吹きすさぶ風でスーツの裾がバタバタと暴れ出す。流石に地上13階から眺める景色は壮大で、不思議な万能感に思わず両手を広げた。
「うおっ…とと……」
全身で風を受けたせいか、体勢を崩して思わず背後のフェンスを掴む。
このまま流れに身を任せても良かったかもしれないが、タイミング位は自分で決めたいものだ。
僕は足元に揃えられたくたびれた革靴と、その片方に乱雑に突っ込まれた封筒を見てため息をついた。
面接で1度、『貴方は運が良い方だと思いますか?悪い方だと思いますか?』と聞かれたことがある。数え切れないほどの面接を受けてきた僕だが、こんな質問は後にも先にも1度だけだったから嫌に印象に残っている。
僕はイエスと答えた。なぜならこの世に生を受け、両親には真っ当に育ててもらい、高校、大学、大学院まで行かせてもらったのだ。これを幸運と言わずになんと言おう。こんな感じのことを言った。
もちろん綺麗事だ。嘘八百だ。デタラメだ。自分は運がいいなんて微塵も思ったことは無い。
どうしようもないほどに僕の人生は『女性』というものに壊されてきた。
タイミングは自分で決めたいと思ったが、それは言い訳だ。自分はまだ、どうしようもない人生に縋っているのかもしれない。そんな意地汚い自分が嫌いだ。
先日の話だ。結婚を約束した女性から別れを告げられた。他所に男ができたらしい。間男は彼女と弁護士を引き連れてこう言った。
『許してくれとは言わない。金ならいくらでも出すし、裁判をしても構わない。だけどこれだけはわかって欲しい。俺と彼女は愛し合ってるんだ』
──と。
小切手を渡されて、好きなだけゼロを書きなさい。頭に1をつけるのを忘れずに。なんてシチュエーションがあるだろうが、まさかあんな絶望的な状況でお目にかかるとは思わなかった。
言葉通り僕は小切手いっぱいにゼロを書いた。1すら入らないほどびっしりとだ。それを彼らに突き返した。
それが小心者の僕の最後の意趣返しだ。彼は男の僕から見ても魅力的な男性だった。これが漫画に出てくるような典型的な屑だったらどれほど救われたことか。彼は僕に恨ませてもくれなかったのだ。
最後に残るのは、行き場のない劣等感と自分への怒り、嫌悪、その他自らを殺すに値する感情の大津波。
思い返すことで、一歩踏み出す勇気が出た。
今の今まで僕を蝕んできた記憶の数々、寝ても覚めてもフラッシュバックするその記憶に、僕はもう疲れてしまった。
「でもそれも今日で終わりだ」
そう呟くと同時に、僕は冷たいコンクリートを蹴った。
一瞬の浮遊感の後、体が下に向かって落ちていく。スーツが藻掻くようにはためくが、もうどうしようもないだろう。
目を閉じると思い浮かぶのは、小学生の頃の記憶。共働きで忙しかった両親に変わって俺を育てたのは祖母だった。祖母は言っちゃ悪いがかなりヒステリックな人で、ことある事に僕に罵詈雑言を吐き、暴力を振るった。女性というものに対しての根本的な苦手意識は恐らくここから来ているのだろう。
場面が切り替わると、僕は堅苦しい学ランを着ていた。これは所謂走馬灯だろうか。走馬灯など見たところで懐かしむ記憶などないというのに。
中学の頃の僕は、プラトニックな恋愛というものに強い憧れを抱いていた。今もその傾向が強いかもしれない。性的な事に興味がなかったと言えば嘘になる。しかしそれ以上に僕は精神的な愛が欲しかった。
だからこそと言っていいだろう。思春期の性衝動、攻撃性、そして度し難い程に未成熟な思考。これらが最悪の形で噛み合った結果、僕は地獄を見た。有り体に言ってしまえば、僕の志向を面白がったグループによるレイプ未遂のでっち上げ。もちろん冤罪をふっかけられたのだが、こういう場合、冷静になれば男と女の主張どっちが通るかなんて分かりきっていたはずだ。
でも当時は信じてもらいたい一心で主張を続けた。涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら叫ぶ僕の姿は、彼らにはさぞかし滑稽に映ったはずだ。
そんな事があったから、僕は地元を離れて都内の高校に入学した。
その時点で僕は女性というものに心底恐怖していたものだから、女子はおろか女子と関わりの多い男子も極力避ける、いわゆる灰色の青春を送った。
それでも友人はいたし、努力を重ねて有名な国立大学に合格できたのだから高校時代はもしかしたら僕の中の黄金期かもしれない。
大学でも他人とは一歩距離を置くように心がけていたが、大学という機構がそれを許してはくれなかった。もちろんボッチでいることもできただろうけど、僕はそこまで孤独に耐性がある訳では無いのだ。結局男しかいなかった美術サークルに入ることにした。
大学生活は長かった。そこで先日まで婚約者だった後輩と出会った訳だが……できるなら二度と思い出したくない記憶堂々1位だ。まぁ、僕が就活で忙しくなった時期からもう浮気はあったらしい。
7年間も浮気を隠し通せるのだから、彼女が役者か僕が盲目か。どちらにせよ僕は裏切られ、こうして身を投げたのだ。
思い返すほど、不幸な人生だ。
これまでの人生を振り返るのに僅かに1、2秒。迫るアスファルトを前に僕は緩く目を瞑った。
──あぁ、ようやく楽になれる。
◇◇◇
「…………?」
生きている……のだろうか。
僕はゆっくりと起き上がり、自分の手を握ったり開いたりして感触を確かめる。頬をつねってみると痛みとともに僅かに熱を帯びる。
「天国……ではないよな……」
何故か寝かされていたベッドはそれこそ雲のように柔らかいが、天国と言うにはいささか生活感があり過ぎた。
耳を澄ますと電車のブレーキ音と車のクラクションの音、職人の怒号が微かに拾えた。
次いで部屋の中を見渡して──僕は苦虫を思いっきり噛み潰すがごとき渋面を作った。
寝かされていたベッドからやたらフローラルな香りがする時点で気付くべきだったが、部屋の調度品はシンプルではあるものの明らかに女性のもの。あろう事か僕は女性の部屋で呑気に寝ていたのだ。
というか僕はビルから飛び降りたはずなんだが……?
ベッドから出ると、どうやら着替えさせられていたようで、身にまとっているのはスーツではなく、なんか古代ギリシャ人が着てるような布っきれだった。当然下着はない。ブランブランである。
状況があるで掴めないが、わかっていることが一つだけある。それは僕が半裸でブランブランの状態で女性の部屋にいるってこと。
もしかして自分は酒でも飲んで無敵の人になってしまったのではあるまいか。自殺が夢だとしたら?
全身から血の気が引いていく。
とりあえずここから出てもっと情報を集めよう。そう思ってドアノブに手をかけた瞬間──
「うぁっ!?いてっ……」
掴んだドアノブが独りでに動き、そのまま押し出された僕は床に尻もちを着いた。
「あぁっ!申し訳ありませんっ、起きているとは思わなくて……!」
見上げた先からスタインウェイ&サンズのピアノもかくやと言わんばかりに透き通った声が降り注ぐ。
ドア枠をくぐって現れたのは───
「てっ……天使族……」
2m半はあろうかという巨躯、それに見合った豊満なバストと細いくびれ、そこから伸びる腰からヒップにかけてのライン。それぞれが激しく主張しながらも全く違うことなく調和し、女性としての美しさを最大限にまで引き立たせている。美とは如何、即ち天使と言うように、視覚に暴力的なまでに訴える容姿に思わず目を逸らした。
そもそも異種族なのだから美人なのは当たり前。
普通の人間なら何らかの感動を覚えるだろう。信仰か、あるいは欲情か。しかし僕にとってその美しさは恐怖でしかなかった。
そもそも僕は天使族が大の苦手である。淫魔や吸血鬼は分かりやすい。それぞれ精と血を欲して人間に近づく。というか異種族はほぼ全てが何らかの見返りを求めて人間と接触しているように思う。なぜ人間から奪おうとしないのかは分からないが。
話を戻すと、天使にはそれが無い。世のため人のためと言って慈善を惜しまず、何も欲さず何も得ず、ただ人間を助けている種族。容姿も相まってそれが大きな信仰を築き上げているのは知っているが、僕の経験上、そういう手合いが1番えげつない要求を裏で通しているものだ。もしくは水面下で計画しているものだ。
そんな裏を勘繰ってしまう自分にも嫌気がさすが、嫌気や罪悪感程度でこの不信感が払われることは無い。
そんな僕の警戒心を知ってか知らずか、目の前の天使は大輪の花をゆっくりと咲かせるようにふわりと笑った。
「お腹、空いていませんか?良かったら……」
差し出されたのは何の変哲もないサンドイッチ。そういえばここ最近ろくな物を食べていなかったせいで思わず喉が鳴った。
「…………いい。いらない」
だけど見ず知らずの他人から渡された物なんて、迂闊に手をつけられるはずもない。僕は空腹を訴える腹を押さえつけてサンドイッチを断った。
「そうですか……では………」
「貴女が僕を助けたの?」
「はい、貴方が空から落ちてきたので」
やはりあれは夢ではなく、僕は間違いなく自殺しようとしたはずだ。それを彼女に助けられたのか……。地上13階から自由落下する70キロ前後の肉塊を受け止めるなど人間には無理な話だが、異種族ならありうる事だ。
余計なことを……という苛立ちが脳裏を掠めたが、こちらは助けて貰った身。恩義を抗議で返す訳にもいかなかった。
「そっか。どうもありがとう。僕の服は?」
「『スーツ』という拘束具のことでしょうか……?捨てておきましたよ?」
「なっ………!?」
まるでそうして当然というように首を傾げる天使に、怒りよりも驚愕が勝った。
「ですが、貴方はもう辛い思いをしなくていいのです」
僕の様子に気づいたのか、天使は取り繕うように言った。
それからにこりと太陽のような笑みを湛えて両手を広げた。
「さぁ、こちらに。貴方を『祝福』して差し上げます」
「………っ」
例えるならば、太陽にポツンとある黒点のようなものだろうか。『祝福』という単語の中に、明らかにほの暗い欲望の炎が垣間見えた。今まで感じてきた人間の汚い欲望とはまた別の恐ろしさを感じた。一度捕まれば二度と戻れないと、僕のこれまでの経験が大音量で警鐘を鳴らす。
「大丈夫ですよ。すぐに幸せで満たしてあげますから……♡」
大きな手が僕の頬を撫でようと迫る。僕は反射的にその手を払い除けた。
「っ!?」
天使が瞠目する。それを見て僕は自分のしでかしたことに青ざめた。人間は異種族に絶対に敵わない。異種族を怒らせてしまった人間がたどる道は……死にたくても死ねないような拷問を繰り返される未来だという。僕は死にたいだけで、苦しみたい訳では無い。
思わず部屋の隅まで逃げて丸くなる。ちらりと天使を盗み見ると、彼女は切羽詰まった表情で目を閉じていた。頭上の輪が光ながら回転している。
「……まずは…………調教…………生きられな…………躾が………」
何やらブツブツと呟いているようだが、どうにも物騒な単語しか聞こえない。早いとこここを出ないと大変なことになるかもしれない。
頭上の輪が発光と回転を止めると、天使はゆっくりと僕の方を見た。目が合う。
「天使さん……さっきはその……すみません……」
「いいえ、いいえ。人間さんが謝ることはありません。私の配慮が足りなかったのです」
天使は両手を胸の前で組んで懺悔するように言った。
お互いに気まずい沈黙が部屋を満たす。先にその沈黙を破ったのは僕の方だった。
「……天使さん、僕を家に返して貰えませんか……?その……助けて貰ったことには感謝してますけど……」
恐る恐るそう提案すると、天使はバツの悪そうな顔で長い髪を梳いた。
「に、人間さんが自ら命を絶つ事を望むのはよくあることです。そして私たちの存在意義は人間さんの願いを叶えること。ですから………」
天使はテレビを指さす。するとリモコンをいじった訳でもないのに電源が入り、画面にニュースが映し出される。
画面の中のニュースキャスターは淡々とした様子で今日のニュースを読み上げていく。
『次のニュースです。〇〇県✕▽市□☆町の自殺について、警察は現場に残された遺書から自殺と事件両方の線で捜査を続けると発表しました。被害者は事件前、不倫被害に遭っており─────』
「え?」
テレビに行方不明者として映し出されていたのは、間違いなく僕だった。
やっぱり僕は死んだのか?じゃあここは?この天使は……?
「落ち着いてください。貴方は確かに生きています」
「じゃあなんで……」
天使は目を閉じた。多分僕の仮説に対する肯定だろう。
僕は死にたいと願った。彼女はそれを叶えた。それだけの事。
僕は人間社会においては死んだ人間になったのだ。
住むところも働き口も、身元がないから作れない。両親は去年亡くなった。頼れる人なんていない。目の前の、天使以外は。
僕が彼女を見上げると、彼女は口を三日月形に歪めた。
それは今までの暖かな笑みとはまるで違う、情欲に塗れた暗く冷たい笑みだった。
人間さん : 天使が見返りに何を求めていたのか知った数少ない人間となった。