【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について 作:捕まえようとした蝶
北海道、小樽市周辺。
その片隅にひっそり存在するアイヌコタンに、今年も雪解けが訪れた。
短い緑と土の季節に湧き立つ住民は、ほとんどが伝統的な民族衣装に身を包む中。銃を背負った、目立つ和装の女がひとり。
「んー……良い天気」
身体全体で大きく伸びをして、息を吐く。後ろでひとつに結んだ三つ編みが、動きに合わせて尾のように揺れた。
「山菜採り日和だね」
呟いて、すぐに唇を尖らせた。毛先を結ぶ白いリボンを指先で弄りながら、
「狩りだと乗り気なのに、これには付き合ってくれないんだものなあ」
名前を出さずとも、彼女──尾形タマの脳裏には、つれない弟の横顔がはっきり浮かんでいた。
あの函館駅行きの列車の件以来、1年ほどは周囲にも過保護と言われるくらいあちこちついて回って来ていたのに。最近は、めっきり放任主義である。余計な心配を掛けていない、という点では安心できるかもしれない。
そこで、
「……ん?」
チセが立ち並ぶ中、同じく見慣れない洋装に身を包んだ人影が佇んでいるのを見る。
かなりの長身だった。鳥打帽を目深に被ってはいるが、若い男のように見えた。
何か困り事だろうか。
特に気負いなく考える。日本語を母語とする和人と、スムーズに会話ができるほどの日本語話者であるアイヌは、それほど多くない。
「あの……何か御用でしょうか?」
「……あ、」
背後から呼びかけると、弾かれたように向き直った。鍔の下で強張った表情が、僅かに緩む。どうやら、男は封筒か何かを手に持っているようだった。
「申し訳ありません、手紙を……いつもの配達員の方が足を挫かれたとかで、代わりに」
「ああ、そうでしたか……」
文字の読み書きという文化の存在しないアイヌではあるが、このコタンでは文書の送受という仕組みそのものは存在している。和人の生活圏で労働した経験から、後天的に識字能力を会得した者もいない訳ではない。
麓の郵便局から若い配達員が届けてくれるのがいつものことだったが、その彼が何かで怪我をしてしまったため、代役でこの鳥打帽がやってきた、ということらしい。
「宜しければ、私がお預かりしますよ。これはどちら様に?」
「スギモトサイチという方宛のようです」
淡々と紡がれた顔馴染みの名前に、即座に送り主の名前と、その用件が思い浮かぶ。今回に始まったことではなかったからだ。
「……また谷垣源次郎かな……」
「え?」
「あ、いえ……幸い、顔見知りですので。きちんと渡しておきますね」
どうせまた、彼の妻であるインカㇻマッが出産したという報せなのだろうな。目出度いことには違いないが、これから会える予定もない夫婦の家庭事情など逐一知っても反応に困る──という内心を笑みで押し隠し、封筒を袂に仕舞い込む。
どういう経緯でお鉢が回ってきたのかは知らないが、それでこの鳥打帽の仕事は終わる。
──と、思いきや、
「……あの、つかぬことをお伺いしますが、」
「はい?」
「こちらに、オガタという男性が住んでいらっしゃるとお聞きしたのですけれども……」
オガタ──尾形百之助。
「──────、」
とっさに、その鍔の下の瞳を窺うように見上げていた。
まさか、こんな場面で身内の名前を聞くことになるとは思わなかった。お世辞にも善行を積んできたとは言えない弟だ。杉元はともかく、外部の人間がここに尾形が住んでいることを知っているその経緯がわからない。
不安と疑念が奥底から微かに噴き上がってくるのを感じながら、
「……尾形百之助は、私の家族ですが」
「っ、……!」
低く、控えめに告げられたその答えに。
なぜか、男が小さく息を呑んだ気配がした。
「……では、あなたが……」
何か思うところがあったらしいが、生憎こちらには何ひとつピンと来る部分はない。危害を加えてくるような気配はないが、どうだろうか。慎重に言葉を続ける。
「……えっと……うちの百之助に何か御用で? 呼んでまいりましょうか、」
「ええ、お手数おかけします」
品良く頭を下げる男。染みついた育ちの良さが窺える所作に、なおさら何とも言えない気持ちになりつつ背を向けたところで。
「あ……お名前、お伺いしても?」
名前がわからなければ紹介のしようがない。そんな当たり前の気づきに基づいた呼びかけだったものの、
「ああ、……ご挨拶が遅れましたが、私──花沢勇作、と申します」
深く被った鳥打帽の鍔を持ち上げて、男が微笑んだ。露わになったその顔は、稀に見る端麗さではあったが。
彼女の意識はそんな見かけのことではなく、聴覚にほとんどが傾いていた。
花沢勇作、
「…………え?」
──どんがらがっしゃん。
背後で鈍い音がした。
反射的に振り返った先。おそらく一杯に抱えていたのであろう何かの道具を盛大に地面へぶち撒けた杉元佐一が、中途半端な姿勢でこちらを見つめていた。呆気に取られたその表情。
時が止まったのかと錯覚したくなるような静寂の、後。
「おっ、おが、オガターッ!! オガターッ!!?」
弾かれたように飛び上がり。こちらに背を向けたかと思えば、どたどたと、足音荒く一目散に駆けていく。
叫んだ名前からして、一足先に尾形を呼びに行ってしまったらしい。先を越された、と場違いな感想を抱く横顔に投げかけられる、
「お初にお目にかかります。……姉様」
さりげなく両手を取られて、我に返った。革手袋越しにもわかる骨張った手のひら。
「あね、…………」
いや、そうではない。
指先に力を込めると、左手にやんわりと握り返された。これは幻覚などではない、
「……生きてる……」
「はい、生きております」
にこやかに肯定されて、むしろこちらが面食らってしまった。
「あの……すみません、百之助から……その、てっきり、あなたは既に亡くなられたものと……」
「ええ。……大きな声では言えませんが、今も対外的にはそういうことになっているはずです」
「え……?」
声を潜めてそう囁いた男──花沢勇作に、聞き返すより早く。背後で、足音が止まった。
再び振り返った先、まるで盗人を強引に連行するかのような姿勢で、両脇をアシㇼパと杉元に固められた尾形と目が合った。神経質に整えられた髪にも、着物にも微かに乱れが見える。たちの悪い冗談とあしらったところを無理矢理連れてこられて、その道中で暴れたのだろう。
「勇作、…………」
ぐったり脱力した尾形は、呻くようにそれだけ呟いたかと思えば。額に手のひらを押しつけ、
「…………アシㇼパ、ストゥで俺を殴れ。また妙な幻覚が見えてる」
「尾形合点承知之助!」
「それやめろって言ったろうが」
普段の傲慢不遜な態度はどこへやら、まだ混乱しているのか、妙にしおらしい様子の彼に歩み寄る人影。
「兄様」
同じように優しく手を取り、呼びかける。
「幻覚でも、他人の空似でもありません。ご無沙汰しております」
生気を抜かれた顔でぼうっとその微笑みを眺めていた尾形だったが。やがてぽつりと、
「……生きてる……」
「さすがご姉弟、同じ反応をなさる」
「それ関係ある?」
硬直状態から復帰して。
すぐさま、聞きたいことしかないと声を上げた尾形の提案を、勇作は二つ返事で飲み込んだ。
現在、尾形姉弟が借りているチセ。その囲炉裏を挟んで2人、向かい合う。
1904年の真夏に火蓋が切られた旅順攻囲戦から、既に5年以上の月日が経過していた。
「姉様」
初めて目にするであろう異文化に、気圧された様子も、興味が抑えきれない様子もなく。促されるがまま茣蓙に膝を折った勇作は、まず初めにそう呟いた。
夢見るような甘ったるい響きだ──と感じていたその呟きの色だけは、年月を経ても変わっていないような気もした。
「初めてお会いしましたが……とても、その……お美しい方ですね、」
「はあ」
「目元のあたりがよく似ていらっしゃる」
「血は繋がっておりませんが」
──似ている。
“かつて”のほうが、もっと。思わず口に出しかけて、冒涜だと飲み込んだ。
“彼女”はこの結末を知っていたのだろうか。今となっては確かめる術もない。
代わりに、本題へと踏み込む。
「……生きて……いたのですね」
帽子を取った下、品良く整えられた短い黒髪に、言い知れぬ眩しさのようなものを覚える。
死んだはずの弟が生きていた。
何故だか、素直に受け入れられなかった。
そうするには少し、彼の死を悲しみ過ぎていたのかもしれない。5年の歳月は、あまりに長過ぎた。
「私は、鶴見中尉があなたの息の根を止めたと聞いていました」
「中尉殿が……?」
勇作は一瞬驚いていたようだったが、すぐに凪いだ無表情に戻って。
「あの晩、私を襲撃してきたのは宇佐美上等兵だけでした。あれは鶴見中尉殿の差金だったのですね」
いつかの、肌を刺すような煌めく溌剌さは消え。年相応以上の静謐さを纏った花沢勇作が、平坦に言葉を紡いでいく。
冬の明け方に踏む地面のように、柔らかさを失い、固く凍りついたその表情。“彼女”とは対極に位置すると思っていたはずの彼は、いつの間にかそれと近しい存在になっていた。少なくとも尾形の目にはそう見えた。
「それは、」
「私は宇佐美上等兵を辛くも退け、そのまま兵站から逃げ出したのです。脱兎の如く」
北海道まで渡ってこられたのは、逃げた先の旅順口区で偶然出会い、面倒を見てくださった方々の伝手でした。本当は色々と調べたいこともあったのですが、今の私は居候かつ、不具の身でしたから。
言いながら、手袋に包まれた右手をなぞる。不自然に動きの少ないその指。傍目には欠けの無いように見えるが、実際のところは。
「ここに辿り着いたのは……本当に偶然でした。用があって立ち寄った郵便局で、かつて陸軍兵だったという、杉元佐一殿宛の手紙を届ける人間がいないと聞いて……何か、ほんの少しでも手がかりがあれば、と」
そこまで言って、尾形の疑念が未だそこには無いことに気づいたのか。
「到底、生き遂せられはしないと思ったのでしょう。必ず死ぬものだと……」
「…………」
当たり前とも言えるその推察を聞いてなお、尾形の胸には不可解さが残った。“死神”がそんな雑に始末をつけるだろうか。それに鶴見は、宇佐美には自分が仕留めた、と告げていたはずだ。
そんな尾形の戸惑いは知る由もなく、或いは興味もないのか。短く息を吐いた勇作は、
「帝国軍人としての花沢勇作は、あの旅順攻囲戦で死にました」
そう口にした。
縁もゆかりもない人間の訃報を告げるような、いっそ他人事じみた口ぶりだった。
「今でも203高地の夢を見ます」
いつだって昨日のことのように思い出せる。どきりとした。花沢勇作にとって、1904年の203高地は未だ“昨日”だった。
「そこで私はあの時と同じ聯隊旗手で、銃弾飛び交う戦地を駆けております。しかし、夢の中でも私が山頂に国旗を打ち立てることは叶わないのです。この夢はいつも──背後から、私が銃で撃ち抜かれて終わります」
何度も何度も、嫌になるほど繰り返し見たのだろう。内容を述べる勇作の口調には、不気味なほど迷いがなく、気持ちが無かった。
一瞬、気圧されていた尾形だったが。──冴えた彼の頭脳は、こんな時でも見逃せない矛盾点を炙り出していた。
「……ちょっと待て、背後から?」
「はい」
「それはおかしい、正面ならともかく、敵兵が後方から狙撃してくるはずもない」
やや語気を強めて反駁する尾形。けれど、目を伏せた勇作は平静を崩さぬままに淡々と、
「では、兄様だったのでしょう」
もはや、落ち着いている──と評することすら不自然な、どこまでも自然な呟きだった。
息を呑む。汗がこめかみを伝った。
勇作は未だ、膝上で緩く結ばれた自身の両拳を見つめている。瞬きすら無く。
「…………何故、?」
「そう思っただけです」
ようやく絞り出した疑問にも、素っ気ない、とさえ呼べる口ぶりで簡単に応えてみせる。勇作がついと顎を上げた。何もない空間を、晴天の瞳が見つめている。
「兄様は、父上に愛されたかったのですね」
そして、そのためには私が邪魔だった。
恨み節も、憐れみさえ読み取れない、漂白された語り口。何もかもをとっくにしゃぶり尽くされた残り滓のような呟きだった。
「あなたの目から、私と父上の関係がどう見えていたかまではわかりませんが……私は、確かに父から愛されていました」
会話のたびに父の話を持ち出す異母兄は、彼の目にはどう映っていたのだろう。そんなことを今更考えた。詮無いことだった。
そこでふと、我に返る。
勇作の瞳がこちらを見つめていた。
「ただ、それは武人として──軍神の子として、ですが」
軍神の子。見出された子。
目の前に座る弟が、かつて愛した死神と一瞬重なり。すぐに消えた。
「武人の愛は、人の子のそれとは違います。愛する者から矢面に立たす。まず死なす。そうでなければ、己を信じて命を擲つ部下たちに示しがつかないからです」
「しかし、そんなことは兄様も既にお分かりでしょう。私が死に……その後、兄様が代わりに聯隊旗手に選ばれたとしたら、父からの愛であると喜ばれたはずだ。……ですが、私の考えていたこととは少し違います」
「……兄様はただ、人の子として愛されたかったのでは? そして、その望みは既に姉様によって達成されていた。兄様はただの尾形百之助として愛されていた。だから、あなたは203高地で私を撃たなかった。そういうことなのではないでしょうか」
黙り込んだ尾形の前で、勇作は澱みなく言葉を繋げていく。頭の中に文章が出来上がっているかのようだった。
やがて。長い、語りが終わり。
尾形は、奇妙な気持ちで目の前の男を見つめていた。
「…………」
何も言う気にならなかった。その必要さえなかった。不思議と、満たされた気持ちでいた。
「何かに追い立てられるように生きてきた二十余年でありました。軍を飛び出してから、時間だけはありましたから。初めてたくさん考えました。父上のこと、母上のこと、同胞のこと。そしてあなたのこと……姉様のこと」
──かつての花沢ヒロは、帝国軍人として正しくないと知りながら、見合いの場を設けて子を戦場から遠ざけようとした。
「母もまた、私を愛していました。聯隊旗手の花沢少尉ではなく、ただの勇作として」
名誉の死が何だと言うのだ。生き恥が何だと言うのだ。死んでしまったら、なんにも残らないじゃないか、
「名誉も武勲も必要ない、それでも生きていてほしい……そう願うのが人の子の愛です」
だって、何よりも大切で、欲しかったものは。
──生きておればよいのです。
──だから、あなたは生きて。
「──────、」
かつて投げかけたはずの言葉であり、受け取ったはずの言葉だった。
微かに目を瞠る尾形の前で、力なく項垂れた勇作は絞り出すように、
「……死ぬべきだと考えていました。宇佐美上等兵に襲われた時も、受け入れるつもりだった。その方が、父上が望む“名誉”に少しでも近づけると思ったからです。事実、父上はそれで自ら命を絶たれたのでしょう?」
「いえ、」
「……或いは奪われた。私と同じく」
「…………」
塞ぎ込んでいるように見えて、勇作はどこまでも冷静だった。兄の心を想って涙した青き若人はもういない。
敬愛した父が死んだ。殺された。泣いた夜もあったのかもしれない。けれど、それは彼の中では既に過ぎ去ったことで。取り返しのつかないことだった。
「しかし、いざその時になって──浮かんだのはあなたの顔だった。最後まで振り払えなかった。正しくないことは理解していました。でも、それでも……どうしようもなく、嬉しかったのです」
──気づいた時には、宇佐美上等兵を押し退けて、夜闇に駆け出しておりました。
呟いて。再び顔を上げた勇作の瞳には、覚えのある輝きが宿っていた。
指の欠けた右手が心臓の辺りに添えられる。それでも彼は堂々と、胸を張って。
「兄様の愛が、私を軍神の子ではなく、人として生かした」
はっきりと、そう告げた。
それから、ほうと息を吐き出す。胸のつかえが取れた。そんな安堵の滲む吐息だった。
一転、穏やかな表情になった勇作が目を細める。
「私はもう、軍人ではありませんから」
穏やかな温もりの感じられる微笑み。全てを知り、悲しみ、嘆いて、それでも前を向いて生きていく人間の目だった。
「生きちょりゃよか。……そういうことなのです」
二の句が継げない尾形の前で、立ち上がる。今日はようやく、ゆっくり眠れそうです。そう独り言ちてから、肩越しにこちらを振り返る。
「また来ます。鴨鍋の季節とは言わず、近いうちに」
──その時はきちんとお手紙差し上げますね、兄様。
ようやく“昨日”を遠ざけた晴れやかな笑みを浮かべ、異母弟はそう言って微笑んだ。
「あ! 出てきた!」
──あれから、どれだけ経ったのだろう。
つい先ほどまで駄弁っていたはずの杉元が唐突に上げた声に、タマは視線だけをそちらに向けた。確かに、鳥打帽を被り直した花沢勇作が、チセから顔を出したところだった。
腐っても軍人というべきか、お喋りに興じていても、それくらいの注意を払うことは朝飯前らしい。そのおかげで、知らぬ間に話を終えた彼が立ち去っているという事態は免れた。
けれど。
「話さなくていいのぉ?」
「うん……」
ぼんやりと頷く。
──ここまでの雑談の中で、杉元は「網走で花沢勇作の安否を尋ねられたことがある」とこぼした。言うまでもなく、何も思い出せなかった。その時の感情さえ。
それ以前にも。尾形からついてこないのかと暗に誘われたけれど、やんわり断っておいた。
知りたいことなど何もなかった。
知りたいと思えるほど、花沢勇作のことを知らなかった。
「……勇作殿、俺があの時いきなりビンタして乳首つねってきた野郎だってことに気づいてないといいけどな……」
「え? ビンタ?」
杉元の不穏な呟きに気を取られかけたのも束の間、
「あれ、こっちに来る……」
視線に気づいたのか。方向転換して、笑顔でこちらに歩み寄ってきた。
目の前で立ち止まる。逆光を背負ったその晴れやかな微笑を、朦朧と仰ぎ見る。
「…………」
どこかで見たことがあるような、ないような。そう感じることさえ、疑心暗鬼が生み出した錯覚なのかもしれなかった。
先に声を上げたのは、勇作のほうだった。
「姉様。ひとまず、本日はこれで……」
「……あの、」
それを遮って、口を開く。
「あの、私。一度、生死の境を彷徨ってから、何か色々と、大切なことを忘れてしまったようで……」
胸の前で組んだ拳に目を落とし。顔を上げる。
「あなたのことも、もしかしたら、……」
最後まで、言葉に出せなかった。
──視界が、一瞬でぼやけた。
「あ、……?」
何か温かいものが頬を伝う。一度それに気づいてしまうと、もう止まらなかった。絶え間なく溢れる感情で五感の全てがぼやける中、彼の気遣うような声が聞こえる。
ああ。そうだ。
花沢少尉──勇作、
「姉様、」
「……あなたが生きていて、良かった。本当に、良かった……」
何も知らないはずの彼に、どうしてそこまで思ったのか。そんなことはもうどうでも良かった。胸に灯った温かい輝きだけが、今の全てだった。
小さく息を呑んだ気配がして。
「……ありがとうございます。勇作も、こうして生きて姉様にお会いできたこと……とても嬉しく思っておりますよ」
手拭いが、優しく目元にあてがわれた。柔らかい布に雫を拭われる。
──泣いている。
今まで全く記憶に無かったことだけれど、不思議とすんなり受け止められた。
むしろ、そうすることができて良かった。何となくそう思えた。それだけだった。
「また、近いうちに。必ず」
こちらが落ち着くまで穏やかに寄り添っていた勇作は、やがてそう告げて、静かに去っていった。後には彼の手拭いと、2人が残された。
そこまで下手に手出しをせず、黙って静かに見守っていた杉元だったが。晴れやかに軍帽の鍔を上げて一言、
「やっぱエビフライだよな!」
「何それ」
──人生の価値とは、誰からどう産まれたかではない。どう生きるかだ。
かつての青年将校を、アイヌの愛娘を見てきた男の、心からの呟きだったが。
眦から最後の残滓を拭った女は、不思議そうに小首を傾げただけだった。
そこに、
「タマ!」
心身共に、あどけない少女から凛とした女性に成長しつつあるアシㇼパが、便箋を掲げてこちらに駆けてきた。
既にタマとほとんど上背の変わらない彼女がそれを差し出しながら言うには、
「勇作が持ってきた谷垣からの手紙だが……それ以外に、インカㇻマッからお前宛のものが入っていた」
「インカㇻマッから?」
「ああ。私はまだ中身を見ていない。お前が自分で確認するといい」
折り畳まれた便箋の裏から、几帳面に書き込まれた細かい文字列が透けていた。絵手紙ではなく、きちんと文章が記されているらしい。
「インカㇻマッ、日本語が書けたの?」
「さあ……あのチロンヌㇷ゚のことだから、それくらいの芸当はできても不思議ではないけど」
相変わらず彼女に対する印象が悪いらしいアシㇼパが、あからさまにむくれた顔でそんなことを吐き捨てた。それとほぼ同時に、
「勇作殿は帰っ、……何だ、こんな道端に勢揃いで」
整えられた黒髪をがりがりと掻き乱す尾形が現れる。何もない場所で顔を突き合わせる3人を見て、怪訝な顔をしてみせた。
「インカㇻマッからタマさん宛に手紙が来てたんだってよ」
「手紙?」
それを聞いて、なおさら不可思議そうに眉根を寄せてみせた。手元を覗き込んでくる。
「心当たりがあるのか」
「私は特に……」
「とりあえず読んでみたらぁ?」
頷いて。
促されるまま、便箋の頭に視線を滑らせる。
手紙は、マタギの男らしい豪快かつ本人の性格が窺える丁寧な字体で、時候の挨拶を略した簡素な呼びかけから始まっていた。
【インカㇻマッからの手紙(代筆:谷垣)】
お久しぶりです、尾形カッケマッ。
お元気でしたか。谷垣ニㇱパから、列車でキムンカムイに襲われたあなたが一命を取り留めたと聞いた時はとてもほっとしましたが、その後お変わりないでしょうか。
今回の手紙、いきなりのことでさぞ驚かれたと思います。
本当は色々とお話ししたいこともあるのですけれど、おそらくカッケマッ(そして隣で一緒に読んでいるはずの尾形ニㇱパ)がもっとも気になっているであろう、私がこの手紙を記してもらうに至った理由から記していきます。
私があなたに伝えたいこと。それは、苫小牧で初めてあなたと出会い、そしてあなたを占った時、見えたもののことについてです。
覚えておいででしょうか。私はあなたが探している人について占い、その結果、それが「歳下の、血の繋がらない家族である男性」であることまではわかりました。
けれど、実はあの時、あなたに伝えていなかったことがあります。
本当は、その男性の顔そのものは、あの時の私にははっきりと見えていなかったのです。
ただ、そのすぐ後に尾形ニㇱパがあなたの前に現れたようなので、私の占いは彼のことを指していたのだと思いました。そう思うことにしていました。
しかし、その後どうしてもあのことが忘れられず。つい最近、再び占ってみたところ、今度は顔がきちんと見えました。
でも。
そこで見えた男性の顔は、私の知る尾形ニㇱパのそれとはかけ離れた物だったのです。
髭も傷もない、とても綺麗な目をした男性の顔でした。
尾形カッケマッ。もしかして、当時のあなたには、尾形ニㇱパと同じくらい無事が気になる男性が居たのではないですか?
当時は顔が見えなかったこと、そして尾形ニㇱパと同じ血の繋がらない家族、という点が気になりますが、私にはそうとしか考えられません。
あなたは尾形ニㇱパには再会できましたが、こちらの彼とはどうなったのでしょうか。あの時の占いでは無事で、いつか会いに来ると出ていたはずですが、あなたは彼には出会えましたか?
ごめんなさい、今さら私からこんなお手紙を差し上げること自体が迷惑で、要らぬお節介だということは理解しているつもりです。でも、占い師の性でしょうか、どうしても気になって仕方がないのです。
お返事、お待ちしております。