今回の聖杯戦争が行われる8年前の話。
香港の繁華街から少し外れたところに一軒のナイトクラブがあった。
店の名は「ハミングバード」。かわいらしい名がついているが来る客はゴロツキやマフィアの下部構成員などといった最下層の住人が大半を占める「場末」と呼ぶのがふさわしい店だった。
そこに一人のショーガールがいた。名を晨曦(チェンシー)という。
しかしこのチェンシーという女、お世辞にも善人とは言い難く金をもってそうな客を見つけると身体を使って接近し、報酬を要求する娼婦のようなことをしていた。
彼女自身見目麗しく性格も良ければそこからシンデレラストーリーに発展したかもしれないが、残念ながら彼女の容姿はそこまで優れたものではなかった上に性格も自分勝手で傲慢、また浪費家でもあったため彼女を見初めるような男性は現れなかった。
その日暮らしで常に酔っぱらっているというまさにクズというのがふさわしいような生活をしていた女だが、それでもいつかのし上がってやるという野望だけは心の隅に燻ぶらせ続けていた。
「あたしだってこう見えても昔は高級クラブでちやほやされてたんだよっ! そりゃあ言い寄ってくる男なんて星の数ほどいたさ」
これが彼女の口癖であった。
「ああ、そうですかい。あっしとすりゃあんたの過去なんてどうでもいいんですがね」
本日のカモは最近売り出し中の殺し屋と噂される男だった。殺し屋が自分の事を殺し屋だと名乗るわけもないが、ここはそんな連中のたまり場みたいなところである。誰からともなくそんな話は耳に入ってくる。
その男は言い寄ってくるチェンシーを面倒くさそうにしながらも一晩買い上げた。
そして次の朝にはくしゃくしゃになった紙幣を投げ捨てるようにして部屋を出て行った。
「ちっ! 最近景気がいいって話を聞いたから相手してやったってのによっ!」
紙幣をかき集めて数えるとチェンシーは舌打ちをして毒づいた。
それは彼女にとって日常であり特に変わったことではなかったはずだった。
三か月後、チェンシーは突然店から姿を消した。
しかし彼女がいなくなったところで誰も気に留めることはなく、いつものようにこの店にはゴロツキが集まり代わりに来たショーガールに金をせびられていた。
それからさらに半年したころふらりとチェンシーが店に戻ってきた。驚いたことに彼女は生まれたばかりの子供を抱えていた。
「あんたがこの子の父親だ! 養育費を払え! 面倒を見ろ!」
チェンシーは、失踪前はまだ娼婦の真似事をしていたこともありそれなりに見栄え良い格好をしていたが、今の彼女は髪を振り乱し半狂乱でとてもまともな状態とは言えなかった。
店にいる男を片っ端から「父親だ」といって金をせびろうとしている憐れな女でしかなかった。
そんな半狂乱の女に優しくしてくれるような人間が居るような場所ではない。言い寄られた男は皆一様に迷惑そうな顔をして彼女を無視し、また時には暴力でもって排除した。
殴られ顔を腫らし鼻血を流しながら憐れな女はそれでも大事そうに乳児を抱えてふらふらと店を出て行った。
その日の夜、クガイはたまたまこの近辺で仕事をしていた。
当然のことだが既に彼は一晩だけ買ったチェンシーなどという女の事など覚えていなかった。
腐臭が漂うスラムの路地をたばこを燻らせ歩くクガイは大きなゴミの塊を見つけた。
「ちっ、こんなところでくたばられちゃ迷惑なんですがね」
もちろんそれはゴミの塊なんかではなかった。クガイも見た瞬間それが人の死体である事くらいはすぐにわかった。しかしその死体がまだ生きているとは彼も思っていなかった。
「あ、あんた! クガイだろ! あたしだよ! チェンシーだよ! 覚えてるだろ?!」
はあ? 何だこの女、イカれてるのか?
一瞬クガイはそう思ったがその女が赤子を抱えているのを見てもう一度女の顔を覗き込んだ。
この女はあの時の娼婦か? クガイはぼんやりとそう思ったが、チェンシーの興奮はそれどころではなかった。
「この子の父親はあんたなんだよ! わかるんだ! あたしにはわかるんだよっ!」
……言いがかりをつけて金をせびろうって腹か? クガイは無視をして立ち去ろうとした。
しかしチェンシーはクガイの脚にかじりつき決して離そうとはしなかった。
何ですかいこいつちょっと必死過ぎやしませんかね? クガイは無理やり足を引き離すと汚いものを見るような目で女を見下ろした。
「あんたなんだよ……あたしにはわかるんだ……。この子を頼むよぉ……」
「はあ? 一回寝ただけだろ? 何でそうなるんだ?」
「うへへ。あんた魔術師だろ? だからわかるんだ。一生のお願いさ、この子のこと頼んだよ……」
こいつなぜそれを! クガイがそれを問いただそうとチェンシーの襟首をつかみ上げる。
その時子供と目が合った。彼はまるで撃ち抜かれたようにその場に固まった。
まだ目も見えていないだろうその子は確かにクガイを見て微笑んだのだ。そしてまるで人形のような小さな手を精一杯クガイに向けて差し出した。
「おい! これはどういうことだ!」
しかしその時彼女は既に事切れていた。
結局クガイは、チェンシーはともかく生まれて間もない赤ん坊をそのままにしておくことも出来ず、こっそりと孤児院の玄関先にその子を置いてきた。
そしてまさかとは思いながらも子供の髪の毛を抜き取りDNA検査を行ったのである。
驚きの結果だった。99.99%血縁関係を認めるという結果が帰ってきた。
その後子供は孤児院で花琳(ファリン)と名がつけられたのだが、生まれついての重大な障害と病気があることがわかり香港の病院に入れられることになった。
ただし孤児院の子供に高度な治療が行われるはずもない。それを知ったクガイは嘘でも自分の子供であることがわかってしまっただけに放置する訳にいかず、日本の病院に転院させた。
「血が繋がっているとはいえ、無視してもいいんですがねぇ」
クガイもなぜ自分がこの子の事をそこまでしなくてはいけないのかと思いながらも、あの日のファリンの微笑みが頭から離れなかった。
「これが血の絆ってやつなんですかね?」
一度は孤児院に預けたこともありまた自分の職業から実の父親であることは絶対に名乗ることはしなかったが、クガイはこれ以降ファリンの「伯父さん」として治療費の面倒を見続ける。
そのために以前から接触のあったシンガポールマフィア、365党の専属殺し屋として多額の契約金を手に入れたのだった。
しかし、結果としてファリンとの出会いは、それまで灰色だったクガイの人生に僅かな彩りを添えることとなった。
決して安くはないファリンの治療費を稼ぐという目的と、不定期なファリンの見舞いは知らず知らずのうちにクガイの生きがいとなっていった。
チェンシーには魔術回路が眠っていた。もちろん彼女はそんなこと知る由もなかったし、それを知れるような環境にはいなかった。
そしてファリンを身ごもった時にクガイの魔術回路と反応したのだがその相性はあまりにも悪かった。
結果彼女は健康上に致命的な障害を負い、何とかファリンを産み落としたもののそこまでしか生きることができなかった。彼女がクガイこそファリンの父親であると直感したのはその魔術回路があったが故なのだ。
当然ファリンにも魔術回路は受け継がれていた。彼女の疾患の大部分はその魔術回路の暴走によるものだった。
もしクガイが時計塔に所属する純然たる魔術師であったならファリンを魔術的な手術で救う事が出来たかもしれなかったし、ファリン自体も魔術師として名を残せたかも知れない。
今となってはそれを確かめるすべもないのだが。
お読みいただきありがとうございます。
この話から各キャラクターのエピローグとなります。
ゲーム開始時には「噛ませ役」的なポジションのクガイでしたが、話が進むにつれ愛すべきキャラクターに成長しました。…泣けます。