結婚は人生の墓場である。なんて、冗談めかした表現があるけれども、墓場というのがある種人間のゴールだとするのなら、その言葉もあながち間違いではないのかもしれないと千紗は思う。
何を語ることもなく、平々と凡々を積み重ねながら、千紗は大学を卒業した。
まるで解説のいない無声映画のような日々だった。壮大な夢も野望もなく、ただ現実を見て就職した職場は、ただ案外千紗には誂え向きだったようで、それなりにやりがいを持って仕事ができていた。
大きな不平不満もなく、共働きで経済的不安もなく、気心の知れた同棲相手がいるのなら、結婚という選択肢を取るのも普通を愛する千紗には、それもまた普通の選択であった。どこか腫れ物を扱うように慎重に結婚について尋ねてくる両親にいい加減うんざりしていたというのもある。
結婚相手の名は星崎翔真という。大学生活での最後の彼氏であり、卒業後も互いに職場が近いこともあって同棲を続けていた。結婚に際して千紗は星崎姓を名乗ることになったが、未だに職場では旧姓で呼ばれるし、本人もいちいち訂正するのも馬鹿らしいのでそのままにしている。
彼氏もしくは同棲相手が夫になったからと言って、何が変わる訳でもない。そういえばセックスの頻度が極端に落ちたな、と思い当たる程度だ。まぁ、結婚してからのセックスレスなど特段珍しい話でもないし、ともすればそれは我々が分別のつく大人になったからだと千紗は納得した。
子供は作らなかった。互いに仕事が充実していたし、子供を作るとなれば千紗は長期の産休に入らなければならない。職場のそういった制度は先例も実績も十分にあったが、何よりも千紗自身、自分の子供を愛せる自信がなかったことがそれを躊躇わせていた。
幸いにして夫たる星崎翔真も千紗のキャリアプランに理解を示していたし、彼自身も切実に子供を望んでいた訳ではないから、軋轢も生まれない。強いて言うなら親が孫の顔が見たいとせっつく程度で、のらりくらりとそれを躱しながら、千紗は心の中で舌を出した。
普通であれと望まれた千紗の人生は、まさしくありふれた、極々一般的な範囲の生き方に落ち着いたと言える。
「…………ねぇ」
「んー?」
千紗は夕飯の支度をしながら、ソファでスマホをいじる夫に声をかけた。
「来週の火曜、あたしの小学校の担任のお葬式だから、ご飯は自分でお願いね」
「おー、了解」
気の抜けた返事とともに、くたりと上げられた手が頷くように上下した。
千紗は油を引いたフライパンを火にかけながら、ゆっくりと絞り出すような溜息を吐いた。
◇◇◇
どんなに仲が良くとも、小学校から社会人に至るまで付き合いがある友人というのは極めて稀で、1人2人いるかいないか程度だろう。そういうわけだから、旧知の人間が一堂に会すれば、どんな場所であれ近況報告などから同窓会的な性質を帯びるのは仕方ないとも言える。
とりわけ恩師の葬式というのは『思い出話に花を咲かせて先生を送り出そう』みたいな風潮がある。正味小学校の担任など世話になった記憶も曖昧ではあるが、田舎ではこういうことがままある。
連絡は千紗の親を経由して届いた。告げられた名前に心当たりはなかったが、それを話すと電話越しの母親は信じられないと言わんばかりに声を大にして「あなたが昔女の子を襲った時に対処してくれた先生でしょ!」とけたたましく喚いた。
たかがキスくらいで襲ったとは大仰な言い回しだと僅かな怒りもあったが、結局のところ千紗は出席することにした。出なかったら『恩師の葬式にも出席しないなんて、うちがどう言われるか……』なんて小言を言われるのが目に見えていた。孫の顔を見せてやれないという負い目も僅かにはあるから、できるだけ両親の要望には応えなければならないという思いもあった。
恙無く執り行われた葬式が終わり、設けられた会食の場で誰かが『久々だし、飲みにでも行こう』などと言い出せば、その殆どがそれに同調し、まるでそれが最初から決まっていたかのように、実に滑らかに『5年2組同窓会』の場は整えられた。
参加を辞退したのは用事があった極わずかで、断る理由を持たなかった千紗は、参加を表明した人間の中にかつて自身が迷惑をかけた友人を見て参加を決めた。
その左手の薬指に煌めく指輪を、千紗は見逃さなかった。
牧歌的な田舎にて、集まれる場所というのは今も昔もそう変わらない。小学校最後のクラス会を開いた料理屋には、その頃の面影だけを残した大人たちがひしめき合い、杯を交わしていた。
グラスのレモンサワーを傾けながら、千紗は対面に座る女を眺めた。
互いに歳を重ねたとはいえ、その面影はよく残っている。肩口で揃えられた髪も、笑うと少しだけ下がる目尻も、小学生の頃と大して変わらない。ただあどけなさはなりを潜め、妙に惹き付けられる唇に、千紗は頭を振った。
あの日以来、何かが決定的に変わってしまった親友。当時とは苗字が違っていた。時たま昔の苗字で呼ばれると、どこか誇らしげに『今は横川なんだー』と訂正する彼女の顔は、少なくとも小学校時代、彼女が浮かべることのなかった種類の笑みだと思った。
一瞬の動揺から、即座にそんな自分を千紗は冷笑した。
あれほど毎日のように顔を合わせていたというのに、卒業すれば驚くほど簡単に他人になる。人の縁などその程度のものだ。
だからこそ、十数年ぶりの再会は妙に気恥ずかしかった。
先に口を開いたのはどちらだったか。互いに近況を探るような、当たり障りのない言葉が幾つか続いた。
「てか、千紗も結婚したんだねー」
千紗は自分の左手をちらりと見下ろす。同じように光る指輪は、もはや着けていることすら意識しない身体の一部になっていた。
「まぁ普通に、ね」
「ね、どんな人?」
既婚者同士の話題の定番といえば、まぁ結局は結婚相手のことだ。自分の夫について語るだけの言葉を持たない千紗は、「まぁ、普通の人だよ」と口を開きかけ───
「
「ぇ……」と、虚をついて肺から漏れ出た空気が声帯をか細く震わせた。
千紗は思わず目の前の女の目を見た。
しかし、彼女の表情はあまりにも自然だった。からかう色も、悪意もない。まるでそれが当然であるかのように、千紗の答えを期待している。
「ぃ…っいや、普通に男の人……だけど……」
上手く呂律が回らなくなった舌で、なんとかそれだけ言い切った。
「え、マジ?アタシ、千紗って
『そう』の指す所を理解するのに、千紗はたっぷり十数秒を要した。
「はっ……はぁーっ!?ないない!ないわー!」
慌てて誤魔化す千紗を訝しげに見た彼女は、グラスを呷り、千紗に人差し指を突き付けた。
「だってさー、千紗が女の子を見る視線?っていうの?全く変わってないんだもん。あの頃から何となく、今日会ってやっぱりなーって思ってたんだけど………え、もしかして自覚なかった……とか……?」
ヒュッ。と喉が鳴った。全身から血の気が引いて、肌が一斉に粟立った。
返す言葉が何一つ出てこない。脳裏に浮かんでは消えていく弁明の言葉は、千紗の喉元まで込み上げて、けれどひとつも形にならなかった。
目の前の女はそんな千紗の様子を見て、ようやく自分の失言に気付いたように「あっ」と小さく声を漏らした。
「あー」と、何か思考を巡らせる時特有の間延びしたした声が、周囲の喧騒に溶けていく。
「でもアタシ、人を見る目ないってよく言われるしなー。勘違いかも」
気まずそうに頬を掻きながら、困ったように笑う。その顔を見ているだけで、胸の奥が軋んだ。気まずそうにグラスを傾け、上唇に付いた酒を舐めとる様に視線が行ってることに気付き、千紗は尚更嫌気が差した。
気を遣わせてしまった。そう思う自分と。
何を今更。そう憤る自分がいた。
「あっ、そうだ!折角だからー」
話題を変えようとしたのだろう。彼女はテーブルの上に置かれたスマートフォンを手に取り、画面を数回操作した。
「ほら!アタシの
差し出された画面には、一枚の写真。
穏やかな陽射しの下で、肩を寄せ合って笑う二人の女性が写っていた。
一人は目の前の彼女。もうひとりは螺鈿色の長い髪をサイドポニーに纏めた闊達そうな女性だった。芸術品もかくやと言わんばかりに整った容姿もそうだが、何より笑う女性が覗かせる犬歯は人間のそれではなく、この女性が吸血鬼であることを示していた。
左手の薬指には、同じ指輪。自然に絡められた指先。
あまりにも当たり前のように寄り添う二人を見て、千紗は一瞬、それが何を意味する写真なのか理解できなかった。
「これねー、プロポーズされた時の写真なんだ」
彼女は照れ臭そうに笑う。恋人の話をする既婚者なら誰もが浮かべるような、ありふれた笑みだった。
「いやー、最初は怖かったんだけど、だんだんこの人アタシのこと好きすぎない?ってなってさー、気づいたら私も好きになってたっていうかー」
その笑顔を見た瞬間、千紗は、自分の胸のどこかが音もなくひび割れていくのを感じた。
こんなにも簡単に、好きな人を好きだと言って。その人と夫婦になって。何でもないことのように笑っている。千紗が求めて止まないものを、彼女の笑みの中に見てしまった。
「そうなんだ」
グラスを呷る。さっきよりも深く、飲んで忘れてしまいたかった。今見たものを認めてしまえば、色々なものを犠牲にして築き上げた理想が、脆くも崩れ去ってしまいそうだったから。
こぷ。と腹の奥が鳴る。安酒特有の引っかかりが、これ以上の飲酒を咎めた。
「──でねー、その時のあの人の顔がね───」
「うん」
千紗は話を聞いている振りをしながら手当たり次第にピッチャーから酒を注ぎ、飲み下した。いい歳して大学生みたいな酒の頼み方をする男どもに、少しは感謝してもいい気分だ。
腹の奥からせり上がってくる何かを酒で飲み下し、強くなる吐き気で上書きしながら、千紗は彼女の顔を見ていた。そうでもしないと気が狂ってしまいそうだった。自分の知らない普通の幸せの話など、酒の力で忘れてしまいたいというのに、声も視界も彼女を捉えて離そうとしない。千紗は乱暴に酒を呷った。
「──それでね?それでね!?あの人が言ってくれた時、アタシ思ったの!」
泥濘にぼやけた視界の中、得意げに幸せについて語るその表情を見ていると、思う。
「好きに正しいも間違ってるもないんだよねー!」
「……あぁ───」
──だったら
──だったらなんであの時、受け入れてくれなかったんだよ。
ぐぷ。
◇◇◇
一言で言えば、それは最悪の再会だったと言える。千紗の人生において間違いなくワースト3を飾る記憶になったことは最早言うまでもない。
それでも、時間は進んでいく。明後日になれば仕事がある。休日でも洗濯物は溜まるし、夕飯も作らなければならない。やるべきことは、嫌になるほど尽きない。だから人は、忘れるのではなく、忘れた振りが上手くなっていく。辛い記憶を隅に追いやり、見て見ぬふりをするのだ。
そんなわけで件の出来事を記憶の隅に追いやってより1週間。何か自分の中で片付かない胡乱な感覚を持て余した千紗は、その原因に行きあたった。
原木エルからの連絡が来ない。
大学を卒業してからも、エルは千紗の無二の親友であった。双方積極的に連絡を取り合う質ではないから、アプリのトーク履歴は閑散としているものの、節目節目には必ず連絡を入れている。
とりわけエルは千紗の心が荒んでる時に、まるでそれを察知したかのように唐突に連絡を寄越しては、千紗を遊びに誘うのだ。
千紗はそれでメンタルを回復し、問題に決着をつけていた。
それが今回は連絡が来ないので、無意識に問題が片付いたと思えなかったのだろうと千紗は納得した。
(いつも誘ってもらってるし、たまにはこっちから誘うか)
千紗は夕飯のスープに野菜を入れて火にかけた。今日は旦那が帰ってこないから、準備は一際適当になる。
トークアプリを開き、千紗は指を止めた。
最後のやり取りは三か月前。千紗の誕生日を祝うため、美味しいパスタの店に行こう。というエルの誘いと、それを承諾する千紗の短い返信。この時も何かあって落ち込んでいた矢先だった記憶があるが、もうそれがなんだったのかはまるで思い出せない。
相変わらず味気ないやり取りに思わず苦笑が漏れる。
千紗は指先で画面を軽く叩いた。画面下部からキーボードが迫り上がる。
しかし、はて、どうしたものか。軽快に動いていた指が突如行き場を失って右往左往する。
いつも連絡してくるのはエルで、千紗が自発的にエルを誘うことはほとんど初めてのことだ。
仕事が忙しいのかもしれない。体調を崩したのかもしれない。
あるいは、恋人でもできたのかもしれない。
そこまで考えて、千紗は顔をしかめた。別に、誰と付き合おうがエルの勝手だ。親や恋人じゃあるまいに。
そもそも、恋人ができたという一大ニュースをエルが自分に連絡しない訳がない。
千紗は小さく息を吐き、画面に文字を打ち込む。打ち込んでは消してを繰り返し、最終的に『暇?』とだけ送信して、千紗はスマホをスリープにした。
返事は存外に早く返ってきた。シンプルな夕餉を前に手を合わせたその瞬間である。
千紗はスマホと湯気の昇るスープを交互に見て、結局食事を優先させた。別段誰かに咎められた訳では無いが、片手間に飯を食うのはどうにも心地が着かないのである。
食事を終えて食器を流しに放り込み、千紗はようやくスマホを手に取った。
『暇ですよ』
返ってきたのは、たったそれだけだった。送信時刻を見ると、千紗が連絡を入れてから、ものの一分と経っていない。
(暇だったんじゃん)
安心するのと同時に、だったら連絡の一つでも寄越せばいいのに。と、喉まで出かかった文句を飲み込んだ。
別にエルが千紗の機嫌を取る義理などない。これまでがそうだったからといって、これからもそうであるべきだという道理もない。
そう考えると、何だか自分が随分と傲慢な人間に思えてくる。
『今度飲まない?』
今度はさほど悩まずに送った。返事はすぐ来た。
『いいですね』
『いつ空いてる?』
『千紗に合わせますよ』
何とも都合のいい、お決まりの返事である。
それから互いの予定を擦り合わせ、翌週の土曜に会うことが決まった。
『店どうする?』
送信してから、千紗は冷蔵庫を開けた。
食後の酒でも飲もうかと中を物色する。缶ビール、ハイボール、夫が買ってきたよく分からないクラフトチューハイ。無意識にレモンと書かれた黄色い缶に指が伸びて、止まった。
先日の記憶が胃の腑を微かに撫でる。千紗は顔を顰め、隣の缶ビールを取り出した。350mlの、極めて健康に優しい量である。
カシュ。とプルタブを開ける音に被るようにスマホの振動音。飲み口から僅かに漏れ出た白い泡で唇を濡らしながら、横目でトーク履歴を確認する。
『久しぶりに、あのお店にしませんか?』
あのお店。二人の間でどこ、などと聞き返す必要はなかった。大学時代、エルと何度も足を運んだ居酒屋。初めて二人で酒を飲んだ場所。どちらかといえば苦い思い出の方が多い店だが、不思議と他の店を提案する気は起きなかった。
千紗は冷蔵庫の前に立ったまま、手の中の缶ビールへ目を落とした。
ふと、あの味を思い出した。
甘くて、酸っぱくて。最後にほんの少しだけ、舌に名残るレモンピールのほろ苦さ。
『いいよ』と送信する。
チビりと飲んだビールは、なんの味もしなかった。
◇◇◇
「あれ、どこか出かけんの?」
エルを誘った約束の日、ヒールに足を通した千紗の背に、翔真から声がかかる。
「んー。てか言わなかったっけ。今日飲み行くの」
「あー、そういえばそんなこと言ってたなー。じゃあ帰りは遅い感じ?」
「どうだろ。多分向こう泊まってくかな」
「えぇ……絶対浮気じゃん。しくしく。慰謝料は弾んでね」
冗談めかして泣き真似する翔真の頭を、千紗の手が引っぱたいた。
「アホか……。エルと飲み行くの」
「あぁ、原木さんかぁ。ほんっと仲良くて羨ましいわー」
大学の奴らとは秒で疎遠になったしなぁ、なんてボヤく翔真を無視して、千紗は玄関のドアに手をかけた。
「じゃ、行ってくるから」
「んー、いてらー」
電車を2本ほど乗り継ぎ、待ち合わせの20分前に店へ着いた千紗を待っていたのは、既に席に着いてメニューを眺めているエルだった。
千紗がドアを開け、ドアベルがカランカランと音を立てると、徐ろにエルが顔を上げた。
「ちさー、こっちです」
手を振るエルを指さしながら、近づいてきた店員に「彼女のツレです」と声を掛ける。
「エルお疲れ。久しぶり。てか早くない?」
「こんばんは千紗。それを言うなら千紗も大分早いと思いますよ?」
「電車の時間合わないんだよね。ほら、ここ田舎だし」
向かいの席へ腰を下ろす。三か月ぶりに見るエルは、記憶にある姿と何ら変わらなかった。まぁ、三ヶ月程度で劇的に変化したらそれはそれで心配なのだが。
異種族というのは押し並べて老化というものが無いらしい。大学で出会った頃から数えれば随分と長い付き合いになるが、こうして正面から眺めてみても、変化らしい変化を見つける方が難しい。
相変わらずだ。絹のように艶やかな髪も、玉のような肌も、背中に畳まれた白黒三対の翼も。
「何です?」
じっと見ていたからか、エルが怪訝そうに首を傾げる。
「何が?」
「いえ。随分見ているので」
「いや、変わんないよね、エル。ずっと綺麗なまんまじゃん。アタシ見てよ。もうおばさんだよ」
「そうですか?千紗はいつ見ても綺麗ですよ」
エルはそう言って微笑み、再びメニューへ視線を落とした。
そういうところも変わっていない。
「千紗は何を飲みます?」
「んー……」
メニューを受け取り、アルコールの頁を眺める。
ビール。ハイボール。日本酒。焼酎。チューハイその他
目当ての文字は、探すまでもなく見つかった。
ビターレモネード。
昔と同じ場所に、昔と同じ名前でデカデカと載っている。『大人気!!』なんてトゲトゲしい吹き出しで囲まれているが、さっきから飛び交う注文でビターレモネードを聞いた試しがない。ここも変わらないようだ。
「……まだあったんだ、これ」
「千紗、好きですよね」
「別に好きってほどじゃないけど」
反射的に否定してから、改めてメニューを浚った。
「そうでしたか?」
「んー、まぁ……美味しいとは思うけどね」
正直な所、到着するまではビターレモネード一択だと考えていたが、いざ席について頼むとなると、どうにも引っかかるものがある。
「言うてレモンサワー……だよなぁ」
あの日以来何となく避けているレモン味のアルコール。千紗は大きくため息をつくと、店員に視線を投げた。
「ご注文お伺いしまーす」
「ハイボールと唐揚げ、山盛りポテトお願いします。エルはどうする?」
「…………えっ?あ、あぁ!そしたら私はビターレモネードとだし巻き玉子、梅水晶でお願いしますね」
「かしこまりましたー」
こちらに背を向けて去っていく店員を見送りながら、千紗はエルの惚け顔を見やる。
「そんな鳩が豆鉄砲食らったような顔してどしたん」
「千紗、ここに来る時は絶対にビターレモネードだったので、少し驚いてしまいまして……えへへ……」
照れ隠しにはにかむ姿も一級品だ。今度は千紗が返事を忘れて惚ける番だった。
「……まぁ、たまにはね。たまには」
程なくして、二つのグラスが運ばれてくる。
千紗の前には、炭酸の弾ける琥珀色のハイボール。エルの前には、薄黄色のビターレモネード。あの酒の度数の高さは、今も変わらないのだろうか。
「それじゃ、久しぶりに」
「はい」
軽く掲げたグラスをぶつける。
カチン、と小気味良い音がした。
千紗はハイボールを一口呷った。強めの炭酸が舌を刺し、安物のウイスキーの消毒液臭い香りが鼻へ抜ける。
悪口のようだが決して悪くない。悪くないのだが。
視線の先で、エルがビターレモネードを口にしていた。グイグイと一気に半分くらいいくものだから、思わず目が離せなくなる。
「……どう?」
「美味しいですよ?」
チロリと唇をなぞる舌が妖艶だ。エルは昔から天使という肩書きにそぐわない色気を見せることがある。なんというか友達として、千紗はそれが気がかりではあった。
じっと見ていたからなのか、エルが身を乗り出して自分のグラスを僅かにこちら側に傾ける。
「飲みますか?」
「………いらない。飲みたくなったら自分で頼むよ」
「んん、そうですか……」
あっさり引き下がったエルから逃げるように、千紗はもう一度ハイボールを呷った。
やがて唐揚げに山盛りのポテト、だし巻き玉子に梅水晶と、テーブルを埋めるように料理が運ばれてくる。
料理が運ばれてきてからは、話に花が咲く。
仕事の話をした。
共通の知人の話をした。
最近の夫とのやり取りを話していたら、ツボったらしいエルがパシパシとテーブルの縁を柔く叩いたり。
エルは相変わらず酒に強かった。濃厚なまでの酒気を漂わせながらも、その顔には赤みひとつ差さない。
昔から何一つ変わらない。
そんな時間を過ごしているうちに、ここ一週間、胸の奥にこびり付いていた澱が少しずつ薄まっていくような気がした。天使族にはこういう心のデトックス効果でもあるものかな。と取り留めもないことを考え出したところで、千紗は自分が意外と酩酊していることに気がついた。
「そういえば千紗」
「ん?」
エルが空になったグラスをテーブルの端へ寄せた。
「今日はどうしたのですか?」
「何が?」
唐突な問いに首をひねる。こちらこそいきなりどうした?と問い返したいよと言おうとしたところで、
「千紗から誘ってくださったので」
エルがどこか嬉しそうにそう言った。
「あー……」
千紗は残り少なくなった7杯目のハイボールを揺らした。
「別に。いつも誘ってもらってるし、たまにはこっちから誘おうかなって。それだけだよ」
「たまには?」
「うん。たまにはね」
心の柔らかい部分を、自分からさらけ出すのは恥ずかしい。酩酊に緩みそうになる口をしっかりと閉じて、千紗はグラスに残った液体を流し込んだ。
「嬉しいです」
それだけ言って、エルは店員を呼んだ。
「私は同じものを。千紗はどうします?」
少し考えて、あと一杯くらいが限度だなと結論づける。大学生ではないのだ。潰れるまで飲むまい。
「……ビターレモネード」
「ビターレモネードを2つお願いします」
エルはそれ以上何も言わなかった。
再び料理を摘まみ、どうでもいい話に戻る。
それでいい。と思う。今日はただ、久しぶりに親友と酒を飲みに来ただけなのだから。何かを相談しに来たわけでもない。ましてや慰めてもらいに来たわけでもない。
───なのに。
「…………」
何となく、落ち着かない。
───いつもなら。
そんな考えが浮かんで、千紗は眉を顰めた。いつもなら、何だというのだろうか。エルは別にカウンセラーでもなければ、千紗の保護者でもない。
ただの友人であるエルに、一体何を期待しているのか。
胸の内に蟠った焦燥の正体分からないから、腹が立つ。
「……この前さ」
ついに耐えきれなくなった口から言葉が漏れた。
エルが顔を上げる。
「小学校の時の担任、死んだんだよね」
「それは……ご愁傷様です」
心配そうにしながら手を組んで祈ろうとするエルに手を振って答える。
「いや、別にそんな世話になった記憶もないんだけどね。親から連絡来たから、一応葬式行って」
「───」
「そしたら、その後なんか同窓会みたいになってさ」
新しく運ばれてきた酒へ口をつける。レモン由来だろう果実的な苦味と、ジンの苦味の見事な調和の中に烟る苦い記憶が引きずり出される。
エルは続きを促さない。ただいかにも天使然とした慈愛を込めた眼差しで千紗を見ている。
「まぁ、なんというか、昔仲良かった奴がいたんだけど」
「はい」
「そいつも来てて……」
「久しぶりにお話ししたのですか?」
「……まぁね」
からん。と氷がグラスの中で鳴った。
「───そいつさ、結婚してた」
「そうなのですね」
千紗は前髪をくしゃりとかき上げて、絞り出すように言う。
「…………女と」
エルが首を傾げる。
「……同性婚、的なやつになるのかな」
長いまつ毛を湛えたエルの目が瞬く。
千紗は自らの薬指にはまる銀色の指輪を指でなぞった。
「なんか、奥さんが吸血鬼なんだって。写真見せてもらったけど、すごい美人でさ」
「そうなのですか」
「うん」
千紗はからりと笑った。
「は、幸せそうだった」
自分でも驚くほど、するりと言葉が出た。
「めちゃくちゃ幸せそうだった」
「…………」
「なんかさ。別にいいんだけどね。今日日、女同士で結婚してる奴なんて珍しくもないし。異種族婚なんてもっと珍しくないし。別になんか思うところあるのかよって言われても、いや他人のことに口出す資格あんのかって感じだし」
「千紗……」
「だから別に、そこはどうでもいいんだけど」
そうだ。どうでもいい。もう一度、心の中で繰り返した。
どうでもいい。
なら、どうして。あの笑顔が一週間も頭から離れないのだろう。どうでもいいことなら、すぐに忘れてしまえばいいのに。酒の力を借りてまで忘れようとしたそれは、むしろこびり付いて離れない厄介なものになってしまった。
「……そいつさ」
エルは黙っている。黙って千紗が話切るのを待っていた。
「変なこと言ってきて」
「変なこと?」
「うん」
言いたくない。
口に出せば、あの日トイレへ吐き出したものを、もう一度自分の中へ戻すような気がした。
それでも。
千紗はエルの顔を見た。彼女なら、自分の望む答えをくれるだろう。
「…………アタシのこと」
一度、言葉を切った。
グラスへ口をつける。唇を湿らせて、レモンの香りが鼻腔をくすぐった。
もう大して残っていなかった。
「お、女が、好きなんだと……思ってたんだって」
言った。言ってしまった。
エルの表情は変わらなかった。
「……おかしいよね」
千紗は笑った。これ以上ないまでの自嘲だった。
「旦那いるのにさ」
「そうですね」と、エルは首を縦に振ってくれるだろう。そうしたら、「だよね!」と返して、それでこの話はおしまい。明日からはなんでもない千紗に戻れるのだ。ああ、エルに話してよかった。これでめでたしめでた──「何かおかしいでしょうか?」
「……………は?」
思考が止まるというのは、まさにこういう事を言うのだろう。想定される正答から大きく逸脱したエルの問いかけは、容易く千紗の安寧を砕き、その頭蓋を激しく揺さぶった。
「その、ですから、千紗は何をおかしいと思ったのですか?」
「いや、だから。今言ったじゃん」
「その方が、千紗のことを女性が好きなのだと思っていたことですか?」
「そうだよ」
「それの何がおかしいのでしょう?」
「…………」
千紗は初めてエルのことが理解できなかった。
何を言っているのだ、こいつは。
「いや、アタシ結婚してんだけど」
「知っていますよ?」
いつもながらに小首を傾げるその仕草が、なんだか化け物のそれに見えて千紗は戦慄した。そう見えてしまうエルと、そう見てしまう自分が嫌だった。
「……ほら、やっぱりおかしいじゃん」
「……? そうでしょうか」
「…………」
何故だ。
何故そこで頷かない。なぜ、私を認めてくれないんだ。
千紗はグラスを持ち上げた。酒はもう残っていない。氷だけが唇にぶつかり、溶けた水が僅かに舌へ流れ込んできた。
動揺する千紗を差し置いて、エルは懐かしむような声音で千紗に語りかけた。
「千紗、いつだったか、愛とは何かと、私が問いかけたことがありましたね」
千紗はすぐエルが言わんとしているのがいつなのか思い至ったが、咄嗟に知らないフリをすることにした。あの日の記憶は唯一自分の中で消化しきれない遺物となって脳裏に残り続けていたからだ。
「……あったっけ」
「ありましたよ。千紗は覚えていないかもしれませんが」
「で、それが何?なんか関係あんの?」
「あの時、千紗は随分と色々なことを教えてくれました」
エルは懐かしむように目を細めた。
「一緒にいたいと思うこと。触れたいと思うこと。その人が他の誰かといると少し寂しくなること。相手の幸せを願うこと。そういうものが、きっと愛なのだと」
「…………」
聞くに絶えない。小学生すら愛についてまともに語れそうなものだが、あの日の自分はそんな小学生並みの語彙すらなかったという事実に千紗は顔を顰めた。
「私は、とても素敵だと思いました」
「何が言いたいの」
千紗の声が低くなる。
先ほどまで心地よかった酩酊が、急速に冷めていくような感覚があった。居酒屋の喧騒が、どこか遠くに聞こえる。
エルは千紗の問いには答えない。
「では千紗」
代わりに、問いを返した。
「結婚とは、何でしょう?」
「…………は?」
「愛とは何かを、千紗は教えてくれました。では、結婚とは?」
「何って……」
そんなもの、考えるまでもない。
好きな人間と一緒になって。夫婦になって。同じ家に住んで。これからの人生を共にしていく。
そういうものだ。それが普通のことだ。
そう答えようとして、千紗は口を閉じた。
――好きな人間と。
その一節が、小骨のように喉に引っかかり、エルへの回答を咎める。
「…………」
「千紗?」
「……夫婦になることだよ」
結局、一番どうでもいい部分だけを答えた。
「籍入れて。一緒に暮らして。家族になる。それが結婚でしょ」
「なるほど」
まるで幼稚園児の誤った回答を微笑ましく思っているようなエルの相槌に、千紗はふつふつと湧き上がる怒りを堪えていた。
「何。違うって言いたいの?」
「いいえ?」
エルは小さく首を振った。
「千紗がそう思うのでしたら、そうなのでしょう」
「……またそれ!?」
ただ千紗が自分で口にした言葉だけを、そっくりそのまま目の前に置いていく。それがとてつもなく不愉快だ。問いかけたのなら、正答が用意されているべきだ。少なくとも真っ向から否定された方が千紗には反論の準備があった。それがにべもなく躱されてしまう不快感を、目の前の天使は果たして知っているだろうか。
「ただ」
エルの指先が、空になったグラスの縁をなぞった。
「その中に、愛は必要ないのですか?」
心臓が、大きく脈打った。
「…………あるに決まってんじゃん」
「では、翔真さんを愛していますか?」
「――――あ?」
あまりにも単純な問いだった。
夫を愛しているか。
当たり前だろう。自由恋愛によって結婚と相成った夫婦に、それがないことがあるだろうか?
結婚している人間なら、笑って頷けばいいだけの質問。ましてや未だ新婚と言える夫婦において、それは情熱的に叫ばれるべき文言ではなかろうか。
「……愛してるよ」
蚊の鳴くような声で、千紗は言い切った。
「………そうですか」
何故かエルは落胆したような声でつぶやくと、手元のグラスに目を落とした。
なんだかエルを失望させてしまったかもしれないことに、千紗は一瞬動揺しかけたが、僅かなプライドが千紗に肯定の言葉を吐き出させた。
「そうだよ」
それを最後に重い沈黙が落ちる。いたたまれなくなった千紗は唐揚げを頬張って、ビターレモネードでそれを流し込んだ。油物に白旗を上げるような歳ではないが、自然と敬遠し始める歳ではある。
臓腑に落ちていく唐揚げに思いを馳せていると、エルがまだ納得のいっていない顔で自分を見ていることに千紗は気がついた。
「…………」
「…………」
「……何」
「何も」
「その顔で何も無いは無理ない?」
「千紗が、結婚しているから女性を好きなはずがない、と仰ったからです」
エルは不思議そうに首を傾げた。
「それが私には、よく分からなかったので」
「…………」
「翔真さんと結婚していることと、千紗が女性を好きになることには、何か関係があるのですか?」
「当然でしょ」
「どうして?」
「どうしてって……あたしは翔真と愛し合って結婚してるんだから、ヘテロセクシャルでしょ。大体、結婚してんのに他の人に惚れた腫れたしてたら、それもう浮気でしょ。有り得ないって」
「結婚すると、他の人を好きにならなくなるのですか?」
「……」
「男性と結婚すると、女性を綺麗だと思わなくなる?」
「…………」
「誰かに触れたいと思うこともなくなるのでしょうか」
触れたいと思うこともなくなるのか。
「───っぁ」
エルの問いかけが、ひどく鮮明に千紗の鼓膜を震わせた。
須らく、結婚したからといって他人を好きにならないとは限らない。既婚者が伴侶以外の異性に惹かれることなど世の中に掃いて捨てるほどあるし、それが浮気だ不倫だと連日ワイドショーを賑わせている。女性を綺麗だと思うか否かに至っては、恋愛感情以前の問題だ。千紗だって街を歩いていて美人を見かければ美人だと思うし、同性の芸能人を見て綺麗だと思う女など幾らでもいる。
誰だろうと、どのような方向性かはさておいて同性愛的側面を持つことは否めない。
そんなものはいくらでも説明がつく。だが、身体的接触を伴う欲求は話が別である。
触れたい、という四文字は千紗が十数年かけて積み上げてきた理屈の隙間をするりと抜けて、誰にも触れられないよう奥深くに押し込めていたものへ、いとも容易く指を掛けた。
そこから先へ思考が進むよりも早く、千紗は頭の中で何かが大きな音を立てて閉じるのを感じた。
思わずエルの唇に向かった目を閉じて、千紗はビターレモネードを口へ運んだ。いつの間にか溶けた氷で随分と薄まっている。先ほどまで舌に心地良かったはずの苦味も、今は輪郭がぼやけて、アルコールの刺激だけが喉に残った。
翔真を愛している。唐突に、そんな言葉を頭の中で繰り返した。
順序立てて並べれば何もおかしなところはない。何度確認してみても、そこには一点の矛盾もないように思えた。
むしろ、今更になって何を疑う必要があるのだろう。
大学を卒業して、就職して、仕事にも慣れた。長く付き合っていた男と同棲して、そのまま結婚した。夫婦仲に大きな問題はなく、経済的にも安定している。子供を作らないという選択にも翔真は理解を示してくれた。
自分の人生に足りないものなどない。
ないはずなのだ。
「……あい……」
それなのに、脳裏にはあの女の笑顔がこびり付いている。
女と肩を寄せ合い、女と指を絡め、女から贈られた指輪を嵌めて、何の後ろめたさもなく自分の嫁なのだと笑っていた。
そこまで思い出して、羨望に叫び出しそうになるのをどうにか抑えるため、千紗は奥歯を噛み締めた。
昔のことを何の躊躇いもなく掘り返されたから腹が立っただけだ。勝手に人の性的指向を決めつけられたから。自分が忘れようとしていたことを、当の本人から平然と突きつけられたから。
何より、あの時は受け入れてくれなかったくせに。
千紗はゆっくりと瞬きをした。
七杯もハイボールを飲んだ後に、馬鹿みたいに度数の高いビターレモネードまで飲んでいる。正常な思考ができなくなって当然だ。酔っ払いの頭に浮かんだことなど、翌朝になれば本人すら覚えていないような一夜夢に過ぎない。
それは千紗の中にずっとあった。大学に入るよりも前から。翔真と出会うよりも前から。小学生だったあの日から。
消えたのではない。消したのでもない。ただ、その上に普通というレイヤーを積み重ねて、見えなくしていただけだった。
異性愛者になって、男と付き合って、セックスをして、結婚した。
その一つ一つを本質の上に載せて、もう見えないから無くなったのだと、そういうことにしていただけなのではないか。
そんなはずはない。内側からズルりと顔を覗かせる本性を、理性がかろうじて抑え込む。
なら翔真は何なのだ。翔真を愛していると、つい先ほど口にした自分は。
全部嘘だったとでもいうのか。
そんなはずはない。
翔真は大切だ。失いたいとは思わないし、まして傷つけたいとも思わない。
帰る場所に翔真がいることを疎ましく思ったことだって、少なくとも今日まで一度もなかったと断言出来る。他愛ないやり取りも心地よかった。
それが愛でないというのなら、一体何を愛と呼べばいい。
そう自分に言い聞かせた瞬間、今度は目の前の女が視界に入った。
白い肌。長い睫毛。酒精に濡れた唇。先ほどビターレモネードを舐め取った、赤い舌。
千紗は反射的に目を逸らした。心臓がうるさかった。
エルが何かをしたわけではない。ただいつものように向かいに座って、いつものように千紗を見ているだけだ。
───それなのに。
──誰かに触れたいと思うこともなくなるのでしょうか。
先ほどの問いが、もう一度頭の中で再生された。
触れたい。心の片隅で真っ黒な顔をしたアイツががなり散らした。
千紗は膝の上で拳を握った。
その問いに答えようとすれば、どうしても一人の女が邪魔をした。
だから答えなかった。
答えられなかった。答えてしまえば多分、色々なものが壊れてしまうから。
触れたい女が今、目の前にいることだけは、絶対に認めてはいけなかった。
「……分かんない」
絞り出した答えは、我ながら情けないものだった。
「分からない?」
「分かんないよ。そんなの。いちいち考えたことないし」
「そうですか」
「普通、考えないでしょ」
まただ。
口をついて出た言葉に、千紗は内心で舌打ちした。
困るたびにこれだ。今や普通の定めるところがなんなのかも曖昧だと言うのに、幼い頃に楔のように打ち込まれた言葉ばかりに縋る自分が酷く情けなく思える。
「……では」
エルは少しだけ考えるような素振りを見せた。
「触れられる方は?」
「何?」
「女性に触れられるのは、嫌ですか?」
「…………」
千紗はエルを見た。
質問の意味が分からなかったわけではない。だが突拍子もない転換に少々面食らったことは認めざるを得ない。
「……知らない奴に触れられるのは、男女問わず嫌だよ」
質問の意図を図りかねている千紗に、身を乗り出したエルが畳み掛けるように言うところによれば、「なら知人ならいいのか」とのこと。
「それも相手に依るでしょ。何なのこの話……?」
喜色を滲ませたエルの声色に怪訝なものを感じていると、エルは自分を指さして、いつものように小首を傾げた。
「なら、私に触れられるのは嫌ですか?」
「…………は?」
間抜けな声が出た。思わずエルを凝視してしまえば、改めてその網膜を焦がすほどの美貌に喉が鳴る。
「確かめてみませんか?千紗が、分からないというのでしたら」
「何を……」
エルの目が、見たこともないほど鋭く細められる。まるで獲物を狙う猛禽類のソレだ。
「そうすれば、自ずと答えも見えてきますよ、千紗」
つまりエルが言わんとしていることはこうだ。
女性に触れたいか分からない。女性に触れられることを自分がどう感じるのかも分からない。
ならば実際に女性に触れられてみれば、その時に自分が何を感じるのかくらいは分かるのではないか。
まるで味を知らない料理を一口食べてみればいいとでも言うような理屈である。
なぜだか千紗は初めて煙草を口にした日のことを思い出した。
馬鹿馬鹿しい。歪む思考を振り切って、千紗は自嘲に身を預けた。
そんなことをして何になる。
自分は既婚者だ。夫がいる。相手が男だろうが女だろうが、他人とそういうことをすれば浮気である。先ほど自分でそう言ったばかりではないか。
「やはり私ではダメでしょうか……?」
ところが千紗の思考は、そこで妙な方向へ逃げた。
触れられるだけなら。その程度なら。
なにも別にセックスをするわけではない。
エルに触れられて何も感じなければ、それではいお終い。さようなら嫌な記憶久しぶり愛すべき普通。大団円。
全てはあの女の勘違いで、自分は何もおかしくなかった。篠崎千紗は今まで通りでよかった。
そう証明できるのではないか。
「私は………っ!?」
そこまで考えて、千紗は自分の思考に愕然とした。
何を本気で検討している。
エルに触れられることを想像した。
肩に手を置かれ、頬を撫でられる。
あの大きな身体で抱き締められながら───
それ以上は想像しなかった。
否。
想像するよりも先に止めた。
その先に待っている明確な感情に、ぶるりと震えた身体が待ったをかけたのだ。
だから断ろう。明日には千紗もエルも普通になって、また日々の平々凡々具合に辟易としながら、たまに会って杯を酌み交わそう。
だから────
「……仮に」
「はい」
「仮にだよ」
エルの顔を見ず、忙しなく動く店員の背を目で追いながら、千紗は続ける。
「やるとして。今ここじゃ無理でしょ」
口にしてから、千紗は硬直した。
口をついて出た文句が自分の発した言葉だとは思えなかった。
断るつもりだった。そのはずだった。
なのに自分の口から出てきたのは、拒絶ではない。明確に提案を肯定し、その範囲を増幅するような提案をこちらから提示していた。
いくらでも逃げようはあったはずなのだ。指先に触れるだけ、髪に触れるだけ。当たり障りのない箇所を触らせれば、いくらエル相手といえども動揺することはなかったろう。それがわかっていつつも千紗の返事は、より濃厚な身体的接触を示唆するものに他ならない。
「…………」
エルも黙った。
千紗は顔が熱くなっていくのを感じた。
「いや、違っ……今のは」
「千紗」
千紗が見たのは、今にも獲物に喰らい掛からんとする捕食者の顔だった。かれこれ10年来の付き合いで初めて見る表情に、千紗は下腹部が熱を持つのを確かに感じた。
「はっ……!」
「近くに、ホテルがあります」
「…………」
心臓が跳ねる。
「嫌でしたら、帰りましょう」
エルはそう言った。
「今日は千紗と飲めただけで、私は十分嬉しいですから」
にこり。と、こちらを気遣うように眉を下げて、柔和な笑みで。
「…………」
今なら帰れる。これはエルからの最後通牒だと、千紗も理解していた。
翔真のいる家へ帰って、風呂に入って、眠ってしまえばいい。明日になれば、酔っ払い同士の馬鹿話だったと笑える。
いわゆる普通の択である。
千紗は左手で鈍く光る銀色の輪を親指で撫でる。
それからエルを見る。
「…………触るだけだからね」
自分の声とは思えないほど、小さかった。
エルの瞳孔が一瞬大きく開いた。
やがて。
「はい」
微笑んだ。
「千紗が嫌だと思ったら、そこでおしまいです」
千紗の要求を復唱するように、にこやかに告げた。
「……絶対だからね」
「はい」
その約束に安心したのか。
それとも。
その約束があったからこそ、安心して踏み越えられたのか。
千紗には分からなかった。
「出ましょうか、千紗」
「……うん」
ただ、伝票へ伸びたエルの手を止めることはしなかった。
◇◇◇
ガチャリ。
背後で扉の閉まる音がした。
その音を聞いて初めて、千紗は自分が取り返しのつかない場所まで来てしまったような気がした。休憩でなく宿泊にしてしまった時点で、どうにもならないことは明白だった訳だが。
別段、見慣れない場所ではない。
ラブホテルなど翔真と付き合っていた頃にも何度か利用している。場末の安宿らしく、妙にけばけばしい壁紙。無駄に大きなベッド。多分エンドテーブルの引き出しには呆れるほど避妊具が詰め込まれているに違いない。
ただ、隣にいるのがエルだというだけで。
その全てが、まるで初めて見る異世界の風景のようだった。
「…………」
「…………」
互いに無言で、なりたてのカップルみたいな距離の測り方。
先ほどまであれほど酒の勢いに任せて口を動かしていたというのに、こうして二人きりになると何を言えばいいのか分からない。雰囲気というのはこうも人間を飲み込むものかと千紗は頭の片隅で感心した。
突っ立ってるだけではどうにも始まらないと、千紗はひとまず鞄を適当な椅子の上へ置いた。
コートを脱ぐ。エルもそれに倣ってコート掛けに自分のコートをかけた。異種族用のコートラックではないからか、丈が余って床に着いてしまっている。
エルがコートを脱いだ瞬間、暖かな陽だまりのような匂いがより一層強くなった気がして、千紗は適当な方向に視線を散らせた。
エルが髪を耳に掛ける。翼が邪魔にならないよう僅かに畳む。
手首から時計を外して、サイドテーブルへ置く。
普段なら何とも思わない仕草のはずなのに、今だけは一々意識してしまう。
「…………」
千紗は無意識に自分の左手を握った。
薬指の指輪が掌へ食い込む。
「……エル、やっぱりあたし……」
自分でも驚くほど弱い声が出た。
エルは千紗を見る。
「千紗が帰りたいのでしたら」
「う…………」
またそれだ。決めるのは千紗。
嫌ならやめる。帰りたいなら帰る。
千紗はおもちゃ売り場に置いていかれた子供のような気持ちになった。
エルは一度も千紗の逃げ道を塞がない。だからこそ、逃げられなかった。
強引に引き留められれば怒れた。酔っているのをいいことに無理矢理連れ込まれたのなら、全部エルのせいにできた。
けれど今回は違う。ここまで来たのは自分だ。自分の足でホテルまで歩き、ホテルへ入り、そしてエルの見ている横でパネルから部屋を選んだのも。
全て千紗自身のやったこと、千紗自身が望んだことだ。
「……帰らない」
言ってから、千紗は目を逸らした。
「……まだ」
エルは何も言わなかった。
静寂。
部屋の空調だけが低く唸っている。冷房は少し寒いくらいだった。
「千紗……」
ずい。とエルの身体が千紗に寄る。エルと千紗では頭二個分程の身長差があり、ちょうど千紗の頭がエルの豊満な乳房に来る。圧迫感すら感じる身長差に、千紗は一瞬たじろぐよう半歩後退しながら、念を押すように告げる。
「……触るだけだからね」
「はい」
「ほんとに」
「はい」
「嫌って言ったらすぐ止めてよね」
「分かっています」
「…………」
確認しているのは、エルに対してというより自分自身に対してだった。
これはただの確認だ。女に触れられて、自分が何も感じないことを確かめるだけ。
そうすれば明日からまた元に戻れる。
「じゃあ……」
千紗はそこで止まる。どこから始めるか。これがセックスならキスとか愛撫とかで始めればいいんだろうけど。と千紗は項垂れた。プラトニックラブとは縁遠い交際経験を積んできた女である。
小学生の理科実験でももう少し段取りがいい。
そんな千紗を見かねたのか、エルが静かに一歩近付いた。エルの体躯がさらに眼前に迫り反射的に千紗の肩が跳ねる。体温すら感じられそうな距離で、頭上から優しげな声が降りてくる。
「触りますね」
「……いちいち言わなくていいよ」
「言った方が安心するかと思いまして」
「…………まぁ」
図星だった。
エルの指先が、千紗の手の甲へ触れた。
「…………」
特段何も感じない。千紗は安堵から心の中で自嘲した。
同性の友達に手を触られた程度で何か起きてたまるものか。
ところが、エルの指が手の甲からゆっくりと滑り、指先へ絡むように触れた瞬間。
心臓が一拍、大きく跳ねた。
「…………っ!」
反射的にエルの手ごと引っ張るように自分の手を身体に寄せると、エルが心配そうに声をかける。
「嫌ですか?」
「いや、大丈夫……」
乱れた息を整えつつ言うと、エルの目が僅かに細くなる。
「続けても?」
「…………うん」
指が絡んだ。恋人同士がするように。先日の写真が脳裏を掠める。
あの女と、吸血鬼の妻。絡んだ指にはまる揃いの指輪。幸せそうな笑顔。
嫌悪すらした女同士の恋人繋ぎ。しかし今、自分の指に絡んでいるエルの指は嫌ではなかった。
むしろ離れてほしくない。
そんな考えが一瞬浮かんで、千紗は慌てて握る力を抜いた。
「……次」
「はい」
自分から次を催促してどうする。理性がそう言うが、言ってしまったからには止められない。既に千紗は浅い呼吸を繰り返し、次に迫る未知に少しの恐怖と大きな期待を寄せていた。
エルは千紗の手を離した。名残惜しいと思ってしまった自分が嫌だった。
次にエルの手が触れたのは、頬だった。滑らかな掌がそっと触れる。
最初に感じたのは冷たさで、千紗は自分の頬が紅潮していることを自覚した。
「…………千紗は暖かいですね」
「……んん」
学生時代、肩を貸したこともある。抱きつかれたこともある。
酔い潰れたエルを支えたことだってある。酒にすこぶる強いはずのエルがどうしてあの引き限って酔い潰れたのかは定かではないが、こういう関係ないことを考えて思考を逸らすのもそろそろ限界に近い。
「千紗」
「ん」
「こっちを見てください」
心地よい安寧に浸かりながら顔をあげると、キスでもせんばかりに視界いっぱいにエルの顔があった。
近い。近すぎる。
エルの顔が、視界の大半を占めている。
長い睫毛。淡い色の瞳。酒に濡れた唇。
さっきから何度も目を逸らしていた場所が、今は逃げようのない距離にあった。
鼓動が高鳴り、喉が乾く。
呼吸の仕方が分からなくなる。自身を見下ろす美貌に感じているのが恐怖なのか高揚なのかさえ検討がつかない。
「……どうですか千紗。嫌悪や、怒りはありますか?」
「…………分かんない」
これは『普通』に次ぐ便利な言葉だと千紗は学習した。この言葉があれば自分の正当性を保ちつつ、望む先へエルが案内してくれるという確信が千紗にはあった。
「では、止めますか?」
頬からエルの手が滑り落ち、体温が離れていく。今まで満たされていたものを急に取り上げられて、千紗は狼狽した。
「…………やだっ」
エルの瞳が僅かに揺れる。
「ねぇ、千紗」
「……聞くなよ」
喉が震えた。
「今は……聞かないで」
「はい」
エルの親指が、頬を一度だけ撫でた。
それだけで、背筋を小さく甘い震えが走った。
「…………」
乾いてひび割れた地面が恵みを雨を受けるように、身体のそこかしこに触れられるたび、胸の奥にあった何かが少しずつ解けていく。
長い間、誰にも見つからないように固く縛り付けていたものが、エルの指先ひとつで容易く緩んでいく。
「エル」
「はい」
「……これちょっと、怖い……かも……」
エルは少し考えるようにして、それから静かに首を傾けた。そして両腕が千紗の背中に周り、ギュッと抱きしめられる。
「大丈夫ですよ、千紗。それは、
「…………」
千紗は何も答えられなかった。答える必要などなかった。
全てを委ねて安堵する自分の顔が、全部答えているような気がしたからだ。
互いに一言も発さないまま、千紗は目を閉じてその胸元に頬を預ける。先ほどから耳障りなほど自己主張を続けていた自分の心臓とは別に、もう一つ、規則正しい鼓動が耳の奥へ響いてくる。
とくん。とくん。自分より少し遅い。
人間と天使で平常時の心拍数に違いはあるのだろうか。そんな取り留めもない疑問を浮かべながら、千紗はエルの服へ頬を擦り寄せた。
暖かい。何より、安心する。
その二つだけを拾い上げて、それ以外のことを考えないようにした。
どうして安心するのか。どうしてもっとこうしていたいと思うのか。それらに答えを与えようとすれば、また先ほどまでの堂々巡りに戻ってしまう。
それならば今だけはいいだろう。エルも何も聞かないと言ったし、ならば自分も何も考えなくていい。
千紗はそうやって、ほんの僅かな時間だけ思考を放棄した。
どれほどそうしていただろうか。
やがて背中に回されていた腕から、僅かに力が抜けた。するりと落ちるエルの手が、千紗の臀部にかすって、そのまま落ちた。
「…………」
千紗の眉間に皺が寄った。エルが抱擁を解こうとしていることは、エルの右足が退いた音からもわかった。
それに気付いた瞬間、考えるよりも先に千紗の右手が動いた。
エルの服を掴んだ。
我ながら随分と弱々しい力だった。振り払おうと思えば、子供でも容易く振り払える程度の抵抗に過ぎない。
それでもエルの身体はぴたりと止まった。
「……千紗。どうしました? もう十分かと思ったのですが。まだ何か、確かめておきたいことがありますか?」
頭上から落ちてきた問いに、千紗は答えなかった。
否、答えられなかった。
確認という意味なら、もう十分過ぎるほど確認した。
それどころか全部心地良かった。もっと続けてほしいと思った。こうして抱き締められている今に至っては、終わりを察知しただけで無意識に相手を引き留めてしまった。
仮説は間違っていると叩き返され、テストなら答案は全て埋まっている。
けれど千紗は、その答案を裏返したまま提出する気になれなかった。
「……もうちょっとだけ、このままでいて」
服を握ったまま、千紗はぼそりと言った。
「なんか……今離れられると、ちょっと嫌だから。別に深い意味とかじゃなくてさ。ほら、ここまでやったんだし……もう少しくらい、いいでしょ」
誰に許可を求めているのか。後ろめたさを感じながら、千紗は背徳に胸を震わせた。エルからの返答はない。
その沈黙が不安になって、千紗が服を握る指先へ僅かに力を込めると、背中へ回された腕が再びゆっくりと閉じていく。
先ほどよりも、少しだけ強く。
「……分かりました。千紗がそうしたいのでしたら、もう少しこのままでいましょう。ただ、苦しかったり、怖くなったりしたらすぐに言ってくださいね。私は千紗が嫌がることをしたいわけではありませんから」
「分かってるよ……。何回言うの、それ」
そう返しながら、千紗は胸元へ顔を埋め直した。元は自分の定めた戒めであったはずが、今は煩わしい楔に思えてならなかった。
陽だまりのような匂いがする。酒の匂いも僅かに混じっている。
今まで何度も嗅いできた匂いだったはずなのに、今日は酷く甘い。今までにないほどの距離感で感じるエルという存在に、千紗は酷く興奮を覚えていた。
千紗は目を閉じた。
抱き締められている。たったそれだけのこと。
服を脱いだわけでもない。唇を重ねたわけでもない。世間一般でいうところの浮気の境界線を何処に引くかは人によるだろうが、少なくともまだ、引き返せないところまでは来ていない。と、千紗は思っている。
だからもう少しだけ。あと少しだけなら。
そうやって自分へ許可を出すたび、胸の奥へ温かなものが満ちていく。
乾ききった器へ、一滴ずつ水が注がれていくようだった。
そこで千紗は不意に恐ろしくなった。
何故、乾いていたのだろう。
自分には足りないものなどなかったはずなのに。
「……エル」
「はい」
「……やっぱり、怖い」
先ほどと同じ言葉で、千紗は心中を吐露した。
触れられることが怖いのではない。
触れられることを、こんなにも心地良いと思っている自分が怖かった。そしてこれを知ってなお、自分がこれまで求め続けて手に入れた『普通』への価値を疑ってしまうことが何より恐ろしい。
「さっきからさ……なんか、変なんだよね。嫌じゃないとか、そういう話じゃなくて。なんか……上手く言えないけど、ずっとこうしててもいいような気がしてくる。それが、ちょっと怖い」
口にしてしまえば、胸の奥がずきりと痛んだ。
これ以上言ってはいけない。なのに一度開いた口は、酒の助けもあって止まらなかった。
「あたし、別に不幸じゃないんだよ。仕事だって嫌いじゃないし、生活にも困ってないし、翔真とだって普通に上手くやってる。だから……こういうの、必要なかったはずなんだよね」
エルの腕の中で、千紗は僅かに身じろぎした。
「なのに今、なんか……すごく安心してる」
エルはただ無言で、背中に添えられた掌が一度、ゆっくりと千紗を撫でた。
それだけで、また心地良かった。
「……何か言ってよ」
沈黙に耐えられず、千紗は呟いた。
「こういう時だけ黙るのズルくない? 今日アタシに散々あれこれ言わせたの、エルじゃん。なんか……いつもみたいに、それっぽいこと言ってよ」
半ば八つ当たりだった。
すると頭上から、小さく息を吐く音がした。
「……私が何かを言えば、千紗はまたその言葉を使って、ご自分の気持ちを説明しようとするでしょう? ですから今は、私が答えを決めてしまいたくないのです。安心するのでしたら、安心していてください。離れたくないのでしたら、そう思っていてください。それが何を意味するのかは……後で千紗が決めればいいと思います」
「…………」
腹が立つ。相変わらず、肝心なところでは何も決めてくれない。この女は天使のくせに、千紗に道を示してくれたことは数える程度しかないのだ。
けれど同時に、その言葉は今の千紗にとって酷く都合が良かった。
「……じゃあ、離れないで」
先ほどよりも、ずっと素直に言えた。
「今日は……もうちょっとだけ、このままでいて」
エルの腰に腕を回し、一段と強く体を密着させる。備考いっぱいにエルの匂いを吸い込むと、陽だまりで微睡んでいるかのように、思考が一意に定まらなくなる。
「える……えるすき……すき……」
エルの身体が強張った。抱いていた腕ではない。
胸元へ頬を寄せている千紗には、その身体全体が一瞬だけ硬直したのが分かった。
「……エル?」
「…………いえ。何でもありません」
「何でもない奴の反応じゃないでしょ、それ」
千紗は心配になって顔を上げる。
そこで千紗は、初めて違和感を覚えた。
エルが自分から視線を逸らしていた。
今日ここへ来てから、というか十年以上付き合ってきて、こんな顔を見た記憶がない。その白磁の肌を淡い桜色に染め上げて、僅かに震えた唇は、必死に笑顔を抑えているように見える。
いつだって千紗を真正面から見ていた女が、今は明らかにこちらを見ないようにしている。
「……こっち見てよ」
「今は、少し困ります」
「何で?」
「…………」
「エル?」
千紗は少しだけ身体を離し、その顔を覗き込んだ。
そこでようやく目が合った。
「…………っ」
千紗の喉が鳴る。
先ほどまでの柔和な顔は、何処にもなかった。居酒屋で一瞬だけ垣間見た、あの猛禽じみた眼差し。
ただし今度は、あの時よりもずっと酷い。細められた瞳が、真っ直ぐ千紗を捉えている。思わずゾクリと背筋が冷えたのに対して、下腹部がきゅんと熱を持った。
それでいて口元には必死にいつもの微笑を作ろうとした痕跡が残っていて、その酷く歪な表情に千紗は背筋を震わせた。
「……何、その顔」
「ですから、見ないでいただきたかったのです」
「なんで」
「……今の千紗を見ていると、私は千紗が思っているほど、良い友人ではいられそうにありませんから」
千紗は瞬きをした。
一度、二度。その言葉の意味を反芻する事に、意味が染み込んでくる。
「……それって」
「聞かないでください」
珍しく、エルが千紗の言葉を遮った。
「千紗は今、とても酔っています。ずっと悩んでいたことを私に話して、普段ならしないようなことまでしている。ですから……今の千紗の言葉を、私にとって都合の良い意味に受け取りたくないのです」
理性的な言葉だった。いつものエルらしい。
それなのに。千紗を見つめる目だけが、言葉とまるで噛み合っていなかった。
その瞳は明確に、ギラギラと輝きながら視界に収める千紗を欲しがっている。
そこまで気付いた瞬間、胸の奥に生じた感情に、千紗は自分でも驚いた。
圧倒的上位存在から向けられる感情への恐怖と、それ以上の興奮。
「……エル」
「はい」
「もしかして、アタシのこと欲しいの?」
「…………」
沈黙は何よりの肯定だった。
エルの瞳が一瞬だけ大きく開き、次いで逃げるように伏せられる。
それだけで十分だった。
「……はっ」
思わず笑ってしまった。どうして笑ったのか、自分でも分からない。
ただ、あのエルが、こんなにも綺麗で、いつも余裕綽々で。何年も自分の傍にいたこの女が。今、自分を欲しがって困っている。
その事実が、酒よりも遥かに強烈な酩酊となって千紗の頭を侵していく。
「……何で我慢してんの」
「千紗」
「いや、だってさ。さっきからあたしには嫌なら止めるとか、帰りたいなら帰るとか散々聞くくせに、自分のことは何にも言わないじゃん。だったら今度はあたしが聞いてもいいでしょ」
千紗は自分でも驚くほど滑らかに言葉を続けた。
「エルはどうしたいの。あたしがどうしたいかじゃなくて、お前がどうしたいのか聞いてる」
長い沈黙だった。エルは答えない。
ただ、千紗の背中に回された腕へ僅かに力が籠もった。何か自分の中で噛み砕くような渋面を作りながらも、本能で千紗を求めている。
それを感じて、千紗は笑った。
「……言えないんだ」
「言わせないでください」
絞り出すような声だった。
それが可笑しくて、愛おしいとすら、一瞬思ってしまった。
千紗はもう一度、エルの胸元へ身体を寄せた。
「じゃあ、言わなくていいや」
「…………千紗」
「ただ、このままでいて」
エルの呼吸が止まった。
「今は、それでいいから」
千紗はそう言って、服を握る指先へ力を込めた。
その瞬間、三対の翼が、大きく震えた。
空気を打つ音が部屋に響く。
千紗が驚いて顔を上げれば、エルは先ほどよりもさらに酷い顔をしていた。
理性で辛うじて形作られていた天使の微笑が、もう完全に消えている。
「ふーっ、ふーっ……千紗。お願いですから、これ以上は――」
そこでエルは言葉を切った。
というより、エルの理性の最後の抵抗は、千紗によっていとも容易く破壊せしめられた。千紗が、その胸元へ額を寄せたからだ。
「っ!この……っ!」
千紗を抱く腕へ、先ほどまでとは明らかに異なる力が籠もった。
「……エル?」
返事はなかった。ただ肉食獣のように荒い息遣いが、千紗の耳をくすぐった。
「ふっ、ふっ、ふーっ!」
エルの瞳から、千紗が十年以上見慣れてきた、あの慈愛に満ちた光だけが消えていた。
代わりにそこにあるものが何なのか、流石の千紗にももう分かっていた。
それを見てもなお、自分がエルの服から手を離していないことも。
千紗は気付いていた。
「……エル?」
もう一度、甘えるように呼んだ。確信犯で。
それでもエルは答えない。代わりに、大きく息を吐いた。
それは諦めにも似ていた。吹っ切れたように笑顔を取り戻したエルは、その目に獣欲の炎を滾らせながらも慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。
「……駄目ですね」
「何が?」
「私はてっきり」
エルの声は、酷く静かだった。
「もう少し、我慢のできる女だと思っていました」
千紗の心臓が大きく跳ねた。その言葉の意味を理解するより早く。
三対の翼が、一斉に広がった。
ばさり。と風圧に千紗の髪が揺れる。
視界が反転した。
「わっ――」
背中が柔らかなベッドへ沈み込む。
何が起きたのか理解するまで、ほんの一瞬を要した。
見上げれば、エルがいる。
六枚の翼をいっぱいに広げ、千紗の視界からけばけばしい壁紙も、安っぽい照明も、何もかも覆い隠して。千紗の世界は、エル一色になった。
「…………」
「……千紗」
名前を呼ぶ声が震えている。初めて聞く声だった。
「嫌でしたら、今度こそ、本当に止めてください」
それはエルの理性が用意した最後の逃げ道だった。
千紗は暫くエルを見上げていた。
それから、祈るように両手を組んで、ゆっくりと目を閉じた。
「…………聞くなって、言ったじゃん」
それ以上、何も言わなかった。
三対の翼が二人を覆うように閉じていく。
白い羽根が視界を埋める。
その最後。
純白だった一枚の羽根、その先端。
───ぽつり。
墨を落としたような黒が、滲んだ。
星崎(篠崎)千紗:めんどくせー女。本作の主人公。幼少の頃相手の同意無しに同級生の女児の唇を奪ったことをきっかけに両親に同性愛に対する嫌悪や偏見を植え付けられて『普通』に執着するようになった。大学時代は彼氏を取っかえ引っ変えし、寂しさを埋めていたが、最終的に星崎翔真との交際から結婚に至る。観察眼に優れ、人の本質を見破ることに長ける一方、強い偏見や歪んだ視点からものを見る性格上、人間関係の構築が苦手。世の中めちゃくちゃ生きずらい女。翔真のことは確かに愛しているが、どちらかと言うと息子や娘に対するような親愛の念が強い。なんか最後だけ若干異種族を誘う悪いヒトメスになった女。エル悪くないよ。
ちなみに初期構成ではエルを拒絶し続けて百合乱暴されるはずだったがどうしても健全に書けないため断念。一応このルートでもハッピーエンドは約束してた。
容姿は特に決めてない。というか基本的に短編で容姿細かく決めないマン
原木エル:作者の書く天使は大抵破綻者。本作のヒロイン……ヒロイン?大学時代から千紗と交友を持ち、大人になってもその関係が変わることはなかった。普通に大学時代から千紗のことをどちゃクソ性的な目で見ていたが、持ち前のアルカイックスマイルにより千紗にはバレなかった。彼氏報告がされる度に脳破壊され、破局報告される度に脳が再生していた。結婚報告で特大の脳破壊を喰らい、鬱オナすらできなくなった。本編には描かれない不憫な話。
千紗が自分から本当の幸せを求めない限りは『救済』は成らないという考えのため、エルから千紗を誘導することはほぼ無かった。
ちなみに百合乱暴ルートでは千紗をぶち犯したあと自分と千紗に記憶処理を施して元の関係に戻っている。余談だが前編と後編の空白期間で百合乱暴は何回か行われている。やっぱりエルが悪いよ。今回はいちゃラブルートを引けてよかったね。良くねぇよ浮気だぞ。アユタヤの女たち。
星崎翔真:純然たる被害者。可哀想。普通に何の非も無い。The普通のヒトオス。職場で異種族に迫られる度結婚指輪を見せつけて撃退している。初期構成では千紗のカミングアウトと衝突、破局までを書く予定だったが、冗談抜きに10万文字行きかねないので断念。面倒だったとかじゃないよ。
千紗のことは普通に愛しているが、なんかの拍子に千紗が自分の元から離れていくんだろうなという漠然とした、しかし確かな予感を持っている。その時は大人しく身を引く所存。いい男すぎる。異種族に逆レでマワされる構成考えててごめんなさい。