悪霊”が、深く息を吐き出す。
『大切なあなたと一緒に旅ができて、とても楽しかった……』
大切。そんなことを思ってもらえる資格が今さらあるものか。何もかも手遅れじゃないか。これは冒涜だ。
「一人芝居だ、」
『そう感じられることが生きるための力のひとつになる。そうでしょ?』
……たとえ、錯覚だったのだとしても?
心からそう思える瞬間があったことが、今ここに俺を生かしている。
けれど、俺は。
「愛を返してやれなかった」
『……返してあげればいいじゃない』
やや間があって、“悪霊”がそう答えた。
違う。
思い浮かんでいたのは、
「……手紙」
自ら手放してしまったもの。
今さら、永久に紙へとしたためられることのなかった文字列について想う。
「書いて、返してやれば良かった」
──手紙、書くから。
──どんな人だったかちゃんと教えてね。
……どうしてそうしてやらなかったのだろう。
その理由は、今になっても思い出せそうになかった。最初からなかったのかもしれない。
どんなことをどう記すか、この瞬間だってはっきり頭に浮かんでいるのに。
──眉目秀麗、文武両道の青年将校のくせに、俺を“兄様”と呼んで纏わりついてくる。
──お前のことも“姉様”と呼びたがっていた。そんな柄じゃないだろう?
──お前の作った鴨鍋を食べたいと……飽きたかもしれんが、一度くらいは我慢してやれ。
手紙を書いてさえいれば。
心配性の姉には、弟が案外楽しくやっていることを伝えてやれたし。
寂しがり屋の弟には、きょうだいをひとり増やしてやることができた。
何もしてやれなかった。それでも、少しでも幸福を与えてやれるかもしれない機会だったのに。自分自身の手で壊してしまった。
軍服の胸元に触れる。彼女がくれた手紙から、自分は確かに何かを貰っていたはずなのに。
勇作の涙が、彼女の苦悶の表情が頭をよぎる。鮮明に思い出せる。
“悪霊”は、すぐには何も言ってこなかった。微かな沈黙を、ざわめく木の葉が食い潰して。
『そんな後悔をするほど、遠くに来たの』
──吹き抜ける風が、草原を撫でていく。
顔を上げた先。
隣には、もう何の気配もなかった。ただ、空白が広がっているだけ。
「…………」
無言で、三十年式を構え直す。
遥か彼方、嘘くさい双眼鏡の輝きを睨むように見つめる。
──これは、勇作のことを乗り越えるために必要な通過儀礼だ。
終われば、彼のことをきちんと悼んでやれる。
全ての悲しみも喪失も、いつかは思い出になる。懐かしむことで生きていける。
──もう、俺がいなくても大丈夫だな。
……本当に?
ついに、到着してしまった。
全ての終着駅へと導く列車。
ただ、もうここまで来たからには逃げも隠れもできない。何はともあれ進むしかない。
結末へ。
「追手の裏をかいて、港へ向かおうぜ!」
ばらばらだった意見は、とりあえず牛山のその提案で纏まった。
馬をぎりぎりまで車両に横付けして、バルコニーに乗り上げる。そこまでは良かった。──が、いざ扉を開けて車内に入る、となったタイミングで。
杉元が、ふと思い出したように口を開く。
「……あれ? そういえば、函館駅行きの汽車って、夜中と夕方に着く2本だけじゃなかった?」
ただ、それは牛山の手によって扉が開くのと、ほぼ同時だった。
開け放たれた先。
見渡す限り座席に詰め込まれた、嫌というほど覚えのある軍服、軍服、軍服──
「鶴見中尉の手下たち……追加の第二弾じゃねえかッ!!」
白石が叫ぶ。
「…………」
俺は、その事実に最初から気づいていた。
知っていて、言わなかった。
この列車で、牛山辰馬と土方歳三は死ぬ。俺は、それを避けなかった。そういう選択をした。彼らを見殺しにした。
尾形百之助。
彼は、確かに変わろうとしていた。……ただ、その変化は、予定調和の終焉を捻じ曲げるほどの力を持っているのだろうか?
見ないふりをしていた、最も恐れるべき解答が、今になって目の前に立ちはだかってくる。
尾形トメは死んだ。或いは花沢幸次郎も──勇作も。その過程が僅かに変わっただけだ。
何も変わらないのではないか。
結局は。
「シライシ! タマさん! 早く汽車からアシㇼパさんと降りろ!」
現実に引き戻される。
──考えるな。
今はもう、前だけを見据えろ。
「谷垣ニㇱパ、やっぱり降りて!」
こちらに顔を向けた谷垣源次郎が、何事かを言いかけて。
──パァン。
響き渡った一発の銃声が、それを遮った。アットゥㇱの背中に咲き誇る深紅の花。
狙撃された。
その事実を誰よりも早く理解したのは、その被害者である谷垣だった。前を見据えたまま、車両の扉を勢いよく閉めて。
──次の瞬間には、恐らくその下手人に蹴り落とされて、小窓から消えていた。
「っ、」
敵は、既にすぐそこまで迫ってきている。その事実を次に飲み込んだのは、誰よりも扉から離れていた白石由竹で。飛びつく勢いで内鍵に手を伸ばし、その場にしゃがみ込む。
鍵のつまみが、白石の頭上でがちゃがちゃと耳障りな音を立てる。外側から強引に解錠を試みている“誰か”がいる。
来る。
「下がれアシㇼパッ」
彼女を背に回らせた瞬間──目の前で、ギロチン窓のガラスが粉々に砕け散る。
琺瑯の額当て。頭突きで窓を粉砕した鶴見篤四郎が、車内に身を乗り出してくるところだった。
ただ、それ自体はわかっていたことだった。俺の渾身の右ストレートが、その頬にめり込む。が、体勢を崩しつつも、そんなことで怯む鶴見ではない。
「うっ」
間髪入れずに放たれたピストルの弾が、俺の頬を掠めていく。それでとっさに身を引いたのが良くなかった。脇をすり抜けた鶴見の腕は、真っ直ぐアシㇼパの矢筒へ伸びて。
鈍い音。杉元佐一が突き立てた銃剣の切っ先でもって、木製の戸板に縫い止められた。
すかさず放たれる第二射、三射。避けようがない状態の中、弾丸は狙い通り杉元の左肩、左胸に命中する。ただ、当然ながら杉元も今さらその程度でたじろぐ男ではない。
一種の膠着状態。
そんな中、杉元がこのまま蜂の巣にされるのを恐れたアシㇼパが、矢筒を捨ててピストルに手を伸ばした。好機と見た鶴見が、肩紐ごと強引に左手を引き抜こうとした──その腕に、撃ち込む三十年式の銃弾。
ただ、ほんの時間稼ぎ程度にしかならなかったようだ。一瞬静止したのみで、すぐさま矢筒を手繰り寄せる血みどろの腕。そこに白石が飛びついて引き留める。
拘束を無理矢理突破された。ただ、それは杉元佐一の自由というメリットも産んだ。銃剣を引き抜いた杉元は、今度は額当て目掛けてそれを突き立てる。鶴見はそれをすんでで避けたようだったが、じゅうぶんな隙となった。
「アシㇼパさん行けッ」
杉元の叫びを号砲に、座席の下へと潜り込むアシㇼパ。白石はその後を追ったが、俺はそうしなかった。三十年式を再装填する。
「銃の嬢ちゃん」
牛山辰馬が、気だか命だかを失った一兵卒を片手に俺を振り返る。手の中の三十年式。握り直す。
「銃っていうのは……お飾りの威嚇用じゃ意味がないんだ。これは土方歳三が俺に与えてくれたものだ。俺も彼に恩がある」
単なる気まぐれだったとしても、土方は俺に、本当に良くしてくれた。尾形にも。
「良いじゃねえか。……女は度胸だ」
ふすん、と豪快に鼻から息を吐き出す牛山。……こんな状況でも変わらない肝の据わりように、こちらが励まされてしまった。
「俺のことは気にするな」
「大丈夫なのか」
「ああ……」
和服の袷目。心臓を、強く握りしめる。
そう。俺は、
「不死身なんだ」
呟く。どこか、自分自身に言い聞かせるようにも聞こえた気がした。気のせいだった。
それから、どれだけ前に進んだのだろう。
「──アシㇼパちゃん、前の車両へ! 杉元から離れちゃ駄目だ!」
ざわめきの中で聞こえたそんな呼びかけが、妙に耳へ残った。
次の車両に入ったところで足を止め。思わず、後ろを見遣る。背後の車内では既に牛山が大暴れしている。振り返った先、何もない。
こちらの車両に足を踏み入れようとしている白石が、アシㇼパを手招いているだけ。
敵の姿はない。ひとまず安全だ。
けれど、何かが引っかかった。
安全──に見える、
「白石由竹……」
そこで、ふと。
車体の上に目が行った。
本来ならば、ただ青空が広がっているだけの空間。けれど今、そこには軍服の足が、
「タマちゃ────」
そうだ。
マズい、
とっさに、
──脇腹に衝撃。
「……タマ」
頬が冷たい。気づけば、連結部分に横たわっていた。顔を、上げる。
俺が突き飛ばした白石由竹が、尻餅のまま、呆気に取られた表情で俺を見つめていた。
腹から何かが流れ出している。
「……っ、……」
クソ……鶴見。
撃ってきやがった。
──尾形はどうした。
まだ、やって来ていないのか。本当ならば彼の妨害が入るタイミングのはずだ。
ぼんやり考えながら、駆け寄ってきた白石の体を押し返す。何にせよ、こんなところで留まっている場合じゃない。
「止まるな……行け、」
「馬鹿っ」
けれど、その手は彼に力強く握りしめられた。輝きを失わない瞳が見つめ返してくる。
「置いていけるかよ……!」
脇に手が入って、半ば強引に立たされた。出血が止まらない。脇腹だ。貫通した。致命傷になってもおかしくはない。
痛みとも熱さともつかない痺れが全身に広がって、身体の力が入らない。
ふらついたところを横からアシㇼパに支えられて、はっと我に返る。──いや、
「……まだ……死ねない……」
尾形。
その後ろ姿が思い浮かぶ。
見届けなければ。
彼の選択を。
俺たちの、旅の終わりを。