「──―ェ、ユェ……」
……誰? ……誰かが優しく私に呼びかけている。
心地よい暗闇の中から誰かが私を引き上げようとしている。
──―っ……まぶしい……
ようやく目を開けるとちょっとびっくりするくらい近いところにアーラシュの精悍にして優しい笑顔があった。
っていうか無防備すぎでしょ私。
すっかり安心してウトウトしてしまっていたみたい。
「アーラシュ、ごめんなさいね。私寝ちゃってたのね」
「すまないな、起こして。だが誰かに邪魔をされるとも限らないし、あまり時間が無いんだ。そろそろ俺は最後の仕上げをすることにするよ」
私たちを何度も助けてくれたペルシャの大英雄は、真剣な眼差しを私に向けてそう言いました。
「令呪を使ってって話ですか」
「ああ、そうだ。今から屋上に行き俺の言う通りの命令を令呪で実行してくれるかい。これでお前たちを縛る鎖をすべて断ち切ってやれる」
以前からアーラシュは私たちによく言っていました。
『お前たちは幸せに暮らす権利がある』
今一つ世間一般の暮らしというものはどういったものなのかピンときませんが、私たちの年齢なら同年代の者が多数集って学校などというところで集団学習するという情報は持っています。
「私、ジンと学校ってところに行ってみたいな」
「学校か! それは良いな! 俺も現代の学校というものは聖杯に与えられた知識でしか知らないが、きっと良いものなんだろうな。お前ら絶対行くべきだぜ」
アーラシュは私の肩に手を置いてうんうんと何度もうなずきました。
「そのためにもこの最後の大仕事、きっちり仕上げて見せるぜ。おっと、その前にもう一度だけジンの顔を見ておくことにするか」
そう言うと彼は、ジンが寝かされている集中治療室に向かいます。
ガラス越しにじっとジンを見つめていたアーラシュはしばらくして不意に口を開きました。
「すまないが、ジンに謝っておいてくれ。俺がキャスターに宝具を使わせなければ、あいつは右腕を失わなくても済んだんだ。それに、他にも何かもっと良い方法があったのかも知れない。だが、俺にはあんな方法しか思いつかなかった……」
何を言ってるのよ。
「命と右腕どっちが大事か、バカなジンでもそれくらい分かると思いますよ。もし、仮にそのことで何か文句を言うようなら、私が頬を引っ叩いてやります」
私がそう言うと、アーラシュはこちらを向き、優しく微笑み
「ユェ、強くなったな」
と言い、私の頬に手をあてました。
「そ、それに、その話はアーラシュ自身がするべきじゃないですか。どうして私に言わせようとするんですか」
触れられた頬が急に熱を持って赤くなったように思います。
「あはは、違いねぇ。うん、じゃあ、そろそろ行こうか」
そして私たちは屋上に向かいました。前を歩くアーラシュの背中がなぜか……なぜか遠くに感じられました。
「ユェ、俺は宝具を使ってジアンユーとその仲間を一掃するつもりだが、射程に限界があって日本からではシンガポールに届かないんだ。
令呪で一気にシンガポールまで飛べればいいんだが、恐らく令呪にだって限界ってのがあると思う。失敗して訳の分からないところに飛んでしまっては目も当てられないからな。
そこでだ、日本に来るとき飛行機が一度着陸した香港国際空港を覚えているか。あそこからなら、何とかギリギリやれると思う。令呪を使って俺を香港まで飛ばしてくれるか」
「香港国際空港……ですか」
初めて乗った飛行機に興奮していたので、経由地として着陸した空港のことも良く覚えています。
「頭の中に香港国際空港の風景を思い描きながら、俺に行きなさいと令呪を使って命じてくれ」
「わかりました…………。
…………で、そのあとは?」
少し待ってもその後の指示が無いので、不思議に思いながら尋ねました。
「そのあと?」
キョトンとした顔でアーラシュが繰り返します。
「宝具を使ったあと、どうやって戻ってくるつもりなんですか。まさか考えて無かったんですか?」
「あー、そうか。すまんすまん、考えてなかったわ」
可笑しそうに笑う彼を見ながら、私は肩を竦めました。
「そうだな、仕事が終わったら日本の方角に向けてとび切りの矢を放つよ。届きはしないが、その輝きが目に留まるくらいの特別なものをな。西の方角に流星が見えたら最後の令呪で俺を呼び戻してくれ。それでいいか」
「わかりました。じゃあ、令呪で送り出してから、目を皿のようにして西の空を見つめていますから。私の目が「しぱしぱ」になる前に合図をお願いしますよ。
はぁ、アーラシュって凄いけど、どこか間が抜けてるとこありますよね。まったく、ジンみたい。ふふっ」
「ははは、そうかもな」
私たちは二人で顔を見合わせて笑いました。
病院の屋上から香港がある方向。西の空を見渡すと一面の星空です。吸い込まれそうなその星空にしばし私もアーラシュも言葉を失っていました。
「綺麗……なんてきれいな星空なのかしら」
アーラシュも黙って星空を見上げています。
アーラシュ?
「ねぇアーラシュ。アーラシュの故郷はペルシャよね。香港よりも、シンガポールよりも更に西なのね」
「そうだな。もっともっと西だよ」
「GO WEST! 一度連れて行ってよ」
「ああ。ちょっと現代でも紛争の絶えない地域でもあるが今度一緒に行こうか」
「ふふ、楽しみが増えたわね」
「さて、それじゃあ頼むぜマスター」
「ええ、わかったわ。……令呪をもってアーラシュに命ずる。香港国際空港に飛びなさい!」
私の言葉が終わると、彼の姿は目の前から消えました。
「あ……」
アーラシュ……
『アーラシュ・カマンガー』
古代ペルシャにおける伝説の大英雄。
西アジアでの神代最後の王とも呼ばれるマヌーチェフル王の戦士として、六十年に渡るペルシャ・トゥルク間の戦争を終結させた。両国の民に平穏と安寧を与えた救世の勇者。
伝説において、アーラシュは究極の一矢によってペルシャとトゥランの両国に「国境」を作った。大地を割ったのである。その射程距離、実に2500km。人にあらざる絶技と引き替えに、彼は、五体四散して命を失ったという──。
香港国際空港、アーラシュの姿が空港の敷地内に現れる。
「ふぅ。どうやら成功したようだな。さて、ここからは俺の仕事だ。必ずやり遂げる」
そう言うとアーラシュは香港を代表するランドマーク中国銀行タワー(中銀大廈)の頂上に向かった。
高さ350mを超える建造物の天辺は、流石に凄まじい風が吹き荒れていたが、英霊にとってはさして問題にはならなかった。高層ビルから香港の夜景を見下ろす。
「あぁ、そう言えば日本に来てすぐに、ジンとユェと一緒にバイクとかいう速い乗り物を乗り回し、最後に冬木の夜景を一緒に見たっけか。もう随分前のことのような気がするな……。お前たちの行く末を見守ってあげられないのが唯一の心残りだが、お前らなら大丈夫。幸せになれよ」
アーラシュは弓を構えると、目を閉じ意識をシンガポールの方角に集中させた。千里眼で365党の構成員の動向を把握する。殺すべき奴らの顔と名前は召喚された日の翌日に全て把握済みだ。
「陽のいと聖なる主よ
あらゆる叡智、尊厳、力をあたえたもう輝きの主よ
我が心を、我が考えを、我が成しうることをご照覧あれ
さあ、月と星を創りしものよ
我が行い、我が最期、我が成しうる聖なるスプンタ・アールマティ(献身)を見よ
ステラァァァァ──────────―!!!」
「ちっ、繋がらねぇ」
ジアンユーは不機嫌そうに舌打ちした。
ジンとユェの動向を逐一報告させるために日本に差し向けていた二名の部下から、クガイが死亡したという朗報がもたらされたのが数時間前である。
ジアンユーは狂喜乱舞し、早速プライベートバーで祝杯をあげていた。
その際ジンが大怪我を負い病院に担ぎ込まれたという報告も聞いていたが、そんなことはクガイの死と比べれば些細なことだった。
あまりの嬉しさに他の詳しい情報を聞かずに報告を終えさせてしまったが、その後ユェの状況や他の陣営の話を聞こうと日本に連絡しても全く繋がらないという有様である。
「あいつら、クガイが死ねば、そこで仕事は終わりだと思ってやがるな。まぁ、今日くらいは羽を伸ばさせてやっても良いが、こっちの連絡を無視するのはいただけねぇ、なぁ、シュェリーそう思うだろ」
どさっ!
つい今まで、カウンターを挟んで目の前でカクテルを作っていたシュェリーの姿が消えた。
「おいっ! どうした!」
立ち上がりカウンターの中を覗くと、床に仰向けに倒れている彼女が見えた。胸に光の矢の様なものが刺さっていたが、それはすぐに消え去り、服に血が滲んできているのが見えた。
「な!?」
トス、トス、トス!
後方から壁をすり抜けて飛来した光の矢が、ジアンユーの額、首、心臓に突き刺さり、彼は目を見開いたまま無言で床に崩れ落ちた。
その日、シンガポールに無数の流星が降り注いだのが目撃されている。
そして、十二色旗の多数の幹部(すべて365党に関わっていた者たち)が謎の死を遂げた。
ユェは、病院の屋上のベンチに腰掛け、西の空を見つめていた。真っ黒だった空の色が徐々に藍色に変わりつつあった。
「ああ、もう夜が明けるのね。そう言えば、ジンとアーラシュと三人で山の上から夜景を見た時もこんな感じだったわね……。あの時は楽しかったなぁ……」
その時
「あ、痛っ」
右手に痛みを感じ、右手の甲を見る。最後に残された令呪の一画が消えていく。その時ユェは全てを察した。
──―人にあらざる絶技と引き替えに、彼は、五体四散して命を失ったという──―
「あ……アーラシュ……、どうして……ああああぁぁぁぁあ!!」
ユェは今まで出したことが無いような大きな声をあげて泣いた。
本当はそんな気がしていた。でも言えなかった。でも聞けなかった。アーラシュが私たちの前からいなくなるなんて絶対に考えたくなかった。
どれくらい泣き続けたのだろう。もう涙も出ないのに泣くことがやめられない。
アーラシュ、アーラシュ! ああ、アーラシュ!!
ユェは立っていることも出来なくなり金網に背中を預け座り込む。その時上着のポケットに何か入っていることに気が付いた。
それはアーラシュからユェに宛てた手紙だった。
我がマスター、ユェ様
お前がいつこの手紙に気付くのか分からないが、その頃俺はもう消滅しているだろう。
俺の宝具は俺の命と引き換えに一度だけしか使えない。正にとっておきなんだ。最初にお前たちと話した時から俺の中ではこの結末は決まっていたこと。だから悲しむな。
お前たちと一緒の旅は弟や妹ができたみたいで楽しかった。お前たちを縛り付けていたジアンユーの鎖は俺が必ず断ち切るから、その後は二人で力を合わせて幸せを掴み取れ。
ただ、今まで育ってきた環境が異常過ぎて、お前たちは命の尊さが分かっていない。それを教えてあげられなかったこと、それだけは残念だ。
だが、俺はお前たちを信じている。陽の光が当たる道を歩んでいって欲しい。
お前らの親友(ってことでいいよな) アーラシュ
すっかり枯れたと思っていた涙がまたあふれてくる。
「うん……わかったよ、アーラシュ。私、あなたの信頼を決して裏切らない……」
ユェは読み終えた手紙を丁寧に畳むと、歯を食いしばるように決意に満ちた顔を上げた。
そして彼女は力強い足取りでジンの元に向かった。
ジンの治療室に戻ると、ジンが目を開けていた。急いで看護師を呼ぶ。医者が駆け付け、ジンの意識が戻ったことが確認された。
そこからジンは、驚異的な回復をみせ、翌日には一般病室に移され面会も可能となった。
ジンの病室にて……
「なぁ、アーラシュはどこに行ったんだ」
ユェは少しビクっと肩を震わせて、しかし何事もなかったかのように答える。
「アーラシュにはちょっと遠くまでお遣いを頼んでいるの。暫くは戻らないわ」
今はまだ、ジンにアーラシュのことを言うべきじゃない。ユェはそう考えていた。
「クガイの奴はどうなったんだっけ」
「クガイは、私たちとの戦いで重傷を負って逃げたわ。多分、あの傷じゃもう今頃は……」
本当に何も覚えてないのね。あの戦いの記憶もどこまで覚えているのかしら。
「そっか。俺アーラシュにお礼言わなきゃいけないな」
「お礼?」
「だって、この腕。俺がまたバカやっちまったんだろ。あんまり覚えてないんだけど、
真っ暗な穴みたいなのがあってさ、俺の右腕が俺の身体ごとその中に飛び込もうとしてそっちに凄い力で引っ張るんだよ。止まらないし、もういいかって思ってたら、アーラシュがそっちに行ったら駄目だって、俺の左腕を掴んで引き戻してくれたんだ。結局右腕だけが千切れてその穴に飛び込んじゃったんだけど。あの穴に飛び込んでたら、俺、多分死んでたと思うんだよな」
話の内容に驚くと共に、アーラシュのことを思うと再び涙が込み上げてきた。潤んだ瞳を見せないように窓際に行き、外を見る様な素振りをしながら言う。
「アーラシュはその腕のこと謝りたいって言ってたわよ」
「何言ってんだよ、そんなこと謝られたらお礼が言いにくくなっちゃうじゃんか。なぁ、俺が退院したら、前に一緒に行った屋台にもう一度三人でラーメン食いに行こうぜ。「にたまご」だっけ、あれも最初から2つづつ入れよう。でも、左手だけじゃ食いにくいだろうなぁ、ユェ、俺に食べさせてくれるか……って、どうせ「嫌!」って言うんだろ。いいよ、アーラシュに頼もうっと。あ~早く退院してぇなぁ」
涙が頬を流れ落ちるのを止められない。肩が震え、声も震えて掠れる。
「おい、何笑ってるんだよ、俺、何かおかしなこと言ったか」
バカジン!
「ちょっと、トイレに行ってくる」
ユェはそう言うと病室を飛び出した。もう我慢する必要もない。声だけは殺してユェは涙が流れるに任せた。
ロビーまで行くと備え付けのテレビから、シンガポールの財閥「十二色旗」の会頭ジアンユー氏を含む多数の幹部が、昨晩軒並み謎の死を遂げた。彼らが亡くなったと思われる時刻に、無数の流星が降り注いだという目撃証言もあり、宇宙人の仕業か等と現地は騒然としている、というニュースが流れており、病院の中の雰囲気も、何か慌ただしいものとなっていた。
ユェは滲んだ視界でテレビを確認するとその場に泣き崩れた。
お読みいただきありがとうございます。