マンハッタンカフェとトレーナーは怪異の海に揺蕩う 作:郡山 氷里
どれほど歩いただろう。マンハッタンカフェのトレーナーは四つ目の角砂糖を取り出した。霧のせいで、風景から距離を目算する事はできない。歩数は三千四百五十二、五十三。数えながら、二キロは歩いているだろうと推測する。体内時計も三十分手前を示しているから間違ってはない。神経をすり減らして歩くには、彼の体は虚弱過ぎる。気を抜けば膝が震えそうだ。
彼の前を行くウマ娘の少女は、歩きにくい下駄にも関わらず疲れた顔一つ見せない。白い髪をさらさら揺らして、時折振り返る。
「ユーレイは、よく私に着いてくることを選んだね」
突然、シロがそんなことを言い出した。背中からでは、彼女の表情を窺い知ることはできない。
「どういうことかな」
「だって、逸れて霧の中で、私みたいなのにあったら普通疑うでしょ?」
「ああ、自覚はあるんだ」
拐かされた自分の前に現れた、浮世離れしたウマ娘。無条件に信じるのは余程無垢か、余程の阿呆のどちらかだ。トレーナーだって分からない程愚かじゃない。
「まあ、色々と理由はあるけど」
何か一つでも良いから情報が欲しかったのも事実。断ったところで、強硬手段に対抗する術が無かったのも事実。折れることが分かっている枝でも、落ちている時には縋るものだ。
「一番は、直感かな。自分の抱いた印象は信じることにしているんだ」
論理性の欠片もない理由。それでも、彼にとっては一番大事なことだ。
怪異とは、見えず、聞こえず、触れず、言葉にすら出来ないもの。領域に近付いた者だけが朧気ながら形を知り、名前を知り、感情を知る事が出来る。怪異に好かれる彼は、幾度もその境界に触れてきた。語り得ぬ物を語る為に必要なのは理屈ではないと知っている。
「シロからは悪意を感じなかった。今まで俺を連れ去ろうとか、とり殺してしまおうって奴が大抵持ってた悍しい感覚が無かった。こんな状況だもの。信じるにはそれだけで十分さ」
「ふうん、変なの」
「よく言われる」
霧が一段と濃くなった。シロの姿も輪郭がぼんやりしてくる。歩みは速くなり、置いていかれないように必死に後を追う。
「ユーレイはここが何処だか分かる?」
「T山、って名称を聞いてるわけじゃないよなあ」
そもそもまだT山に居るのかも曖昧だ。霧は方向感覚を狂わせて、地に足がついていることさえはっきりしない。もし、一歩先が崖だったとしたら、落ちることにすら気が付けないかもしれない。
「ここはね、現し世と幽り世の狭間。生と死の境界線。ユーレイが道を間違えれば、簡単に黄泉の亡者の仲間入り」
「それは、怖いな。昔からそうなのかい?」
「難しい質問。ここはいつだってそう。でも、君が居た場所は違う」
「……山から境界に飛ばされた?」
「そんな感じ。現し世の一角に孔を開けたせいで、君みたいな人が紛れ込んだ」
シロの言っていることには主語が足りない。誰が穴を開けたのか。誰が彼を引き込んだのか。理解するには、彼自身が考え、推測する必要がある。
「えーと。誰かが恣意的にあの山からあの世への道を繋げた。でも、俺がここに来たのはその黒幕とは何の関係も無い偶然、ってこと?」
「聡い人の子は好きだよ」
「ってことは今も黒幕は何か企んでるってことだよね」
カフェが危ない。衝動のままに走り出したくなる足を叩く。心は前に進もうとも、疲れ果てた足は進まない。自覚して、心を落ち着かせようと息を吐く。
「ねえ、シロ」
「なぁに?」
「俺を、元いた場所に返してくれないか。彼女達に危険が迫っているというのなら、放ってはおけない」
シロは立ち止まり、振り返る。
「君たちは本当に、聡くて強い子だ。連れて行きたくなってしまうくらいに」
「有難いけど、俺にはまだ現世に未練があるから」
「うん。分かってる。君も、彼も戻してあげよう」
彼、とはグラスワンダーのトレーナーのことだろうか。さらに尋ねようと口を開いた時、頭蓋の割れそうな痛みが彼を襲う。
「もう二度と、ここに来ちゃいけないよ」
シロの形が歪んでいく。霧の中に紛れて、声だけが響く。
「今度こそ、連れて行ってしまうからね」
その言葉を最後に、トレーナーの意識は途絶えた。
そして長い時間が経ったのか、それとも一瞬だったのか。再び意識が深層から引きずり出されたのは、彼の名前を呼ぶパートナーの声によってだった。
「ん、ん……」
空と地の関係も分からないような頭を揺らし、なんとか上半身を起こす。瞼の奥が千切れるように痛んだ。ボヤケた視界はやがてはっきりと世界を映し出し、彼の愛バの姿を捉える。
「カフェ……」
「良かった。トレーナーさん、無事だったんですね」
「なんとか、ね」
吐き気と頭痛も加速度的に引いていき、三度深呼吸する頃にはすっかり元の落ち着きを取り戻す。麓にある休憩所のベッドに寝かされていたようだ。気を失っているところを発見されて、ここまで運ばれてきたのだろう。
「グラスワンダーさんは?」
「あちらで彼女のトレーナーさんに寄り添っています。あの、何があったんですか?」
「うん、説明したいのは山々なんだけど。まず、さ」
トレーナーが手を伸ばす。
「水筒、くれないか。喉乾いちゃって」
■
グラスワンダーのトレーナーは無事に戻ってきた。フィジカルの弱い彼の方が重症だったというのは笑えない話だが、ともあれ問題は解決したとして下山。理事長達にも報告を終えた、そんな夕時。
コーヒーがサーバーに注がれる。二人だけのコーヒーブレイク。日常に戻ってきたことを喜ぶ祝杯。
「それで、結局何だったのでしょう」
今回の事件は、カフェでさえ理解の難しいものだった。解決したのであれば良しと、それで済ませてしまうのは簡単だ。怪異に慣れ親しんだ彼女にとっては納得のいかない話ではあるが。
もしかしたらトレーナーならば何か分かっているのかもしれないと、期待半分に話し掛ける。
「カフェにも分からないものなんて、俺も推測で話すしか無いんだけどさ」
珍しくシュガースティックを使わずにコーヒーを口に付ける。慣れない苦さに僅かに顔を歪めた。
「いわゆる天狗、って奴だったんじゃないかと思う」
「天狗、ですか?」
カフェが首を傾げる。妖怪といえば天狗と言っても過言ではない、有名な名前だ。赤い面に長い鼻。山伏姿に錫杖を持って悪さをする妖怪。かつては失踪することを天狗の仕業と呼ぶこともあったという。
「天狗ってのは修験者の変化と考えられることも多くてね。二種類に分けられるという話がある」
「二種類、ですか?」
「そう、簡単に言えば善と悪。後進を見守り導く者と、妬み嫉み引きずり落とそうとする者」
カフェから聞いた話と合わせるならば、クロと名乗った少年が悪天狗で、シロと名乗ったウマ娘が善天狗。悪意をもって人を山から落とし、あの世へと送ろうとしていた悪天狗に対して、境界で善天狗が繋ぎ止めていたのだろう。もしくは、悪意に対して山が取った自衛本能がシロを生み出したのか。
「そのクロって子が消える時、猿田彦と言ったんだろう?」
「ええ、猿田彦大神は道祖神と同一視されることが多かったそうですから」
「猿田彦は天狗の源流とされることもある。役小角に端を発する修験道と直接結び付く訳ではないけどね」
「……つまり天狗の一端であったからあれだけ恐れていたと?」
「推測だよ。妄想と言い換えても良い」
結局の所、怪異などというのは生きている人間には表せないものだ。それらしく理由をつけて、分かったつもりになるしかない。
「はっきり言えるのは、シロさんのお陰で俺もグラスワンダーのトレーナーさんも無事だったってことくらいさ」
苦いコーヒーを飲み干す。甘いものを食べるつもりにはなれなかった。彼一人では境界から抜け出すことは難しかっただろう。グラスワンダーのトレーナーだって、悪意によって命すら奪われていたかもしれない。
「そういえば、そのトレーナーさんはどうして行方不明のままだったのでしょう。あれから逃れていたのだとしたら、山を降りることも可能だったでしょうに」
「ああ、それは後で聞いたんだけどね。どうも自分が狙われている間は他の人は狙われないだろうと思ったらしい」
グラスワンダーのトレーナーは、間一髪の所をシロに助けられた。そして、クロが自分をまだ狙っていることを知って餌となり続けるために境界に残り続けたのだという。自己犠牲精神満ち溢れる行動なのだが、本人のまったりした語り口を聞いていると、単に動くのが面倒だったようにも聞こえた。
「とはいえ、結果的にグラスさんに危険が及んでしまったことにはかなり後悔していたみたいだよ」
「お互いがお互いのことを思った結果、より危険な事態に陥ってしまったと」
あの時、カフェが居なければグラスは崖の下に落ちてしまっていた。善だという白いウマ娘が彼と一緒に居たならば、グラスを助けることは出来ないだろう。
「俺たちも気を付けないとね。分断されることは珍しくないし」
「そもそも分断されないように気をつけてください……」
「それは、善処しよう」
ジト目で見られるのを誤魔化すように、トレーナーはもう一杯コーヒーを注いだ。
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