【完結】女帝の意志を継ぐ者へ   作:マシロタケ

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未来から来た不思議な娘に出会った。

その娘は、少し小胆で臆病で、然れども温順で。背丈は私の胸元程までしかなく、鬣は黒鹿毛。

その娘は私のことを母と呼んだ。無論、私は子を儲けた覚えなどない。

当然、私は憤った。見知らぬ娘の母にされてはたまったものではない。しかれども彼女は、どうしても私の愛を欲っした。

周囲の友人、トレーナーやお母様は、多少の当惑を抱きながらも、次第にその娘を受け入れていった。

その狭間、どうしてもその娘を拭い切れぬままでいるのは、私だけなのだろうか。


女帝の救済

 

 

「……僕?」

 

 手記の中の文字だけの世界。彼女の字面と彼は踊る。答えの見えない子犬のワルツを踏み続ける。

 

 その手記の深淵へと踏み込むほど、ワルツのタップテンポは増し、華麗なる大円舞曲へと変貌を遂げる。彼女の手記が奏でる組曲に、ポロネーズすらも踏めない秋名は、されるがまま手を取られ続ける。

 

 彼女の言う、不思議な娘。それを手記の中の秋名は認識しているという。だが、自分の中の記憶を辿れど、彼が不思議な黒鹿毛と出会った記録などどこにもない。

 

 であれば、この手記は彼女の妄言か、或いは彼女が創り出した空想物語か。

 

 だが、手記には続きがある。

 

 前述した二つの憶測は、彼女の締めくくる言葉に殺された。

 

『少女の名は、ショパンと言った』

 

「……」

 

 余韻に続くのは黒く泥んだ溜息。彼女の真意がどうしても見えない。あれだけ時を共に重ね、紡ぎあった仲であるはずの彼女のことを、理解できない。

 

 合理性、理由、ロジック、根拠、事実。それらこそが彼女のモットーであるはずだと理解していた筈なのに。今手にしている手記の中の彼女には、その何れも当て嵌まらない。

 

 何故彼女がこんなものを残したのか。何故彼女はショパンの存在を知っていたのか。何故彼女はこの世を去らなければならなかったのか。

 

 何故……何故、何故、何故、何故、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。

 

 不可解な問いを重ねる程、彼女の面影が霞んでゆく。

 

 そして、彼はようやく気が付く。自分は、妻であるエアグルーヴのことを何も知らないのだと。心から焦がれる程に愛した妻のことを、何ひとつとして理解していないのだと。

 

 知っているつもりでいただけだ。彼女のことを。

 

 本当は、何も知らないくせに。

 

 惨い現実から目を背けるように、彼は手記を閉じた。もう一度、それを開く勇気がどうしてもなかった。ふと顔を上げれば、そこには未だに初々しく、青々しい若葉の絨毯。夏に向けての準備に余念の無い向日葵の子供たち。

 

 秋名はひらりと一枚の写真を手にする。エアグルーヴの実家から見つかった、妻の写真。

 

 未だに幼い畑に向かい、その写真を翳し、当時の記憶と重ね合わせた。

 

「秋名さん?」

 

 ふと、一つの若い声が彼の背を叩く。秋名は腕を下ろし、声の鳴るほうへ。そこに居た青鹿毛(メルセデス)。小さな詩集を手に抱え、歴代の生徒会長達と比較しても遜色なき端正な容姿を、少し濁らせていた。

 

「君は、どうしてここへ?」

 

「ええ、私、以前ショパンが持っていたペンダントを拝見したことがありました。そこには、エアグルーヴさんと、とある向日葵畑が写っていて。その際にショパンが教えてくれたのです。この向日葵畑はこの西の丘にある畑だと。そのことを、ふと思い出して」

 

 メルセデスは視線を畑に返すと、今年も沢山咲きそうですねと静かに言った。

 

「彼女が入学して間もない頃でした。私は廊下でペンダントのチェーンが壊れたと嘆いていた彼女を見つけました。幸いにもその時、手先が器用な副会長(ロータス)が居合わせてくれて、チェーンの修復は無事に終えたのですが、その際に中身を見たのです。彼女のペンダントに居たのは、あの『エアグルーヴ』さんでした。私は直ぐにあのCDと結びつきました。本当にこの娘(・・・)が現れたと」

 

 秋名は再び写真に目を落とす。それを脇から覗いたメルセデスは、原本をお持ちだったのですね。と秋名へ言った。

 

「さっき、妻の実家で見つかったものなんだ。僕も久しく目にしていない」

 

 その一言に、メルセデスは僅かに眉を波打たせた。

 

「つまり、奥様の死後、長らく手元に無かったもの…ということですか?」

 

「ああ、ずっと彼女が保管してくれていたらしい」

 

「……。ペンダントは、奥様が亡くなられてから造られたものなのでは? ショパンへの形見として」

 

 秋名は瞳を閉じて首を横に振った。

 

「いや、ペンダントは生前に造られたものだ。意外だった。自分の写真すらも飾らない彼女が、自分の写真が入ったペンダントを造るだなんて」

 

 彼女にしては、随分とナルシストな側面があるものだと、当時秋名は思った。

 

「だけど、彼女はそのペンダントを僕に託したんだ。"私の事を何時も忘れてくれるな"って、確かそう言ってくれたのかな」

 

 普段装飾品(アクセサリー)を飾らない秋名は、その日からペンダントを身に纏うようになった。職場では愛妻家めと揶揄われた記憶があると、当時を懐かしむように彼は語った。

 

「そしてショパンが生まれ、妻が亡くなり……」

 

 そこに続けようとした言葉、上手く出てこなかったらしい。少しの引っ掛かりを残して、言葉を飛ばし、結論を語った。

 

「ショパンがトレセン学園へ入学するときに、これを彼女へ渡したんだ。お母さんのお守りだって」

 

 春の陽気さが、どうしても空しい。恵みであるはずのそれの下、秋名は続けて過去を語った。

 

「この写真も僕が撮ったものだ。妻は僕の腕を引くと、ここで写真を撮ってくれと僕に言った。婚約も経て、長い付き合いだと思ってはいたけど、初めてだったかも。彼女が自分から写真を撮るように願い出たのは」

 

 写真の中の妻を見て、秋名は微かな沈黙を織り交ぜながら。自分と彼女の唄を続けた。

 

「ファインダー越しに映る彼女は確かに美しかった。あまり見せない笑顔を満面に押し出して。……でも」

 

 そこに一つの接続詞。それは、前述の何かを否定するための用意。

 

「でも?」

 

 メルセデスが問う。彼の幸いな記憶に、影があるのかと。

 

「思い過ごしかもしれない。だけど、ファインダーを覗きながら思ったんだ。彼女の笑顔は、どうも僕に向けられたものではないような気がした」

 

「……」

 

 彼の主張が上手く消化できなかった。メルセデスが言葉を探すが、秋名は構わずに続けた。

 

「僕ではない。その先の誰かへ向けられていた」

 

「それも、ショパンだと仰りたいんですか?」

 

 かもね。と秋名は話を自分勝手に切り落とした。そうして畑に背を向け、仕事があるから。とメルセデスに別れを告げる。だが、彼の足をスマホの着信音が引き留めた。

 

 それは、秋名のものではなかった。メルセデスのウマホ。すみません。と小声で呟いて彼女は着信に応対する。秋名はそんな彼女を再び背に置き、自分の車へと向かった。

 

 決して駐車場までの道のりとは近くはないが、歩く時間が長いことは小さな幸いだった。そして愛車を開錠し、秋名は車へ乗り込もうとした。

 

「――秋名さん!!」

 

 少しだけ切羽詰まったような声、メルセデスの声であることは直ぐに分かった。彼女と別れたあのポイントから1キロ強ほどはあったはずだが、それをものの1分程度で差を埋めた。これでも現役の生徒会長。その脚力を無礼るでない。

 

「どうしたの?」

 

 メルセデスは息を乱さず、彼に言った。

 

「一緒に来ていただきたい場所があるんです」

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 ようやく時は迎えられた。

 

 待ち遠しかったような、恐れていたような。興に焦がれ滾るような、恐怖に戦き悶えるような。燦爛としているような、鬱蒼としているような。

 

 体の中の全てが背反し合う。一つの気持ちが乖離するように惑わされる。今は、今だけはその不純と踊るしかない。

 

「……私は、女帝だ」

 

 鏡の中の自分に誓う。全ての面影たちへ祈祷を捧げる。

 

 新鮮な空気を求めて、深呼吸を一つ。しかし今日ばかりは、それも蒸留を繰り返した度数の高い酒のように、彼女の喉を焼くようだった。

 

 混濁の狭間で揺られ続ける彼女へ、3回のノック。

 

 選手控室から姿をなかなか見せぬ彼女へ、トレーナーがノックをしたらしい。

 

「大丈夫?」

 

「ああ、過不足ない。行こう」

 

 そして、女帝は外へと一歩を歩き出す。

 

 こつん、こつん。彼女を象徴する青と黄色の折り合い。腰についたベルトの金具が、からんからんと音を立て、彼女の花道を祝う。ブーツから弾き出されるのは覚悟の音色。いつもより僅かに濃いアイシャドウが、彼女の灰簾石の瞳をより一層修飾する。

 

 地下バ道で、数多のライバルたちが息をのんで振り返る。

 

 ああ、ヤツが来たと。

 

 取り巻く視線に付け狙われながらも、彼女は淡泊な表情を守った。

 

 ふと、本場に出る間際、そこに待っていたのは黒鹿毛の少女。彼女は初めて生で目にする母の勝負服に強く惹かれながらも、ぱっと手を取って、無言で頷いた。

 

 何を言わんとするか、大方察しの付くエアグルーヴもまた、無言の肯定を返し、ターフを踏んだ。

 

『さぁ、今現れました。一番人気"エアグルーヴ"。仕上がりは充分なように伺えます』

 

『素晴らしい出来と見て取れます。ですが、油断ならないのもまた事実。並み居る強豪たちの前、頂点に君臨することはできるのか。母娘二代に渡る伝説を紡ぐことはできるのか! 要注目でしょう!』

 

 際限なく抜け行く晴天の賛歌。白日の下に姿を晒したエアグルーヴへ、容赦なく降り注ぐ観客たちからの熱狂的な歓声。

 

 エアグルーヴは心臓に手を捧げ、観客たちへ浅く頭を下げ、ゲートへ向かった。

 

 道中、背後からの視線を感じ取る。明らかに自分へと向けられた鋭利な刃物のような視線。無論それは彼女を殺しに掛かる刺客(ライバル)

 

「初めまして。かな、女帝さん」

 

 どうも穏やかではない。それもそのはずだろう。

 

「確かに、深い面識はないかもしれんな」

 

「母娘二代の伝説か。いいね、優良な血筋ってヤツは。アタシらみたいな野良とは大違いだ。皆アンタに注目している。所詮あたしらは蚊帳の外のモブ」

 

「下らん卑下だ。レース前、もう少し考えるべきことがあるだろうに」

 

「でもさぁ! そんなアンタを喰ったらサ……最高のドラマだと思わない?」

 

 無意味な卑下ではない。歴とした彼女への宣戦布告。私はお前を殺しに来た。その毒を含んで彼女へ語り掛けた。

 

「かもな。是非、脚本を作って映像研へと提出するといい。高く買って貰えるかもしれんぞ」

 

「……ッ!」

 

 ライバルの娘は大きく顔を歪めた。所詮、お前の語りなど夢物語だと一蹴された。

 

「いいねェ。流石あの女帝サマだよ。でも覚えときな。着順表のテッペンに入るのはアタシの名だ。悪いけど、私が勝つ」

 

「そう息巻いてもらえると助かる。抑揚なきレースに価値などないのだからな」

 

 そういってエアグルーヴは背を向け、ゲートへと歩いた。

 

「スカしてるねぇ。所詮アタシらのことなんて初めっから眼中になんてないんでしょ?」

 

「眼中にない……だとしたら?」

 

「目にモノ見せてやるだけだよ。アンタがどれほど自信があんのか知らないけど、アタシは今日この日の為に血反吐を吐く思いをしてきたんだ! 優良血統だとか、女帝だとか!ハナっから華々しいステージに居るアンタには絶っ対にわからない!……下剋上(・・・)だよ。今日は、アンタを狩る為の!」

 

 熱を滾らせ、彼女へ訴えかける。見方によればトラブルともとれるそれに、ゲートクルーが割って入り、その娘を宥めた。

 

 その様子を目にしていた秋名は、両手を重ねてエアグルーヴと呟く。何か彼女の不利に働く災いとならぬようにと祈って。ショパンもまた、誰にも届かない小声でお母さんと囁いた。

 

 ライバルの娘に背を向けていたエアグルーヴは、ゲートに入る直前に踵を返し、鋭くも優しい目つきで最後に語った。

 

「最初から自分を下に見ているつもりか。感心せんな。女帝(わたし)と走るのだろう? ならば相応の意気と誇りを持て。確かに私は、お前がどれほどの辛苦に苛まれてここにいるのかは知らない。知る理由も道理もない。そしてお前の言う通り、私は恵まれているのかもしれない。母から受け継いだ血と、名声。それを振りかざして今日日この日まで生きてきた。だから私は、それらを守り紡ぐ為に"当たり前"のことをしなければならない。当たり前のように出走し、当たり前のように走りそして、当たり前のように名を残す」

 

 エアグルーヴの視線は着順表のトップ。

 

「っは! よくわかったよ。アンタというヤツが。内枠1番はアタシだ。15番ゲートから頑張ってみなよ」

 

そういって、彼女は自分のゲートへと向かう為、クルーに従いエアグルーヴへと背を向けたとき

 

「最後に一つ教えてやろう」

 

 もう聞きたくもないような、彼女の声が鼓膜を叩いた。

 

「お母さまから受け継いだ、モノの価値。それは――命よりも重い」

 

 彼女は再び踵を返し、15番のゲートが閉まった。

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

「エアグルーヴ……」

 

 秋名は柵へ大きく体重をかけるように腕を置き、不安な青空へ祈りを捧げた。自分の担当の登竜門。この日を目指し共に歩んできた成果。試されるのは彼女だけではない。トレーナーもなのだ。

 

 しかしその傍ら、埒にしがみついてまだかまだかと待ちわびるのは、幼き黒鹿毛。エアグルーヴを敬愛する彼女、然れどもその表情に不安や憂いが一切ない。それはどこか慢心にも似ていた。

 

 それどころか、「ねぇねぇトレーナーさん。今日先輩が勝ったらお祝いするの?」と、どうも緊張感に欠けた話題を。まるで、このレースに全く興味を持っていないのか、或いは彼女が負けることなどないと、心からそう思っているのか。

 

「そう……だね。でも今は、そんなこと考えていられないかな」

 

 緊張の色が秋名へ纏わりつく。

 

「大丈夫だよ。きっと勝つんだから」

 

 にこりとショパンは笑って秋名へ言った。

 

「君は、エアグルーヴが勝つと信じてるんだ」

 

「うん。トレーナーさんは信じてないの?」

 

「信じてるさ。勿論」

 

 秋名が僅かに俯いた刹那―――

 

『スタートしました!』

 

 ガコンッ! という18個のゲート解放の音が共鳴し合い、轟く。そして放たれる18人の狂想(・・)ウマ娘たち。

 

 一人のやや出遅れ以外に、予定外はない。エアグルーヴは枠に倣いやや外側、先頭集団に位置する。その動きに不安はない。概ね予定された展開、一つ一つのプロットを辿っていくように、堅実を積み重ねていく。

 

 彼女の走りにエキセントリックさはない。奇を衒うような曲芸な走りとは対を成す、徹底的な現実主義。

 

 ひとつ足を踏み出す。その次に何処へ足を出す。そのまま直進か、ややインコースへラインを組み立てる用意をするか、逆にアウトコースへ踏み出し、自由な選択肢を増やしていくか。速度を落とし温存へ入るか、逆にストライドをさらに設け順位をもう少し上げていくべきか。

 

 選んだ一歩先に、数百、数千通りの運命が待ち受ける。ゴールまで辿れば、その運命の数は天文学的数字まで登り詰める。

 

 その選択肢の海原から、彼女は最適解を一つも外すことなく踏んでいく。

 

 合理的に捉えろ、その一歩の意味は何だ。一つの動き全てに理由を持たせろ。狙うラインには何がある。それを外せば何が起こる? そこを辿らなければならない理由は何だ。固定観念には縛られるな。

 

 1秒すらも長く感じるほどの狭小な世界で、彼女は自問自答を終わることなく繰り返す。

 

 踏めば踏む程、彼女のシミュレーションは具体性を増し、確信へと姿を変え、ボルテージを伴い

 

 

 ――輝く

 

 

――

 

 レースは未だ大きくは動かず、バックストレッチへ。

 

 エアグルーヴは中団へ位置を下げ、俯瞰してライバルたちの背中をインプットしていく。

 

 彼女の戦い方、その母をも彷彿とさせる。

 

「ああ、それでいい」

 

 秋名は息を飲んで呟く。ただ、不安の種が消えたわけではない。寧ろ不安の種はすくすくと成長する。

 

 エアグルーヴに不安があるわけではない。ただ、この先からは時にロジックすらも通用しない、神の時間が設けられるのだから。

 

『残り1200を切りました。先頭を維持するのは6番ウエストサンデー。その直ぐ外側に構えます8番イースタースキャン。その1バ身差10番キボウ。そこから少し離れて15番エアグルーヴここに位置します』

 

 

 遥か奥のバックストレッチの世界。眼鏡を要する秋名にとって、その世界は眩んでいる。どこでどう順位が入れ替わって、どういう運びになっているのか。頼れる情報源は実況とスクリーンのみ。

 

 汗が滲む。呼吸の間隔が早まる。元々心配性な秋名なだけに、それはより重い時間だった。

 

 何を憂いている。彼女を信じていないのか。息を吸いなおしてショパンの言葉を思い出す。

 

 しかし、皮肉にも彼の不安の種は身を結んだ。

 

『さぁ、3コーナーから4コーナー抜けて、各ウマ娘一気に上がって来ました! 先頭は依然ウエストサンデー、リードが続いています。残り600の標識を通過ここで、エアグルーヴ徐々に前に上がってきました。それを逃がす気はないか1番ファイバトリガー、ああっと!』

 

 実況と共に、客席が揺れる。先頭付近を走っていたウマ娘、一人が大きく斜行をした。その影響を受け、エアグルーヴは大きくラインを乱す結果となった。

 

「エアグルーヴッ!!」

 

 秋名は思わず口にした。どうにもならないアクシデントと知りながらも。声を張るだけでも何かが変わらないものかと祈った。

 

 しかしその傍ら。

 

 

 ショパンは

 

 

 

 にこりと笑っていた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

(……っく!)

 

 前を走っていた娘の突然の斜行。

 

 エアグルーヴは理想ラインを捨て、干渉から逃れる為にアウトコースへ逃げる選択を取らざるを得ない。

 

 その影響代は計り知れない。充分に掛かっていたブースト圧が一気に抜ける。それでも、彼女は直ぐに態勢を立て直して足を前に出す。

 

 エアグルーヴにとっては不運なアクシデント。だが、あるものにとっては最高のアクシデント。

 

(運が尽きたか女帝サンよ。お高く留まってんじゃねぇぞ。この中央にはアタシ(・・・)がいること、わからせてやるよ!)

 

 わずかに失速したエアグルーヴ。それを外から差しに掛かったのは、レース直前にエアグルーヴと一悶着を起こした1番ファイバトリガー。

 

 斜行をした娘はそのまま順位を下げ、視界から消えたからいいものの、調子を狂わされたエアグルーヴと、上がり調子のままスパートを迎え、完全にエアグルーヴを差しにかかったファイバトリガー。

 

 どちらに利があるか、いうまでもない。

 

 そのまま二人だけの、絶対な領域へと踏み込んでいく。

 

(これでサ、斜行があったから勝てたなんで温いこと言われんのもヤだからさ。悪いけど完膚なきまでに潰させてもらうよ!)

 

『先頭に踊ったのはエアグルーヴ! 影響を受けながらも、そのまま先頭へ! だがそのすぐ後ろを追走!1番ファイバトリガー!! さぁ勝利の女神はどちらへ!?エアグルーヴ!? ファイバトリガー!?』

 

「ああ……エアグルーヴ!」

 

 秋名は一瞬たりとも視線を離すことができなかった。まるで全財産を賭けたような大博打。このまま心臓が止まろうともおかしくない程。

 

 不安定に苛まれる秋名。それを見かねたショパンはそっと彼の手を握った。

 

「大丈夫だよトレーナーさん。何も問題なんてない」

 

「何を!」

 

「だってね。お母さん(・・・・)は強いんだもん。4月開催のオークス。2400m 芝 左。三分三厘、4コーナーから抜けての勝負所、先頭を走るイースターサンデーが大きく斜行。走行を妨害されたお母さんは大きく体制を崩しながらも、直ぐに立て直す」

 

 ショパンはおもむろに語りだす。彼女が語ったのは、今目の前で起きた過去。

 

 だがそれは、あるところを境に、未来へと踏み込む。

 

「そこを付け狙ったのが1番ファイバトリガー。その娘はお母さんに急接近する。みんな、エアグルーヴが差されたと思っちゃう――だけどね」

 

 

 

――

 

 

『ファイバトリガー!! エアグルーヴをとらえた!! エアグルーヴ逃げられないか!? 先頭はエアグルーヴ! そのすぐ後方ファイバトリガー! その差は1バ身もない!』 

 

 見える、見える!!

 

 食える、喰える!!

 

 もう少しだ。もう少しだ!!

 

 なぁ、女帝(エアグルーヴ)。アンタのことは本当にすげぇと思うけどさ、たまにはこんなヤツ(・・・・・)にだって華持たせてくれたっていいだろ?

 

 仲間の為トレーナーの為自分の為。アタシにだって勝たなきゃいけない理由なんて腐るほどあるんだ。

 

 ……ほんとはさ、何となくわかるよアンタのことも。親が、親が。生まれつきのプレッシャー抱え続けるなんてさ。ほんとは窮屈だろ。

 

 命よりも重いんだって? ばかげてる。

 

 一回負けてみろよ。死にゃしないよ。一回負けて、楽になってみろよ。

 

 これはアンタへの救済なんだ。親がなんてつまんねぇ理屈、アタシと一緒に捨てちまおうよ。

 

 ほら、もう少し。あとクビ――

 

『見かけによらず、随分と御節介なんだな』

 

 ――!

 

 それは幻聴? 声など聞こえない

 

 だけど、それは彼女の脳内に、言葉として、恐怖としてはっきりと描かれる。

 

『悪いが私は世話を焼いても、焼かれることはどうも性に合わない。私に救済など必要ない。親がどうだとか強制された覚えなどない。私は、恋焦がれた人の背を追い続けているだけだ』

 

 

――

 

 

 

「その差が迫った時、エアグルーヴはもう一段スピードを上げる。後続の娘はそのスピードについてこれない」

 

 

 秋名が視線をターフへ戻す。

 

 

 目を疑った。

 

 

 目の前の景色が、ショパンのショパンの予言通りに動いていたのだから。

 

 

 

――

 

 

 

 そんなところに居られていては、すまないが邪魔だ。

 

 

 

 

 女帝が通るぞ

 

 

 

 

 道を開けろ――

 

 

 

 

 

「……あっ」

 

 

 

 

 その瘴気に、一度だけ、息を忘れた

 

 

 

 猛毒を纏った女帝の魂が、ようやく姿を見せた

 

 

 

 差せると思った。勝ったと思った。

 

 

 だってこんなに近くに居るのだもの。そう思わないほうがおかしい。

 

 

 だけど

 

 

 だけど

 

 

 それはとんでもない見当違いだった

 

 

 

 

 こんなのに……かてるわけがない

 

 

 

 

 

 エアグルーヴはもう一段。二重目のスパートを踏み出した。

 

 

 

 

 ファイバトリガーは、もういっぱいいっぱいだというのに……

 

 

 

 

 

 そんな……そんなのってないよ

 

 

 

 

 まって……

 

 

 

 

 よ……

 

 

 

 

 

 

 

『エアグルーヴ!! エアグルーヴ再び抜け出した!! 残り200!! エアグルーヴ!!  その差は開く一方!! 強い! エアグルーヴ!! 女帝のその名を――』

 

 

 

 

「それでね、1番の娘と1バ身以上の差をつけて、お母さんはね――」

 

 

 

 

『確かなものとしました!! エアグルーヴ!! 一着はエアグルーヴ!!』

 

 

 

 

「勝っちゃうんだ!」

 

 

 

 客席から、轟音が響く。観客たちの歓声が重なり、それはハッキリとした振動となり。ゴールライン佇むエアグルーヴへ、惜しみないシャワーとなって降り注いだ。

 

 

 

 秋名はただ、茫然としていた。

 

 

「ショパン、君は……一体……!?」

 

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「それでね! それでね! ウイニングライブもすっごくカッコよくてね!」

 

 少しだけ濡れた黒い鬣。ショパンはベッドに掛けて、同室のファインモーションへと今日のことについて余すことなく話した。ファインはうんうんと笑顔で頷いて、ショパンの語りを見守った。

 

「もういいだろう。ショパン。いい加減寝るぞ」

 

 その女帝の声色はいつものように張ったものではない。少しだけくたくたとしていた。

 

 流石の彼女でも、疲れの顔は隠せないようだった。

 

「あ、うん!」

 

 そういってショパンはエアグルーヴのベッドに潜り込む。

 

「おやすみなさい」

 

「う……ん」

 

 消灯してから、エアグルーヴが深い眠りへと就くまでに1分すらも不要だった。

 

 暗がりの中、月明かりを頼りに、ショパンはエアグルーヴの寝顔を堪能していた。

 

 今日のオークス。ショパンが結果を知っていたのも当然だった。だって、自宅に眠るビデオで、何度もその勇姿を見てきたのだもの。

 

 レースの展開、斜行によるアクシデント。そして、母が勝つことだって。

 

 それでも、生の母の勝利とは、神々しく、やはり美しかった。

 

 ショパンはエアグルーヴが眠っていることをいいことに、深く彼女の懐へと潜り込む。

 

 とても強くて、とても賢くて、とても綺麗で、ちょっとだけ厳しいけど、本当はとっても優しい私だけのお母さん。

 

 私だけの。

 

 私だけの。

 

 大好きなお母さん。

 

「おやすみなさい。おかあさん」

 

「……うん」

 

 

 

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