【完結】女帝の意志を継ぐ者へ   作:マシロタケ

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エアグルーヴ……!

そんな情けない顔をするな。たわけ。……そんな顔をされては、折角産まれて来たこの娘が不憫ではないか……。

だけど……君はッ!

私はいい……命とは紡がれてこその代物だ……。
それよ……りも……きょ……うは……この娘の……目出度い日だ。祝ってあげよう……喜んであげよう……。

ああ……ああ…………そうだな。
……名前を決めてあげないとな……。

名前なら……既に決まっているではないか



ああ……また(・・)逢えてよかった…





―――ショパン



邂逅 変ロ短調 作品1
三女神様にお祈りを


 

 

 

 

 

 

 

 ……パン

 

 

 

 

 

 

 ショパン

 

 

 

 

 

 

 ねぇってば

 

 

 

 

 

 

 ねぇ聞いてるの?

 

 

 

 

 

 

 

「――ショパン(・・・・)ってば!!」

 

「……んえ?」

 

 彼女(・・)はようやく己の顎を支える腕の杖を外し、空間を劈き唸る仲間の方へきょとんとした表情を向けた。ふと、自分は何を考えていたのだろうか。見上げる空の奥彼方で、愛しく優しく懐かしい誰か(・・)の声が聞こえていた気がする。しかしそれが誰かは思い出せない。僅かに漏れる溜息に、折り合いと観念を催し、話を聞いていたのかという友人の問いに対して、こくりと嘘を頷いた。

 

「やっぱりハンカチとかじゃないの? コロンとセットにしてさ」

 

「ええ~なんか古臭くない? やっぱそこはオトナのウマ娘に送るモノよ! お化粧セットとか、指輪とかさ!」

 

「アンタそんなお金あるの?」

 

「ないけど!」

 

 随分と湧き上がる無駄話(ガールズトーク)。普段の中身の伴わない話題と違って、今日の議論には幾何かの熱を感じる。内容から察するに、トークテーマは大切な誰かへの贈り物と言ったところなのだろうか。彼女らの耳や尻尾の動き(ストローク)すらも、内に滾る興奮の副産物のようだった。

 

「で、ショパンはどうすんの?」

 

「え……私?」

 

「そーそー。あんたアンタ。ずっとぼーっとしてんだから! 母の日(・・・)のプレゼント。何考えてんの?」

 

 

 母の日。

 

 ああ、そんな話題だったのか。これは弱った。随分と弱った。だって……

 

 

「カーネーションとお手紙とかでいいんじゃないの……? よくわかんないけど」

 

「……はぁ。あんたってば、そうやってお金ケチろうって魂胆じゃないんでしょうね」

 

「そういうワケじゃ。大事なのは気持ちじゃないのかな」

 

「そういうけどさ、やっぱりとびっきり良いもの送ってさ、お母さんに喜んでもらいたいじゃん! お母さん、私のすっごい憧れだからさ! アンタにはそういうのないの? 親不孝モンだよ~?」

 

 友人の一人が、冗談めかしてそうショパン(・・・・)に吐きつけた時だった。

 

「私、お母さんいないもん……」

 

「……え?」

 

 彼女のその一言に、友人たちは思わずその口を塞いだ。時を置いて幾何かの沈黙の時間が訪れる。友人たちは互いの目を合わせ合う。まずいことをした。禁忌に触れてしまった。この状況をどうフォローすればいい。打開策はないのかと、その瞳で語り合った。

 

「私が産まれたその日に死んじゃったんだ。だから、一回も会ったことがないし、お話したこともない」

 

 もうひと時を置いて、彼女は語りだす。その声色と表情にはただただ哀愁だけが漂い、そこに友人に対する怒りや、妬みといったものは感じられなかった。

 

「ごめん……しらなかったんだ……」

 

「ううん。皆のせいじゃないよ」

 

 最後にショパンは青ざめる友人たちに笑って見せた。折角の明るい雰囲気を壊してしまったことを、心の隅で悔いたからだ。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 桜もすっかりと舞い落ち、青々しく芽生えるは夏の命。夏至もそう遠くないらしい。そんな僅かな夏の知らせをショパンは廊下の窓から感じ取る。そこから見える旧校舎(・・・)から巣立つ燕たちに背中を押されるように、彼女もまたとある場所を目指し足を進める。

 

 その時にふらりと、先のことを思い出す。『お母さん、私のすっごい憧れだからさ』そう、心からの歓びを唱える友人の唄が頭の中でリフレインした。本当は彼女だって、そうであるはずなのに。

 

「私のお母さんだって、すっごいウマ娘だったんだ……。すっごく綺麗で、すっごく強くて、すっごくカッコよくて……。私のあこがれのウマ娘なんだ……。だって――女帝(・・)って言われたウマ娘なんだよ……?」

 

 きっと誰にも届かぬ声でと彼女は呟き、首から提げたペンダントの蓋を開ける。

 そこに"憧れ"は居た。優しい向日葵畑を背後に、白いワンピースに身を包み、柔らかく温かい表情をこちらに向ける生前の母の姿。だが、その笑みはショパンへ向けられた笑みではない。きっとこの写真を撮った人へ向けた数少ない笑顔。

 

 しかしショパンにとっては、その残された写真やビデオたちだけが、母の面影全てだった。

 

 レースでの走る姿。ウイニングライブで可憐に舞う姿。インタビューに対し、泰然自若に毅然と答える姿。それらがショパンの知る画面の向こうの母の雄姿。情報源は全てメディアを通したもの。……つまるところ言い換えてしまえば、ショパンの知る母の姿、それはいちファンが得られる情報とさして変わらないということだ。

 

 あとは精々、自宅に残ったアルバムかホームビデオか、その程度だ。

 

 本当はもっと知っていてもいいはずだ。彼女しか知らない母の顔を。

自分の子を愛を以て叱る顔。親ばかになって子を愛でる顔。親子で戯れ合う歓びの顔。娘を案じる母親としての顔。父を叱りつける妻としての顔。時に娘の走りを指南する指導者としての顔とか……。とかとかとか。

 

 しかし彼女は何も知らない。だって、その瞳すらも直接見たことがないのだもの。

 

 ……叶わぬ願いだとは分かっている。拙い我儘だとも知っている。だけど。だけど。

 

 一度でいいから、叱られてみたかった。

 

 褒められてみたかった。

 

 甘えてみたかった。

 

 母の手料理を味わってみたかった。

 

 一緒の布団で母の胸の中で静かに眠ってみたかった。

 

 一緒においしいスイーツを舌鼓して、笑い合ってみたかった。

 

 友達に、私のお母さんはすごいんだって自慢したかった。

 

 

 ――母の日に贈り物をして、喜んで貰いたかった。

 

 

 一つ欲が出れば、それが彼女の脳内で共鳴し合って厄介な連鎖反応を起こす。だけど、どう足掻いたってそれが叶わないことだともよく知っている。

 

 彼女は足を止め、青く抜ける晴天を瞳に映す。そしてとある無謀を呟いた。

 

「お母さん……会ってみたいな……」

 

 しかしその戯言は、儚くも春の突風と共に春空へと消えていった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 心のぼやきに身を任せ、己の感情に漂い続ければ、時間という代物は瞬く間に蒸発する。先ほど教室を出たかと思えば、目の前には既に目的地。長らく変わらないその木製の扉は、これまでも見守ってきたトレセン学園の深い歴史と、出会ってきた無数の生徒たちの夫々の想いを、言葉なく語り継ぐ。その貫禄の前に、未だに幼いショパンが幾何かの気後れを感じることも無理はなかった。

 

 ノックを三回、然れどその扉の隔たりの向こう側から入室を許す言葉はない。部屋を間違えたのだろうか。だが、室名札には間違いなく記されている。

 

『生徒会室』と。

 

 ショパンは扉の取っ手に手をかける。ここで待ちぼうけを貰うのも少しばからしいと思ったからだ。扉に施錠はなされていなかった。その部屋の主が入室の許可を下さなくとも、門番が許してくれるのなら、忍びないこともない。案の定生徒会室は無人だった。静寂と僅かな寂寥が古書籍の紙やインクの香りと重なり、静穏を唄う音無きBGMとなって来客を慎ましく迎え入れた。

 

「会長さん、この時間にって言ってた筈なのにな」

 

 小さな裏切りに、ショパンは若くして吐き慣れた大きな溜息を。ちらりと時計に目を向ける。時刻は既に逢魔が時(おうまがどき)。果たして、生徒会長が自分を呼びつけた目的とは何なのだろうか。叱られる心当たりも……ない。多分。

 

 微かな不安を払おうとするかのように、時計から視線を振り解こうとしたとき、彼女はそれらに出会う。

 壁際にずらりと飾られた過去の上澄みたち。そう、歴代生徒会メンバーの集合写真だ。遡れば色が褪せてしまっているほどに古い写真までもがそこにあった。無意識の下、否、はっきりとした期待の中でショパンは辿ってしまう。一年、また一年と過去へタイムスリップ(・・・・・・・)するかのように。

 

 

 ――そして辿り着く。歴代の生徒会の中でも、比類無き希代とすらも称された彼女ら(・・・)の写真を。

 

 写真中央の生徒会長席に腰を据える鹿毛のウマ娘、既に20年以上(・・・・)の歳月を経ようとも、その威圧感と瘴気を醸すような風格は、時空を通り越し、そこに立ち尽くす者の喉元を締め付けるかのようだった。そして、生徒会長の両脇を固める二人の副生徒会長(・・・・・)……。

 

 その一人に、ショパンの心は奪われる。なんたって、ここで初めて見た新たな母の姿なのだもの……。

 

 また、くうっと沈み込むように、彼女の心に何かが棲む。それは切ない気持ちなのか、或いは……。ショパンが僅かに息を止めた時――。

 

「お待たせして申し訳ありません。ショパン」

 

 それは春風と同じように、温かく優しい艶やかな声色。それが写真を恍惚と見入るショパンの背中を叩いた。途端に現実の世界へ引き戻された彼女の心に、僅かな緊張が蘇る。

 

「生徒会長さん」

 

 ようやく現れた生徒会長(遅刻魔)の姿。ここで、自分から呼びつけておいて、来客を待たせるとはどういう了見かと不満を言ってやれるほど、彼女(ショパン)の気は大きくない。むしろ何も怖いことなどなく、この時間が過ぎ去ってほしいと願う気持ちが強かった。

 

「御免なさい。会議が想定よりも長引いてしまって。さぁ、お掛けになって」

 

 青鹿毛の(ストレート)を靡かせて、くいっと眼鏡を奥に押し込んだ生徒会長は、両手に抱えた書類を生徒会長席の机に置き、応対用の少しだけ草臥(くたび)れたソファを指す。だが、ふと彼女はショパンが向けていた視線の先に気が付いた。

 

「生徒会室へ赴くのは初めてでしたか?」

 

 ショパンは小さな声で、こくりと頷きながら答えた。

 

「では、やはりその写真が気になることも無理はありませんね」

 

 会長はにこりと笑って、ショパンと背比べをするように横へ並ぶ。そしてショパンが先ほどまで眺めていた写真に視線を手向けた。

 

「我がトレセン学園の歴史は長く麗しい。無論それらの歴史は彼女たちの尽力あって、紡がれ守られてきたものです。私という存在は未だ拙く、彼女らの背を追い続ける日々ですが、それであっても彼女たちの想いを無下にはできません。私もまた、この歴史の歯車となってこの学園を未来に紡いでいく。それが願いであり、目標」

 

 ひとつそう語った後で、彼女は続ける。

 

「その長い歴史の中でも、彼女たちの世代は一つ抜き出ていました。当時の生徒会長『シンボリルドルフ』無敗の三冠ウマ娘であり、夢幻の七冠ウマ娘。その樹立から今日に至るまで、彼女の栄光が覆った事実はありません。彼女の前には伝説という言葉すらも、幼い表現なのかもしれません。皇帝という名は飾りではない」

 

「……シンボリルドルフ」

 

 ショパンが呟き、呼応するように会長が頷く。

 

「ご存じですか。今彼女は若くしてURAの総括監に籍を置き、ポスト理事だとも囁かれているそうですよ。私も幾度かお会いしたことがありますが、彼女の覇気と言いましょうか、その気概の前には、背筋を伸ばし、襟を正す他ありませんでした。今でもお会いする機会があると緊張しちゃうんですよね」

 

 会長は胸に手を置いて複数回の深呼吸。それは少し緊張気味のショパンへ向けたおどけなのかもしれない。

 

「ですが、彼女がこの学園に懸ける想いと、全てのウマ娘たちの幸いを祈る心は、紛いなく本物でした。何もかもまだまだ私では追いつけない。私の憧れとは彼女のことなのかもしれません……」

 その吐露と共に、恍惚の瞳を再び写真に向ける。

 

 

「そんな彼女の現役を支えた副会長方も忘れてはならない存在です。『ナリタブライアン』彼女もまた、シンボリルドルフと同じく三冠を手にした、栄誉ある怪物。その類い稀なる実力と、唯一不二の特異なるスタイルは、未だに多くの生徒たちを魅了しています。枝を咥えている生徒がいたら、漏れなく彼女のファンですね」

 

 ルドルフの傍らで、会長席の机に腰を預ける彼女の姿。写真越しにも伝わる、冷淡さを極めた針のような視線。それは獲物を捕らえた猛禽の瞳と比喩しても差し支えないのかもしれない。

 

「今もURAの運営に何かしら関与しているという話は聞くのですが、実際に私はお会いしたことがなくて。……ここだけの話、ルドルフさんのお話によれば、ブライアンさんは既にご結婚なされていて、旦那さんと鴛鴦夫婦生活してるんだとか。この写真の表情からあまり男性に隙を見せる方ではないものかと勝手に思ってましたが、結婚とはそんな彼女すらも変えてしまうのかもしれませんねぇ」

 

 会長は表情を柔らかく、結婚という言葉に甘い溜息を吐く。ショパンは好きな殿方とかいらっしゃらないんですか? と藪から棒に聞いてくるものだから、油断ならないのも、この会長の特筆すべき点だ。

 

「そして――」

 

 会長は一度、次の話題へと転じる為に呼吸を整える。この話をするのならば、それなりの用意(・・・・・・・)が必要だからだ。

 

「現役時代のルドルフさんを支えた、もう一人の杖。どんな時も強かで、麗しく、慎ましく。全ての生徒の模範であり、競走ウマ娘としては、名実共にこの歴史に確かに(あかし)を刻んだ。彼女を知る者たちは(みな)敬意を表して彼女をこう呼びました。――女帝(・・)と」

 

 

 会長は、もう一度だけ息を吸いなおし、この流れを途切れさせまいと続ける。

 

 

「彼女の名はエアグルーヴ(・・・・・・)。そう……ショパン」

 

 

 会長は写真から視線を外し、その場に立ち尽くすショパンに視線を預けて言葉を放つ。

 

 

「――あなたのお母さん(・・・・・・・・)です」

 

 

 その言葉にも、ショパンの表情は変わらなかった。僅かにくぐもる表情と、哀愁の瞳だけが今の彼女の全てだった。

 

「あなたも知る通り、彼女は若くしてこの世を去りました。ショパン、あなたという娘を残して。……神とは粗暴な存在です。いつの時代も、可憐で優美な花から先に摘んでゆく」

 

 会長はショパンの手を握る。そして彼女の心を解くように囁く。

 

「どんな事をあなたに言っても、それが慰めにはならないことは承知しています。だけど、だけど……。あなたには強く生きてほしい。お母さんのその想いを、誇りを継承し、どうか逞しく……」

 

 彼女の目尻に、何時しか少量の汗が。ショパンに悟られないようにそれを拭った。

 

「……お母さん」

 

「ショパン。あなたは高潔なる血を引くウマ娘です。きっとあなたなら、その想いを継承できるはず。……実は今日あなたをここに呼んだのも、それに纏わる話なのです」

 

 そういうと、会長は生徒会室の金庫の施錠を外し、中から一枚のCDケースを取り出し、ショパンへと手渡した。

 

 それは、前期ロマン派を代表するピアノの詩人とも呼ばれたポーランドの作曲家のCD。

 

『幻想即興曲 オムニバス ショパン』

 

「……これは」

 

「裏面をご覧になって」

 

 CDケースの裏には流れるような筆記体で記されてあった。

 

 

 "Air Groove"と。

 

 

「あなたのお母さんの忘れ物……きっとあなたが必要になる日が来ると保管されていたようです。今日を以てあなたにお返しします」

 

「私が必要に……?」

 

 会長のその言葉の意味を、ショパンは直ぐには理解できなかった。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 時は既に暮れ泥み。日照と日没の曖昧な微睡。それを先人たちは黄昏時と称した。

 

 黄昏――一説によると、それは互いの顔を認識できなくなる時間に、"誰そ彼"と問い合ったことが起源とされる。

 

 また、ある一説によると、その頃合いには、巡り合う筈のない存在と出会ってしまうこともあると、先人たちは言ったらしい。果たしてそれが真か偽か、トレセン学園の中庭をぽつぽつと歩く彼女には、関係のない話なのかもしれない。

 

 ショパンは、生徒会長から返して貰った己の名前と同じピアニストのCDケースを、ただただ眺めながら帰路を目指していた。

 

 だが、ショパンはこのCDを返されたことに、あまり意味を見出せていなかった。会長が残した言葉すらも、上手く消化できないままでいる。

 

『いずれあなたが必要になる日が来る』

 

 何を以て、そう思ったのだろう。皆目見当もつかない。

 

 確かに母の私物が手に入ることは喜ばしいことだ。しかし、彼女は特段クラシックを好む少女というわけではない。それにそのCDは、どこのショップでも手に入るような、普遍的なアルバム。一つ違う点といえば、母の名が刻まれていることだけ。

 

 確かに父からも、母は生前クラシック音楽を好んだとは聞かされていたし、ショパンという作曲家の作る楽曲を深く愛していたとも聞かされていた。

 

 ならば、彼女の名もその作曲家からとられたものなのかと、ショパンは父に問いかけたことがある。親が好む名詞を、子の固有名詞にしてしまうことなど、さして珍しい話でもないので、ショパンがそう考えるのも妥当だった。

 

 だが、父の回答ははっきりしたものではなかった。

 

 "おそらく"そうである。という答え方をしたのだ。ショパンはその"おそらく"の意味を問い詰めた。だが最終的に得られた回答は、彼女の理解力を上回るものだった。

 

『お母さんは、君が生まれる前から、君が生まれてくることを知っていたかのように名前を付けたんだ。迷いがなかった。まるで既に決まってある名前を呼んだように』

 

 と、父は娘に視線を合わせずに言った。母の真意は、母にしかわからない…暗にその意味を含ませるようだった。

 

 結局としては、なぜ彼女がショパンと名付けられたのか。このCDが意味するものとは何なのか。

 

 何一つとして、わからなかった。

 

 知らない。自分は母のことを何も知らない。

 

 娘なのに。確かに血を引いた娘であるはずなのに。

 

 母がかつて通った母校へ来れば、何かがわかると漠然と思っていた。だけど

 

 何も知らない。何もわからない。

 

 嗚呼……昼間に友人に言われたことは、本当だったのかもしれない。

 

『親不孝もの』

 

 だって、何も知らないんだもの。何も思いを継承できていないんだもの。母がどう生きて、どういう想いを背負って、どういう期待を自分に懸けて、どういう想いでこの世を去ったのか。

 

 実際のところ、彼女の生まれと共に、故人となった母の想いを知る方法などない。彼女のそれは見当違いの卑下だった。

 

 だが、まだ幼い彼女がそれに気づけるハズもない。だから彼女は堕ちてゆく。自己嫌悪のスパイラルに。

 

 栄誉ある母そして、その想いを何も継承できない親不孝者。

 

 何も知らない、何もわからない、親不孝者。親不孝者。お前は母の栄誉を汚すのか。母の栄光に泥を塗るのか。親不孝者。親不孝者。

 

 そのあまりにも惨い現実が、途端に彼女の心を締めた。

 

「う……う゛う゛ぅ……」

 

 がたがたと、彼女のCDを握る手が震える。ぼたぼたと大粒の涙がCDケースの上に。

 

 この世に生を受けて十余年。母のいない世界には慣れていたつもりだった。母がいなくとも、きっと強く生きてゆこう、そう決めたはずなのに。

 

 この涙はなんなのだ。この涙は……なんなんだ。

 

「お母さん……おかあさん……」

 

 ああ、情けない。情けない。これで女帝の娘なのか?

 

 何が誇りだ。何が継承だ。ここで赤子のように泣きじゃくることが、高潔な女帝の娘としてのあるべき姿なのか。

 

 一度溢れだした情を抑える方法がわからない。どうやって立ち上がればいいかわからない。

 

 こんな時、母ならどうしたのだろう。女帝なら……どうするのだろう。

 

 

 

 想いなんて、どう継承すればいいのだろう。

 

 

 己の不甲斐無さに、瞳を閉じた――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ショパン

 

 

 

 

 

 

 

 

「……?」

 

 ふと、顔を上げくるりと周囲を見渡す。何もない。誰もいない。だが今確かに、誰かに名を呼ばれた。

 

 或いは気の所為なのかもしれない。だがまた或いは……。

 

 何度も、何度も周囲を見渡す。その声の出所をどうしても知りたかった。もしかすると、それは彼女の無意識が生んだ幻聴なのかもしれない。だが、それでもよかった。

 

 それが彼女を救ってくれる光となるのなら、例え幻聴であっても。

 

 

 

ショパン……こっちだ……

 

 

 

 再び聞こえた声。幻聴ではない。はっきりと。だが、それを"声"と呼んでいいのだろうか。その声は、彼女の鼓膜を揺らさない。彼女の心に脳に、直接語りかけるような、『綺麗だけど(いびつ)な声』だった。

 

 

 そして、ショパンは見つける。その声の主である可能性が、唯一考えられる彼女ら(・・・)の姿を。

 

 

「三女神……様?」

 

 

 それはどんな時も慈悲深く、妖艶で、慎ましく、優しい存在。長い歴史を誇るトレセン学園の歴史を、数多のウマ娘たちの生き様を見守ってきた三体の偶像(アイドル)。三女神像。

 

 建立されて以降、彼女たちが抱える瓶から滴る水の唄が途切れたことはない。彼女たちはショパンにも例外なく、その唄を聴かせる。

 

 在る者が聴けば、それは優しい唄だという。また在る者が聴けば、それは不思議な唄だともいうらしい。

 

 ショパンにとっては、彼女たちの唄はどちらなのだろうか。

 

「……」

 

 気が付けば、涙などは既に乾いていた。ショパンは無意識の下に一歩を踏み出す。

 

 そういえば聞いたことがある。トレセン学園のとある都市伝説。三女神の麓では度々不思議なことが起こると。例えば不思議な声が聞こえるだとか、お祈りをすれば願いが叶うとか、カップルで訪れると恋が実るとか……。

 

 

 

 ――誰かの想いを継承できるとか。

 

 

 コツン、コツン。ショパンの足音は止まらない。まるで首に縄を括り付けられ、彼女らに引っ張られるかのように。抗えない何かに惹かれるように。一歩。また一歩。三女神の唄がどんどん大きくなってゆく。

 

 そして、三女神の御前で足を止めたショパンは、彼女たちを見上げる。無機質に覆われた優しい微笑み。入学当初はどうも気味が悪いと敬遠していたそれが、今はとても優しかった。亡き母の代わりに、彼女へ笑みを手向けていると言うのだろうか。

 

「三女神さま……」

 

 今なら、今の彼女らなら、すべてを打ち明けられる。ショパンは手を組んで、全てを三女神に語った。

 

「わたし、お母さんに会ったことがないんです……。だから、お母さんのことを何も知らない。でも、三女神さまなら、想いを紡いでくれるんですよね……? だったら、お願い……。お母さんの想いを、私に教えてください! お母さんの娘として、どうあるべきなのかを……教えてください……!」

 

 ショパンは肩を揺らして息をした。呼吸までも下手になったというのだろうか。

 

 ふと、我に返る。ああ、とうとう自分は、神にすらも縋ってしまった。

 

 己じゃ何もできないからと、神様にお願いをした。

 

 あの女帝の娘が。 

 

 こんな姿を母が見たら、なんと思うのだろうか。顔を覆って泣くに違いない。こんな情けない娘が、私の娘である筈がないと。

 

 再び自己嫌悪の渦が、彼女を蝕み始める。こんなお願いをされても、三女神だって困るに違いないのだろうに。重い吐息と共に、ショパンは顔を上げた。

 

 

「…………え?」

 

 

 異様な光景だった。彼女の知る水の色とは透明か、その流体の色を象徴する水色のどちらかなのだから。

 

 だから、あり得る筈がなかった。

 

 

 

 ――三女神の泉の色が、虹色(・・)に光ることなんて。

 

 

 

 自分の知識の範疇を超えた出来事に、ショパンは言葉をなくす他、成す術がなかった。茫然自失と、神々しく煌びやかに映えるそれを、眺めているだけ。

 

 

 ショパン……さぁ、こちらへ……

 

 

 呼ばれている。彼女たち(・・・・)に呼ばれている。

 

 

 嗚呼……どうすればいい。怖い……けど……。

 

 

 ショパンは、彼女たちの足元に溜まる泉を覗き込んで……虹色に輝くそれらを、さらりと触った。

 

 触った感覚は、何も変哲のない普通の水だった。だから。

 

 

 思い切って手を突っ込んでみた。

 

 

 ……手を入れて、2秒となかった。

 

「わッ!?」

 

 彼女の手は、大きな何か(・・・・・)に引っ張られ、大きな飛沫(しぶき)を上げながら、彼女は泉の中へと消えていった。

 

 その場には、ショパンのCDだけが残った。

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 ショパンの去った後の生徒会室。会長は、何時も手にしているヴァレリーの詩集を片手に、歴代の生徒会メンバー達がずらりと並ぶ、額縁に入った肖像写真たちの前に佇んでいた。

 

「先代方。あなた方が今まで守ってきた想い(・・・・・・・・・・)、第97代生徒会長『メルセデス』が、今日この日を以て終焉を打ちました。エアグルーヴさん……あのCD(・・・・)は、確かにあの娘(ショパン)の手に渡りました。後は全てあの娘次第……」

 

 彼女の細々しい声、微かに震えるようだった。

 

 会長(メルセデス)は写真たちから視線を外し、黄昏の曖昧を瞳に写して、最後に一つ祈った。

 

 

「三女神様……どうか、あの娘に深い幸いが訪れますように……」

 

 

 

 

 

 

 

 




エアグルーヴのヒミツ②

実は、リラックスしたい時には
ショパンのCDを聴く。
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