野比のび太達が元々居た世界――現実の競馬において中央競馬のメイクデビュー戦は年間で300戦、未勝利戦は1200戦ほど執り行われる。
これは一見して膨大な数のように思えるが、中央競馬への入厩馬は毎年4000頭を超える。
ウマ娘の世界の《クラシック期9月》に相当する時期まで一着を勝ち取れるのはその中のおよそ1500頭。
つまり『その能力を期待され中央へ送られた馬の半分以上が、たった一勝すら出来ずに移籍や転向、引退を迫られる』。
――しかし、9月のタイムリミットを過ぎたとしても諦める選択肢を選ばない者もいる。
【ハルウララ、再起を賭け】
『12月に執り行われる1勝クラスレースに対してハルウララは推薦出走する事が決定した。彼女がメイクデビューから一つも勝利挙げておらず、また体調不良から入院を余儀なくされていた事も記憶に新しい。中央未勝利戦への参加資格が無くなるクラシック期9月が終わり、出走するレースが無くなっていた彼女にとってこれは千載一遇の好機となる。ハルウララが出走を希望するG1《フェブラリーステークス》へ繋ぐ為にも、ここで一着を取らねばならないだろう』
チームスピカのトレーナー――西崎リョウは休憩室で月刊トゥインクル新聞を広げ、そこに書かれている記事を大仰に読み上げる。
「どう思うよ? おハナさん」
「…………」
強豪チームリギルのトレーナーである東条ハナは、缶コーヒーを口にしてからその質問に答えた。
「……正直、あまり良い手とは思わないわね」
東条らしからぬ遠回しな物言い。西崎はわざとらしく肩を竦める。
「まぁ、リアリストなアンタが考える事は分からんでもない。同じ未勝利の子がたくさんいる中で、ハルウララをわざわざ選ぶ必要はないって言いたいんだろ?」
東条は何も言わなかったが、西崎は無言の肯定と受け取った。
ハルウララは未勝利のウマ娘が数多くいる中でも特別目立つ存在だった。
そのせいでマスコミの注目は必然的に集まり、そして彼女を応援する人達も自然と集まった。
そして彼女に勝ってほしいと願う人も多い。なぜなら、彼女は多くの者に夢と希望を与えてきたからだ。
負けても負けても、楽しそうに前を向いて走り続ける。ただそれだけの姿勢が、同じように負け続けの苦境にあるヒトやウマ娘の心に光を灯してきた。
それゆえに皆は思った。もし彼女が勝ってくれたなら、それはどれだけ多くの者に勇気を与えるのかと。
――その想いは、彼女を応援している人たちの熱意となって世間に現れている。
しかし一方で、その熱狂は時に残酷な感情を生み出す事もある。
彼女の巡り合せには「何故あの子だけ」「ずるい」と嫉妬を抱くウマ娘もいないわけではない。
無論、それが全てではないし、これまで問題になった事はなかった。だがこの処置に不満を表面化させる者が出てくるとしたら、ハルウララにその不満を直接ぶつける者が出たとしたら……そんな事態になってしまえば、ハルウララの心は折れないだろうか……。
「まぁ、ウチやリギルの奴らはその点は心配いらんだろうが」
「当たり前よ」
西崎の思わずぽっと出た独り言に対し、東条は分かりきった素振りで返答する。お互いにメンバーへの信頼が強いのだ。自分達の周囲にはハルウララに害意を持つ者など一人も居ないと確信している。
「妬みや嫉みよりも、スピカの子が感化されないか気にかけてあげた方がいいんじゃない?」
――彼女の言う通り、ウララに何かあればスペを筆頭に落ち込みそうなヤツが思い当たらなくもない。
(……ったく。小春のヤツ、あとで昼食誘うついでに助言でもしてやるか……)
西崎は手持ち無沙汰の時間を使って、資料室でハルウララの模擬戦・公式戦両方の戦績を改めて調べ直した。
「適正はダート……それも1200mだな。1400mだとちと厳しい」
適正距離・適正バ場ならおそらく善戦出来る。しかしそのレースでも勝ってない。
西崎はハルウララのラップタイムを調べている内に、その原因が直後退――最終直線で速度を緩める悪癖――にあると見抜いた。
……そんな状態で狭き門をくぐり抜けてきたといっても過言ではない『1勝クラス』のウマ娘達に勝てるか、正直かなり怪しい。
「あの理事長の事だから、わざわざ適正外に推薦するとは思えん」
携帯でハルウララの出走予定について情報を調べると、やはりレースはダート1200mである。それに付随する情報をみて、西崎は突然ハルウララが死刑宣告を受けたような錯覚に陥った。
………………いや、実際『ソレ』は死刑宣告に等しいかもしれない。
「――『16人立て』だとっ……!?」
西崎の目に映る画面にはレースの距離・バ場だけでなく、同時に出走人数が16人で行われる旨が記載されていた。
1勝クラスが16人立てで行われる事はなんら不思議な事ではない。だが西崎は思わず言葉を失い、携帯の画面を見つめたまま固まる。そして次に取った行動は、資料室を飛び出して小春を探し出そうとしていた。
(ここで勝たなきゃ、ウララは中央で居場所が無いんだぞ……!)
格上挑戦に推薦され、それでも勝てない未勝利のウマ娘は地方に行くしか道はない。
メジロパーマーのように障害競走という亜種を走る選択肢もあるが、ハルウララ向きの選択肢でないのは明白。
――このままではハルウララというウマ娘が中央トレセン学園から居なくなる。
西崎は焦燥に駆られながら学園内を走り回った。
「へいらっしゃい! お客さんはなにを注文するんでぃっ?」
校舎裏に差し掛かったところで、ハルウララの演技がかった声が聞こえてきた。
西崎は物陰に隠れると息を殺して様子を伺う。
――なんだ? 複数人でテーブルかけの上に座り込んで、昼食の準備か?
「えぇと……あぁ、お腹すいたしカツ丼とか?」
「に、にんじんステーキ……」
「じゃあ、ボクは天丼で」
「ボクはどらやき丼っ!」
「へい、了解でぃ!」
ハルウララはメニューを聞くと、グルメテーブルかけに「カツ丼一丁! にんじんステーキと天丼いっちょう! どらやき丼いっちょお!」と呼びかける。
「おいおい……大事なレースを前にそんなママゴトしてる暇……」
西崎は呆れながら物陰から出ていこうとするが、すぐに様子がおかしい事に気付く。ハルウララが注文した料理がどこからともなく出てきていた。
「……魔法?」
思わず言葉が漏れた。だが確かに、そう見えるのだ。
(……随分手の込んだ手品だ)
西崎もこういう遊び心のある演出は嫌いじゃない。用事があるのは宗石トレーナーの方だから、ともかくウララには後で謝る事にして先に彼女の元へ向かう。
「小春!」
「え? 西崎先輩?」
突然の呼びかけに戸惑ってカツ丼を食べる手を止める小春。その肩を掴むと、西崎は有無を言わせず連れて行く。
「飯は後だ。話があるからちょっと来い」
「あ、はい。えぇっと……カツ丼」
小春は困惑しながら、西崎に連れられるまま丼を手に歩き出す。
「…………」
西崎トレーナーがどういった理由で小春トレーナーを連れ去ったのか、なんとなしに理解しているキングヘイロー。
トレーナーのケアはトレーナー同士で任せた方が良いだろう。スピカのトレーナーは特にスペシャルウィークを導いた実績もある。
そう判断したキングヘイローは、ハルウララ達の方へ向き直った。
「ねぇねぇ、あれって『りゃくだつあい』ってヤツかな?!」
「え、トレーナーさん達ってそういう関係なの……?」
(こちらはどう助言したものかしら……)
ドキドキと勘違いするハルウララと、与太話に耳を傾けるドラえもん達を目の前に、キングは頭を悩ませた。
向かった先は資料室。西崎は室内のパソコンに電源を入れる。
カツ丼を急いで頬張る小春をよそに、西崎は黙ってパソコンを操作するとモニターを小春へ向けた。
「適正距離、適性バ場。そこまでは問題ない。だが人数は16人立て。この意味が分かるか?」
レース場の画像を表示させ、そこに映る出走表を見せる西崎。
小春は改めて自分とハルウララがどういう状況に置かれているかを再認識した。
――16人立てのレース。それはつまり格上15人対ウララ一人の戦い。
「あはは……キッツいですねぇ」
小春は苦笑いを浮かべて誤魔化そうとするが、西崎の表情は真剣だった。
そして彼は小春に対して一つの問いを投げかけた。
「小春。お前はこのレースで勝てると思うか?」
小春は口の中にあったものを咀噛し飲み込むと、小さく息を吐いて答えた。
「――勝たせます」
そもそも中央でやっていく以上、1勝クラスのウマ娘をも蹴散らせねば活路は無い。
それは無意識に出た言葉であるが故に本音であった。そして同時に覚悟を決めた言葉。
西崎はその言葉を待っていたとばかりに、ニッと笑った。