【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について 作:捕まえようとした蝶
早春、東京にて。
そのとある街角で、ひとりの少女が路肩の商人と向き合っていた。
「干し柿? あるよ!」
青果物の棒手売りが、紐から取り外した干し柿を彼女に手渡す。
慎重にそれを受け取った少女は、その暗褐色をただじっと見つめていた。喜ぶ様子も、口に含む様子もない。
甘味にはしゃぐような年齢の子どもが、道端で干し柿を手に佇んでいる。確かに不可思議な光景ではあったが、彼女が道行く人々の視線を集めている所以は、それだけではなかった。
シナノキで編んだ袋を額に掛けた荷負い縄で背負い、独特な紋様で彩られた額当てと、上着とを羽織ったその立ち姿。ほとんどが和装、時折洋装が混じる程度の人混みの中で、アイヌの伝統衣装を着こなす少女の姿は目を引いた。
しかし、当の少女はそんな好奇の視線の雨には構わず、ぽつりと重苦しく。
「……タマは、甘い物が好きだって言ってたな」
その、微かな呟きに。
「うん」
──隣で、一足先に干し柿を頬張っていた女が、気負いなく頷いた。
肩の辺りで切り揃えられた艶やかな黒鳶色が、動きに合わせて揺れる。星空の瞳が少女を見下ろしている。咀嚼して、嚥下して。
「おいしいよ」
穏やかな返答に、少女は──アシㇼパは、そこで初めて柔らかな笑みを見せた。
洋装に半纏を羽織った青坊主、軍帽を被った青年、アイヌの少女──そして黒眼帯の男と、明治には珍しい尼削ぎの女、と珍妙な取り合わせの5人が、小金井の街中を並んで歩く。
目的地は、この街にあるという花屋。
ここまでの地道な聞き込みが功を奏し、運良く存在を知ることが出来た店だった。
情報が正しければ、“彼女”は新しい夫とともにその店を切り盛りしている。
「……いやぁ、それにしても、杉元はともかく」
その道中、やや後ろを歩いていた白石由竹が弾んだ声を上げた。揃って振り返る。
視線が重なる。穏やかに目を細めた彼は、しみじみと感慨深げに、
「タマちゃんまで無事だったとはねえ……」
──暴走列車が函館湾に沈んだ、あの後。
走ってきた谷垣源次郎は一言、「生きている」と叫び。引き上げられたばかりの杉元佐一とともに、尾形タマ──もといこの身体は、手近な病院に担ぎ込まれることとなった。
目を覚ますまでに一週間かかったが、その後は驚異的な回復力で、杉元とともに退院するまでに至った。
意識を取り戻す、までは療養中の病床で聞いた話。今思い出しても現実味の薄い内容だ。
「な。杉元はともかく」
「ああ……杉元はともかく」
「うん、我ながらすごい生命力だなって。杉元はともかく……」
「だよねぇ、杉元はともかく!」
「あれ? いや俺……」
「自他ともに認める不死身だろお前」
一度は完全に息の根が止まっていたようだった、といくら白石たちが騒いでも、担当医師はあまり気にしていないようだった。
まあ、同時期に診ていた患者には、左胸を日本刀で貫かれてもぴんぴんしている杉元佐一がいたのだからさもありなん。慣れっこになってしまっていたのかもしれない。
歩くたびに、視界の端に揺れる毛先が映る。指先で摘んでみる。
「ねえ、髪……変じゃない?」
「似合ってるぞ」
「カワイイよ」
血が固まったり、ところどころ千切れて長さが変わったりしてしまっていた長い髪は、入院中にばっさり切ってしまった。
こんなに短くする人いないよ変だよとは言ったものの、また綺麗に伸ばすためだから、とか何とか宥めすかされて、こうなった。医師が理解のある人で、色々と理由を書き連ねて断髪届を出しておいてくれたらしい。
一番この話に乗り気だったのはアシㇼパだった。アイヌの成人した女性は髪を切るのが普通のようだ。
「…………」
息を吹き返した。
五体満足で病院を出られた。
──要素を摘んで抜き出せば、これ以上なく「めでたし、めでたし」だ。
でも。
「……でも、」
ひとつ、気に掛かっていることがあった。
目を覚ました当初はあまり意識していなかったけれど、入院生活の暇潰しにこれまでの話なんかをしているうちに、引っかかった部分。
呟きに、皆の視線がこちらへ向く。
「何か、色々と忘れてる気がするんだよね」
一瞬の沈黙。
……から復帰して、まず初めに言葉を紡いだのは、やはりというべきか弟。百之助だった。
「……忘れてる?」
その隻眼を、落ち着いて見つめ返す。どう話を繋げたらいいものか迷っているうちに、眉を下げた白石が、
「ヤダ〜、記憶喪失?」
「いや、記憶はちゃんとある。あるんだけど、」
小樽でのこと、夕張でのこと、旭川でのこと。何もかも、きちんと覚えている。
白石やアシㇼパ、杉元との会話に齟齬が発生したというようなこともない。けれど、やはり何かがおかしいのだ。これは疑念ではない。確信に近かった。
「何と言えばいいのか……本か何かを読んで得た知識をごっそり忘れてしまった、ような感覚?」
今までのことを思い出そうとすると、不自然な欠落があるのを感じる。覚えているはずなのに、なぜか思い出せない。そもそも、どこで学んだ知識なのかもわからないけれど、確かに覚えていたはずのことなのだ。
その影響を強く感じるのは、前述の通り具体的な事象についてではなく、むしろ、
「そのせいなのか。今までのことを思い返すと、あの時の自分、なんであんなことしたんだろう……みたいな」
──なんであんなことしたの?
今までのことを振り返る中。幾度となく向けられたその問いに、ひとつも答えられなかった。今さら秘匿したいことがあったからではない。
単純に、わからなかったからだ。
「何か意味はあったんだろうけど。当時の気持ちが全く思い出せないや」
これも昏睡状態のせいなのだろうか?
運が良かったのか、こんな危険な争奪戦に巻き込まれてなお、生死を彷徨った経験など一度もない。大きな怪我をした覚えもないのだ。
「変な感じ。頭なんか打ってないのに、いきなり生まれ変わったみたいな」
まるで、他人の足跡を眺めているかのよう。
確かに自身で決めて行動したはずのことなのに、全く共感できない。無茶をしているから、というよりは、原理が見えてこない。
皆、一様に怪訝な顔で黙り込んでいる。
妙なことを言っている自覚はある。でも、どうしても一人で抱えきれなかったのだ。
そこまで考えて、ふと。
「……いや、そもそも……」
全ての始まり。
小樽より、夕張より、もっと以前の選択肢。かつての私が自ら掴み取ったはずのもの。
「私……どうしてあの時、百之助を追いかけて、北海道まで行ったんだろう?」
花木生花店に辿り着いた。
杉元佐一は「行ってくる」とだけ言って、一人でその花屋へ向かっていった。
少し疲れた、という彼女に付き添って、路肩に腰掛けて人の流れを眺める。やはり怪我が明けたばかりで、何か月もこんな東京行脚について回るのは無茶だった。そう言ってもみたが、心配性、と笑い飛ばされてしまった。
彼女は黙って景色を眺めている。
透き通った無表情。いつも朗らかで、おっとりしていると医師に評された彼女はあまりしない表情で。俺には懐かしく感じる横顔でもあった。
「……さっきの問い、」
「うん?」
呟きに、のんびりと応えてみせる。
あれから、傍から見れば不可解極まりない心情をひとしきり吐露した彼女は、何でもないと自ら会話を打ち切ってみせた。その表情に憂いは見えなかったが、こちらはそれで片付けることはできなかった。
「どうして北海道まで来たのか」
「ああ、」
輝きの散ったその虹彩を覗き込む。神津島の海底に眠る黒曜石の瞳。
「……心配だったから」
──お前のことが心配なんだ。
「愛していたから、だろ」
──愛しているから。
かつての彼女が与えてくれたものが、今ここに己を生かしている。
そう感じられることが生きるための力のひとつになる。そうでしょ、と脳裏で誰かが笑う。
──だから、あなたは生きて。
──愛してるんだ。
自身の手のひらを、じっと見つめる。強く、握り込む。彼女がいない世界に意味などないと思っていた。それでも、生きることを決めたのだ。
自分自身で。
「愛……か」
唐突に淡々と、抑揚の薄い呟きに、思わずそちらを見る。覚えのある響きだった。
穏やかに目を伏せた横顔。
晴天の穏和な温もりから、朔夜の静謐な冷たさを纏ったその表情に、息を呑む。
「そうか……そうだよな、最初からそれで良かったんだ、ずっと昔から……」
微かに震えた声で、そう呟いて。瞼を閉じる。それから、ゆっくりと顔を上げた。
硝子細工のような笑みの中、底の無い漆黒が、穏やかにこちらを見つめている。全てを飲み込む凪いだ暗闇。恐怖は感じなかった。
伸びてきた手のひらが、柔らかく頬を包み込む。冷たい指だった。
顔が、近づく、
「……ありがとう、尾形。何もかも」
額に触れて、すぐに離れていった。ほんの一瞬でも、柔い感触を覚えていた。
「お前と……今までの俺と、これからの私に。末永く、祝福のあらんことを」
優しい微笑が、祈りを告げて。
──はっと、我に返る。
気づくと、一人で路肩に腰掛けていた。隣には誰もいない。ただ、そそっかしい蔓日々草の花が一輪、植え込みの隅で木枯らしに揺れていた。
顔を上げた先、少し離れた場所に立っていた彼女が、こちらを振り返ったところだった。
「……百之助?」
不思議そうに呼びかけられる。いつの間に、とは思わなかった。無言で立ち上がった。一歩一歩、踏み締めるようにしてそちらに向かう。今、己は自らの意思でここに立っている。
「杉元が戻ってきたみたいだよ」
手招かれるがまま隣に立っても、彼女は黙って佇んだままだった。
どこか思い詰めたような、微かに強張ったその横顔。アシㇼパや、白石には見せることのない顔だった。どうしたと水を向けるより早く、
「……何だか不安なんだ」
いっそ幼気なその呟きは、混じり気のない彼女の本心だったのだろう。
「不安?」
「うん」
細い指先が、自身の胸元に添えられる。彼女はじっとどこかを見つめている。ここではないどこかを。
「これからどうしたらいいかわからない」
何気ないふうで紡がれたその呟きに、一瞬息を呑む。悟られはしなかっただろうか。
彼女はまだ前を見据えている。
「今までずっと、何もかもわかっていたような気もする」
そこで、おもむろに張り詰めていた空気が霧散して。無邪気に首を傾げてみせた。
「私、予知能力でもあったのかな?」
「そうかもしれん」
「ええ?」
素っ頓狂な声。つい浮かんだ笑いを堪えながら、手を伸ばす。彼女の空いた左手を取る。
温かい指に、指を重ねる。
「それくらいおかしなヤツだったよ」
微笑みかける。
彼女の中の路線図。その終着点は、正しくあの函館駅だった。彼女はそこに辿り着いた。
──それでも、しづか号のように海へと沈むことはなかった。
全てが終わった今、また新しい地図の上を歩き出した。まっさらな、人生という白紙の上を。路線図は、彼女自身の足が作るのだ。
「でも、愛してくれたから」
愛し、愛されて。
今ここで息をしている。
故郷に帰ろう。
干し柿を食べた杉元佐一は、アシㇼパにはっきりとそう告げた。
かつての好物を数年ぶりに口にした魂は、既に自身が在るべき場所を見つけていた。
その結末を見届けた白石由竹は、ひっそりと姿を消した。白石は確かに彼らのことを愛していたけれど、彼の居場所はここではなかった。
別れを惜しみつつも、後を追おうとする者はいなかった。これでいい。皆、口に出さずともそう思っていた。
4人で浅草の街中を歩く。
自然な無言の中、口を開いたのは尾形百之助だった。
「しかし……エビフライ、ねえ」
「あ?」
揶揄を含んだ呟きに、数歩先をいく杉元が目を尖らせて振り返る。
──帝国ホテルで食えるエビフライってのが美味いんだよな。
尾形は、先ほど彼がこぼした独り言を聞き咎めていたのだ。さっそく喧嘩腰の杉元に、ふんと鼻を鳴らして。
「いや? お前みたいな男が、まさか帝国ホテルなんてハイカラな場所に行った経験があるとは思わなかったもんでな……」
「喧嘩なら買うぜ、コウモリ野郎」
「やめなさい」
大都会の真ん中で一触即発の雰囲気──だったところを、タマが呆れた顔で仲裁する。しかし揶揄う意図は無いにせよ、彼女も気にかかっていたのか、
「でも……杉元って本当は、良いところのお坊ちゃんだったの?」
穏やかに投げかけられた問い。杉元も目くじらを立てることはなかったが、
「……うーん……」
代わりに、唸って。
「いや、もう時効か……実はね、」
決心したように話し始めた。
「何年か前、あるひとの替え玉で、帝国ホテルまでお見合いに行ったんだ。むしろ、故郷の神奈川から流れ着いた当時の俺はほとんど一文無しでね。飯を食わせてもらった恩人に雇われて、そういうことになったんだよ」
エビフライはそれで食べたんだ。
奇天烈とも呼べるそんな経歴に、女2人は興味深そうに目を瞬いていたが。……再び、それに水を差す男が1人。
「……ちょっと待て、杉元……」
しかし、今度は自信に溢れた揶揄いの態度ではなく。深刻そうに眉根を寄せた表情で、尾形が杉元に向けて手を翳す。
「何、」
「まさか、その替え玉っていうのは、花沢勇作殿のことじゃねえよな?」
その、確信めいているとも、否定を願っているとも読み取れる呟きに。杉元は軍帽の下の瞳をぎょっと瞠り、
「エッなんで知っ、…………」
そこまで言って、本能的に危機を察知したのか。とっさに口を塞いだものの、時既に遅し。
「…………」
「…………」
沈黙が、流れて。
「スギモトサイチィ〜〜〜〜?」
「いやだから時効だって!! ねえ!?」
不自然な笑みを浮かべた尾形に迫られる杉元。流石に開き直るには分が悪いと感じたのか、情けなく声を上げながら仰け反ってみせる。
そのうち杉元を追い詰めるのに飽きたのか、今更と思ったか。尾形は案外あっさりと身を引いて、きっちり撫でつけた黒髪をがりがり掻き乱した。
「はあ……まさか、あの汚い台詞を叫びながら局部を振り回す変質者がてめえだったとはな……二重にガッカリだぜ」
「え、もしかしてあの時乱入してきた兵士ってお前……」
「タマのふざけた予想が的中したのかと面食らったもんだが、嫌な種明かしだったな」
「え? 私そんなこと言ったっけ?」
そもそも、ここで花沢勇作の名を聞いても何の感慨も、イメージも湧かなかった。
当然だ。彼女にとっては何の面識もない、赤の他人なのだから。
「まあ、あれだね。合縁奇縁だね」
「いい感じに纏めようとしてる?」
ただ、尾形の異母弟の身代わりとして、まだ陸軍に入る以前の杉元佐一が抜擢され、計らずもそこで既に犬猿の彼らが顔を合わせていた──という事実そのものは、想像するとそれなりに愉快だった。
そこで、大人しく聞いていたアシㇼパがぽつりと。
「……ユウサクと杉元は似てるのか?」
その問いに、かの青年将校の眉目秀麗と称された顔立ちを思い出したのか。鼻を擦りながら得意げに、
「まあ……俺は菊田さんに品のある顔、」
「これっぽっちも似てねえ、こんな野人」
「あ? 誰が野人だコラ」
食い気味に叩きつけられた尾形の罵りに、誇らしげな笑みを瞬時に打ち消してその胸ぐらを掴む。一触即発どころか開戦の号砲が鳴らされたような状況だったが、呆れを通り越して怒りを滲ませたタマの鶴の一声により、一時休戦となった。
顔も見たくない。
その慣用句通り、お互い背を向ける形でひとまず落ち着いた彼らだったが。
やがて、それとなく軍帽を直しながら、杉元が尾形に言葉を投げかけた。
「勇作殿は……結局、どうなった」
感情を押し込めた、不自然に平坦な声音。
尾形は、すぐには答えなかった。
ワンテンポ遅れて、
「……旅順で死んだ」
既にその事実を知っていた2人は、黙って悲しげに目を伏せたが。尾形は、無表情で前を見据えていた。
「俺は弟に何もしてやれなかった」
続いて、淡々と放たれた懺悔に。
「ああ」
その呪縛に縛られ続けてきた男が、同じ顔と瞳で、重々しく顎を引く。残されたもの。叶わなかった願い。
幾つもある。数えていたらきりがない。
「俺なんかより、寅次のほうがよっぽど生き延びるべきだったって思ってた。そっちのほうが何もかも上手く行ったんじゃないか、って」
長い旅だった。たくさんの出会いと、別れがあった。命と、願いと、愛があった。
拳を握り締める。
顔を、上げる。
「……でも、進まなくちゃいけないんだよな」
──生きていかねば。
早春の東京を、春一番が吹き抜けていく。
芽吹きは、もうすぐそこだった。
雨が、降っている。
街角にカラフルな傘の群れが咲く中、人の流れに逆らうようにして走る人影があった。
20代半ば程に見える、若い男だった。
土曜日の夕暮れ、ほとんどが私服の人混みの中で、傘も差さずに走るスーツ姿の男は、悪い意味で人目を引いた。その胸元で、ネームホルダーが虚しく揺れている。1月下旬の冷たい雨が、彼の鞄に、小脇に抱えた上着に、容赦なく打ち付けられる。
顔までぐっしょり濡らした彼は、頻りに腕時計に目を落としている。その足は、真っ直ぐに眼前へ聳え立つ駅ビルへと向かっていた。
目と鼻の先までやって来た。
後は構内に入るだけ。
そこで。
「──────、」
足が、おもむろに止まった。
何の前触れもなく道の中央で静止した男に、周囲の人間は怪訝な、あるいは迷惑そうな表情でそれを避けていく。しかし、そんなことは男にはもはや瑣末事だった。
彼の瞳はもう、腕時計の針も、すぐそこにある建物も捉えてはいない。
その視線は、ファッションビルの上階──に備え付けられた街頭ビジョン。そこから流れる映像に、釘付けられていた。
夕方の、ありふれたニュース番組。
そこで取り上げられていたのは──ロシアの著名な画家、その死後に自宅の屋根裏から発見され、オークションにかけられていた一枚の絵画。
その落札者がついに決まった、という速報であった。
『第七システムズの花沢勇作社長が、1億5000万円で落札──』
液晶一面に、大きく映し出される油絵。
キャンバスの中央、瞼を閉じた二頭のオオヤマネコが寄り添っている。
やや小柄な一頭を、大柄なもう一頭が、守るように、慈しむように背後から覆いかぶさる構図だった。
その、タイトルは。
──山猫たち。
1920作。
作者名は──ヴァシリ・パヴリチェンコ。
男は、しばらく呆気に取られた様子でそのニュースを見つめていたが。やがて、その表情が瓦解する。
落ち着いた無表情。
はあ。ひび割れた唇から、白い吐息が細くたなびいて、すぐに消えた。
「……ひとり増えたら値段が半分になった」
雨音に掻き消されそうな、平坦な囁き。
後ろに撫でつけられた髪が崩れて、ひっきりなしに雫を滴らせている。
「凡庸な結末だったからか」
所詮はそんなもの。
「悲劇にこそ人は心動かされ、金を払う」
刳り抜かれたような、洞穴にも似た瞳が見つめる液晶の画面。既にトピックは移り変わり、今はアイヌ料理を扱う飲食店チェーンが、東京に出店を開始した、という旨のニュースが流れている。
けれど、男はそこから動かなかった。
冬の雨が、置物のように佇む男を芯まで濡らし、凍り付かせていく。
「やはり俺では駄目だった」
落胆を伴って吐き出されたその、呟きに。
「そうでしょうか」
──雨音が、おもむろにくぐもって。その表情に、丸い影が落ちる。
差し出された傘が、雨を遮っていた。
男は、振り返らなかった。
背後でその柄を握る人影。いつの間にか、そこに立っていた。彼はモッズコートのフードを目深に被ったまま、淡々と続ける。
「死に様についた金額ごときで、人間の……人生の価値は計れんということでは?」
ぐっしょり濡れたスーツの肩が、小さく跳ねた。
「構わんのです。“本来ならば”3億の価値がついた人生だったとしても……残りの1億5千万円の分は、もう貰っておりましたから」
顔を上げる。フードの下から覗く漆黒の瞳が、真っ直ぐに男を見据えている。
「だから……良いのですよ」
男が、ゆっくりと振り返った。
黒鳶色の髪から滴った雫が、下げたままのネームホルダー、そこに収まった『佐藤 理玖』の4文字をビニール越しになぞっていく。
沈黙があった。
それから、
「でも」
紡いだ声は、震えていた。
透き通った無表情。血の気の失せた頬に、温かい雫が筋を作っていく。
「お前の知らないお前も、3億の価値がある死に様までを精一杯生き抜いたはずなんだ。どんなに悲劇的な結末でも、あの選択は、人生は、お前だけのものだった……」
ようやく、気づいたんだ。
モッズコートの男は、その濡れた独白に無言で耳を傾けていたが。
やがて、一歩足を踏み出す。
自身が掲げた蝙蝠傘の下、雨から逃れた男が、濡れたフードをゆっくり取り去った。ツーブロックのオールバックにきちんと整えられた自身の黒髪を、一度撫でつけて。
傷のない頬を、柔らかく緩めてみせる。
さりげなく取り出されたハンドタオルが、その目元を丁寧になぞった。
1月22日、とある街角にて。
──雨脚は、いつの間にか弱まり出していた。