【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

54 / 58
54話 検証結果:

『旅の終着点──』

 

 結ばず流した長髪が、激しく風にはためいている。

 けれど、女は乱れた髪など欠片も気にした様子もなく、真っ直ぐにこちらを見下ろしている。自らの興味を満たすように。

 

『地獄行き暴走列車にて。ヒグマに襲われ、列車の屋根から落ちかけたお前を助けようとして、ともに死ぬ』

 

 淡々と、口にする。

 こいつは何を言っている、

 

『これが尾形百之助の選択』

 

 選択。

 ……一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 

「これが……選択?」

 

 俺が27年間追い求めてきたもの?

 こんなものが?

 俺たちの旅の結末だというのか。

 理解して、

 

「っ、」

 

 その瞬間、ざあっと背筋が粟立った。

 血液の足りない体がさらに冷えていく。全身を無数の虫が這い回っているような、爪先から少しずつ輪切りにされていくような、身の毛もよだつおぞましい錯覚。

 明らかに様子がおかしいであろう俺に、尾形が怪訝な顔をする。

 

「タマ、っ……?」

『嬉しいか?』

 

 畳に横たわる少女が蒼白の顔で微笑んだ。

 

 ──今までの何もかもを諦めて、俺とともにここで死んでもいいと思っている。

 

 それが尾形の選択。

 ──違う。違う、ちがう、

 

「っ、だめ、駄目だ、こんなのは違う、間違っているッ!」

 

 とっさに吠え散らかしていた。

 畦道の上、頭蓋の欠けた少女が愉快そうに片眉を吊り上げる。

 

『何故?』

 

 とにかく駄目なのだ、理由なんかわからない、でもこんな結末は許容できない!

 

『愛してなどいなかったくせに。だったら何も問題ないだろ?』

 

 血濡れた布団から顔を出す女が無表情のまま小首を傾げてみせる。……愛していなかった?

 そうだ。

 

「……ずっと、愛するふりを、」

『違う』

 

 女がぴしゃりと言い放った。インクをぶち撒けたような漆黒の双眸。

 

『誰からも理解されたことのない、罪悪感さえない人間が、例え真似事としても他人を愛せると思っていたのか?』

 

 指の足りない手で以って自らの首に小刀を突きつける女が、こちらに冷たい眼差しをくれる。

 

『欠けた人間に愛なんてものが理解できるはずもない』

 

 愛していなかった。愛するふりをしてきた。本当はそれすら、愚かな思い違いだった?

 だって俺は、

 

「……欠けた、人間……」

 

 何もかもが欠落した人間。

 ──だからこそ、ここまで来られた。

 何度殺されても、どれだけ辛い思いをしても耐えられた。全てはこの結末のために。

 無駄になっていいのか。今までの何もかもが。見届けるべきなんじゃないのか。

 違う、

 

『お前は必ずここで死ぬ。それを知った尾形百之助は、自らの正しさを確信しながら、納得尽くでお前と添い遂げる。上々の結末じゃあないか。一体何が不満なんだ?』

 

 散らばった羽毛と、ヤマギシの亡骸とに囲まれる女が目を細めた。

 上々の結末。

 

 ──どうして?

 

 それでは結局、この列車で死ぬという未来は変えられない。何が上々なものか。

 今さら、俺をわざわざ車上に引き上げることには何の意味もない。この身体はもう手遅れだ。俺はここで死ぬ。

 せっかく鶴見を退けたのに。

 未来を、変えられたのに。

 

 ──……それでもいい、

 

 確保された生命を擲ってまで、こんな人間と心中する道を自ら選ぶというのか。

 一人生きながらえるよりも、そちらのほうが望んだ結末だとでも?

 ……それは、何故?

 

 ──もういい、考えるな!

 

『覚悟はどうした。百之助の選択を最期まで見届ける覚悟があるんじゃなかったのかよ』

 

 闇に溶ける網走監獄、その正門の上でマキリを握る女の横顔が、焼夷弾に照らされる。こちらを睨みつけるその瞳。

 ……覚悟? 俺の、覚悟、

 

『悲劇的な結末を変えられるんじゃないかと思っただけだ』

『最初から“死”という結果そのものを避けたかった訳ではないのでは?』

『こうなってしまっては仕方がない』

『所詮は創作のキャラクターだろう』

『尾形百之助は俺を必要とした。満足だ』

『この選択こそが彼の望み』

『これでいい』

『否、駄目だ、それではいけない』

 

 混線したラジオのように、脳裏を絶え間なく言葉が行き交っていく。

 もうめちゃくちゃだった。

 何もかもが。

 そうだ。俺は、この旅で何を手に入れたかったのだろう。

 

 ──俺が本当にしたかったこと、

 

 ……何だったのだろう。

 ふと、気づく。

 いつの間にか、こちらを見下ろす女は“俺”の姿をしていた。

 ヒグマに右肩を引き裂かれた無残な姿。乱れた長髪が風に靡いている。左手で着物を握り締めた女が、青ざめて震える唇を開く。

 このままでいいのか?

 ……それでは駄目だ、

 

「だって、」

 

 だって?

 

『だって、このままじゃ百之助が死んじまうだろうが!』

 

 吼える。

 ああ。そうだ。このまま手を離さなければ、必ず彼は死ぬ。死んでしまう、

 

 ──それが許せないのは、何故?

 

 女が血みどろの顔を顰めた。

 苦しげに眉を寄せる。瞳が揺れる。虹彩の中で、満天の星空が瞬いている。その煌めきがおもむろに剥がれて、はらりと頬を伝った。

 次から次へと零れ落ちる。

 あ。

 ……そうか、

 

『……愛しているから』

 

 泣きじゃくりながら、絞り出すように呟く。

 女が──“私”が、項垂れる。

 気づいてしまったから。

 欠けていないあなたを通して、世界を見てしまったから。

 ずっと、見て見ぬふりをしてきたものたちが今、目の前にある。

 

『百之助が俺を愛してくれたから』

 

 あなたが俺を愛したように、俺はあなたを愛している。全てあなたが教えてくれたことだった。

 あなたは最初から何ひとつ欠けてなどいなかった。最初は偽りの愛、それ以下の紛い物からだったとしても、それを礎に弟を愛することができる人間だった。

 そんなあなたを、ずっと見ていたよ。

 

『百之助の愛が俺を正しくした』

 

 今ならわかる。

 これが愛であり、祝福なのだ。

 

『検証は失敗だ』

『俺は欠陥ゆえの覚悟を失い、代わりにその穴を埋める愛を手に入れてしまった』

『あーあ、27年が台無しじゃねえかよ』

 

 泡のように浮かんで消える走馬灯たち。

 かつての俺であり、私。

 俺の思い出。私たちの記憶。

 最後に現れた幼い少女が、田園風景の中、朝焼けを見つめて目を細める。澄んだ空気に白い吐息が柔らかく広がる。

 

『……でも、これで良かったんだよな』

 

 ──あ。ああ。

 そう、言えるのか。

 そう思える終わりだったのだね。

 ならば、もう大丈夫。

 良かった──お前が、最期に心からそう思える人生だった。それこそが証明だった。

 良かったなあ。

 だから。

 

『だから、あなたは生きて』

 

 尾形百之助。

 汚くても、惨めでも、なんにも残らなくても、それでいい。少尉になんかならなくていい。お飾りの師団長はもっといらない。

 生きていればそれでいい。

 身勝手だ。我ながら思う。

 でも、もう止められないんだ。

 何もかもを捨てて俺と死んでもいいと思えるくらい、お前は俺を愛してくれた。

 何もかもを捨ててでも生きてほしいと思えるくらい、俺はお前を愛している。

 

『それだけでいい。それだけで良かったんだ、きっと、ずっと前から……』

 

 馬鹿げた検証だった。

 どうしてだろう。

 そんな簡単なことに気づくのに、ずいぶん時間が掛かってしまったな。

 

 

 ──ああ。視界が、ぼやける。

 目を瞬いたら何か温かいものが頬を伝って落ちて、ほんの一瞬だけクリアになった。

 彼の隻眼を、落ち着いた気持ちで見つめ返す。

 微笑みかける。上手く、笑えているだろうか。

 

「百之助」

 

 ぽたりと頬に落ちてきたのは、彼の汗か、血か、それとも。

 

「お願い……離して」

 

 ここまで来てそんな顔をさせて、本当にごめんね。

 でも、これが最後だ。

 

「愛してるんだ」

 

 

 

 

 

 

「────ふん、ぬ゛ッ」

 

 その時。

 おもむろに、勢いよく引っ張り上げられる感覚。

 はっと我に返る。──血塗れの杉元佐一が、今まさに列車からずり落ちそうになっていた身体を、背後から力強く引き上げるところだった。

 

「杉元っ……!」

「お前のッ、ためじゃねえ……ぞッ」

 

 ものの数秒で宙ぶらりんの姿勢から、平らな屋根の上に着地する。……でも、もう立ち上がれなかった。

 顔を上げることすらできない。痛みはない。そもそも手足の感覚がない。不自然なうつ伏せの姿勢だったのを、彼にそっと抱き起こされる。視界が明るくなる。

 錆びた鉄の味がする。ひゅうひゅうとうるさいのは、風か、俺の呼吸か。

 

「杉元……」

「タマさん、……」

 

 杉元が俺を見ていた。

 目が合って。杉元は一瞬、何か言いたげな顔をしたけれど。ゆっくり俺から離れて、後ずさる。

 ありがとう。弟を助けてくれて。

 そう言ってやりたかったのに、唇から溢れたのは血の塊だった。

 それから百之助の腕に強く強く、骨が軋むくらい抱きしめられる。その痛みさえわからないことが、今は無性に悲しい。

 

 ──でも、ようやく、こうして愛する人の腕の中で終わりを迎えられるのだ。

 

 確かに──俺にしては満足のいく、上々の結末なのかもしれないな。

 

「百之、助」

 

 鼻先がつきそうなくらいの距離から覗き込んでくる顔、その血濡れた頬を、撫でる。

 百之助は泣きも、笑いも、怒りもしていなかった。ただ、見慣れた無表情でこちらを見つめていた。

 

「お前は、本当に……馬鹿な、ことを、……」

 

 再び唇の端からゆるく吐きこぼした鮮血を、優しい指に拭われる。

 

「こんな時くらい、……姉さんの言うこと、っ、聞きなさい…………まったく、」

 

 しょうがない子。

 

「…………ああ、…………」

 

 瞼が重い。触れ合う熱が遠くなる。

 でも、恐ろしくはなかった。

 音が、声が、ぼやけていく、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 タァン、と。

 どこかで鋭い破裂音──否、銃声が聞こえた気がした。

 ふと、我に返る。

 細い雲がたなびく、晩秋の明け方。吐く息が朝陽に白く煌めいている。

 

『……百之助?』

 

 見渡す景色には、嫌というほど覚えがあった。いつの間にか、実家の畑で一人きり、立ち尽くしていた。

 あの聞き慣れた発砲音、百之助が撃ったのだろうか。祖父の使い古したスペンサー銃。

 音は聞こえるのに、姿は見えない。

 

『どこにいるの?』

 

 一歩、足を踏み出しかけて。

 

『あ、』

 

 背後に佇む彼が、視界の端に見えた。

 坊主頭に、スペンサー銃を担いだ百之助が、右手に鴨をぶら下げてこちらを見つめていた。

 なあんだ。ずっと、側にいたんだね。

 ほっと胸を撫で下ろした目の前に、無言で突き出される鴨。何気なく、いつも通りにそれを受け取ろうとして。

 ふと、気づく。

 そういえば。

 いつから百之助は、獲物を母ではなく、俺へと真っ先に手渡すようになったのだろう。

 

『──────、』

 

 そうか。

 俺が気づいていなかっただけで、お前はずっと、俺のことを。

 温かい。昇り始めた陽の光が、冷えた身体に熱を分け与えていく。

 百之助は、穏やかに微笑んでいる。

 手を、伸ばす。

 

 

「ありがとう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──目の前で。

 男の手から、白い指が音もなく滑り落ちた。つい先ほどまで、その無骨な手を確かに握り返していた指だった。

 やや不自然な形で、着物の胸元に墜落したその手が再び動くことは、ない。きっと、どれだけの時間が過ぎ去っても。わかっていたことだった。

 

「………………」

 

 男が、消えゆく温もりを確かめるように、その顔に触れる。眦へ微かに残った涙を丁寧に払い、青褪めた唇を汚す血を拭う。

 

「……尾形、」

 

 杉元の、躊躇いがちな呼びかけ。

 それを勢いよく遮る声があった。

 

「杉元、っ!」

「アシㇼパさん、」

 

 溌剌とした少女の声。──それが、途端に萎んで消え失せる。

 尾形の膝に横たわる着物の女。

 その姿ひとつで、上がってきたアシㇼパは女に何があったのかを悟ってしまったようだった。瞬時に、表情が強張る。

 

「……タマ……?」

 

 ふらふらと、糸で引き寄せられるようにその傍らへ歩み寄り、膝を折る。

 既に血で汚れた小さな手が、清めたばかりの頬に伸びたが、尾形は止めなかった。震える指が白い肌に触れ。びくりと跳ねる。

 

「冷たい」

 

 呟いて。その表情が、くしゃっと紙屑を丸めたように歪む。冷たい肌。その一言が、今の女の全てを表していた。

 

「そんな……嘘だ……」

 

 青ざめた驚愕の表情を、感情の雫が滝のように伝っていく。彼女が、溶けていく。

 

「っ、……約束……破ったら、針千本だって……いいのか……? なあ、タマ…………タマ、」

 

 返事は、ない。

 声を掛ければ、すぐに目覚めて笑顔を向けてくれた彼女はもういない。女はただ、安らかな永久の眠りについている。

 揺さぶる手が、激しく震えて。

 慟哭が、木霊する。

 

「っ、おいおい、マジかよ……」

 

 一歩遅れてやってきた白石が、女に縋りつくアシㇼパと、それを無言で見守る尾形を見て、ぎょっと目を剥いた。

 

「見届けたのか……!? 選択を……」

 

 そこで、無言のままアシㇼパを見つめていた尾形が、ふと顔を上げた。

 

「選択?」

 

 尾形の、いっそ間の抜けた反復に、重々しく顎を引いてみせる。

 

「尾形ちゃんが……この列車で、何をするのかって……それを確かめるためにここまで来たんだって、……俺を庇って、撃たれてるっていうのに……」

 

 崩折れるように、傍らに膝をついた白石が、震える指先で彼女の顔に触れる。穏やかに緩んだその頬をなぞって──見つめる表情が、苦しげに歪んだ。笑っているようにも見えた。

 

「満足そうな顔しやがって……くそぉ、」

 

 そこでただ一人、少し離れた場所からそのやり取りを見守っていた杉元が、控えめに口を開いた。

 

「引き上げる前……何か言ってたみたいだが……」

 

 死の間際で錯乱していたとしか思えない、脈絡のない発言。

 けれど、尾形としては今までの積み重ねゆえか、何らかの合点がいく内容だったようで。その横顔は、憑き物が落ちたように穏やかだった。

 

「ずっと……ずっと昔から、俺を試していたような女だった。……でも、ここに来て、ようやく納得行く結果が得られたらしい」

 

 額を覆う前髪を軽く除けて、露わになったそこへ、恭しく唇を落とす。

 

「……これが、祝福」

 

 ──ずっと昔から、試していた。

 ──ようやく、納得の行く結果が得られた。

 ともすれば、彼女の発言同様、真意のわからない発言ではあったが。尾形と出会う以前からタマを知っていた杉元にも、何となく合点の行く部分はあった。そんな気がしていた。

 

「初めて会った時から。……どこか急いで、一人ぼっちで走り続けているようなひとだった」

 

 一人にならないで。

 彼女を愛した人々の願いを振り切ってまで、辿り着かなければいけなかった結末。

 目指した答え。

 でも今、やっと足を止めることができたのだ。大切な家族と、仲間に囲まれて。

 傍らに膝を折る。胸の上に置かれた華奢な手を、そっと撫ぜる。

 

「これで、ゆっくり眠れるね」

 

 それを最後に、風だけが吹き荒ぶ沈黙の中。

 口を開いたのは、尾形だった。

 

「……行くぞ」

 

 低く、呻くような呟き。

 それから自身の外套を脱ぎ、無残な有様の肩口と、涙の跡が残る顔とを覆い隠すように着せてやり。その身体を横抱きに抱えて、立ち上がる。

 

「権利書を取り戻すんだろ」

 

 きっぱり紡がれたその言葉に、涙を拭う白石が問いかける。

 

「……いいの?」

「……もし自分が死んだら、俺が代わりに全てを最後まで見届けろ、と。停車場で別れた時、きっと、あいつはそう言おうとしていた」

 

 尾形の断言に、柔らかい苦笑を浮かべた白石が鼻を擦る。

 

「……タマちゃんらしいぜ」

 

 ──しかし、穏やかな空気が流れかけたのも束の間。

 

「っ、」

 

 車体そのものが、盛大に揺れた。局所的な地震でも起こったのかと聞きたくなるような、実に強烈な震動だった。

 

「今の何だ?」

「ひっくり返りそうな揺れだったぞ」

 

 困惑した様子の3人だったが、ただ1人、尾形にはその心当たりがあった。途中からこの列車に乗り込んできた彼にだけは。

 

「ここで……悪い知らせがひとつある」

 

 尾形の淡々とした呟きに、彼らが揃って振り返る。緊張した面持ちの尾形は、努めて冷静を装っていることが読み取れる抑えた声音で、

 

「……機関室に誰もいねえ。最初からいなかった。逃げたか、何かに襲われたか……」

 

 過程はともかく、現状、列車を操作すべき人間が居るべき場所に居ない。

 その事実が示すものとは。

 

「暴走してんのか?」

 

 ──このままじゃ、函館駅に突っ込むぞ。

 

 杉元の焦りが滲んだ呟き。そこからいち早く動いたのは、アシㇼパだった。

 涙が引いた瞳。青の鮮やかさが失われ、どす黒く塗り潰されたその虹彩が、石炭庫の上からこちらを振り返る人影を捉える。

 それを認めた彼女は──“彼”目掛けて、躊躇なく和弓の矢を番えた。

 ただし、その指が弦から離れるよりも早く、漆黒の死神がピストルの引き鉄を引く。

 

「あぶねっ」

 

 結局、その弾丸は彼女のすぐ足元にあった屋根の覆いにニアミスし、彼女自身も気づいた杉元と白石によって引き戻されたが。

 今さらそれで怯むアシㇼパではなかった。杉元と鶴見が撃ち合っている間に、反対方向へと一目散に駆け出す。

 

「どこ行くの!?」

「こっちから降りる」

 

 このままでは膠着状態が続くだけと判断した杉元たちも、彼女の後を追って車内へ戻ることとなった。

 ひとつ後ろにある車両の出入り口は、タマが放った最後の弾丸により絶命したヒグマの死骸で塞がれている。

 

「ヒグマ……」

「誰かが倒したのか……?」

 

 男2人の驚愕の呟き。先んじてタマを背負って屋根から降りた杉元から、その身体を受け取った尾形がぽつりと答える。

 

「……こいつが」

 

 比較的綺麗な座席へ、慎重に横たえられる肢体。停車場行きの列車でも、彼女はこうして眠っていた。けれど、その時とは何もかもが違う。外套から覗く安らかなその表情も──冷えて硬くなっていくだけの肉体も。

 扉の前で佇むアシㇼパは、そんな尾形の動きを小さな背で感じ取っていたようだったが。

 やがて、

 

「……みんなはここにいてくれ」

 

 ゆっくりと、振り返る。

 

「アイヌの権利書は、私の問題だ」

「え、」

「私が矢筒を取り戻してくる」

 

 言いながら、扉を開ける。──しかし、何かがおかしい。異変に最初に気づいたのは、白石だった。

 

「連結が外されてるッ」

 

 風にそよぐネジ連結器を指差して、叫ぶ。言うまでもなく、鶴見の犯行だった。みるみる離れていく列車。考える時間はもう、残されていない。

 選択を迫られるアシㇼパ、その手に握りしめられる戸板が、微かに軋んだ。そうして、項垂れる彼女が、臓腑から絞り出すように言葉を紡ぐ。

 

「みんなに頼みがある」

 

 私の、最後のお願い。

 

「……あの井戸は、埋めたままにしてほしい……!」

 

 杉元と白石が、揃って息を呑んだ。

 こんな場所までもつれ込み、多くの犠牲を出しながらも戦い続けた理由。ひとつはアイヌの権利書であり──もうひとつは、未だ使われず残っていた一万貫の砂金であったはずだ。

 それを諦めろ、とアシㇼパは言ったのだ。

 ただ、彼女とて当然、生半可な理由でその“お願い”を差し出している訳ではない。

 

「あの大量の金塊を手に入れて、それで“めでたしめでたし”とは……絶対にならない」

 

 多くの人間が死んだ。

 ここまでも、ここに来ても。肉親、昔馴染み、同族、かつて敵だった男たち。

 これは金塊の呪いなどではない。人間の欲望には果てなどない。殺しても、殺されてでも、大金が欲しい──それで叶わぬ夢の続きを見たいと願う心を、止める術はない。

 持っている限り、殺し合いが延々と続く。続いてしまう。

 

「タマも、」

 

 アシㇼパの澱んだ瞳が、座席に横たえられたその身体を虚ろに捉える。数時間まで優しく頬を撫で、抱きしめてくれた手足が、今はもうモノのように力なく垂れ下がっている。

 

「……タマ……」

 

 ──平和に生きられたはずの命だった。

 こんなものが無ければ、もっと別の終わりを迎えられたかもしれなかった。彼女は優しく、ただ家族想いなだけの、どこにでもいる普通の人間だったのに。

 瞳が揺れる。溢れて、流れる涙は透き通っていた。けれど、その虹彩から濁りが取れることはない。

 

「ここで……断ち切らないと……」

 

 硬く握った拳で、拭い去る。叶わなかった願いを、誓いを振り切って。顔を上げる。

 一度、深く息を吸い込んで。

 

「鶴見中尉を──私の手で殺してでも」

 

 漆黒の意志が宿った眼差しが、杉元佐一を貫いた。

 とっさに、息を呑む。

 いつか見た“彼女”の瞳に、よく似ていた。

 常闇の黒であり、列車を動かす石炭の黒だった。その瞳がもたらす燃料が、魂に火を焚べるのだ。その熱が、自らが望む結末に向けて、手を、足を、心を動かし続ける。

 そこにはもはや是非を問う余地などない。苛烈に熱を帯びていく自身の身体を鑑みている場合ではない。

 激情であり──覚悟だった。

 

 ──俺には、尾形百之助の選択を最期まで見届ける覚悟がある。

 

 こちらを真っ直ぐ見据える在りし日の姿が、揺らいで。どろりと、脂のように、血のように、黒くとろけていく。

 それが再び形を成した時、そこに立っていたのは、1人の少女だった。

 

 ──私には、杉元佐一と一緒に地獄へ堕ちる覚悟がある。

 

「──────、」

 

 静かに目を瞠る。次に、その表情へ浮かんだのは──柔らかな微笑だった。

 妙な納得があった。

 そうだ。自身は結局、心の底から相棒として彼女を扱ってはいなかったのだ。

 

 ──彼女が俺と一緒に、地獄へ堕ちてくれるつもりでいるとわかるまで……

 

 苦い悦びに目を細める杉元の前で、アシㇼパはあたふたと自らの懐を漁り。一枚の貨幣を取り出してきた。鈍く、まだらに輝く金貨。

 支笏湖に沈んでいたところを海賊房太郎の手によって引き上げられ、アシㇼパに託されたもの。亡きウイルクの願いのかたち。それが、杉元に手渡される。

 

「杉元ッ、この金貨は、……たぶん10圓くらいの黄金だ、これじゃ治療費に全然足りないけど、」

 

 でも、私がヒグマの胆嚢を取るから。

 わかりやすく慌てたままそう続けた彼女は、今度は白石由竹に向き直り。

 

「白石はこれを……!」

 

 カサ……と手のひらに乗せられる、すっかり乾涸びた正方形の何か。亡き牛山の──といえば聞こえはいいが、実際は彼女が勝手に見出していただけの単なるゴミもといはんぺんが、時を経て白石に託される。少なくとも大切にしてきたものなのは間違いない。

 そして、彼女は最後に尾形を見上げて。

 

「……百之助」

 

 項垂れる。その手に握らせてやりたかった熱はもはや、失われてしまった。何もできることはない。委ねられるものはない。何も。

 

「……守ってやれなくて……本当に、すまなかった」

 

 苦しみと、痛みを伴って吐き出されたその懺悔を。尾形は、無表情で受け止めていた。

 

「こんなこと、言う資格はないかもしれないけれど。あの井戸には戻らないで……忘れてほしい、」

 

 皆、死んだ──死ぬ。

 このままでは。

 彼らには、彼には金塊が必要だった。そのためにここまで来た。わかっている。

 けれど、

 

「いちばん大切なひとまで失いたくない」

 

 それは紛れもなく本心であり、今の彼女の全てであった。

 ──最初に応えたのは、それらの発言に欠片の驚きも見せていなかった尾形だった。

 

「アシㇼパの気持ちは……多少はわかるつもりだ」

 

 呟いて、隣の男2人に視線を向ける。

 

「異論はねえよ」

 

 その眼差しを受け止めた白石の口から、声にならない声が漏れる。玉の汗が滲む坊主頭。

 

「…………………………」

 

 彼とて、半端な覚悟でここまでやってきた訳ではない。何が何でも黄金は欲しい。……けれど、それだけでは済まないのもまた、事実だった。

 唇をきつく噛み締め、額に手を当て、ぐねぐねと首を前後に動かす。言葉にならない感情の群れが、これまでの記憶が、彼の内側で渦巻いている。それがはっきりと見てとれた。

 やがて、天井を仰いだまま、

 

「………………はぁ…………」

 

 深く、息を吐き出した。諦めと優しさの色をしていた。それが、答えだった。

 その手が杉元の、彼女の相棒の肩に置かれる。

 

「言ってやれよ、杉元……“わかった”ってさ」

 

 その瞬間。硬く強張っていた口元に、微かに笑みが灯った。

 

「……わかったよ、アシㇼパさん」

 

 アシㇼパの表情が、ほっと緩んだのも束の間。

 

「ただ……行かせない」

「っ、!?」

 

 右手が、彼女の首根っこを掴んでひょいと持ち上げる。軽い身体は簡単に制御を失う。

 

「おい杉元、おまえ結局私を……! 放せッ」

 

 恐れていた答えが現実になったこと、それを悟って遮二無二暴れるアシㇼパだったが、杉元は構わず残された男2人を振り返る。

 

「白石、……クソ尾形。また会おうぜ」

「降ろせっバカ!!」

 

 呆気に取られるその前で、身悶えるアシㇼパを捕らえたまま、ぐっと脚に力を込め。

 

「──────、」

 

 一足で、離れていく車両に飛び移った。

 パァン。鶴見が放った銃弾は、見当違いの方向に飛んでいく。

 

「ひとりで行かせるかよ──相棒だろ!!」

 

 目を瞠り──その表情に、哀しくも柔らかい笑みを浮かべるアシㇼパ。

 石炭庫の外壁にしがみついたそのふたつの後ろ姿が、みるみる離れていく。

 後には、男2人だけが残された。

 

 

 

 

「──い、行っちまった……」

 

 露台から身を乗り出した中途半端な姿勢のまま、白石が呆然と呟く。予想だにしなかったこの状況に、一手早く対応したのは尾形だった。

 躊躇なく列車から飛び降りようとしたところを、

 

「無理だ尾形ッこの速さじゃ!」

 

 白石の腕によって後ろから羽交い締めにされ、すんでのところで押し留められる。

 ──この速度の列車から飛び降りれば、無傷では済まない。

 ──ならば、どうすればいい。

 ──このままにしてはおけない。

 ──動力源と切り離された以上、いつかは停車するだろうが、それがいつになるかはわからない。

 ──間に合わない、

 

「…………」

 

 睨み合いに近い、無言の膠着状態が数秒続き。打破する策を見出したのは、やはり白石由竹だった。

 

「……あっ! これ!」

 

 柵にもたれかかる尾形が何気なく手を置いていた操舵輪に、飛びつく。

 

「尾形! 手動の制動器だ! こいつを回せば止まるっ」

 

 ──国産列車に空気ブレーキが導入されたのは大正時代に入ってからであり、明治時代末期の当時は制動車掌が緩急車にて手動で操作する、いわゆる手ブレーキでの運用も行われていた。

 国鉄7100形蒸気機関車、その6両目であるこのしづか号は石炭を積む炭水車が接続されたテンダー機関車であり、その制動方法は前述の手ブレーキであった。

 

「……何でそんなこと知ってる」

「ふっ……俺は明治の脱獄王、逃げるのに役立ちそうな知識は何だって知ってるんだぜ。ピュウッ」

「…………」

「…………」

 

 白石の格好つけた仕草を無言で流した尾形、さっそく操舵輪を回し始める。流された白石も、特にそれについて言及することはなく、同じくそこに手を伸ばした。

 

「……どちらにせよ、こいつをこれ以上走らせとく訳にはいかねえ……ここで止めないと」

 

 それから、どれだけ経ったのか。

 鈍い轟音がいつしか耳障りな金切り声に変わり、目に見えて速度が落ち始め。やがて完全に、

 

「止まった……」

 

 鎖を飛び越えて線路に降り立った尾形が、辺りを見回す。覚えのない景色だった。

 

「……どこまで前進した?」

「わ、わからん……」

 

 港が近い。函館駅は海のすぐ側にある。列車が切り離されたのは、終着点からそう離れていない地点のようだった。

 時間がない。

 

「ここまで離れたら走って追うのはさらに不可能だ、俺が乗り捨てた馬がその辺にいればそいつに乗って行くんだが……」

 

 机上の空論。隣にやってきた白石と、無言で顔を見合わせる。

 

「…………」

 

 無言が、流れる。

 そうして、稀代の脱獄王が尾形に提示した、新たな解決策とは。

 

「と……とにかく、走りながら考えよ☆」

「…………チッ」

 

 どちらにせよ、立ち止まって悠長に考えている時間など残されていない。

 ひとまず、揃って線路伝いに駆け出した2人の背を追う──蹄の音。一直線にこちら目掛けて迫ってくるその響きに、流石に足を止めて振り返った彼らの瞳に映ったものとは。

 

「──谷垣源次郎!!」

 

 鶴見に不意打ちで狙撃され、早々に列車から蹴落とされたはずの谷垣源次郎が、馬に跨り駆け寄ってくるところだった。

 負傷したらしい脇腹を押さえながらも器用に手綱を操り、予想外の事態に立ち尽くす男2人の前で立ち止まる。しかし、彼が列車を降りざるを得なかった経緯を知る白石は苦い顔で、

 

「おっ前、戻ってきたのか!? ケツ撃ち抜かれてただろーが!」

「ケツ撃ち抜かれてた?」

 

 その想い自体は有難いものの、これ以上危険な戦場に身を投じるべきではない。そんな気遣いからの怒号だったが、谷垣は青ざめた顔で力なく首を横に振り。

 

「いや……大丈夫だ……フチに恩を、返さないと……」

 

 こんなところで退場する訳にはいかない。中途半端なまま終われない。

 同じく義理人情に厚い白石には、そんな彼の悲痛な気持ちが痛いほど伝わってしまったのだろう。気圧されたように黙ってしまう。

 

「…………」

 

 ただし、その熱意を肌で感じてなお、引き下がらない男もいた。

 

「谷垣一等卒……いや、マタギの谷垣」

 

 尾形の呼びかけに、顔を上げた谷垣が微かに目を瞠った。杉元たちとも大泊港で別れて以来の彼は、尾形がどうしてか彼の姉を故意に撃った、という時点で認識が止まっていた。

 そもそも、彼がこんな場所に、白石とともにいるということ自体が予想外だったとも言える。やや強張った表情で次の言葉を待つ谷垣に、気負いなく言葉が投げかけられる。

 

「そんなズタボロのケツじゃ乗馬は無理だ。傷が開いて3つに割れちまうぞ」

 

 一歩前に踏み出した尾形が、自身の胸に手を当てる。隻眼が、鮮烈に谷垣を射抜く。彼自身の正確無比な狙撃の如く。

 ──だから。

 

「俺が行く」

 

 その堂々とした申し出に、馬上の谷垣はすぐには首を縦に振らなかった。まず、呆気に取られたような表情になり。

 

「…………」

 

 続いて、困惑を含んだ沈黙とともに、その視線が隣の白石に流れる。しかし、今までの彼を知っている白石由竹は、神妙な顔で頷いて。

 

「大丈夫だ、今の尾形なら……」

 

 この男が単なる胡散臭い昼行灯でないことについては、谷垣は既に感じ取っていたようだ。

 

「……ああ、」

 

 それゆえに、信用に値すると判断されたか。顎を引いて、慎重に馬から降りる。

 その手から手綱をしっかり受け取った尾形は、一度短く息を吐いて。

 

「……その代わり……ひとつ、頼みたいことがある。谷垣」

 

 怪訝な顔の谷垣が、何か言うよりも早く。音もなく、後方の車両を指し示す指。

 

「あの車両に、タマがいる」

 

 淡々とした呟きに、谷垣が無邪気に目を瞬く。そういえば、今は姿が見当たらないな。その程度の仕草だった。

 アシㇼパのことを大事に想っていた彼女だから、そちらについていった。そう思われているのかもしれなかった。

 

「……負傷したのか?」

 

 ごく軽い調子で投げかけられる問いかけ。

 尾形は、すぐには答えなかった。

 

「…………」

 

 重苦しい沈黙が流れる。

 見ていられない。そう思ったのか、そこまで大人しくやり取りを見守っていた白石が、苦々しい表情で一歩前に出た。

 

「谷垣、タマちゃんは……」

「人目につかないうちに、」

 

 その発言を遮るようにして、尾形が再び口を開く。そこまで言って、息を吸い。深く吐き出しながら、続ける。

 

「どこか、静かな場所に運んでやってくれ」

「っ、…………!!」

 

 ──それだけで、聡いマタギは彼女に何があったのかを悟ってしまったらしかった。

 激しく見開かれた瞳。揺らぐその鏡面に、みるみる水分が満ちていく。ただ、それが溢れることは無かった。一度強く唇を噛み締めた後、

 

「…………わかっ、た」

 

 肩を震わせながらそう答えた心優しき男の肩に、優しく置かれる手。

 

「お前なら……あいつも構わんだろう。信用していたはずだ」

 

 常にそうであるように、平坦で抑揚の少ない囁きではあったが。どこか柔らかく聞こえるそれを、目元を拭った谷垣が受け止める。

 

「もう……良いのか?」

「ああ。じゅうぶん話せた」

 

 奥底に確かな礎を感じる答えに、ようやくその表情が緩む。尾形も、ほんの僅か微笑み返した。念押しするように一度、肩に置かれた手に力がこもって。

 

「……頼んだぞ」

 

 背を翻す。

 その足で、勢いよく馬上に乗り上げた。いきなりのことに悶えて嘶く栗毛を巧みに抑え込んで、声を張り上げる。

 

「──乗れ! 白石由竹!」

 

 尻を叩くような鋭い呼びかけに、負けず劣らず機敏にその後ろへ飛び乗る白石。それを見た谷垣が躊躇いなくこちらに背を向け、車両に向かうのをしっかり見届けて。

 男2人を乗せた栗毛の馬は、再び砂利を蹴り上げ、函館駅目指して駆け出した。

 

「尾形ちゃんが前でいいのっ!?」

「お前の腕は信用できん」

「え? ひど……」

 

 冷静に衝撃を受けた様子の白石に、ため息混じりに解説を入れる。どうせ、銃を使えなくていいのかだとか、そういうことが言いたかったのだろう。

 

「それに……どちらにせよ馬に跨った状態での狙撃なんぞ不可能だ。転げ落ちる」

「まあ、そうだよね」

「試した経験がある」

「あるんだね」

 

 そこからはしばらく、無言が続いた。

 尾形の腹に回った白石の手に、力が篭る。彼の背にぐっと額を押しつけた白石が、呻くように祈りを漏らした。

 

「……死ぬなよ杉元……アシㇼパちゃん、」

 

 ともすれば風に攫われてしまいそうな呟きだったが、尾形の耳には確かに届いていた。

 それでいて何も答えなかった男を見て、白石はそこで自身の発言の残酷さに思い当たったらしかった。微かな唸り声が聞こえた。

 

「……悪い、今の尾形の前で言うようなことじゃなかったよな……」

「いや、」

 

 しかし、尾形自身はそこに憤りだとか、負の感情を覚えていた訳ではなかった。

 ただ、思い出していた。

 

「タマもそれを望んでいたはず」

 

 それは、確かに彼女の願いのひとつだった。けれど、本質はそこにはない。彼女がその“願い”を見守る眼差し。宿っていた色。

 

「ただ……あいつは、奴らが死ぬ心配なんか最期までこれっぽっちもしていなかった。それは奴らを愛していなかったからじゃない」

 

 断言に近い口ぶりだった。話の流れを飲み込めない白石が、怪訝そうに眉を下げる。

 

「……どういうこと?」

 

 一瞬、背後を見遣った尾形は、即座に前へ向き直り。鐙を強く踏み込んだ。短く嘶いた馬が、さらに速度を上げる。

 前を真っ直ぐ見つめたまま、尾形が落ち着いて言葉を紡ぐ。その揺らがぬ冷静さは、強固な確信に裏打ちされたものだった。

 

「俺の今までの経験から言わせれば……“絶対に大丈夫”だからだってことだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──俺は不死身の杉元だ。

 

 不滅の鬼神と讃えられた男は最後、愛した少女にそう囁いて、海中に沈んだ。

 崩折れるアシㇼパの前で、半纏を脱ぎ捨てた白石が湯気くゆる海面に飛び込み。

 時間にして、どれほどだろう。

 実のところ、何分もなかったはずだ。けれど、見守る人間にしてみれば永遠にも近い数十秒の後──杉元佐一を担ぎ、軍帽を口に咥えた白石由竹が水面から顔を出してみせた。

 杉元佐一、だけ。

 ともに水中へなだれ込んだはずの鶴見篤四郎は、未だそこに沈んだまま。

 当然だ。

 白石由竹にはその理由がない。

 アシㇼパにも。

 

 ──ならば、自分には?

 

 泡立つ水面を一人、見下ろす。拳をきつく握り締める。かつての思い出が、眼下の泡のように浮かんでは、弾ける。

 

「……鶴見中尉殿……」

 

 確かに、彼を求めていた。

 彼とならば、どんな困難も乗り越えられるし、どんな夢でも叶えられる。

 一度でも、ほんの一瞬でも、心からそう思えるくらいの愛をくれた男だった。

 けれど、勇作もまた自らに愛を与えてくれた人間の一人だった。どうしても忘れられなかった。

 弟を殺めた彼を、その事実を無かったことには出来なかった。そういう選択をした。

 これが正しかったのだろうか。

 彼女が望む結末だったのか。

 わからない。

 もっと良い選択肢があったのではないか。苦しみ続けてきた彼女に、希望ある未来を与えてやれたのではないか。

 きっと一生悩み続ける。どれだけ考えても答えは出ないのだろう。

 でも、それでいいのだという気もしていた。

 

 ──世界は、自分が思っていたよりずっと複雑で、難しいものなのだから。

 

 鶴見はまだ上がってこない。

 ──踏み出しかけていた足を、引く。

 背を向ける。かつて愛した人間と、存在し得たかもしれない選択に。

 

「──────、」

 

 振り返って。

 向けた視線の先──意識を取り戻したらしい杉元が、人工呼吸を施そうとしていたのか異様に顔を寄せる白石の頬に、痛烈な平手打ちをかましているところだった。

 その光景にほっと、脱力する。

 どこに左胸を刺し貫かれてなお、息のある人間がいるというのだろう。何とも恐ろしく、頼もしい男である。

 

 ──まさか、心臓を持っていかれても不死身とはな。

 

 全く、何をどうしたら死ぬのやら。

 きっと、彼女もそう思っていたことだろう。

 白石を退けた杉元は、泣きじゃくるアシㇼパの頭を優しく撫でてやっている。つい、笑みが浮かんだ。

 

「早く医者に連れて行け、」

 

 そちらに向けて走り出そうとした、まさにその時。……ふと、視界の端に映る異変に気づく。

 

「……?」

 

 ──線路の向こう。

 随分と慌てた様子の谷垣源次郎が、息を切らしてこちらに駆け寄ってくるところだった。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。